この一週間は疲れが出たのか、眠ってばかりでした。そんなとき村田奈美枝さんの訃報があり、じわっとではありますが大きな打撃を受けました。
14日、中野の宝仙寺で執り行われた葬儀の最後に妹さんが、この5年間の闘病生活について語り、我慢強く優しかった生涯を紹介しました。白血病が発症したあともあまり他人には伝えなかったようです。
村田さんは1970年代の後半、池袋商業高校のフォーク部のリーダーでした。同好会として10年近く続いてきたのをクラブに格上げすることに尽力した人です。
大島の泉山荘という民宿に合宿し、ギターの練習の合間に近くの秋の浜などで泳いだことも懐かしい思い出です。まだ、幼かった我が家の子どもたちも一緒で、みんなにかわいがってもらいました。同好会ということで正式のクラブ合宿が認められなかったので、顧問である僕のなじみの宿にみんなが集ったのです。普段は見たことのない水着姿がまぶしかったものです。
僕が60歳になったというので、フォーク部の卒業生たちが廃校が決まっていた母校の会議室でお祝いの会を開いてくれました。それが02年4月28日のことで、一緒に撮った写真が手元にあります。村田さんと会ったのはこれが最後になってしまいました。
このころから病気が進行していたことになりますが、この5年間、僕は何も知らず、また会える日を楽しみにしていたのです。一昨年12月には僕が肺ガンの手術を受け、フォーク部の人々にも心のこもった励ましを受けました。しかし、僕は闘病の村田さんに言葉の一つもかけられなかったのです。彼女が高校を卒業してからの人生を何一つ知りません。さびしい限りです。
村田さんを見送ったあと、僕に訃報を伝えてくれた惠美ちゃん夫妻が昼食に誘ってくれました。この人は村田さんの一年先輩に当たり、僕とはもう30年のつきあいになります。僕は「えみ」と呼び、妻は「えみちゃん」と言います。
僕が北高で働いていた頃には、すぐ近くの彼女の家を訪ねてたびたびお茶の接待を受けたものです。しかし、お連れ合いのNさんとゆっくり話をするのはこれがはじめてです。
Nさんは花の散り残る外堀通りを通って、赤羽のレストランに僕らを案内します。僕は島根県と山口県の分水嶺に近い山村で育ったという、彼の生家や人生について根掘り葉堀り聞きました。
今でもゴミの収集がないといいます。水は山から引き、風呂は薪で沸かします。沢山生まれた犬の子は大雨のときに川に流すとも。田舎育ちの僕にも実感しづらい話です。
でも、東京育ちの惠美ちゃんははじめて田舎ができてよかったと思っています。たまに帰ると彼の幼なじみが集まって賑わいます。その輪の真ん中にある惠美ちゃんの姿が容易に想像できます。今は高2になる息子さんは高津川の源流で、釣りの楽しみを覚えたようです。あと6年で定年だというNさんは父母の元に帰りたいようです。
こんなふうにとまではいかなくても、村田さんとも人生の話をしたかったなーと思わないわけにはいきません。
僕は生徒として出会い、仲良しになった人と人生のどこかで再会し、その話を聞くのが趣味のようなものです。そのような機会を大切にし、自分からも作るようにしています。
そんなことができないまま、村田さんは46歳で逝ってしまいました。葬式で会うのはよそう。生きて、出会って、人生を語り合おう。惠美ちゃんと僕との確認事項です。
14日、中野の宝仙寺で執り行われた葬儀の最後に妹さんが、この5年間の闘病生活について語り、我慢強く優しかった生涯を紹介しました。白血病が発症したあともあまり他人には伝えなかったようです。
村田さんは1970年代の後半、池袋商業高校のフォーク部のリーダーでした。同好会として10年近く続いてきたのをクラブに格上げすることに尽力した人です。
大島の泉山荘という民宿に合宿し、ギターの練習の合間に近くの秋の浜などで泳いだことも懐かしい思い出です。まだ、幼かった我が家の子どもたちも一緒で、みんなにかわいがってもらいました。同好会ということで正式のクラブ合宿が認められなかったので、顧問である僕のなじみの宿にみんなが集ったのです。普段は見たことのない水着姿がまぶしかったものです。
僕が60歳になったというので、フォーク部の卒業生たちが廃校が決まっていた母校の会議室でお祝いの会を開いてくれました。それが02年4月28日のことで、一緒に撮った写真が手元にあります。村田さんと会ったのはこれが最後になってしまいました。
このころから病気が進行していたことになりますが、この5年間、僕は何も知らず、また会える日を楽しみにしていたのです。一昨年12月には僕が肺ガンの手術を受け、フォーク部の人々にも心のこもった励ましを受けました。しかし、僕は闘病の村田さんに言葉の一つもかけられなかったのです。彼女が高校を卒業してからの人生を何一つ知りません。さびしい限りです。
村田さんを見送ったあと、僕に訃報を伝えてくれた惠美ちゃん夫妻が昼食に誘ってくれました。この人は村田さんの一年先輩に当たり、僕とはもう30年のつきあいになります。僕は「えみ」と呼び、妻は「えみちゃん」と言います。
僕が北高で働いていた頃には、すぐ近くの彼女の家を訪ねてたびたびお茶の接待を受けたものです。しかし、お連れ合いのNさんとゆっくり話をするのはこれがはじめてです。
Nさんは花の散り残る外堀通りを通って、赤羽のレストランに僕らを案内します。僕は島根県と山口県の分水嶺に近い山村で育ったという、彼の生家や人生について根掘り葉堀り聞きました。
今でもゴミの収集がないといいます。水は山から引き、風呂は薪で沸かします。沢山生まれた犬の子は大雨のときに川に流すとも。田舎育ちの僕にも実感しづらい話です。
でも、東京育ちの惠美ちゃんははじめて田舎ができてよかったと思っています。たまに帰ると彼の幼なじみが集まって賑わいます。その輪の真ん中にある惠美ちゃんの姿が容易に想像できます。今は高2になる息子さんは高津川の源流で、釣りの楽しみを覚えたようです。あと6年で定年だというNさんは父母の元に帰りたいようです。
こんなふうにとまではいかなくても、村田さんとも人生の話をしたかったなーと思わないわけにはいきません。
僕は生徒として出会い、仲良しになった人と人生のどこかで再会し、その話を聞くのが趣味のようなものです。そのような機会を大切にし、自分からも作るようにしています。
そんなことができないまま、村田さんは46歳で逝ってしまいました。葬式で会うのはよそう。生きて、出会って、人生を語り合おう。惠美ちゃんと僕との確認事項です。