川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

群馬満蒙拓魂の塔ー8月9日に

2008-08-09 11:06:31 | 政治・社会
 昨日は我が家の温度計が36度を示す暑い一日でした。3時過ぎからオアシスという保健施設にいって一時間ほど泳いできました。泳ぐといってもわざわざ浅くしたコースでビート板につかまってばた足ですすんでみる、といったことの繰り返しです。息継ぎなどが難しく、10mぐらいいったら一休み。平泳ぎでも事情は同じです。障害者と老人(60以上)は無料。暑い日には通ってみることにします。

 今日は長崎に原爆が投下された8月9日です。63年が経ちました。もう一つ、同じ日に起きた歴史の事実をご存じですか?

 ソ連が日ソ中立条約の破棄を通告し(8日)、9日零時を期して「満州」「南樺太」などにその軍を侵攻させました。ソ「満」国境地帯に貼り付けられていた日本の開拓団や青少年義勇軍の人々の悲劇が始まった日でもあるのです。なぜ、このようなことになったのか?歴史の学びの一日にしてほしいものです。

 ぼくは先日(5日)四万温泉の帰りに北軽井沢に寄ってきました。「群馬満蒙
拓魂の塔」を尋ねるためです。
 軽井沢とは言っても浅間山の北麓は群馬県です。国道146号を登り、応桑という集落を過ぎたあたりで標識を見つけ左に入っていくと、3kmくらいの所に大屋原という酪農の村があります。広々とした畑の続く、いかにも開拓地という感じの所です。正式な地名は群馬県吾妻郡長野原町大字九話応桑字大屋原といいます。
 畑の中の小さな森の中の広場に古びてはいるが立派な「塔」が建っていました。
群馬県各地から「満蒙」に分村移民した開拓団の名前が刻まれています。犠牲となったひとびとを慰霊するため、「群馬県」などの助成をうけ、拓友会(引き揚げ者の団体)が中心になって建設したようです。近くには開拓団ごとの慰霊碑も何基かあり、こちらには「土民」の襲撃を受けたなどの文字も刻まれています。

 命からがら引き揚げてきた人々に安住の地はありませんでした。結局の所、今度は浅間山麓で開拓の鍬を振るうことになったのです。生活に落ち着きが得られるようになって(74年)この塔を建て犠牲者の慰霊をするようになったのでしょうか。30年記念誌が群馬県立図書館に保管されているようです。

 ハイロンに向かう途中でやっと人に出会いました。道路の草刈りをしている手を休めて相手をしてくれました。1951年生まれのかたです。引き揚げてきた親の世代の方はほとんど亡くなり、塔の奉賛会も解散したと言います。酪農は借金を増やすばかりで成り立たず、この方は早くに廃業しています。塔を維持し、慰霊祭を行う土台が消滅したと言われます。
 敗戦から63年、同じような現実が各地にあるのではないかと思われます。慰霊祭の終結は時の流れといえるかも知れませんが、歴史を学ぶ遺跡公園としてこれらの塔や碑が維持・管理されていく必要があると考えます。群馬県当局や教育委員会には何らかの考えがあるのでしょうか。
 先年訪ねた、栃木県那須の慰霊碑には天皇夫妻と家族が訪れたと報道されました。天皇一家だけではなく、すべての子どもたちに伝えていかなければならない郷土の現代史です。

 ハイロンでは石田観光農園を訪ねてみました。97年夏、都立北高校の中国クラブOBOG合宿で世話になったところです。ここでも世代交代がすすみ、開拓3世にあたる青年がきびきびと働いています。「農園ロッジ」というしゃれたホテルが建っています。中にはピアノ付きの音楽ホールがあり、音楽関係のサークルの利用が多いそうです。
 近くの畑を訪ねてみました。東京の小学校の子どもたちがブルーベリー摘みに夢中になっています。子どもたちの相手で忙しい当主に久闊を叙して軽井沢に向かいました。同じような開拓の村ですがハイロンは早くから民宿や観光農園に活路を見いだし、今も村に活気があるようです。

 ハイロン http://kaze3.cc/14-teian/4-advice/totoro/03-syougezuko.htm