高知のコニヤンがU原さんがブログを始めたと教えてくれました。この方はコニヤンの友人であるばかりではなくケンちゃんとも古くからの友人です。学生時代には「原爆の図・丸木美術館」にも関わりがあったといいますから、まだお会いしたことはないのに僕は勝手に友人にさせてもらっています。中学の社会科の先生だった人で、ありがたいことに歴史の専門家です。
ブログをひらいてみると龍馬に関わる記事が飛び込んできました。勝手ながら紹介させてもらいます。
志を継ぐもの 龍馬一族はおもしろい
僕は1年半の素浪人生活におさらばし、11月から老人介護施設に勤めています。
縁あって、「福祉」の世界に飛び込みましたが、土佐の「福祉」を考える時、あの龍
馬の姉、乙女ネーヤンの子、岡上菊枝をはずすわけにはいきません。
乙女は御典医、岡上樹庵に嫁ぎますが、幸せな結婚生活ではなかったようです。ご存
知のように、離縁し、坂本家に帰ってきます。この夫婦の間の子が岡上菊枝(おかの
うえ きくえ1867~1947)。土佐にある「博愛園」の園母、園長として、多
くの孤児を育てました。
龍馬の一族はキリスト教の伝道に生涯をかけた坂本直寛や沢辺琢磨、また、この岡上
菊枝のように、世の中の恵まれないこどもや、信仰に救いを求めた人たち、そんな
人々と共にあった、そんな一族が多いです。上流階級というより、社会の底辺と共に
あった、そんな家系といってもいいでしょう。
「金をもうけて成功した」、そんな人はいません。乙女の養子となった、龍馬のおい
の直寛も、最後は県会議員のイスを捨て、北海道、北見へ渡ります。その北見を出
て、牧師となりますが、その一生は、世俗的な成功とは違っていました。直寛が最も
力を入れたのは囚人への伝道でした。
直寛の思想を研究した松岡喜一先生(高知大名誉教授、現、自由民権記念館館長)は
その著作を『幻視の革命』(法律文化社1986)としたように、その生涯は完成す
ることのない理想を追い求めた一生でした。
また、孫の、坂本直行(なおゆき 1906~1982)は北海道の原野で開拓に取
り組み、農民画家「ちょっこうさん」として親しまれました。生涯、「龍馬の一族」
といわれることは、彼にとっては迷惑であったようですし、彼も龍馬の血筋とは公言
しませんでした。
純粋に己の道を進む、世の栄達や名誉を求めない、これが坂本家のDNAであり、ま
た、龍馬の魅力でしょうか。
出典●全文はこちらでごらんください。「U原の土佐と高知だより」http://umecchi.seesaa.net/article/170651579.html
直行さんの山の絵は帯広郊外・中札内の記念館で二度は見たことがありますが、乙女さんの娘が博愛園の園長だったとは初めて聞くことです。どういう縁であったか博愛園の名は子どもの時から知っています。
「福山・龍馬」を見ていると龍馬という人は心の底から人を愛することのできるひとだなあと思わされます。世直しの行動の根底に「愛」があったのでしょう。一族の人々の中で若くして死んだ龍馬の物語が親から子へと語り継がれていたのかもしれませんね。U原さんの文章を読んで心が温かくなっていくような気がしました。
●岡上菊栄 http://www.jizenkyokai.or.jp/
龍馬の一族と言えば千葉県佐倉市に住んでおられる弘松典夫先生を思い起こします。ぼくの父の同僚だった方ですが、こちらは龍馬の長姉・千鶴の縁者です。千鶴の娘・茂(しげ)が安芸郡田野町の郷士・弘松宣晴に嫁いだのです。宣晴は典夫先生の曾祖父の弟にあたるとのことです。
●「龍馬の甥や姪・後裔たち」系図参照http://episode.kingendaikeizu.net/50.htm
明治31年に撮ったという坂本一族の写真の中央に「弘松茂」が写っています。
●弘松茂http://ameblo.jp/takana-ame/entry-10607609417.html
この3月、佐倉のお宅を訪ねて父の遺影を見ていただいたりしたのですが、先生はまるで歴史資料館の一室かと思われる部屋で昔話を聞かせてくれました。長曽我部元親に滅ぼされた安芸国虎の家来だったという弘松家の祖先以来の一族に関わる様々な資料や写真が展示されているのです。
「龍馬伝」を楽しみにしておられるようでしたが、この時点では歴史書に紹介された系図のほかは龍馬との関わりを示す資料はもっていないようでした。
このブログに紹介されている「茂」さんを中心とする坂本一族の写真など、その後にごらんになったのでしょうか。
