今、横浜市で一番人気の区は?
それは都筑区。
つづきくぅ〜?
何だそりゃ、そりは港北区だべ、
とか思うのはおいらみたいな
古い横浜人。
古い横浜人。
港北区から分離してすでに20年
以上が過ぎる。
それでも、実は、根っからの
ジモチーハマっ子からすると、
横浜は中区、磯子区、西区、
神奈川区、鶴見区、金沢区
以外はヨコハマではない、
てな意識は心の端っこに
少しあるらしい。
ジモチーハマっ子からすると、
横浜は中区、磯子区、西区、
神奈川区、鶴見区、金沢区
以外はヨコハマではない、
てな意識は心の端っこに
少しあるらしい。
磯子区、金沢区だけは横浜港
ではないが、これらの区は
全部海に面した場所。
ではないが、これらの区は
全部海に面した場所。
しかし、厳密に言うと、鶴見
区では「じゃん」というハマ
言葉の方言は一切使わない。
区では「じゃん」というハマ
言葉の方言は一切使わない。
元武蔵国橘樹(たちばな)郡で
あった現鶴見区、神奈川区、
都筑区、港北区、西区の
一部は歴史が古い。
あった現鶴見区、神奈川区、
都筑区、港北区、西区の
一部は歴史が古い。
横浜開港以降に外から港に
やって来て定着してハマ
言葉となった「じゃん」は
使わない。
やって来て定着してハマ
言葉となった「じゃん」は
使わない。
中区を中心に南西部は日常的
に人は「じゃん、じゃん」言う。
に人は「じゃん、じゃん」言う。
これは、横浜だけでなく、湘南
地区も使う。
地区も使う。
ちなみに横浜市は全域が「武蔵
国」です。埼玉県北部の群馬県
との県境までが武蔵国。武蔵国
一宮は埼玉県の大宮。国分寺
は現東京都の国分寺。
国」です。埼玉県北部の群馬県
との県境までが武蔵国。武蔵国
一宮は埼玉県の大宮。国分寺
は現東京都の国分寺。
神奈川県の藤沢市、鎌倉市は相
模国で別国となる。武蔵国は
やたらと広い。
模国で別国となる。武蔵国は
やたらと広い。
この「じゃん」は東海道を通っ
て静岡県の清水からやってきた。
て静岡県の清水からやってきた。
港がある横浜市中区には清水の
縁故者が古くから非常に多い。
港湾の歴史が背景にある。
縁故者が古くから非常に多い。
港湾の歴史が背景にある。
かくして、清水港の「じゃん」
は横浜のハマ言葉として定着
した。
は横浜のハマ言葉として定着
した。
今ではヨコハマが発祥のように
なっているが、元々は外からの
いわゆる外来語だ。
なっているが、元々は外からの
いわゆる外来語だ。
なぜ、横浜市北部にはじゃん
言葉が無いのか。
言葉が無いのか。
それは、港湾関係者は中区の
ハマより北には行かなかった
からだろう。港の仕事はハマ
で終わる。
ハマより北には行かなかった
からだろう。港の仕事はハマ
で終わる。
鶴見区の港が開設されたのは
ずっと後の近代工業化の時で、
土地の歴史は古代からと古く
江戸期には幕府直轄領であっ
たとはいえ、鶴見は東京の
資本によって京浜工業地帯
建設の時に拓かれた。
ずっと後の近代工業化の時で、
土地の歴史は古代からと古く
江戸期には幕府直轄領であっ
たとはいえ、鶴見は東京の
資本によって京浜工業地帯
建設の時に拓かれた。
幕末に横浜の地に港を幕末が
開き、黒船の外国が要求する
神奈川港を開放しなかったの
は、今では目と鼻の先の距離
だが、神奈川と横浜では「別
な場所」であったからだ。
開き、黒船の外国が要求する
神奈川港を開放しなかったの
は、今では目と鼻の先の距離
だが、神奈川と横浜では「別
な場所」であったからだ。
神奈川は元々港があり、そこ
の開港を外国は幕府に要求し
たが、幕府はへんぴな何も無
いただのド田舎の岬が横に突
き出した横浜という場所を
「横浜も神奈川にござる」と
アメリカ等に嘘説明して、江戸
から少しでも遠ざけようとした。
の開港を外国は幕府に要求し
たが、幕府はへんぴな何も無
いただのド田舎の岬が横に突
き出した横浜という場所を
「横浜も神奈川にござる」と
アメリカ等に嘘説明して、江戸
から少しでも遠ざけようとした。
そのため、それまでただの寒村
でしかなかった田舎の入江に
大型蒸気船が入れる港を作った。
でしかなかった田舎の入江に
大型蒸気船が入れる港を作った。
しかし、その場所は、国際港
となったために、埋立地も山
手も外国のような作りになった。
となったために、埋立地も山
手も外国のような作りになった。
日本各地からも人が集まったが、
港湾労働者は清水からの人たち
が大活躍した。
