川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

若麻績さんとキツネノカミソリ(写真)

2008-08-10 11:26:14 | 政治・社会
 「比企の丘から」というブログがあります。比企は埼玉県東松山市など旧比企郡一帯を指す言葉かと思います。川越のある旧入間郡の北隣で丘陵地帯です。素晴らしい写真が魅力的です。
 「川越だより」の発信者は写真を載せることが出来ません。8月6日に丸木美術館で講演をされた若麻績さんと今朝のブログに書いたキツネノカミソリの写真がこのブログに掲載されていますので勝手ながら紹介します。

 若麻績さん http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/121e1999d4d11d23ac67e121b10de02b

 キツネノカミソリ http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/d/20080805

都教委は三鷹高校長の提案に応えよ

2008-08-10 05:03:39 | 政治・社会
 昨日は午後から涼しくなり、午睡のあと川越水上公園の河川敷の森を散歩してきました。キツネノカミソリがあちこちで赤い花を咲かせています。
 お隣のMさんご夫妻が10日から岩手県西和賀町の故郷に帰って来るというので急遽夕食会をしました。久しぶりに飲むビールがことのほか心地よく、食も進みました。


 さて、janjanに次のような記事が載っています。  


  三鷹高校校長が東京都教育委員会に公開討論を要求
                           渡辺容子2008/08/06
職員会議での「挙手・採決禁止の通知」の撤回を求めて都立三鷹高の校長が公開討論を求めています。取材をして、都教委が公開討論に応じるとは考えられず最低の話し合いすらしないこの国に民主主義はあるのかと思いました。


 2006年4月に東京都教育委員会から出された「職員会議において職員の意向を確認する挙手・採決の禁止の通知」(以下「通知」という)の撤回を求めている東京都立三鷹高校校長・土肥信雄さんが、8月4日、応援する有識者と共に都教委に対して公開討論に応じるように要請し、都庁記者クラブで記者会見を行いました。



 土肥校長は都教委の通知に対して2007年11月の校長会で撤回を求めましたが、納得のできる対応がなかったため、今年7月10日、公開討論を要求しました。残念なことに都教委からは応じられないと連絡があったため再度の要請とのことです。

 土肥校長は自分の信条は基本的人権の尊重と平和主義であるとし、中でも言論の自由は社会の発展、活性化に必要な民主主義の基本であり、教育現場において尊重すべき重要なものであるが、都教委の「通知」は言論の自由を奪うものであると述べました。
 
 土肥校長は都教委に、お互いに生徒のため、東京のため、日本のためを思って教育活動を行っているのだから、公開討論の場で意見を述べ合い、都民、国民にどちらの意見が正しいか判断してほしい、都教委への支持が多ければ、自分は素直に都教委の意見に従うとしました。ちなみに三鷹高校では「通知」を守り、挙手・採決は一切行っていないとのことです。

 それから応援にかけつけた4氏からの訴えがありました。 藤田英典さん(国際基督教大学教授)は土肥校長に全面的に賛同するとし、近年の都教委の施策は教員の思想良心の自由や努力鋭意を抑圧するもので重大な危機感を抱いていること、教員の意向を知ることは学校運営に必要であり、校長の権限を弱めるものではないと述べました。

 尾木直樹さん(教育評論家)は土肥さんが謙虚で共に考えていこうという姿勢を持っていることに共感したとし、自分は中立を守る評論家としてこういう場にはめったに顔を出さないが、今回は同席したと述べました。そして最近の都教委のやり方が教員に対して抑圧的なので、東京都の教員採用試験の受験倍率が他県に比べてきわめて低いと指摘しました。都教委の閉鎖性やヒエラルキーは大分県教委の汚職に通底するものがあり、なんらのチェックもなく、民間企業ならとうにつぶれていると痛烈に批判、都民は重大な課題を抱えていると述べました。

 勝野正章さん(東京大学准教授)は、現職の校長が指摘している重大性に触れ、公開討論は意義深いことであり、専門家だけの問題ではなく、生徒を含むいろんな人が社会的対話をする必要がある、また都教委には説明責任があると述べました。

 石坂啓さん(漫画家)は母親としての立場から、都教委の「通知」は親にはあまり知られておらず、素朴に「なぜ?」と思うこと、子どものため、学校のためではないと思うと述べました。萎縮した大人というのは子どもにとってどう映るのか、弊害を受けるのではないかと疑問を呈しました。

 それから記者の質問に答えて、土肥校長が次のように述べました。「挙手・採決の禁止」の意味は教員が意見を言うこと自体はよいが、全員に賛成・反対を聞いてはいけないという意味である。しかし、意見を言える人はよいが、全員なかなか発言できないので、全員の意向を聞きたいと思っている。以前は職員会議が最高議決機関だったが、現在は校長の補助機関という位置づけである。全員が反対でも校長の判断で決定することもある。

