8日(月)
Aさんが訪ねてくれるというので早めに水くみと温泉に行きました。ふるさとの湯で久しぶりに読んだ『朝日新聞』に石牟礼道子さんの対談記事が出ています。水俣を訪ねるというので『熊日』に連載されている石牟礼さんの「私を語る」を毎日読んでいます。
http://kumanichi.com/feature/kataru/ishimure/20081208001.shtml
朝日の記事は短いけれどぼくが川本さんたち水俣病患者さんたちの中に見た「やさしさ」の秘密にふれているように思いました。不知火海周辺の人々が身につけていた自然観・人間観に根ざすもののようです。『朝日』がお手元にある方はごらんになってください。
『苦海浄土』以来の石牟礼さんの仕事に対する真摯な批評があることを知りました。
早すぎた傑作ルポタージュ, 2006/11/24
By なつ
今年は水俣病の「公式確認」50年ということで、雑誌やテレビなどで幾つかの特集がやっていた。それらの特集で「現在の課題」として語られていたのが、「患者は補償金では救われない、社会参加と福祉をもっと考えていかねば」ということだった。私はそれを見て当惑してしまった。正直、「今さらそんなことが課題なの?」と途方に暮れてしまった。
なぜなら、「患者は補償金では救われない、社会参加と福祉をもっと考えていかねば」なんてことは、患者たちと著者が「下下戦記」(初出1980年)で既に繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し主張していたことだったからだ。
「下下戦記」は”異色”の水俣病ルポタージュとされている。その異色さは、「患者たちの生活を赤裸裸」に描いた点にあるとしばしば表現される。しかし私が表現するならば、「下下戦記」は患者たちを「聖なるもの」として描かず「俗なるもの(=わたしたちと余り変わらないもの)」として描いたという点にその”異色”さがある。そして、「俗なるもの」として描いた故に「患者は保証金では救われない、社会参加と福祉をもっと考えていかねば」という「当事者の叫び」が聴こえてくるのだ。
患者たちを「聖なるもの」として描かず「俗なるもの(=わたしたちと余り変わらないもの)」として描いたこの「下下戦記」のスタンスは、水俣病の必読文献として頻繁に挙げられる「苦海浄土」のスタンスとは正反対と言えるかもしれない。私は「苦海浄土」は水俣病を「文学化」することには成功していると思うけれども、患者たちを「聖なるもの」とみなすことにより「当事者の声」を美化し封じ込めた罪もまたあると思っている。
「下下戦記」は「水俣病患者の性」についても語られているためか、水俣病の必読文献として挙げられることは余りない。それは「性」を語ることがタブーであった1980-90年代では無理もないことだったかもしれないが、(例えば「障害者の性」の問題がタブーではなく実は本質的な問題であることが認識されつつある)2006年の現在であるならば、「下下戦記」ももっと”まっとう”に評価されうると思うし、評価されてしかるべきだと思う。是非一読をおすすめしたい。
出典 http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8B%E4%B8%8B%E6%88%A6%E8%A8%98-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%90%89%E7%94%B0-%E5%8F%B8/dp/4167341026
Aさんは約束の時間よりだいぶ遅れて到着しました。高校を卒業してもう2年になろうとしていますが10月まで長く「とじこもり」になっていました。先に一度訪ねたことがあり、家族もみんな知っているといっても緊張して体がなかなか動かないのです。
我が家の娘もこの日は休みで4人で夕食会です。あちこちの友人たちが届けてくれた食材で妻が心づくしの料理をつくってくれました。小学生の時に父を喪い、母は台湾で入院中のAさんには長い間、家族の団らんはありません。こうして何人かで食卓を囲むのも久しぶりです。
この間の厳しかった生活の様子が語られ、様々な不安にとりつかれていることがわかります。娘は北海道の大学を中退して川越に帰ってきてから今の仕事に就くまでのかなり長期にわたって「とじこもり」を体験しています。現状からどうやって一歩を踏み出すか、二人の交流は遅くまで続きました。妻とぼくは聞き役です。ときどき質問したり、うなずいたり。
小学校でいじめに遭い、不登校になって以来、Aさんのこども時代・青春期は苦難の連続です。独り身の叔父さんが住まいを使わせてくれている僥倖はありますが天涯孤独といっても過言ではありません。高校時代にぼくの授業を受けた縁で今こうして交流しているのですが、「よくもしっかり生きてきたものだ」と思わないわけには行きません。
日本に生まれて21年になるのに『定住者』という在留資格を3年ごとに更新しなければなりません。様々な事情からパスポートを取得することが出来ず、病の重いお母さんの見舞いにもいけません。今は何とか健康を回復して日々元気に働けるようにするのが課題です。
ぼくにできることは在留資格の安定の道を調査研究することなど限られていますが家族3人がそれぞれの方法でAさんを応援したいと思っています。川越は近いとはいえませんが気が向いたら気楽に訪ねてくれるように願っています。
昼寝して備えたつもりだったのに10時を過ぎるとぼくはリタイアー。娘が駅まで見送ったのは11時を廻っていたそうです。
