約100年前の東京。
モガ、いわゆるモダンガールと
呼ばれたお洒落な若いお嬢さん
たち。
なんてのか、今見てもごくフツー
に今でも通用するかわいさだ。
生きていたら120歳くらいか(笑)。
これはたぶん銀座のビルだろう。
モガは、いわゆるお水系の夜の
人たちとは異なる、最先端の
ファッションモードに身を包む
お洒落な若者たちを呼んだ。
男性はモボ、モダンボーイだ。
紳士服であるスーツを着こなして
ジェントルマンの装いで銀座を
歩いた。
ビリヤードの良いところ。
それは完全に男女同権平等である
ところだ。
これは競技性において。
ビリヤードは女性を下に置かない。
老若男女関係なくできるし、知力
と技術がある者が勝つ。
性別も年齢も、もちろん出自など
も一切関係ない。
私は個人的な発想としては、本人
のどうしようもできない部分、
性別であるとか(最近は戸籍上
はなんとかなるようだ)、生まれ
た国や土地や、年齢等で人を別枠
に置く考え方が大嫌いだ。
また逆に、てめえの手柄でもない
のに、自分の生まれた国や場所や
性別等を「誇り」に思ったり自慢
げに思ったりする考えは大気圏外
に消えろ、という程に嫌いである。
そもそも自分でなんとかできない
どうしようもない部分を以てそれ
を自慢したり誇りに思ったり、人
を差別したり見下したり、妬んだり
嫉んだり、尊敬したり。
そういうのは人間として下の下の
ゲゲゲだと思っている。
ビリヤードは、唯一男女差年齢差
関係なく「真っ向真剣勝負」が
出来る球技かと思う。
体力をさほど必要としないからか
もしれない。
また、下肢障がいの場合も、車いす
での競技も可能だ。まだまだ撞球
施設で車いすで「健常」者=非障
がい者と一緒にプレーできる程
環境が整備されていないが。
ゆくゆくは、障がいの有無関係なく
対戦できるようなカードが組まれる
ことを望む。
ビリヤードにこそ、その未来の可
能性がある。
ジャンプショットなども、電動リフ
ト式の車いすが完備されれば、同軸
同列での対戦も可能だろう。
その時、本当の意味でのバリアフリー
になる。
そうした視点ゆえ、私は日本のビリ
ヤード協会がプロ試験において女子
に対してハンデを与えて合格点数
を大甘にしているのは、これはある
意味女性を格下に見た侮辱なのでは
と思っている。
大学受験の合格点に男女差はない。
また、公務員試験にもない。
ビリヤードのプロ試験にはある。
これ、絶対に女性を「弱い者」と
か、あるいは人数増やして客寄せ
パンダにしようとしているか、女性
を正当に扱っていない「男社会」の
視点での取り扱いですから。
でも、一向に改善の兆しはない。
日本の撞球界というのはあまり
見識においてよろしい面を見せて
はいないという現実がある。
旧態然というか、何というか。
ポケットの男子プロの合格点は
実技でボウラード3ゲーム合計が
630点だ。アマでもA級なら誰でも
受かる。1ゲーム平均210点以上だ。
女子プロの実技はボウラード3
ゲーム合計がなんと420点だ。
1ゲーム平均140点である。
こんな簡単なプロ試験、世の中の
プロスポーツにあるだろうか。
しかも男子との差圧倒的。
女性選手でも実力がある人は900点
満点を出すだろうが、1ゲーム140点
というのは、C級に毛の生えたよう
なレベルのプレーヤーだ。B級の
下のほう。
問題は二つあって、なぜそのように
低い点数で女性のみを簡易に合格さ
せようとするのか、というのが第一。
そして、男女差を設けてどうして
女性のみめちゃくちゃ低レベルに
設定するのか、その必要性とは、
という問題が第二。
私などは、協会のこれらの措置は、
ビリヤードという男女同権、平等に
同列で唯一戦えるスポーツの尊厳を
軽視する愚行であると考えている。
駆けっこや他の体力勝負の競技では
ないのだから、ビリヤードの試験は
実技においても学科と同じく同列の
合格基準にすべきである。
剣道などはそうした差別は無い。
男女混合の対戦で、男子のみ女子から
二本で勝ち、女子は一本のみ取れば
勝ち、などというふざけたルールは
無い。強い者が勝つ。それが勝負で
あり、スポーツの本当の神髄なので
はなかろうか。
ビリヤードは、球技では唯一男女差
なく真っ向勝負できる構造を有して
いるスポーツだ。
それを捻じ曲げて女性を格下に置く
措置はナンセンスだ。
実際の所、ビリヤードのアマがやる
公認実技検定などは男女差はない。
あれをプロ試験の実技に採用した
ほうが本当の男女平等、同権の具体
的な実行といえるのではなかろうか。
合格点数に男女で差を設けずにね。
凛とした表情の戦前の女性選手。
とてもカッコいい。
ここで「男勝り」とか「女丈夫」と
か「女だてらに」いう視点で見たら、
それは明らかに女性差別だ。
差別とは、社会構造の制度としての
差別と、人の意識の中での差別性と
の二つがある。
結局は、いずれも、人が人を虐げる
事を良しとする制度や発想、思想性