出典 JANJAN 8月6日
 
 http://www.news.janjan.jp/area/0808/0808053791/1.php


 三鷹高校の土肥校長のことは前にも紹介したことがありますが、今回の行動も至極全うなことで、民主主義のなんたるかを考えさせる優れた教育活動ともいえます。
 三鷹高校のみならず、すべての都立高校でこの校長の行動について討論会を開いてほしいと思います。HRでもよし、生徒会主催でもよし。また、この記事に気づいたら、高校生を持つ家庭では子どもたちと語り合ってください。民主主義は私たちのひとりひとりの不断の努力によってのみ支えられるものです。
 土肥校長の努力に私たちも行動によって応えるときです。その程度のことも出来ないとしたら市民社会の一員としては失格とぼくは思います。そのツケはいずれ何倍にもなって私たちを苦しめます。
 それにしても土肥さんに賛同する校長はひとりもいないのでしょうか。元校長でも良い。
 Mくん、もうひとりのMくん、Iくん、Kくん、Sくん…。東京教育大の学生だった頃の友人で都立高校の校長になった人たちよ、あなたたちはどう考えているのですか。
 ぼくは1948年小学校入学です。「戦後民主教育」によって育てられた一期生か二期生です。(新憲法の施行は47年5月3日、教育基本法は47年3月31日)。特別の教育を受けたわけではありませんが、話し合い、討論は生活の中にあったように思います。
 そんな僕らの世代が責任を果たさないでどうするのですか。
 
 都教委は土肥校長の提案に応え、公開討論の場をつくるべきです。教育長、場合によったら石原知事が出て、堂々と論陣を張ったらいい。大阪の橋下知事が公開討論の場を積極的に活用して、府民の支持を得ているのではないか。躊躇する理由がどこにあるのだろう。

 
 

群馬満蒙拓魂の塔ー8月9日に

2008-08-09 11:06:31 | 政治・社会
 昨日は我が家の温度計が36度を示す暑い一日でした。3時過ぎからオアシスという保健施設にいって一時間ほど泳いできました。泳ぐといってもわざわざ浅くしたコースでビート板につかまってばた足ですすんでみる、といったことの繰り返しです。息継ぎなどが難しく、10mぐらいいったら一休み。平泳ぎでも事情は同じです。障害者と老人(60以上)は無料。暑い日には通ってみることにします。

 今日は長崎に原爆が投下された8月9日です。63年が経ちました。もう一つ、同じ日に起きた歴史の事実をご存じですか?

 ソ連が日ソ中立条約の破棄を通告し(8日)、9日零時を期して「満州」「南樺太」などにその軍を侵攻させました。ソ「満」国境地帯に貼り付けられていた日本の開拓団や青少年義勇軍の人々の悲劇が始まった日でもあるのです。なぜ、このようなことになったのか?歴史の学びの一日にしてほしいものです。

 ぼくは先日(5日)四万温泉の帰りに北軽井沢に寄ってきました。「群馬満蒙
拓魂の塔」を尋ねるためです。
 軽井沢とは言っても浅間山の北麓は群馬県です。国道146号を登り、応桑という集落を過ぎたあたりで標識を見つけ左に入っていくと、3kmくらいの所に大屋原という酪農の村があります。広々とした畑の続く、いかにも開拓地という感じの所です。正式な地名は群馬県吾妻郡長野原町大字九話応桑字大屋原といいます。
 畑の中の小さな森の中の広場に古びてはいるが立派な「塔」が建っていました。
群馬県各地から「満蒙」に分村移民した開拓団の名前が刻まれています。犠牲となったひとびとを慰霊するため、「群馬県」などの助成をうけ、拓友会(引き揚げ者の団体)が中心になって建設したようです。近くには開拓団ごとの慰霊碑も何基かあり、こちらには「土民」の襲撃を受けたなどの文字も刻まれています。

 命からがら引き揚げてきた人々に安住の地はありませんでした。結局の所、今度は浅間山麓で開拓の鍬を振るうことになったのです。生活に落ち着きが得られるようになって(74年)この塔を建て犠牲者の慰霊をするようになったのでしょうか。30年記念誌が群馬県立図書館に保管されているようです。

 ハイロンに向かう途中でやっと人に出会いました。道路の草刈りをしている手を休めて相手をしてくれました。1951年生まれのかたです。引き揚げてきた親の世代の方はほとんど亡くなり、塔の奉賛会も解散したと言います。酪農は借金を増やすばかりで成り立たず、この方は早くに廃業しています。塔を維持し、慰霊祭を行う土台が消滅したと言われます。
 敗戦から63年、同じような現実が各地にあるのではないかと思われます。慰霊祭の終結は時の流れといえるかも知れませんが、歴史を学ぶ遺跡公園としてこれらの塔や碑が維持・管理されていく必要があると考えます。群馬県当局や教育委員会には何らかの考えがあるのでしょうか。
 先年訪ねた、栃木県那須の慰霊碑には天皇夫妻と家族が訪れたと報道されました。天皇一家だけではなく、すべての子どもたちに伝えていかなければならない郷土の現代史です。

