渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

チャーハン

2021年12月06日 | open

 
どうしても仕事で外出すると、外食
になる。
そんな時、チャーハンが美味しい店
があると助かる。生き返る。
 
高校の時、夏に1ヶ月東京から広島
県の三原に滞在した事がある。
広島県の福山まで毎日塾に通って
いたのだが、昼食は近所の喫茶店
を使った。
その喫茶店で「ピラフ」と頼むと
全く通じない。
都内では喫茶店の定番はナポリタン
にピザトーストにピラフだった。
学校帰りに友人たちとは毎日のよう
に喫茶店に行っていた。
しかし、「ピラフ?はあ?」と福山
で言われた。
壁のメニューには「冷コ」と貼って
ある時代だ。
最初、それは何だろうと思っていた
がアイスコーヒーの事だった。
アイスコーヒーという単語は喫茶店
でも全く使われず、レイコだった。
そしてピラフは通じなかった。
どんなの?と訊かれたので、チャー
ハンみたいなのと言うと「ああ!
焼き飯ね」と。
他の店でも「焼き飯」呼称だった。
おー!言語文化が違う!と思った。
厳密にはピラフとチャーハンと焼き
飯は違うようにも思えたが、腹に
入ればいい。
 
ちなみに、私が広島県に東京から
移住した前世紀末には、「おしんこ」
という単語が全く広島県内では通じ
なかった。すべて「漬物」と呼ぶ。
今でこそ吉野家やすき屋が店を出し
ているので「おしんこ」は通じる。
しかし、ほんの20年ほど前には全く
通じない。居酒屋とかで。
コンビニはパン屋のヤマザキデイリ
ーストアがあるだけで、コンビニ
してのコンビニは一軒もない。
マックも一軒もない。
クリスマスのライトアップをしたの
はうちが三原市内では初めてだった。
そして、幼稚園の男子全員が自分の
事を「わし、わし」と言っていた。
「え?」と思ったが、それは地言葉
だ。東京での「おれ」と同じだ。
コンビニやファストフードは店舗
展開の進捗如何だが、言葉の違いは
確実にあった。
だが、インターネットが普及して
からは、一気に方言が消滅して来
ている。
冷コは今や死滅した。
ピラフもおしんこも通じるどころか
その単語が定番になっている。
そして、子どもたちの男の子は、
自分の事を「わし」とは言わなくな
った。
5才の時から知ってる子が高校生に
なった時に「わしって言わないの?」
と尋ねたら、「いや、さすがにそれ
はないです。おじいちゃんとかの
世代ではないから」と。
すでに「わし」は老人の言葉のよう
な感覚になっていたようだ。
こうした現象は全国で起きているの
ではなかろうか。
大阪人は今「さ」や「さぁ」を使う。
大阪の漫才師でも使う。
紳助世代では絶対に考えられない
事だ。
さんまとかは東京が長いので「さぁ」
を使う。しかし、人の事を「おまえ」
「おまえ」と連発する。
東京で「お前」などと言うと喧嘩が
始まる程にド失礼な言い回しなのだ
が、さんまは知らないのだろう。
西日本ではごく軽く「お前」を使う。
しかし、関東では「てめー」と言っ
ているに等しい。
 
言葉が完全に異なる場合には東と西
でも誤解は発生しないが、同じ音で
ニュアンスが異なる単語は要注意だ。
東京では「ちょいと」という軽い
ノリと意味
で「ちょっと」を多用
する。
キムタクの「ちょと待てよ」もそれ。
ちょっとは「少し」の意味ではない。
しかし、西日本で「ちょっと間違え
た」とか言うと怒られる事も多い。
「ちょっとじゃないじゃろが。大い
に間違いしとるじゃろが」という具
合で。
ちょっとが「僅か」という意味で
捉えられている。
無論、会話の中で「や、間違えた」
という時に「ちょっとした間違い」
という表現で「ちょっと」が使われ
る事は西日本では皆無だ。
「ちょっとやないやろ」となる。
東京で言うところの「ちょい上げ、
いやもうちょい下げ」とかの時に
は何と言うのだろう。クレーンとか
の作業の時とか。ちょい締め、とか
の時とか。
西日本のそのシーンでの地言葉の
使い回しはよく知らない。
それこそ、「もうちょっと」を
使うのかもしれない。まさに少し
という意味で。
 
そういうケースは、単語や音が東と
西で同じながらニュアンスや使用の
場面が異なるので、厳重に注意を
払わないとあらぬ誤解を招く。
岡山弁で「おえるもんか」という
表現を東京で口にしたら「負える
ものか」と捉えられる。
岡山弁でのそれは大阪弁での「あか
んて」の意味なのだが、東京で同じ
音だと極めてきつい切り捨て言葉の
ように思われてしまう。
 
こうした、同じ音韻で全く別な意味
やニュアンスの単語には注意だ。
「それ直して」とか西日本の感覚で
言うと、東日本では「え?どこが
壊れてるの?」となる。
「片付ける」が「直す」という単語
である事を東日本の人間は知らない。
 
