Aさん帰郷支援事業の二日目の夜、OくんとTくんが宿をたずねてくれました。二人は小学校の同窓生です。
私たちの頃は高知県安芸郡室戸岬町立津呂小学校(今は室戸市立室戸岬小学校)といいました。
室戸岬の尖端からやや高知方面に寄った最初の集落にあります。
今は高知市に住む二人に会うのは50年ぶりです。
大橋通りの南側にある、やはり同窓生のYさんの営む飲み屋に私たち夫婦を誘ってくれました。
O君の家は近くの高台にあってその2階で遊んだことがあります。
100歳を過ぎても元気に家事をこなしているというお母さんの顔もはっきりと思い出すことができます。
小柄で足の速かったO君は半世紀経って、精悍そのもののおんちゃんになっても昔のままそこにいるようでした。
「幸智くん」「けいやん」はじめから子どもの時と同じように呼び合います。
T君の家は室戸岬に最も近く、うちから離れていたうえ、同級になったことがなかったせいか、一緒に遊んだ日々のことを思い出せません。
でも、おっとりした風貌とおだやかな話しぶりは変わりません。
Tくんの近所に住んでいた共通の友人たちの少年期から青年期にかけてのエピソードを聞かせてもらいました。
そのうちの一人H君は横須賀市に住んでいて、私たちもときどき会うことがあったのですが、彼が幼少の時から孤児であったとははじめて知ることでした。
彼は数年前に急逝し、語り合うことはもはやできません。
O君は水産高校を出たあと極洋捕鯨のキャッチャーボートに乗り込み、南氷洋捕鯨に従事した体験があるそうです。
連日聞く鯨にまつわる話です。
前夜、私たちを接待してくれたN君のお連れ合いの口から図南丸の船長だったという父上の話を聞いたばかりだったのです。O君のことから話題がそれますが忘れないうちに書き留めておきます。
図南丸といえば私たちの世代ではおそらく誰でも知っている日本水産の捕鯨母船です。
その船長さんが捕鯨が禁止されたとき、南氷洋における捕鯨の実態―乱獲・虐殺―について語り、やむを得ないことだと述べたということです。
鯨の群を入り江に追い込み、母親も子どもも無差別に殺し、血の海にしたというのです。
室戸出身の世界一といわれる砲手に泉井守一という人がいます。
このおんちゃんは砲手から大洋漁業の重役になった人で室戸では知らない人はいなかったでしょう。
この人もそんなことをしていたのでしょうか。
室戸の金剛頂寺にこの人たちの建てた鯨の供養塔があることを思い出し、何ともいえない気持ちになりました。
僕はどちらかといえば捕鯨再開派です。日本の捕鯨に対する信頼があったからです。
室戸は江戸時代から捕鯨で生きてきました。
僕の父方の曾祖父は沿岸捕鯨組300人の大将、祖父は羽差しという鯨捕りの花形だったといいます。
一頭とれれば七浦潤うといわれた時代です。
胎児持ちの母鯨は絶対に捕らなかったと聞いています。
母鯨を捕ってしまったことにまつわる伝説もあります(「いさなの海」という映画になっています)。
また、捕った鯨は余すところなく活用し、捨てるところはなかったとも(母がたの祖父は鯨の解剖に従事したと言います)。
戴いた命を無駄にしたら罰が当たると私たちは知らず知らずのうちに教えられていたのです。
また成長期のアワビの子貝を捕ったりすれば「親がおわえてくる(おっかけてくる)」とからかわれ、たしなめられたものです。
ですから近代捕鯨が始まってからも日本の捕鯨はそういうものであると思いこんでいたのでしょう。
狩りの享楽やただ皮がほしいためにバッファローを絶滅に追いやったアメリカの白人たちが、海ではただ油をとるために鯨を皆殺しにしたのとは違うと思っていたのです。
図南丸の船長といえば船団の大将です。
その方の言うことですから僕にとってはショックでした。
七つの海を仕事場にしてきたO君の話は他日を期すことにします。
この4月、65歳にして海事事務所を創設するという若々しいおんちゃんです。
あちこちに散らばる友人たちに声をかけて、同窓の集いを計画してくれています。