 ハイロンでは石田観光農園を訪ねてみました。97年夏、都立北高校の中国クラブOBOG合宿で世話になったところです。ここでも世代交代がすすみ、開拓3世にあたる青年がきびきびと働いています。「農園ロッジ」というしゃれたホテルが建っています。中にはピアノ付きの音楽ホールがあり、音楽関係のサークルの利用が多いそうです。
 近くの畑を訪ねてみました。東京の小学校の子どもたちがブルーベリー摘みに夢中になっています。子どもたちの相手で忙しい当主に久闊を叙して軽井沢に向かいました。同じような開拓の村ですがハイロンは早くから民宿や観光農園に活路を見いだし、今も村に活気があるようです。

 ハイロン http://kaze3.cc/14-teian/4-advice/totoro/03-syougezuko.htm
 

独り歌ー江口きち抄(下) カツヨシさん寄稿

2008-08-08 18:22:03 | 出会いの旅

独り歌―江口きち抄(五)その歌



●「女啄木」という呼び方は、江口きちの死の4ヵ月後に刊行された歌集『武尊の麓』(河井酔茗・島本久恵夫妻編。本連載の「(二)その生活」中に「河合」とあるのは誤り。訂正します)に寄せた酔茗の「序」に発しているものと思われますが、それはひとまず措いて、その「序」文は、きちの生涯とその作品を簡潔に浮かび上がらせています。
「(前略)きち女は格別歌道専修に志してゐたのではないから、作品価値の上から言へば、第一流の歌人と肩を比べるわけにゆかないのは勿論だ。小学校を卒業しただけで深い学問もなく、たゞ生来文芸の才能に恵まれてゐたので、それが短歌の形に現はれ、遂に七年足らずの間に千首にあまる収穫を遺したといふことになる。もし短歌にゆかなかつたら或は詩に来たかも知れないし、或は創作を書く人になつたかも知れない。此集に加へなかつたノートの歌を一々読んでみても、きち女は日々夜々の生活感情を悉く歌にしてしまつてゐる。その点は啄木にも似通つてゐるので、人間の真実性に基く直感を在りのまゝの言葉で歌に言ひ放たうとしてゐる趣がある。従つて短歌本来の機構様式に照してみて、技巧の不備、格調の不自然、語彙の不足等の欠点を免れ得なかつた。それにも拘はらず人を動かす力があるのは、きち女の気魄(きはく)が歌の形を藉(か)りて真実われわれに迫つてくるからである。(中略)如何に呪はれたる宿命的な環境に在つても、生来の素質を汚されまいとする潔癖感は、凛然(りんぜん)として冒し難い一個独自の風貌となつて示されてゐる。人生を厳粛に凝視して、軽佻浮薄の態度は微塵もなく、絶えず清澄冷徹の心境に身を置かうとしてゐたのだ。さればこそきち女は決して人生を安く見限つてしまつたのではなく、家庭に、生計に、ひしひしと身に迫る重圧を感じ、わが力及ばずと決めて潔く二十六年の生涯を断ち切つたのである(下略)」……やや明快に過ぎるとも思われますが、きち十八歳のときからその作品に触れていた人の言葉として、さすがに鋭いものがあります。手元にある『江口きち歌集』(『武尊の麓』より367首を採録。1991年刊。至芸出版社)はひとつの優れた才能が、芽生え、徐々に力を蓄え、大きく花開こうとする予兆と、ひた押しに押してくる一途な気魄に満ちていて、まことに「息づまるやうな苦しささへ感ぜしめる歌集」(酔茗「序」より)です。
●ここでは試みに「ひとり」を歌った短歌を挙げます。
○山うどはおのづからなる高き香を厨(くりや)に放ちわれひとりゐる(1934)
○かたちなき心弱りやひとりゐの朝をしみらにたばこあぢはふ
○午後三時すでに半ばは翳(かげ)りたる障子の内にひとりゐて久し
○爐(ろ)のぬくみほのかにしたしひとりゐて煎じ薬の土瓶沸(たぎ)らす(1935)
○春ながら夜は冷ゆるかも厨辺におそき夕餉をひとり食(は)みゐる(1936)
○家ぬちに月明り満ちひとりゐに乏しくあればいよよありがたき
○ことなすもものを想ふもひとりなり童(わらべ)のごとく歌唇(くち)ずさみつつ
○昼闌(た)けし叢(くさむら)みちに真夏陽はひ
そけきものかひとりしゆけば(1937)
○しづかにあらむ念(ねが)ひをつきつめて空家にひとり夜をのがれ来ぬ
○夜はせめていましめときて放ちやらな紅粉(べに)も涙もひとりわがもの(1938)
……16歳で母を失い、老残の無力な父と知的障害者の兄を抱え、日々の暮らしに追われながら、年季奉公に出した妹の身を気遣い、忍ぶ恋に身を焦がす。どちらを向いても「ひとり」、何をしても「ひとり」。この究極の孤独感、孤絶感。「深夜鏡に対(むか)ひて」という詞書のある4首が心に残りました。(内1首は上掲の「夜はせめて」)
○女なれ死にての後の面影をせめてすこしくよそはむとすや
○夜を閉してかなしきすさびするものぞ人には見せぬ化粧(けはひ)して見つ
○誰がために保ついのちぞ相見じと誓ひし面に紅ひくあはれ

