1960年10月12日の浅沼稲次郎・社会党委員長の暗殺は19歳の僕には耐えられない衝撃でした。18日の手紙です。
浅沼さんの不慮の死ほど大きな衝撃は初めてでした。肉体の苦痛を伴って僕を痛めつけました。張りつめていた心境からどっと疲労が出て、この一週間、勉強らしい勉強が全然できないほどだったのです。腰から下といわず、全身がとてもけだるくて。
偶然であったのかもしれませんが浅沼さんの訃音と共に起こったのです。咳は出る、寝汗はかく、夢は見る、で、心身ともに最悪でした。
兄さんの勧めもあり、日曜日に血沈とレントゲンの検査をしてもらい、今、結果がわかったばかりです。結果はぜんぜん異常はなくすっかり安心しました。(略)
祥介君(弟)のときは肉親の死で、悲しみは何年も消えることはありませんが肉体的な苦痛は伴わなかったと思います。
浅沼さんの死はこんなにも大きな影をぼくに投げかけました。ぼくだけではありません。平和を愛するすべての人々に、だったことでしょうが。自分自身、驚きます。
ちょうど日本シリーズの最中でしたが、テレビでそのことを知ったときとても信じることはできません。涙が出たのは翌朝になってからです。12日は自分自身ではとても耐えられないと思い、すぐに友達のところを訪ねました。夜遅くまで彼と心行くまで話し合い、慰めあいました。大井駅に降りたのは真夜中の12時8分、帰ったのは12時半近くでした。
バスの停留所のところまで兄さんが迎えてくれました。とてもうれしかったです。いい友達やいい人々が周りにたくさんいるから、安心です。今度ほどそう思ったことはありません。(略)
明後20日の社会党葬に友と共に参加する予定です。お父さんやお母さん、そしてみんなに代わって心からの哀悼を伝えます。祥介君を失ったことも浅沼さんを失ったことも、僕らの大切な養分を失ったことになります。これから先、どうにもして、僕らが成長して、本当に残念に思うことでしょう。有島武郎が「小さきものへ」の中に切々と書いたことを僕は今しみじみと味わっています。悲しみは永遠に消えないでしょう。
でも輝かしい未来のために僕は決して悲観しません。また、楽観もしません。今日、明日と一日一日をしっかりと生きてゆくだけです。
最近ようやく東京の空気に慣れ、とてもすみやすくなりました。十月になってビフテキを二度も食べました。伯父さんの心づくしです。夕食がだいぶ楽しみになりました。
浅沼さんの事件があった翌日はずいぶん伯父さんと話し合いました。ずいぶん仲良しになりました。今まで全然知らなかった伯父さんがだいぶわかるようになりました。考えに少し違いはあっても、お父さんといる感じがするときもあります。
信念が強いというか、悪く言えば頑ななといえるかもしれませんが、そんなところがあります。それが一面、魅力でもあります。
その夜、政治情勢から、昔の津呂の港や鉄道敷設の運動の話、写真を見ながらずいぶん話していただきました。とてもうれしくて。お父さんのお兄さんという印象を強く受けました。やっぱり共通していますね。理性より感性が強くて僕自身とても困りますが、伯父さんにも少しはそんなところがあるのかもしれませんが。
こんどお父さんが暇なとき、大正・昭和の歴史をお父さんから聞いてみたいと思いました。中野正剛の自刃の話をテレビで見て伯父さんから話を聞いたり、一つ一つの事件について伺うとき、歴史が暖かくなって、正しく認識されるような気がしたからです。僕はもっともっと多くのことをもっともっと知りたい。そして、もっと偉くなりたいと思いました。
略。 それではまた次に。喜びと悲しみが満ち溢れていたでしょうか。もし、言葉の上に現れていなくても、僕の今の気持ちはとても明るく、とても悲しいことを読みとってくだされば幸いです。さよなら
1960年10月18日午後9時 啓介
浅沼さんの不慮の死ほど大きな衝撃は初めてでした。肉体の苦痛を伴って僕を痛めつけました。張りつめていた心境からどっと疲労が出て、この一週間、勉強らしい勉強が全然できないほどだったのです。腰から下といわず、全身がとてもけだるくて。
偶然であったのかもしれませんが浅沼さんの訃音と共に起こったのです。咳は出る、寝汗はかく、夢は見る、で、心身ともに最悪でした。
兄さんの勧めもあり、日曜日に血沈とレントゲンの検査をしてもらい、今、結果がわかったばかりです。結果はぜんぜん異常はなくすっかり安心しました。(略)
祥介君(弟)のときは肉親の死で、悲しみは何年も消えることはありませんが肉体的な苦痛は伴わなかったと思います。
浅沼さんの死はこんなにも大きな影をぼくに投げかけました。ぼくだけではありません。平和を愛するすべての人々に、だったことでしょうが。自分自身、驚きます。
ちょうど日本シリーズの最中でしたが、テレビでそのことを知ったときとても信じることはできません。涙が出たのは翌朝になってからです。12日は自分自身ではとても耐えられないと思い、すぐに友達のところを訪ねました。夜遅くまで彼と心行くまで話し合い、慰めあいました。大井駅に降りたのは真夜中の12時8分、帰ったのは12時半近くでした。
バスの停留所のところまで兄さんが迎えてくれました。とてもうれしかったです。いい友達やいい人々が周りにたくさんいるから、安心です。今度ほどそう思ったことはありません。(略)
明後20日の社会党葬に友と共に参加する予定です。お父さんやお母さん、そしてみんなに代わって心からの哀悼を伝えます。祥介君を失ったことも浅沼さんを失ったことも、僕らの大切な養分を失ったことになります。これから先、どうにもして、僕らが成長して、本当に残念に思うことでしょう。有島武郎が「小さきものへ」の中に切々と書いたことを僕は今しみじみと味わっています。悲しみは永遠に消えないでしょう。
でも輝かしい未来のために僕は決して悲観しません。また、楽観もしません。今日、明日と一日一日をしっかりと生きてゆくだけです。
最近ようやく東京の空気に慣れ、とてもすみやすくなりました。十月になってビフテキを二度も食べました。伯父さんの心づくしです。夕食がだいぶ楽しみになりました。
浅沼さんの事件があった翌日はずいぶん伯父さんと話し合いました。ずいぶん仲良しになりました。今まで全然知らなかった伯父さんがだいぶわかるようになりました。考えに少し違いはあっても、お父さんといる感じがするときもあります。
信念が強いというか、悪く言えば頑ななといえるかもしれませんが、そんなところがあります。それが一面、魅力でもあります。
その夜、政治情勢から、昔の津呂の港や鉄道敷設の運動の話、写真を見ながらずいぶん話していただきました。とてもうれしくて。お父さんのお兄さんという印象を強く受けました。やっぱり共通していますね。理性より感性が強くて僕自身とても困りますが、伯父さんにも少しはそんなところがあるのかもしれませんが。
こんどお父さんが暇なとき、大正・昭和の歴史をお父さんから聞いてみたいと思いました。中野正剛の自刃の話をテレビで見て伯父さんから話を聞いたり、一つ一つの事件について伺うとき、歴史が暖かくなって、正しく認識されるような気がしたからです。僕はもっともっと多くのことをもっともっと知りたい。そして、もっと偉くなりたいと思いました。
略。 それではまた次に。喜びと悲しみが満ち溢れていたでしょうか。もし、言葉の上に現れていなくても、僕の今の気持ちはとても明るく、とても悲しいことを読みとってくだされば幸いです。さよなら
1960年10月18日午後9時 啓介