やはり、標準語教育は小学校から
受けるのであるから、予め相手が
別地方の人と知るならば、日本人
は万人が標準語で話す事が望ましい
と思料する。
言葉は意思伝達のツールなのだから、
自分や自分たちだけの狭いエリアで
しか通じない言葉は使うべきではな
い。
東京にしても、正調江戸弁を使った
ら、それは標準語とは違うから、
地方の人や外国人には通じないよ(笑
「片付ける」は「かたす」だし、
やっぱりは「やっぱ」とか「やっぱ
し」だし。
東京周辺の「おっぺす」なんてのは
古語の「押し圧(へ)す」の訛りなの
だけど、東京では使わない。埼玉や
千葉の東京隣接地帯の言葉だ。
勿論、「おっぺす」は西日本では
サッパリ通じない。
準東京エリアの方言でさえ、方言
ゆえ東京では全く通じない事も
ある。
今でこそ横浜方言の「じゃん」は
全国区になったが、私が小学6年
の1972年の時に父の転勤により
横浜から埼玉県の大宮市に転校し
た時、大宮の人たちは「じゃん」
という言葉はまるで聞いた事が無
かったようだ。
そして、仲良くなったクラスの奴ら
は私をいじる時に「じゃん、じゃん、
じゃーん」とか言ってた(笑
「おんめー、じゃんじゃん言って
すかしてんじゃねーぞー」とも。
意味不明だった(笑
「すかす?おならでしゅかえ?」
と。
すかすとは、カッコつけるという
意味らしい。
大阪人が「さぁ」を使う事が皆無
であったように、埼玉県人も「じゃ
ん」は全く使っていなかった。
じゃん言葉を使うのは横浜や湘南
だけだった。
 
いやあ、言葉というのは難しい。
横浜から埼玉の大宮などは、広島市
内から岡山市内よりもずっと近い。
横浜から大宮は60km位だ。
60kmなんていったら、三原市から
西へ行くと広島市にも到達しない。
そんな近い距離でも、言葉と文化が
まるで違っていて、人々の感覚も
別物となる。
だが、人と人の意思疎通の要は言葉
だ。
標準語は極めて大切。
 

バレンティーノ・ロッシの私設コースでレース

2021年12月06日 | open






メーカーや所属関係なく多くのグラ
ンプリライダーがバレンティーノ・
ロッシの開催する私設レースに集ま
ってオフロードの大レース会をやる。
現役選手も多いが、同窓会みたいな
ものだろう。
なんだか、コンチネンタルサーカス
時代の雰囲気のようなものを感じる。
これができるのは、ロッシの人とな
りだろう。
なぜなら、オフタイムに私設レース
などで怪我をすると、下手すれば翌
のグランプリシーズンを棒に振る
らだ。
また、契約ライダーならば、チーム
から首を切られたり、スポンサー
から資金打ち切りの可能性もある。
世界トップのロードレースの選手た
ちが一個人の開催するレースに参加
するなどというのは、余程の事だ。
皆んなバレを慕っているのだろう。
ライバルだったロレンソなんて、誘
われた事が嬉しくて、オフの予定を
すっとばして駆けつけるというし。
やはり、バレンティーノは偉大だっ
た。







小説『ウインディー』

2021年12月06日 | open
小説『ウインディー』
 
映画『ウインディー』(1984)より
 
ヨーロッパのレースでのクラッ
シュ
でプライベートグランプリ
レーサー
のケイは鎖骨を骨折
した。
親友のプライベートライダー、
バー
ジニオは死亡した。
ケイは退院後も、トランスポ
ーター
の運転さえも痛みで
ままならない。


11才になる娘のアンナは、次の
イギリスグランプリには行かな
で欲しいと父に言う。


だが、ケイは行くのだと答える。


何のために走るのか、とアンナ
父親ケイに問う。


10年前、世界チャンピオン目前
大クラッシュして一度引退し
た過去
を持つ元チャンピオンの
ケイ。
彼はそうした過去の栄光
を再び追っ
ているのではなく、
なぜ走るのかを
とつとつと語り
出す。




それを聞いて、アンナは父に
抱き
つく。


映画では、原作三部作のうち
の第
一話のところまでで終わ
っている。
「ウインディー」の話だけで。
世界グランプリ復活後のGP初
勝利
のレースで小説第一話も
映画も終わ
る。
しかし、原作の小説ではケイ
はシ
リーズの最後に死んでし
まう。
それもレースではなく、移動
中の
交通事故で。
街道で前を走る丸太積載の大
型の
トラックから丸太が崩
れ落ちて、
ケイとメカニック
のサムが乗った
トランスポー
ターを直撃したのだ。
車は横転して損壊、外に投げ
出さ
れたサムはかろうじて助
かった。
しかし、車に残るケイを助け
出そ
うとした瞬間、移動用の
トランス
ポーターが爆発炎上
した。
車内で黒焦げになって死んで
行く
ケイ。
サムは泣き叫ぶが、何もする
事は
できなかった。
 