 この深く痛ましい孤独感がきちを死に赴かせたのでしょうか。


(六)滅びの美学

●江口きちにとって「生と死」はどのように意識されていたのでしょうか。再び、「きちの言葉」に聴きます。
○帰りゆく武尊(ほたか)は荒れてその下に住ひうごかぬわがさだめあり(1932)
○荒れつづく武尊裾野の村に住むわがまいのちは小さかりけり
……18歳の少女は自分を取り囲む苦難を「さだめ(運命)」と捉え、「小さいいのち」をじっと見つめています。
○一抹のうれひといはばいひぬべきこのたよりなさ寄
するものなし(1934)
……20歳。きちの孤立無援の日々が続きます。
○死をたのみ生くるひと日は日に次ぎてなまけくせつきぬ家亡ぶとも(1935)
○かりそめの憤(いか)りはかなしいつしらに相貌を変ふ人生(よ)への憤りと
○(「小学校を巣立ちて一年、自ら生命を断ちたる今ちゃんに」)人の生(よ)の地上に寄るべ一尺の土くれもなみ死をえらびけむ
○事足らぬ日は送るともさらさらに人に仕(つか)へて生きむとは思はじ
○帰り行く住ひにあすも虫のごといのち続くと思ふはかなさ
……「死への願望」のようなものがいつごろ芽生えたのかは定かではありません。いわば厭世(生)観に裏付けられた「死への眼差し」が感じられます。そして昂然と頭をあげて歩もうとするきちの誇り高さも伺われます。
○寄るべなきうからのために死ぬる身のいのちを死なず生計(くらし)きびしき(1936)
○きよらかにあらむ念(ねが)ひをひたすらに月夜となりし庭に立ちつつ
○身も家も一切空とならむ日や現(うつ)しきづなの解かるるべかり
○武尊嶺は仰ぐ日も稀に住ひゐるわがいのちかなしその山麓に
○武尊根は吾が生(あ)れどころ小さきいのちいのち終らば眠らむところ
……「死ぬる身」「一切空とならむ日」「いのち終わらば」と、「滅び」に寄せる思いが歌われています。「武尊嶺」も特別な視線で描かれています。
○少女(をとめ)の日正眼にありし人の生(よ)のあくがれぞ還る早春のそら(1937)
○人ひとり生くるも死ぬもかかはらぬ帝都の隅にかくれ住まばや
○まこと孤り生くるによろし眉上げて人の渦なす巷歩まむ
○またひと日いかに過さむ活くることなどかくまでも煩はしきや
○春の夜の川瀬のひびき聴き澄みつわれとあまゆるなみだ湧き来も
○朝明けの白き光りにかへりみるわが相貌(すがた)かなし地を這ふごとく
○いかにせむ亡母(はは)が借財知らせこし人は余命もいくばくといふ
○うかららに先立ち死なむ日もあらめ生きのいのちに保険つけてし
○おのづから滅びの家に生(あ)れし子ぞ死にまむかふはものの故にあらず
○さいはひのいのちの底に常去らぬ死はかりそめの逃避ならざり
○人思ひ人にかなしむ現身(うつそみ)の歎きはやがて超ゆる日あらむ
○大いなる悲哀耐ふべき日に備ふこころは据ゑてきびしき思ひ
○むらぎものこころかたむけ言はずゐしあかしは立たむ死の明けの日に
○あやふくもなみだこらふる眼はしばし白雲の嶺よりそらすすべなし
○ことしあればいよよに思ふまいのちのつひにゆるがぬ念(おも)ひのたしかさ
○その魂(こころ)すでに死ぬとも生きの身の肌衣は洗ふ慣ひ侘びつつ
○おぼつかな歩みにはあれひたごころわが生き来しと山脈(やま)に真向ふ
○けふ一日何に過さむ朝明けて思ひしらしらとさびしかりけり
○顧みれば願ひおほかた足りてありこの寂(しづ)けさに冬はよろしも
○辿り来ていま悔ゆるなしかにかくも正しと思ふ道は踏み得ぬ
……「滅びの家」に生まれ、「いのちの底に常去らぬ死」を見つめ、「歎きをやがて超ゆる日」を夢見た人は、でも自分は「清らかに」「正しく」「ひたごころ(ひたむきな心)」で生きたと、きっぱりと総括して武尊と向かい合うのです。
○すでにしていのち限れば証し言(あかしごと)いふまじと思ふさすがかなしく(1938)
○ははそはよなげかすなかれその子らの血は絶ゆるとも清く生き来し
○うとましくたつき失ふすべなさよ君が手紙にはさまれし紙幣
○はからずも落ちし紙幣は触れがてにしくしく心熱くなり来ぬ
○ひそひそと片づけごとに日を次げば家妻めきてうら安さあり
○はるけくも望み来し日にいたりつつ起居ひそけく整理に暮らす
○逐(お)はれては死なじと思ふ女子(をみなご)の誇りをもちて死に臨み来し
……「君が手紙にはさまれし紙幣」に心ゆれた日もあり、心静かに「整理に暮らす」日もありました。最後の1首が万感の思いを伝えてきます。
●行ったり来たりの、ぼくの拙い論考も、ようやく終章を迎えます。


