川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

終戦の詔勅

2008-08-15 07:17:37 | 政治・社会
 チベットのニュースに接するようになって、妻は松村徹さんのことを頻りに思い出すといいます。1979年カトマンズ(ネパール)のラマ教寺院で不慮の死を遂げた彼女の大学の先輩です。
 松村くんはぼくにとっては高校の後輩(4つ下)にあたります。土佐高校から教育大に入る人は珍しく、入学早々(1964年)会った記憶があります。79年思いがけない訃報を聞いて、妻と共に高知の彼の実家を訪ね墓参りをさせて貰いました。
 松村くんは大学入学後、世界各地を旅する人となり、最期の地がネパールとなったのです。妻は彼が日本を出る前日、偶然、大学の西洋史学科の控室で会い、飲みながら旅の話を聞いたそうです。

 昨夜、高校の同窓会名簿でお兄さんと思われる方の電話番号を調べ、思いきって電話してみました。ぼくのカンはあたり、お兄さんはぼくよりは5つ上の高校の先輩でした。長く県下の学校の教職にあった方ですが、最初の赴任地がぼくの故郷の高校で、室戸岬の町で一年を過ごしたというお話です。お世話になったという方々の名前を聞き、縁を感じずにはおられません。30年近く前お会いし、弟さんのことを伺っているはずですがそれは蘇ってきません。
 妻は自分が知っている松村くんの思い出を話します。突然の電話にお兄さんもびっくりされたはずですが、喜んでもくれました。
 秋に帰郷が出来たら、おたずねする約束をしました。彼の足はなぜカトマンズに向かったのか。なぜ、ラマ教寺院だったのか。松村くんの心と遅まきながら出会うことが出来るかもしれません。
 
 今日は「大東亜戦争」終結から63年の記念の日です。大抵は室戸岬の父の家で過ごし、午前中に父について岬に建つ「忠霊塔」を訪ねたものです。父の生徒だったたくさんの人々の名前が刻まれています。ぼくは生徒を「死なせた」という父の心の内を思いながら共に頭を下げました。

 最近『昭和二十年の「文藝春秋」』(文春新書)という本で吉川幸次郎さんの「心喪の説」という文章(『文春』1945年10月号)を読みました。「終戦の大詔」の中で昭和天皇は次のように「畏れ多いお言葉を賜った」そうです。

 帝國臣民にして戰陣に死し職域に殉し非命に斃(たお)れたる者及其の遺族に想を致せは五内(ごだい)爲に裂く
 
 「五内為に裂く」は両親の死に際してだけ使う人間最大の悲しみを表現する言葉だといいます。その言葉を臣下の死に使ったのでラジオの前に深く頭をたれていた吉川さんは「あまりの畏れ多さに、あわや昏倒せんばかりであった」そうです。
 その言葉のわりには昭和天皇は無責任であったというのがぼくの考えです。憲法の発布(46年11月3日)、東条らの処刑(48年12月23日)などの機会に退位を表明し、その道義的責任を明確に語るべきでした。彼がそれをする勇気を欠いたため、戦後の日本に無責任という道義的頽廃が蔓延したのです。

 興味のある方は「終戦の大詔」を聞いてみてください。
 
 http://jp.youtube.com/watch?v=S1t4tpVjYk8
 

 
 63年後の今、あなたはどんな風に受け止められましたか。