5回目の入院前にどこかに行って山里歩きをしようと思うのですが、天候が不安定でぐずぐずしています。時間に余裕があれば栗駒山の麓の村に行ってみたいのですが、癌研に問い合わせてみても入院の予定が今週なのか、来週なのかさえ定かではありません。
栗駒山周辺での地震からもう2ヶ月がたったそうです。「読売」の記事です。
岩手・宮城内陸地震の発生から2か月となった14日、宮城県栗原市栗駒の仮設住宅前で、入居する被災者ら約70人が、多くの犠牲者が出た栗駒山方面に手を合わせ、黙とうをささげた。
この日は朝から小雨で、被災者は傘をさして、地震発生時刻の午前8時43分に黙とう。
耕英地区の農業佐藤生子さん(52)は「陸路で一時帰宅ができるようになり、畑に冬に食べる大根の種をまいた。慣れない生活は続くが、一歩一歩前進しています」と話した。
栗原市では、耕英、花山地区などの125世帯315人に避難指示・勧告が出されたままで、61世帯163人が仮設住宅に入居したり、親類宅などに身を寄せたりしている。
耕英地区住民らで作る「くりこま耕英震災復興の会」は、「復興には何年もかかると思いますが、これからも皆様のご支援をお願いいたします」とのメッセージを出した。 (2008年8月14日12時38分 読売新聞)
栗駒山にはブナの原生林が残っていると言うことで一度は訪ねたいと思っていたのですが、今回の地震で思いがけないことを知りました。この記事に出てくる「耕英」という地区は満州開拓から命からがら帰国した人々が再開拓に挑んだ所なのです。
ボランティアグループのHPにこんな記事があります。
暗くなってからお風呂上がりに、「焼きとりの店」にご来店の方々から「どっから来たの?」と聞かれました。「福島・・・」と答えると・・・。「俺たちの一世は丸森から来たんだ・・・」「親戚も丸森にいる・・・」
耕英地区は、戦後開拓された所だということは聞いていましたが、宮城県と福島県の県境の丸森町耕野の方々が開拓された所だと知って驚きました。理事長の吉田が丸森町に詳しくて、おじさんたちとの話が弾みました。話を聞いているうちに、耕英地区の方々との距離がとっても近くなったような気がしてきました。
戦前、満州などに開拓民として入っていた丸森町耕野地区の人たちが、戦後開拓地を求めてたどり着いたのが耕英だったそうです。
「その頃は、チエンソーなんてなかったから、大きな木もノコギリで切って・・・。すべて手作業で開拓したんだからそりゃぁ大変だった。」
「一世は、もう八十五~六歳なんだ。復興まで2~3年かかるって言われてるけど、そんなに待ってられないよ。せめて1年以内には何とかしなきゃぁ~。一世には、復興した姿をちゃんと見せなくっちゃぁ・・・。」
「俺たちの一世は、全くゼロからのスタートだったけど、イワナやイチゴがダメになっても、俺らは一世が残してくれたものがあるからゼロからのスタートじゃないんだよ・・・」
耕英地区の方々のたくましさを感じました。
出典 ハートネット福島 http://fukushi.jpn.org/user_bbs/heart/new2/board.cgi?command=read_message&msgnum=6
詳しいことはわかりませんが福島県境に近い宮城県丸森町耕野というところから1940年代に100戸近くの人々が満州に渡ったようです。これらの人々のうち生きて帰ることの出来た人たちが、この記事で言う「一世」だと推測できます。「耕野」と「耕英」、地名にも縁がありそうです。ふるさとの地名を一字貰ったのでしょうか。
イワナの養殖やいちご栽培が軌道に乗ったところで地震に見舞われたのでしょう。開拓2世・3世がたくましく復興に取り組んでいる様子が報道されたこともあります。
今でも避難勧告が出たままとか。そんなところに遊びに行けるわけはありませんが、周辺に泊まる所ぐらいあるでしょう。復興に取り組む2・3世たちの姿を遠くからでも見て、栗駒山麓の風景を感じられたらそれでいいのです。ここには山村留学に取り組む人たちの営みもあるようです。
くりこま高原自然学校・耕英寮 http://www.futoko.co.jp/jiritsu-shugyo-shien/miyagi/kurikoma.html
自然学校代表 佐々木さんのブログhttp://blog.canpan.info/master_kkns/category_8/