(七)その眼差し

●前章の「滅びの美学」は言葉足らずであったようです。補足します。
 きちの日記に次のような言葉が遺されています。
「亡びゆくものは美し、美しきものは亡びゆく。こんなセンチメンタリズム、なを捨てがたい。強靭なもの健康の美、然して壮麗さより、もろさ、はかなさの美に心牽かれるのは因果といふか」
 数々の不幸や困難に幼くして襲われた少女がいつしか抱き始めた厭世(生)観と滅びへの憧れ、それと「清らかに」「正しく」「ひたごころ」で生きたいとする思いの葛藤が、江口きちの一生であったように思われます。その死を格別に美化するつもりはありません。ただ、孤独に生き、独り人生を凝視し、最期は一人芝居の幕を自分で閉めたようなきちの眼差しに、強い輝きを感じるのです。
「一人の女性の生と死の軌跡を辿る」この小論は、彼女の「生活苦」「恋の苦悩」「孤絶感」「滅びの美学」について考察してきましたが、冒頭に述べたように「所詮かなわぬ問い」であったようで、去った人の思いの万分の一にも迫り得なかったようです。それでも一人の女性の人生に想像力で寄り添おうとする試みは、翻って、わが人生のありようと立ち位置を自覚し続けることでもありました。2008年夏は、このような「聡く輝く眼差しの人」に出会ったという点からも、記憶すべき夏になりました。
●最後に、紹介し残した短歌を掲げて結びとします。
○瀬の色の目立たぬほどの青濁り雪しろのはや交りくるらし(1936)
○深き夜の月の惜しさに出でてゆくならひとなりぬ花咲きてより
○生きの世の現(うつ)し歩みに背は向けて人を思ふはかなしかりけり
○ふるさとは遠く流れて来つつあはれ旅の役者の刃傷の沙汰
○つばらかに雪かかりゐる落葉松の林を透きて空の真青さ
●参考文献
 『江口きち歌集』
 『恋歌 恋句』 正津 勉
 『江口きち・その自覚的な生と死』 島本 融










嬉しい誤算  闘病報告

2008-08-08 10:24:29 | 父・家族・自分
 昨日、癌研有明病院で主治医の西尾誠人先生の診察がありました。抗ガン剤治療の第4クールが終了した時点でのCT検査の報告です。
 第2クール終了時より左肺の癌がさらに縮小し、陰も薄くなっています。顕著な薬効があったということです。このような例は癌研でも少ないらしく先生も喜んでくれています。
 このような時にはさらに2クール治療を継続する値打ちがありそうです。癌細胞を根絶やしにすることは不可能ですがさらなる薬効を期待することはできます。幸い、体力も残っています。挑戦してみることにしました。

 第5クールのための入院は来週後半以降になります。再来週になるかも知れません。病室の空き次第なのです。第4クールで一段落と思っていたので意外な展開となりました。天は我に味方してくれているのですから、気持ちを切り替えて、あと2ヶ月副作用に耐える日々を送ることにします。

 15日くらいから大島で静養の予定でしたが取りやめです。Kくん夫妻には申し訳ないことですが、またの機会によろしく。
 脚のシビレは残っていますが、体の動きは徐々に良くなっています。近頃は頭に黒いものが再生しはじめました。これも皆さんの激励のお陰です。気力も充実して体の新陳代謝もいいのでしょう。ありがとうございます。入院の日まで歩いたり、泳いだりして副作用に耐える力を養います。
 暇がある方はどうぞ遊びに来てください。これが一番の薬です。