Aさんが訪ねてくれるというので早めに水くみと温泉に行きました。ふるさとの湯で久しぶりに読んだ『朝日新聞』に石牟礼道子さんの対談記事が出ています。水俣を訪ねるというので『熊日』に連載されている石牟礼さんの「私を語る」を毎日読んでいます。
http://kumanichi.com/feature/kataru/ishimure/20081208001.shtml
朝日の記事は短いけれどぼくが川本さんたち水俣病患者さんたちの中に見た「やさしさ」の秘密にふれているように思いました。不知火海周辺の人々が身につけていた自然観・人間観に根ざすもののようです。『朝日』がお手元にある方はごらんになってください。
『苦海浄土』以来の石牟礼さんの仕事に対する真摯な批評があることを知りました。
早すぎた傑作ルポタージュ, 2006/11/24
By なつ
今年は水俣病の「公式確認」50年ということで、雑誌やテレビなどで幾つかの特集がやっていた。それらの特集で「現在の課題」として語られていたのが、「患者は補償金では救われない、社会参加と福祉をもっと考えていかねば」ということだった。私はそれを見て当惑してしまった。正直、「今さらそんなことが課題なの?」と途方に暮れてしまった。
なぜなら、「患者は補償金では救われない、社会参加と福祉をもっと考えていかねば」なんてことは、患者たちと著者が「下下戦記」(初出1980年)で既に繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し主張していたことだったからだ。
「下下戦記」は”異色”の水俣病ルポタージュとされている。その異色さは、「患者たちの生活を赤裸裸」に描いた点にあるとしばしば表現される。しかし私が表現するならば、「下下戦記」は患者たちを「聖なるもの」として描かず「俗なるもの(=わたしたちと余り変わらないもの)」として描いたという点にその”異色”さがある。そして、「俗なるもの」として描いた故に「患者は保証金では救われない、社会参加と福祉をもっと考えていかねば」という「当事者の叫び」が聴こえてくるのだ。
患者たちを「聖なるもの」として描かず「俗なるもの(=わたしたちと余り変わらないもの)」として描いたこの「下下戦記」のスタンスは、水俣病の必読文献として頻繁に挙げられる「苦海浄土」のスタンスとは正反対と言えるかもしれない。私は「苦海浄土」は水俣病を「文学化」することには成功していると思うけれども、患者たちを「聖なるもの」とみなすことにより「当事者の声」を美化し封じ込めた罪もまたあると思っている。
「下下戦記」は「水俣病患者の性」についても語られているためか、水俣病の必読文献として挙げられることは余りない。それは「性」を語ることがタブーであった1980-90年代では無理もないことだったかもしれないが、(例えば「障害者の性」の問題がタブーではなく実は本質的な問題であることが認識されつつある)2006年の現在であるならば、「下下戦記」ももっと”まっとう”に評価されうると思うし、評価されてしかるべきだと思う。是非一読をおすすめしたい。
出典 http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8B%E4%B8%8B%E6%88%A6%E8%A8%98-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%90%89%E7%94%B0-%E5%8F%B8/dp/4167341026
Aさんは約束の時間よりだいぶ遅れて到着しました。高校を卒業してもう2年になろうとしていますが10月まで長く「とじこもり」になっていました。先に一度訪ねたことがあり、家族もみんな知っているといっても緊張して体がなかなか動かないのです。
我が家の娘もこの日は休みで4人で夕食会です。あちこちの友人たちが届けてくれた食材で妻が心づくしの料理をつくってくれました。小学生の時に父を喪い、母は台湾で入院中のAさんには長い間、家族の団らんはありません。こうして何人かで食卓を囲むのも久しぶりです。
この間の厳しかった生活の様子が語られ、様々な不安にとりつかれていることがわかります。娘は北海道の大学を中退して川越に帰ってきてから今の仕事に就くまでのかなり長期にわたって「とじこもり」を体験しています。現状からどうやって一歩を踏み出すか、二人の交流は遅くまで続きました。妻とぼくは聞き役です。ときどき質問したり、うなずいたり。
小学校でいじめに遭い、不登校になって以来、Aさんのこども時代・青春期は苦難の連続です。独り身の叔父さんが住まいを使わせてくれている僥倖はありますが天涯孤独といっても過言ではありません。高校時代にぼくの授業を受けた縁で今こうして交流しているのですが、「よくもしっかり生きてきたものだ」と思わないわけには行きません。
日本に生まれて21年になるのに『定住者』という在留資格を3年ごとに更新しなければなりません。様々な事情からパスポートを取得することが出来ず、病の重いお母さんの見舞いにもいけません。今は何とか健康を回復して日々元気に働けるようにするのが課題です。
ぼくにできることは在留資格の安定の道を調査研究することなど限られていますが家族3人がそれぞれの方法でAさんを応援したいと思っています。川越は近いとはいえませんが気が向いたら気楽に訪ねてくれるように願っています。
昼寝して備えたつもりだったのに10時を過ぎるとぼくはリタイアー。娘が駅まで見送ったのは11時を廻っていたそうです。