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『大学は出たけれど』(1929)
東京市内で初出勤の新卒の夫を
見送る田中絹代。昭和4年。
小津安二郎監督のサイレント映画。
昭和4年の作品だ。
当時、国際的な大不況であり、日本
では大卒就職率が30%に落ち込んで
いた。
今の大学ではない。
昭和初期の大学というものは、卒業
したら閣僚か官僚という時代。大学
進学率は1%ほどだった。
その大学を卒業しても就職先がない。
そして、100人いたら70人が就職先が
ない、というのが昭和4年頃の状況
だった。
さらに秋の米国の大不況の影響で
日本はますますどん底経済へと
落ち込んでいた。
この映画はそんな時代世相の新婚
家庭の日常を描いた物語だ。
無声映画。
上の画像はラストシーンの一つ前で
ようやく就職が決まった新卒の夫
が乗る電車を見送る新妻の田中絹代
だ。
ただ、残されたフィルムのラスト
では、夫が乗った電車を見送った
後に、橋の向こうに労働者が赤旗
を掲げて集会をやっていて、それ
に向かって田中絹代が駆け寄って
行くシーンで終わっている。
この年、1929年には日本共産党員
が治安維持法で4942人逮捕されて
いる。
これに先立つ1922年(大正11年)
には全日本学生社会科学連合会が
結成されていた。これは通称学連
と呼ばれるもので、大学、高校
(旧制高校で今の大学初年に相当)、
専門学校(戦後の専門学校とは
異なる)の学生が参加した。
戦後の全国学生自治会総連合=
全学連のようなものだが、戦後より
も政治色が強く、社会思想研究団体
の全国学生組織であり、ようするに
社会主義と共産主義を研究する組織
だった。
大正11年に前身組織の「学生連合」
の発会式は東京帝大で開催された。
発会式には東京帝大、早稲田大学
(2団体)、明治大学、日本大学、
女子医専、早稲田高校、一高、
三高、五高、七高、新潟高校が
参加した。
だが、日本共産党が一元化を図り、
学連を単なるサークル化させ、政治
闘争のヘゲモニーを日共が握ろうと
した。
1928年、日本共産党は、「学連は
本来研究団体であり、学生の政治
闘争機関ではない。学連が学生の
闘争を指導してきたのは誤りで、
共産党・日本共産青年同盟こそが
学生の闘争の指導機関である。
今後は、学校ごとに非合法グループ
を組織して、学連グループは赤色
支援会モップル・反帝同盟・無産者
新聞・ナップなど一般闘争団体と
して学内班に吸収し、研究団体と
しては読書会だけを残して、これを
強化していくべきである」という
声明を出した。
そして大衆組織である学連を解体し、
日本共産党の下部組織の日本共産
青年同盟に学生の運動を一元化
強制吸収しようとした。
戦前から大正デモクラシーとロシア
革命の影響を受けて、日本だけでなく
全世界の資本主義国において社会主義
と共産主義が「新たな未来」を作る
思想として広がっていた。アメリカ
合衆国にさえ共産党が存在し、労働
争議等を組織していた。
日本でも、大学をはじめ、高校等の
インテリゲンチャーの間で、搾取と
抑圧の時代を終わらせて新時代を
築こうとする思想的潮流が盛んに
なった。
戦後民主主義の時代よりも、むしろ
リアルで熾烈な社会運動が日本でも
展開されていた。
戦後の新左翼などは後に過激派と
呼ばれたが、思想的尖鋭性などは
戦前の学生運動のほうが鋭かった。
なにしろ、治安維持法があり、特高
がいる時代に共産主義的学生運動を
行なうのだ。戦後などとは気合の
入り方が違う。
戦前昭和初期当時の大学で配られ
ていたビラを史料で見ると、まるで
1960年代末期の新左翼のビラのよう
である。
だが、1928年に日本共産党は国内
の学生組織の大衆的大同団結性を
自派への一元化として組織せんと
し、学連を解体した。
日本共産党の体質は戦前も戦後も
全く変わっていない。
そして方針をころころ過激にした
り、民主的選挙政党であるかの
ようなカモフラージュをしたり、
