川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「中立」と「民主主義」  父への手紙①

2009-09-11 15:55:01 | 父・家族・自分
 昨日は隣家のM さんの奥さんを誘って都幾川町で水汲みをした後、こども自然動物園でゆっくり過ごしました。抜けるような青空です。田舎の空のようだ、と、Mさんは言います。岩手県の西和賀町の出身です。手作りの赤飯のおにぎりなどをご馳走になりました。
 幼稚園の親子遠足なのか幼児づれの若い母親が目立ちます。草むらの中を転げ落ちるこどもたちの歓声を聞いていると健やかな成長を祈る気分になります。

 1960年の9月2日付けの父に出したぼくの手紙が出てきました。父の死後、実家から持ってきた僕の手紙類の中のひとつです。東京教育大学の入試に落ちて、思いがけなく浪人をする羽目になっていました。8月の終わりに東京に来て大井のおじの家に世話になっていました。<東京発 第2信>と書いてあります。

 教員に対する勤務評定反対闘争に対する高知県教育委員会の処分を報ずる新聞記事を読んで父を励ますつもりで?書いたもののようです。19歳になったばかりの僕の政治意識がうかがえます。

 「高知で校長21人に処分」
  昨日の夕刊の下の方に小さく出ていました。驚きはしなかったのですが、なにやら、感ずるところはありました。怒るというよりも21人の偉大な闘いに感謝する気持ちです。

 8月の同窓会のとき会った友達の話を聞くとぼくらの仲間も頼もしく成長しています。保守的な学校といわれながら本当はそうではないと思いました。学校がどうしようとしても、生徒たちはずっと賢明であったことを知りました。安保デモに参加したもようを真剣に話してくれました。

 日本の自主性を失わせる安保条約、それへの重大な布石である勤務評定。それを打破できる日は必ず訪れるでしょう。
 時の趨勢です。良心を守り抜いた尊い行為が今よりも高く評価される日が訪れることでしょう。

 僕はそれを信じています。今は忍ぶ時、時が悪いのです。
 日本も少しずつは進歩しています。権力にはむかう闘いが今はまだできるのです。大杉栄が惨殺され、美濃部、矢内原、大内らの先生方や無産党、社大党が圧迫された時代ではないのです。でも、これから先、そういう時代が訪れないとはいえないでしょう。それを阻もうとする大きな闘いに僕らは共鳴し、自分もまたその道を歩むでしょう。

 荒木文相は(日教組の)倫理綱領を破防法すれすれだとか言っています。保守党政権の続く限り、日教組は激しい弾圧にさらされることでしょう。あらゆる知識階層、反政府階層の中でも、教組は一番大きな力を持っているからです。みんながインテリであることが大きいのでしょう。それに教育者を聖職的に見る国民も多いので、政府にも都合がいいのでしょう。
 
 教組だけでなく、社会党も総評も大きな試練に直面しているように思われます。次の総選挙でどういう結果が出るかが、ひとつのバロメーターになると思います。楽観もできないし、悲観も当たらないと思います。護憲で二百人には伸ばしたいものです。

 池田政権ができるとマスコミがまた政権のある方に移っていくようです。特に、評論家といわれる人たちはそうしなくては食えないのかと思われるほどです。いつでも政権の近くにあって言いたいことを言っているようです。

 僕らは中立をかちとり、民主主義をうちたてる日まで、中立を目指し、民主主義をうちたてようと努力している人々に心から共鳴し、共に歩み続けたいと思います。

 長かった闘いはこれからもまだ長いかもしれません。お父さん、ここで体と心の休養をとってください。組織や教育に休みはないのかもしれませんが、今は暫時、体を休めてください。さらにおおきな闘いに向かうことになるのかも知れないのですから。

 安保を粉砕しようとしたあの巨大なエネルギーは日本に平和への良心が生きていることを示したのです。道は険し、されど、道は輝かしき栄光の道なのです。降りかかる火の粉を払いつつ、新しい前進を! ありがとう。ありがとう。


 学校は十日からです。体は順調です。勉強も比較的できるようになりました。現在、不安や不便はこれといってありません。ただ、散歩するところがどこにもありません。どこに行っても自動車が通って神経を休められないのです。室戸はもとより、筆山や鏡川の美しい自然が本当にありがたく思われます。

 東京は、ほんとうはつまらないところです。夢のない灰色の町です。高村光太郎さんが千恵子抄に詠んだとおりです。だのに、僕らは東京へ来ています。考えてみれば馬鹿らしいことです。
 文化の中心というのも嘘でしょう。文化とは、騒ぐことなり、というのならばそうでしょうが。太っぽさのない、つまらない都ですが、少なくとも4年と少しはご厄介になるところです。いい理解者になりたいと思います。

 それでは今日はこれで。みんな元気で。明石のおばあさんにもよろしく。
                  サヨナラ

             1960年9月2日午前9時 啓介