 長野県富士見高原の典子さんが手作りのトマトを届けてくれました。昨夜は近所の奥さんがこれまた手作りの西瓜を差し入れてくれ、おいしくいただきました。感謝あるのみです。
 
 中国に日本語教師として赴任していた親戚の章子さんが帰国しました。13日には永住帰郷するそうです。高校をでて以来ですから40年余、長い東京での生活にピリオドを打つのです。お疲れさま。これからどんな生活がはじまるのでしょう。

桐生一高

2008-08-07 07:29:45 | 政治・社会
昨日は2時前から6時過ぎまで丸木美術館で過ごしました。若麻績さんの「祈りの力」というお話をうなずきながら聞きました。短くまとめる力がありません。紹介は他日を期すことに。

  今日は甲子園で桐生一高(群馬県)の試合があります。ぼくは今回、この学校の野球部は甲子園出場を辞退し、学校を挙げて謹慎すべきだと考えてきました。これほどのことを自分たちとは無関係だとして済ます神経はどうかしています。甲子園はますますぼくからは遠くなっていきます。皆さんはどう考えますか。
 二人の方の意見を紹介します。

 
  桐生一高野球部員強制わいせつ:識者の意見 堀田力さん/玉木正之さん 
                 ( 毎日新聞 8月2日 群馬版)


 桐生第一の甲子園出場を認めた高野連の決定には賛否両論がある。それぞれの立場から2人の識者に意見を聞いた。(聞き手・鈴木敦子)
 ■出場に賛成
 ◆連帯責任の範囲超える--さわやか福祉財団理事長・堀田力さん
 ◇日本高校野球連盟が設けた特待生問題有識者会議で座長を務めた、さわやか福祉財団理事長の堀田力さん
 出場決定で良かった。選手たちは引け目を感じずに堂々と戦い、桐生第一の素晴らしさを世の中に示してほしい。批判もあるが恥じることはない。
 今回の犯罪は絶対にやってはいけないことだが、責任は完全に個人にある。個人の資質に基づく犯罪で、野球部の仲間にとって予防可能だったかどうか。連帯責任を負う範囲を優に超えており、無過失責任だ。
 これで出場できなければ、責任を負わされた方も納得いかず、頑張る意欲を失ってしまう。野球だけでなく勉強などにも将来的に悪影響を与えるだろう。
 野球ができることを鼻にかけて悪事に走ったとか、練習態度に問題があったとかなら、他の選手らが支え合って解決すべき問題だが、今回は野球とは全く関係がない。互いの日常にまで注意し合うのなら疑心暗鬼になってしまい、かえって逆効果。不祥事をバネにチームが一つになるのがあるべき姿だ。
 ■出場に反対
 ◆決定「教育の一環」に矛盾--スポーツライター・玉木正之さん
 ◇「スポーツとは何か」などの著書があるスポーツライター・玉木正之さん
 率直に言って出場させるべきでない。日本高校野球連盟が高校野球を教育の一環に掲げるなら、今回の決定は矛盾している。甲子園がプロの興行だという事実を露呈させた。
 関係者は興行を成功させることに気を取られ、被害者の気持ちを思いやるなどの教育的意義を求めなかったということだ。
 高校野球は高校生の部活動だ。教育者として部長や監督の力が足りなかったのではないか。グラウンドで返せば済むのか。ただ野球が強ければいいのなら、クラブチームを作ればいい。
 そもそも北京五輪のために開幕を前倒しして、期末試験の時期を犠牲にしたのが今回の大会だ。
 一体誰のため、何のための甲子園なのか。学校の宣伝か、選手の名誉か、関係者の金もうけか。選手たちは出たいに決まっている。甲子園の本質がメディアも含め大人に都合の良いイベントに変わってきているのではないか。

 

 掘田さんが言っていることは、個人の資質に基づく犯罪で他の部員には責任がない、だから恥じることはない。ということに尽きるようです。
 犯罪の責任がその個人に属し、仮に親しい友人であっても教唆煽動などしない限り、刑事責任を問われることはありません。だからといって、自分には無関係で恥じることはないといえるものなのでしょうか。たばこを吸ったとかというレベルの事件ではありません。部外の第三者に危害を加えたのです。堀田さんは「資質」に基づく犯罪なので他人には防ぎようがないと言いますが本当にそういいきれるものでしょうか。
 青春期の性欲をもてあまし、悩んでいる青年は山ほどいます。この課題にどう対処するかは昔から青年期の大問題なのです。ぼくの故郷などには「夜這い」という習慣もあったといいます。今で言えば犯罪に近い場合もあったのかも知れません。若衆宿というのもありました。青年のたまり場です。性教育の場でもあったはずです。
 いつの時代でも集団の指導者達にとっても避けられない大切な課題です。野球部というのも男ばかりの同じ年頃のものたちだけの未熟な集団ですから、指導に当たる監督や部長の苦労も大変なはずです。逆に言えばその指導力を発揮するチャンスでもあるはずです。
 この課題にうまく対処できず、犯罪行為に走ってしまう生徒が出たのです。遅まきながらでも、自分たちの抱える大切な問題として全員で考えるチャンスにする他はありません。それが学校であり、クラブ活動であるはずです。
 問題を個人の「資質」に帰して、「君たちには何の関係もないよ」というのが高野連の有識者会議の座長というのですから、立派なものです。
 高野連に属する野球部は高校のクラブ活動とはいえないものになりました。クラブ活動としてやっていこうとする野球部は高野連を脱退する時です。

