川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

何が真実なのか

2007-04-22 07:18:57 | こどもたち 学校 教育
 cosmoss77という方の問いかけがあったのでコメント欄に「学ぶということ」という小文を書きました。文章の終わりにあるcommentというところの数字をクリックすると読むことができます。また、ここから感想や意見を書き込むことができます。遠慮なく書いてください。
 cosmoss77さんだけでなく、自分が身につけてきた知識や世界観と相容れない情報に接して、どう考えたらよいか、悩んでいる人が少なくないと思います。僕もまた、例外ではありません。そういうことの連続であるといった方がいいのかもしれません。
 僕はこの3月まで都立高校の社会科(文部省の規定に従えば公民科)の教員でした。教員になって5年目の1970年度から数年間、自分が担当する450人の「政治経済」の評定を全員「5」にしたことがあります。、何が真実であるかを判定し、その人の進路まで影響を与える権限を返上しなければ、何が真実かを生徒たちと共に考えていくことは困難だと自覚したことが、そもそもの始まりです。
 中国の文化大革命や日本の学生たちの学園闘争の生み出した言葉が、「教える」
とか「学ぶ」とかの意味を考えさせてくれました。何より、ただ勉強ができなくなったことの故に社会的差別を受ける子どもたちや、今まで考えてもこなかった、差別や民族差別で苦しむ友人たちの存在に気づいたことが僕の内部に、学ぶ意欲を喚起してくれました。水俣病の患者さんたちのチッソの江頭社長に迫る、深い人間的問いかけも忘れることはできません。
 何が正しいか、教えるなどと言うことはできません。一緒に人々の声に耳を傾け、考えていくことのほかに何ができるでしょうか。
 こんな青年教師の苦しみを坊城俊民という校長はよく理解してくれました。ほかにも一緒に考えてくれる同僚や卒業生がいました。おかげで僕は守られ、学ぶことの喜びを我がものとすることができたのです。
 敵対してきたのは右翼といわれる人たちと日本共産党です。これらの人々は平気で人を断罪します。特に共産党の攻撃は忘れられません。「不可知論者」。都議会で右派の議員の攻撃に教育委員会の役人がそれでも若い教師の問題提起を弾圧することはできないとこたえているときに、「赤旗」で攻撃してくるのです。自分たちの教条や世界観は揺るぎなく、背くもの、疑問を持つものは断罪して葬る。
 疑問を持つことから学びは始まる、といって過言ではありません。ですから、学ぶことは社会の常識や権威に挑戦することでもあります。さまざまな弾圧を覚悟しなければなりません。
 怯むところから腐敗が始まります。多数に妥協し、己を殺します。国家権力や有力な社会勢力や精神的権威に背くことは怖いことです。しかし、自分らしく精一杯、生きたいという私たちの思いを何者も押しとどめることはできません。何が真実か、どう生きたらよいのか、臆することなく考えを交流する場を、あちこちに作っていきましょう。