続編の小説のさらにスピンオ
フ的な
同作者のロードレース
小説『ラスト
ラップ』に、子
ども
から少女になった5年後
アンナがチラリと出て来
る。
その小説も『ウインディー』
と並ん
で傑作だ。
小説の原作版を読むたびに、
なんだ
かアンナは映画でのア
ンナ役のクリス
以外には想像
できなくなって来た。
それ程、アンナをクリス・ア
ディ
ソンは演じ切っていた。
名演。
 
 
イギリスに向かうヨーロッパ
の街道
で移動中、痛みで車を
止めたケイと
アンナの会話のシーンの音声。
映画「ウインディー」(1984)劇中歌
"Anna's Theme" / 井上鑑
 

終わりのない歌 惣領智子

2021年12月06日 | open

終わりのない歌 惣領智子

実力がありながら、1970年代中期
~1980年前後
あまり売れなかった
本物のシンガー。

なぜ売れなかったのか不思議。
この人はロックやポップスよりも

バラードをうたうとピカ一だった。
私は好きで彼女の曲はよく聴いて
いた。
この曲は1978年の大原麗子さん

主演のドラマ「愛がわたしを」の
主題歌としても採用されたので、
少しは古い年代の人は知っている
かも知れない。
映画『ウインディー』(1984)で
杉山鑑と惣領さんがデュエットで
主題曲をうたった時には「来た、
これ」
と深く感じ入った。
「うたうたい」の連中は惣領さん
のファンが多かった。
惣領さんが「うた」を「うたう」人
だったからだろう。






風の中の二人 〜映画『ウインディー』主題歌〜

2021年12月06日 | open

Akira Inoue & Tomoko Soryo 
- Two in the Wind -

 


映画『ウインディー』(1984)の
主題
歌。
作者の井上鑑本人が歌っている。
声は主演の渡辺裕之(ゆうき)に
そっく
りだ。
この作品、原作の泉優ニの小説
が飛
抜けて良い。
山手線の中で読んで泣いてし
まったと
いう学生時代の友人
が単行本をくれた。
これ読んでみよろよ、と。
こんな小説書く奴がいるんだ、
と。
元チャンピオンだったロード
レース
選手杉本ケイ。
彼は10年前のヨーロッパグラ
ンプリの
レースでの事故で半
身不随からようや
く動けるま
で回復していた。10年かか
った。
そして、事故前に生まれた娘
アンナが
離婚した妻とオラン
ダで暮らしていた。
10才になる娘アンナは夏休み
の間だけ
父親に会いに来るの
が楽しみだった。
父親ケイは定住していない。
グランプリにプライベーター
として復帰
するため、ヨーロ
ッパ各地を転戦する
暮らしを
再開させていたのだ。
『ウインディー』はレーシング
ライダー
杉本ケイと娘アンナ
の親子の物語だ。
まだ、世界グランプリがコン
チネンタル
サーカスと呼ばれ
た時代の物語。
世界グランプリは、まるでサ
ーカスの
一座の興行のように
各国各地を転戦す
る。
生活は、移動しながらのキャ
ンプだ。
世界グランプリの転戦もまさ
にその
生活様式であり、毎日
が旅だったし、
食事も炊事も
寝起きもテントや車中
でまか
なった。
人はいつしかその世界グラン
プリの
参加者たちのジプシー
のような生活
を「コンチネン
タルサーカス」と呼ぶ
ように
なった。
パドックでの煮炊きも許され
ており、
人々はレース期間中
はそこで生活し
た。サーキッ
トが選手村のようにな
っていた。
このコンチネンタルサーカス
は1985
年あたりまで続いた。
グランプリフル参戦を最後に
経験した
日本選手は片山敬済
氏だ。
福田照男さんもスポットなが
ら最後の
期間にコンチネンタ
ルサーカスを知っ
ている。
コンチネンタルサーカスと呼
ばれた
時代とそれ以降では、
世界グランプリ
はまるで空気
が異なる。
メーカーとチームを超えた
「和」が
コンチネンタルサー
カスにはあった。
これは、世界グランプリのコ
ンチネン
タルサーカスだけで
なく国内の全日本
選手権や
MCFAJのクラブマンレース
でも、サーキットのインサイ
ドには似
た雰囲気があった。
サーキットではレーシングラ
イダーも
メカニックもスタッ
フも、コースでは
対戦相手だ
ったが、コースからピット

パドックに戻ると、皆がとて
も仲が
良く、まるで家族親戚
のようだった。
助け合い、協力し合う。そこ
に打算は
無い。
それは、この曲で歌われてい
るようなインサイド ミーに
おいてもそれに全身で感応し
ていた。
人の夢と希望に満ちた空間だ
った。
あの空気がサーキットは最高
だった。
否、レースという過酷な勝負
の世界で
そうした人と人との
真実の和が存在
する真実の場
所がサーキットだった。
間違いなく、かけがえのない
事が存在
するかけがえのない
場所だった。
今は、その空間は、無い。