原爆投下の日

2008-08-06 11:40:24 | 友人たち
予告もなく川越だよりを休みごめんなさい。3日朝、猛暑を避けるため急遽、四万温泉に出かけ、昨夕帰ってきました。

 今日はこれから原爆の図・丸木美術館に行きます。

 今朝Iさんからメールをいただきました。

暑中おみまいもうしあげます。
ご無沙汰いたしております。
仕事に介護に毎日 生きております。

本日は広島原爆の日です。
長崎原爆で叔父が三菱重工の学徒動員
で被爆してそのあと 1人で夜行を乗り継いで
福岡の家に帰り着いて 1週間苦しみながら
息絶えた話は 私の母が女学校のときの
経験です。  母の人生を一変した日です。
私が どうしても 人生に悲劇性をみてしまうのは
この母の影響です。
私にとって 原爆は背後霊のようなものです。
だから 原爆記念日には 正座をしていた
母の姿を思い出してしまって ひとごとのように
各地での記念日行事に 参加できません。
とても とても 重い日です。
すばらしい あきば 広島知事の英語のスピーチを
鎮痛な思いで 毎年 きくのが 8月6日です。


 お母さんは一日を正座して過ごされたのでしょうか。その思いとはどんなものでしょう。
 
 私たちのひとりひとりがそれぞれの方法で「原爆」と向かい合う一日としたいものです。


 備忘録(1)

 3日(日) 猛暑が予想されたため急遽、群馬県四万温泉へ避難する事に。10数年ぶりか。温泉の上流に奥四万湖という巨大ダム湖が完成している。ダムサイトをおそるおそる歩いてみる。濃いブルーの湖面が美しい。ダム天端高欄にはめ込まれた陶版画がたのしい。中之条の5つの小学校の子どもたちの作品がずうっと続いている。国民宿舎四万ゆずりは荘泊。

 奥四万湖
 
 http://www.pref.gunma.jp/h/05/shima/sansaku.html#陶板画
 

 

人道と正義

2008-08-02 15:03:11 | ふるさと 土佐・室戸
 今朝は「一応庭」の手入れをしました。繁茂したヒオウギを引き抜き、跡地を整備しようとスコップをいれてみました。直ぐに疲れが来て止めてしまいます。まだ無理なようです。プランターの中で昨年長良川河口堰管理事務所で貰ってきた堆肥と土を混ぜ合わせて早々に撤退。
 4回目の抗ガン剤点滴から今日で10日目。体はだいぶ楽になりましたが赤血球や白血球の数値は今が底だと思われます。あと2・3日はそろそろと動くことにします。
  
 高知県東洋町の沢山保太郎町長のブログを久しぶりに読みました。
中岡慎太郎のことを思い出しました。龍馬と共に凶刃に倒れた幕末の志士です。安芸郡北川村の若き庄屋として村人のたつきを常に考えながら、だからこそ維新の大業に身を投じた人です。
 沢山さんの期待に応え、沢山さんと共に民主町政を担おうとする現代の慎太郎が出てくるのでしょうか。


    新採用職員へのメッセージ  沢山保太郎


8月1日より新採用の職員3人が就任する。
職員に期待するのは次の通りである。

第1に、役場は安楽な就職の場ではないということである。身分が安定しているから役場を選んだではだめである。
役場は、この人の世の正義と人道を実現する人民の拠点である。利権と不正の伏魔殿ではないし、堕落した公務員の安住の場でもない。
今、世界の情勢は、エネルギー問題や食糧問題、地球温暖化などで大変な状況であり、国家の財政も1000兆円を超す借金で沈没しそうである。
いつ疾風怒濤の時代に突入してもおかしくない。
国を牛耳っている政治家達には全く明日が見えず、ベキラの淵に身を沈めるまともな人は何処にもいない。
今、救国の志士が必要だ。