昨日の「川越だより」訪問者は288人でした。今までの最多かな?感謝。
栗駒山周辺での地震からもう2ヶ月がたったそうです。「読売」の記事です。
岩手・宮城内陸地震の発生から2か月となった14日、宮城県栗原市栗駒の仮設住宅前で、入居する被災者ら約70人が、多くの犠牲者が出た栗駒山方面に手を合わせ、黙とうをささげた。
この日は朝から小雨で、被災者は傘をさして、地震発生時刻の午前8時43分に黙とう。
耕英地区の農業佐藤生子さん(52)は「陸路で一時帰宅ができるようになり、畑に冬に食べる大根の種をまいた。慣れない生活は続くが、一歩一歩前進しています」と話した。
栗原市では、耕英、花山地区などの125世帯315人に避難指示・勧告が出されたままで、61世帯163人が仮設住宅に入居したり、親類宅などに身を寄せたりしている。
耕英地区住民らで作る「くりこま耕英震災復興の会」は、「復興には何年もかかると思いますが、これからも皆様のご支援をお願いいたします」とのメッセージを出した。 (2008年8月14日12時38分 読売新聞)
栗駒山にはブナの原生林が残っていると言うことで一度は訪ねたいと思っていたのですが、今回の地震で思いがけないことを知りました。この記事に出てくる「耕英」という地区は満州開拓から命からがら帰国した人々が再開拓に挑んだ所なのです。
ボランティアグループのHPにこんな記事があります。
暗くなってからお風呂上がりに、「焼きとりの店」にご来店の方々から「どっから来たの?」と聞かれました。「福島・・・」と答えると・・・。「俺たちの一世は丸森から来たんだ・・・」「親戚も丸森にいる・・・」
耕英地区は、戦後開拓された所だということは聞いていましたが、宮城県と福島県の県境の丸森町耕野の方々が開拓された所だと知って驚きました。理事長の吉田が丸森町に詳しくて、おじさんたちとの話が弾みました。話を聞いているうちに、耕英地区の方々との距離がとっても近くなったような気がしてきました。
戦前、満州などに開拓民として入っていた丸森町耕野地区の人たちが、戦後開拓地を求めてたどり着いたのが耕英だったそうです。
「その頃は、チエンソーなんてなかったから、大きな木もノコギリで切って・・・。すべて手作業で開拓したんだからそりゃぁ大変だった。」
「一世は、もう八十五~六歳なんだ。復興まで2~3年かかるって言われてるけど、そんなに待ってられないよ。せめて1年以内には何とかしなきゃぁ~。一世には、復興した姿をちゃんと見せなくっちゃぁ・・・。」
「俺たちの一世は、全くゼロからのスタートだったけど、イワナやイチゴがダメになっても、俺らは一世が残してくれたものがあるからゼロからのスタートじゃないんだよ・・・」
耕英地区の方々のたくましさを感じました。
出典 ハートネット福島 http://fukushi.jpn.org/user_bbs/heart/new2/board.cgi?command=read_message&msgnum=6
詳しいことはわかりませんが福島県境に近い宮城県丸森町耕野というところから1940年代に100戸近くの人々が満州に渡ったようです。これらの人々のうち生きて帰ることの出来た人たちが、この記事で言う「一世」だと推測できます。「耕野」と「耕英」、地名にも縁がありそうです。ふるさとの地名を一字貰ったのでしょうか。
イワナの養殖やいちご栽培が軌道に乗ったところで地震に見舞われたのでしょう。開拓2世・3世がたくましく復興に取り組んでいる様子が報道されたこともあります。
今でも避難勧告が出たままとか。そんなところに遊びに行けるわけはありませんが、周辺に泊まる所ぐらいあるでしょう。復興に取り組む2・3世たちの姿を遠くからでも見て、栗駒山麓の風景を感じられたらそれでいいのです。ここには山村留学に取り組む人たちの営みもあるようです。
くりこま高原自然学校・耕英寮 http://www.futoko.co.jp/jiritsu-shugyo-shien/miyagi/kurikoma.html
自然学校代表 佐々木さんのブログhttp://blog.canpan.info/master_kkns/category_8/
昨日の「川越だより」訪問者は288人でした。今までの最多かな?感謝。