そして「じゃん」という威勢の
良い港言葉がやって来た。
が大活躍した。
そして「じゃん」という威勢の
良い港言葉がやって来た。
多分、清水の次郎長なども幕末
には地元でじゃん言葉を日常
的に使っていたのではなか
ろうか。
には地元でじゃん言葉を日常
的に使っていたのではなか
ろうか。
横浜は、現在の港の旧桟橋の
ある中区より北の神奈川区か
らさらに北は、「元々の横浜」
ではないのだ。地理的にも言
語文化的にも。
ある中区より北の神奈川区か
らさらに北は、「元々の横浜」
ではないのだ。地理的にも言
語文化的にも。
距離は近い。だが、幕末にあっ
ては「別な場所」「幕府が定め
た境界線のこちら(江戸警備圏
内)と向こう(外の土地)」として
認識されていたのである。
ては「別な場所」「幕府が定め
た境界線のこちら(江戸警備圏
内)と向こう(外の土地)」として
認識されていたのである。
鶴見区生まれ育ちの以前の職場
の後輩が私に言っていた。
の後輩が私に言っていた。
「横浜はジャンだと言われるけ
ど、鶴見では全く言わないです
よね?」と。
ど、鶴見では全く言わないです
よね?」と。
私はハマのジャン圏内育ちだっ
たが、鶴見区に転住した時、あ
れ?ジャンと言わない、と不思
議に思っていた。
たが、鶴見区に転住した時、あ
れ?ジャンと言わない、と不思
議に思っていた。
その後輩の言で確証を得たので、
歴史について調べてみると、横
浜市は中部南部と北部では文化
と施政の歴史が異なる事を知った。
歴史について調べてみると、横
浜市は中部南部と北部では文化
と施政の歴史が異なる事を知った。
中部から南西部にかけては、小
学校で横浜市歌など徹底したハマ
教育がなされているが、北部では
それほど「ヨコハマ」や「ハマっ
子」を自覚させる事にも力は入れ
られてもいなかったらしい。
学校で横浜市歌など徹底したハマ
教育がなされているが、北部では
それほど「ヨコハマ」や「ハマっ
子」を自覚させる事にも力は入れ
られてもいなかったらしい。
同じ横浜市でも歴史と文化の違
いだろう。
いだろう。
私が育った米軍基地のあるエリア
では、誰もがジャンジャン言っ
ていた。
では、誰もがジャンジャン言っ
ていた。
そして「横はいり」。横はいり
すんなよー、とか。
すんなよー、とか。
この「横はいり」というのが
ハマの方言だというのもずっと
後年に知った。
ハマの方言だというのもずっと
後年に知った。
ただ、「じゃん」が横浜の方言
であった事は1972年に埼玉県の
大宮市(現さいたま市)に引っ越し
て初めて知った。
であった事は1972年に埼玉県の
大宮市(現さいたま市)に引っ越し
て初めて知った。
結構カルチャーショックだった。
全く一切「じゃん言葉」が存在
していなかったのだ。
していなかったのだ。
「おめーおもしれぇ言葉使う
なぁ」とクラス仲間たちから
言われた。
なぁ」とクラス仲間たちから
言われた。
「だからおれが言ってんじゃん」
というようなのは自分の言葉と
して私たちハマの人間にとって
は日常的だったからだ。
して私たちハマの人間にとって
は日常的だったからだ。
私は生まれは東京目黒のサンマ
だが、言葉は完全にハマのトビ
ウオ(いねーよ、そんなの)になっ
ていたのだった。
だが、言葉は完全にハマのトビ
ウオ(いねーよ、そんなの)になっ
ていたのだった。
港ヨコハマは超近代都市になった
が、横浜市をあまり知らない方で
ノスタルジックな景観と空気に触
れてみたい方には、横浜市にはタ
イムカプセルのような場所がある
ので、ドライブやツーリングなど
でおすすめしたい。
そこは横浜の原風景のような空気
を今も残している。
それが横浜市金沢区の平潟湾だ。
八景島シーパラダイスのある所。
金沢港は漁港として今も活動し
ている。
このコースターは私は何度も
乗りましたが、乗り応えが
あります。堪能できる。
とても古いハマの雰囲気と、
新しい街が融合した場所。
漁港として現役で機能している。
横浜港周辺は明治以降にアジア
一の貿易港として発展し、世
界有数の近代都市となった。
しかし、横浜山下町から18
キロ程南に位置するここ金
沢の湾は、いにしえの神奈
川や開港直後の横浜がこん
キロ程南に位置するここ金
沢の湾は、いにしえの神奈
川や開港直後の横浜がこん
な感じだっただろうと思わ
せる雰囲気が今でもある。
せる雰囲気が今でもある。
何だかヨコハマの原風景の
ように思える。
私はここの海が好きだ。