新入職員に望むのは、役場を自己の生活の糧ぐらいに見て、給料さえもらえばいい、勤務の時だけ働き、後は知らないというもので終わるのではなく、
日常普段にこの町や国家社会を、又住民をどうすればよくすることが出来るか、考えて実行して欲しいと言うことである。もちろん生き抜きも必要だし休息も必要である。しかし、自分の利益、自分の家庭の幸福だけのために公務員を務めるという姿勢は、止めるべきだ。公務員というのは住民に奉仕する職業であり、そのための毎日である、住民のためには時として自分の時間を犠牲にする場合もあるということを肝に銘じてもらいたいのである。

決して一部の者の利権に奉仕してはならないし、いかなる不正にも与してはならない。むしろ、それらを一掃し、正し、公正な住民サービスに徹しなければならない。時には、無法者と毅然として対決する必要がある。利権を求めて脅しや脅迫、いいがかりは役場に居ればしょっちゅうある。そう言う連中がむしろ恐れる様な存在でなければならない。
どこかの役場のように特定の議員や有力者が役場の人事を左右し、予算や請負契約にまで介入してくる、こういう状況については、断固として排除しなければならない。


しかし、住民に対しては腰を低くし、懇切丁寧に応対しなければならない。時として、地元民、有力者、同僚などと好きでもないのに酒場に出なければならない、接待をしなければならないという場面も出てくる。そういう場合は辛抱して辛抱して笑顔で応対するようにせねばなるまい。普通なら、避けて通れるけれども、公務員はどんな人でも、たとえやくざ系の人でも我々は応対しなければならない。
人道と正義を通すと言っても現実は様々な障害があり汚れた場所があり、切っても切れぬ人のしがらみがある。その中にあっても尚、人道と正義を通すのである。現実の泥の中に入るのである。泥に染まり泥に溶けて自分を見失い、そうして、腐敗と利権と汚職にまみれてしまう。そうなってはならない。

人道とは何か、正義とは何か、人はどう生きるべきかは、自ら学問をする以外にない。学問だけが諸君を泥沼から救ってくれる。
行政の世界は学問の世界であり、一日たりとも読書して学習することを怠ってはならない。
私などは常に県立図書館か大学の図書館から本を借りている。本を借りることが絶えたことはない。世俗の垢や塵から身を守るのは本を読むに限る。
公務員は1週間に一度は図書館に入るべきだ。
酒やタバコを飲まず本屋に入って本を買うべきだ。
そして先哲の書物をひもとき心を洗い、初志を思い出し、それの実現のために邁進しなければならない。
破邪の剣を右手(めて)に持ち、弓手(ゆんで)に法典・書物をもって、正義と人道に邁進すべし。

 出典
 
 本だけはたくさん読んだと思われる人々が福田改造内閣を発足させた。今はどんな本を読んでいるのだろう。「正義」も「人道」も古くさいのか、この人達の言動を見る限り、縁がなさそうである。
 問題は我々である。我が身、わが子らにこの志があるか。



暑中お見舞い申し上げます。

2008-08-01 05:49:18 | 父・家族・自分
 8月になりましたが皆様には変わりなくお過ごしでしょうか。
 
 私は05年12月の左肺摘出以来元気に活動してきましたが、昨秋右肺への転移が確認され、この4月から癌研有明病院で抗ガン剤治療を受けてきました。治療は7月末に一段落し、現在は自宅療養中です。6月には薬効が確かめられており、おかげさまで元気に過ごしています。
 父の初盆ですが帰郷せず、しばらく体力の回復に努めさせていただきます。帰高は11月の一周忌の頃になる予定です。
 
 入院などのため5月の「きいちご移動教室」や先日の高橋祐貴恵さんの公演に出席できなかったのは誠に残念でした。しかし、皆さんにいただいたパワーに励まされ気落ちすることなく一日一日を生きることが出来ました。
 本当にありがとうございました。

 8月6日は例年どおり原爆の図・丸木美術館で過ごす予定です。長野・善光寺の僧・若麻績さんのお話「祈りの力」があります。北京オリンピックの聖火リレーに際し、チベットでの犠牲者の法要を行った僧たちのリーダーでもあります。時間が取れたら是非お出かけください。

 8月15日以降は昔の生徒夫婦の好意に甘えて伊豆大島で過ごす予定です。それまではたいていは川越です。抗ガン剤治療の副作用で現在はつるつるの坊主頭です。自ら望んだヘアースタイルではありませんが、自分ではけっこう気に入っています。
そんなぼくでよかったら遊びに来てくださいね。声をかけてくだされば出かけることもOKです。ひとりでも多くの知友に出会って日々を豊かにするのがぼくの願いです。

 今日は私たち夫婦が高知県室戸岬の王子宮で結婚式を挙げてから40年の記念日です。妻には世話になってばかりです。「きいちご」の発送が終わったら近くの「ふるさとの湯」に連れて行って貰います。

 暑い日が続くのではないかと思います。ご自愛専一にお過ごしください。
   
           2008・8・1  鈴木啓介