川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

沢山保太郎さん

2007-04-24 18:41:24 | ふるさと 土佐・室戸
 日曜日の高知県東洋町の町長選挙で沢山さんが圧勝しました。これで原発の産業廃棄物最終処理場に東洋町が選定される怖れはなくなったということでぼくもほっとしています。東洋町は故郷・室戸に隣接する県境の町です。県東部では唯一の天然の良港を持ち、漁港としても大阪方面とのフェリーの港としても栄えた町です。超過疎の進行がこのような騒動の背景にあるわけですが、沢山さんという人を得て、一つの区切りをつけたのだという感慨が僕にはあります。
 沢山保太郎という名にはじめてであったのは、1969年11月のことです。被差別出身の青年ら5人が浦和地方裁判所の屋上から「狭山差別裁判実力糾弾」などの垂れ幕をおろし、石川一雄さんに死刑判決を下した浦和地裁を糾弾すると共に、東京高裁の二審への注目を喚起したのです。そのうちの一人が沢山さんで、室戸の出身の二つ年下の青年だと新聞で読んだときの衝撃は忘れられません。
 このことがきっかけになって、川越の隣の狭山市で起きた事件の調査と今まで曖昧にしてきた問題について僕は精力的に学ぶようになりました。故郷の小学校の同級生たちとの出会いもこの学びがなければできなかったでしょう。ですから、たいへんな恩人と言うことになります。
 沢山さんの名を久しぶりに聞いたのは8年前です。彼は故郷に帰り、室戸市の市会議員になったのです。市長選挙にも2回、挑戦しています。ネットでは新左翼の活動家であった過去が暴かれています。彼の発行する新聞を読むと「」利権に群がる勢力に対する厳しい批判が展開されています。議員としての活動がどのように評価されているのか僕にはわかりませんが、保守的な室戸では格別に目立つ人なのではないかと想像しています。
 今回はお母さんの故郷が東洋町ということで、反対運動に力を入れ、結局のところ、町長に担ぎ出されたようです。この地方にとって、まさに、歴史的な非常時です。沢山さんにとってはまたとない力の見せ所、東洋町の人々にとっては得難い反権力のリーダー。時を得る、人を得るとはこういうことかとぼくは喜んでいます。
 誰もが考えるように、これからどういうふうに町作りをするか、困難の連続でしょう。究極において原発を拒否すると言うことは、貧しくとも、心豊かな共同体を回復すると言うことでしょう。徳島県の阿南海岸からこの東洋町を経て室戸岬に至る海岸は空と海としかない絶景です。遠い昔、青年期の弘法大師がこの地の果てにたどり着き、修行ののち空海と名のったというのです。
 世は乱れに乱れ、人倫、地に墜つ時代です。私たちのふるさとが、人々の魂の再生に寄与する地としてよみがえらないかと夢のようなことを思っています。沢山さんと沢山さんをリーダーに選んだ東洋町の皆さんに心から敬意を表します。