(追記)この写真のことをお知らせしようと電話をしたところ弘松典夫先生は11月16日に逝去されたとのことです。95歳の大往生です。ご冥福を祈ります。(合掌)
ブログをひらいてみると龍馬に関わる記事が飛び込んできました。勝手ながら紹介させてもらいます。
志を継ぐもの 龍馬一族はおもしろい
僕は1年半の素浪人生活におさらばし、11月から老人介護施設に勤めています。
縁あって、「福祉」の世界に飛び込みましたが、土佐の「福祉」を考える時、あの龍
馬の姉、乙女ネーヤンの子、岡上菊枝をはずすわけにはいきません。
乙女は御典医、岡上樹庵に嫁ぎますが、幸せな結婚生活ではなかったようです。ご存
知のように、離縁し、坂本家に帰ってきます。この夫婦の間の子が岡上菊枝(おかの
うえ きくえ1867~1947)。土佐にある「博愛園」の園母、園長として、多
くの孤児を育てました。
龍馬の一族はキリスト教の伝道に生涯をかけた坂本直寛や沢辺琢磨、また、この岡上
菊枝のように、世の中の恵まれないこどもや、信仰に救いを求めた人たち、そんな
人々と共にあった、そんな一族が多いです。上流階級というより、社会の底辺と共に
あった、そんな家系といってもいいでしょう。
「金をもうけて成功した」、そんな人はいません。乙女の養子となった、龍馬のおい
の直寛も、最後は県会議員のイスを捨て、北海道、北見へ渡ります。その北見を出
て、牧師となりますが、その一生は、世俗的な成功とは違っていました。直寛が最も
力を入れたのは囚人への伝道でした。
直寛の思想を研究した松岡喜一先生(高知大名誉教授、現、自由民権記念館館長)は
その著作を『幻視の革命』(法律文化社1986)としたように、その生涯は完成す
ることのない理想を追い求めた一生でした。
また、孫の、坂本直行(なおゆき 1906~1982)は北海道の原野で開拓に取
り組み、農民画家「ちょっこうさん」として親しまれました。生涯、「龍馬の一族」
といわれることは、彼にとっては迷惑であったようですし、彼も龍馬の血筋とは公言
しませんでした。
純粋に己の道を進む、世の栄達や名誉を求めない、これが坂本家のDNAであり、ま
た、龍馬の魅力でしょうか。
出典●全文はこちらでごらんください。「U原の土佐と高知だより」http://umecchi.seesaa.net/article/170651579.html
直行さんの山の絵は帯広郊外・中札内の記念館で二度は見たことがありますが、乙女さんの娘が博愛園の園長だったとは初めて聞くことです。どういう縁であったか博愛園の名は子どもの時から知っています。
「福山・龍馬」を見ていると龍馬という人は心の底から人を愛することのできるひとだなあと思わされます。世直しの行動の根底に「愛」があったのでしょう。一族の人々の中で若くして死んだ龍馬の物語が親から子へと語り継がれていたのかもしれませんね。U原さんの文章を読んで心が温かくなっていくような気がしました。
●岡上菊栄 http://www.jizenkyokai.or.jp/
龍馬の一族と言えば千葉県佐倉市に住んでおられる弘松典夫先生を思い起こします。ぼくの父の同僚だった方ですが、こちらは龍馬の長姉・千鶴の縁者です。千鶴の娘・茂(しげ)が安芸郡田野町の郷士・弘松宣晴に嫁いだのです。宣晴は典夫先生の曾祖父の弟にあたるとのことです。
●「龍馬の甥や姪・後裔たち」系図参照http://episode.kingendaikeizu.net/50.htm
明治31年に撮ったという坂本一族の写真の中央に「弘松茂」が写っています。
●弘松茂http://ameblo.jp/takana-ame/entry-10607609417.html
この3月、佐倉のお宅を訪ねて父の遺影を見ていただいたりしたのですが、先生はまるで歴史資料館の一室かと思われる部屋で昔話を聞かせてくれました。長曽我部元親に滅ぼされた安芸国虎の家来だったという弘松家の祖先以来の一族に関わる様々な資料や写真が展示されているのです。
「龍馬伝」を楽しみにしておられるようでしたが、この時点では歴史書に紹介された系図のほかは龍馬との関わりを示す資料はもっていないようでした。
このブログに紹介されている「茂」さんを中心とする坂本一族の写真など、その後にごらんになったのでしょうか。
(追記)この写真のことをお知らせしようと電話をしたところ弘松典夫先生は11月16日に逝去されたとのことです。95歳の大往生です。ご冥福を祈ります。(合掌)