かつての尖鋭的方針を堅持する
部分を粛正したり排除して帝国
主義の手先だとかスパイ呼ばわり
して排外する。それが日本共産党
だった。
そうした掌返しと情勢分析の出鱈目
さは戦前から一貫しており、敗戦
直後にはアメリカを「解放軍」と
規定した。
だが、レパが始まると一転して、
後の新左翼も真っ青の爆弾闘争と
山村工作隊や中核自衛隊(軍)の
建設を方針として出し、徹底した
火炎瓶闘争や警官射殺作戦等を計画
実行した。
しかし、党内部での勢力争いの末、
1955年にはまたもや方針を180度
転換して、過去の武装闘争の総括
も表明しないまま、今度は国会選挙
政党として「平和の使者」ぶる方向
に転じた。
そして、かつて日共が全党に指示
していた蜂起革命路線を堅持して
いた日本共産党東大細胞を「帝国
主義者のスパイ」として除名した。
除名された日共東大グループが
ふざけるな、寝言も大概にせいや
となって、世界初の共産党の影響
を一切受けない独立左翼である
共産主義者同盟を結成した。
頭文字を並べてドイツ語でBUND
(ブント)と呼んだ。
それが世界初の新左翼の誕生だった。
ブントは全国の学生の圧倒的支持
を得て、学生選挙で全学連の執行
部に着任、全学連主流派となった。
日共系学生は全学連反主流派を
形成して1960年の安保条約改定
反対闘争=60年安保に突入して
行った。
60年安保は国論を二分する闘争と
なり、学生だけでなく全国の労組
や教員や公務員や主婦までもが
安保改定により日本が再び国際
軍事関係の中で間接的戦争参加
国家になる事に反対した。
ある調査では国民の世論の7割が
安保条約改定延長に反対すると
いうデータも出ている。
国会周辺は連日100万人の国民が
押しかけて安保反対を叫んだ。
その中で東大ブントの全学連
女子大生だった樺美智子さんが
頭部を狙われて警察に殴り殺さ
れた。脳天を警棒でかち割られ
た直後に血だるまで倒れた樺さん
の写真が残されている。
映画『大学は出たけれど』で、最後の
シーンでなぜ新妻の田中絹代が、笑顔
で希望に満ちたような顔で昭和4年に
風にたなびく赤旗に駆け寄って行った
のか、その理由は不明だ。
「共青同」という旗のように見える。
だが、戦前も戦後も、日本の社会
主義革命を潰したのは時の国家権力
ではなく、日本共産党であった事
だけは確かだ。
日共は、ソ連という疑似社会主義
の大偽物のエセ共産主義国家の手先
でしかなかった。
嘘くさい声明や方針は今でも発信
し続けている。真面目くんぶって。
仮面の下の内実は人民を裏切る悪魔
であるのに。日本共産党が大切なの
は党だけだ。それは1968年東大闘争
の時に全学共闘会議(ノンセクトで
ある)の学生部隊に武装襲撃をした
事でも明白だ。あの時は新左翼が
体張って全共闘を守った。
三里塚闘争の時は、最初は積極的に
日共は支援闘争として参加していた
のに、警察機動隊に農民たちの
ジジババや子どもがリンチされて
いるのを遠巻きにしてギター弾いて
「ぼうりょくはんた~い」とか歌っ
てた。
その時、飛び出して身を挺して
被さるように盾となって農民たち
を守ったのは新左翼の全学連たち
だった。
その後日共は三里塚闘争を日共が
牛耳れないと分かったら「三里塚
闘争は農民のエゴ」「帝国主義者
のスパイがやっているエセ運動」
等のキャンペーンを張って農民たち
と全国の支援者百数十万人を悪者で
あると大宣伝し始めた。
そういう党なのだ。日共は。
また戦前の学生運動の歴史を見て
も明らかで、日共は党利党略の
ためだけを優先して人々を裏切り
続けている。
日本共産党と路線や情勢分析が
異なる政治勢力は全て「悪」と
見做して武装攻撃をする。それが
日本共産党の実体なのである。
普段は仮面を被ってニコニコ顔の
真面目くんぶって。
だが、党が革命をするのではない。
人民がやる。人民が望んでやる。
望んだらやる。
日共の政治洗脳指導などは日本の
人民は望んではいない。
日共、イラネ。
旧「新左翼」もイラネ。