であり、差別こそ人の世から消滅す
べき事案だ。
だが、努力して技術と知力を磨いて
結果を出した者が上位に行く。
これは区別であり、差別ではない。
みんなでお手手繋いで駆けっこでは
同時にゴールが平等だ、などとする
日本共産党のようなのは、根本から
大きなとんでもない履き違えをして
いる。
(NHKアーカイブスから)
これは1968年の東京大学。
リンク先ページの動画から。
大学のノンセクト学生自主団体
であった全学共闘会議に対して
武装襲撃を繰り返す日本共産党
(画像左側)と全共闘を実力防
衛する新左翼超党派連合(右奥
側)のゲバルト。
日共側は全員民主青年同盟(民
青)であるが、地区ミンと呼ば
れた品川区京浜地帯の労働者が
主体で、ゲバルトでは情け容赦
なかった。
一方新左翼側は、この動画と画
像に見られるだけで社学同(共
産同ブント)、ML派、旧共産同
マル戦前衛派、フロント、革マ
ル派等が確認できる。ブント系
諸派は安田砦から、革マルは法
文館からの出撃だろう。
1970年2月1日時点で鹵獲された
新左翼のヘルメット。
右上のベ平連と中段左の共学同と
フロントの色は緑である。これは
画像の関係で黒に見えるが実際は
緑。嘘のようなホントの話、南
こうせつは70年代末期のギター
雑誌の応募懸賞品に明学時代の
ベ平連の緑のヘルメットを出し
ていた。やめれ馬鹿と思った。
1960年安保ブントの中心派だった
共産主義者同盟マルクス主義
戦線派は1967年のブント再建の
時にブントに再結集したが、60
年安保決戦時代と同じく関西派・
戦旗派との確執は解消せず、68
年3月にブントから分離脱退。
さらに同年中に共産同マル戦派
は前衛派と怒涛派に分離した。
前衛派のヘルメットは銀色で
前面に「安保共闘」。中段右
から二番目のヘルメット。73年
以降は前に「行動戦線」後ろに
「前衛」。前衛派は赤文字下地は
廃止で銀に黒字のみ。旧マル戦
怒涛派は赤ヘルに下外周ライン
入り。
下段右から二番目の反帝学評の
色はブルーである。日本社会党
社青同解放派。途中から新左翼に
なった。
日本社会党左派(向坂協会派)は
白ヘルメットに赤黒文字で「反
独占」と大書きしたヘルメット、
社会党に属した。
日本社会党社青同主体と変革派は
銀色で前面に「反戦」後ろに
「主変」。解放派同様途中から新
左翼になった。
既成左翼と新左翼の違いは、合法
的な政治政党であるか非合法公然
の政治結社であるかだけの違いだ。
結社の自由は憲法で保障されてい
るので、新左翼が党を作るのは違法
ではない。ただし、非合法非公然
の軍事組織は破防法に抵触するの
で完全に違法。軍事行動の行為も
存在も。破防法の組織適用は過去
にブント(共産同=社学同)に
適用された事例がある。連合赤軍
の銃撃戦でさえ、破防法適用とは
別枠として扱われた。
破防法は戦前の治安維持法そのもの
であるので、ブントこそが一番
国家にとって危険分子と国家が
判断したという歴史の一ページだ
ろう。
既成「左」翼の日本共産党は基本
が黄色ヘルであとは白や水色や
オレンジ等を適宜適当に使った。
文字は無し。
共産党はノンセクト学生や新左翼
への武装襲撃の時のみヘルメット
を被り、武器を所持して武装した。
新左翼、既成左翼含めて、一番
えげつない容赦ないゲバルトを
した組織が日本共産党だった。
樫のつるはしの柄の先端に長く
太い釘を何本も打ち付け貫いた
武器「民主化棒」を発明して
実行使用したのは日共だ。当然
それで殴られた人間は皮膚が裂け、
肉がえぐれ飛び、動脈を損傷し
たら死亡する。
だが、容赦なくそれを振るって
人を撲殺するように殴る。
新左翼はまだ鉄パイプなどは
使用しておらず、折れやすい
杉の角材か竹竿程度だった。
理由は対人ゲバルトを闘争の主軸
などにはおかなかったのが新左翼
だったからだ。対立党派を突っ
ついて場所取りで向こう行け、と
やるのが本来の角材の目的だった。
新左翼も馬鹿ではない。投石を
するように、有効性のある武器
を武器として使う気ならば使って
いた。だが、ずっと何年も一発で
折れる杉の角材を使っていた。
それはなぜか、なのだが、マス
コミなどはそこは言及しない。
新左翼のゲバルト(対人戦)が
殺人をも伴う武装対峙戦となった
のは、共産党との幾多のゲバルト
で新左翼は甘い情け心を出しすぎ
でボロボロに負け続けた事の反省
から、というのは確実にある。
日共はかつて山村工作隊や中核
自衛隊を組織し、火炎瓶闘争や
ゲリラ戦、銃による警察官殺害
等々を繰り返しており、日本に
おける本物の「テロリズム」を
実行していた組織だった。
有体にいえば「反ソ」を掲げる
新左翼とは全く異なり日共は中身
はソ連の手先の反米民族主義団体
なのだが。インターナショナルを
装う徹底したナショナリズム。
しかも、天皇制に対置するものと
しての独自のナショナリズム。
1960年代末期においても、1955年
で武装蜂起路線を放棄した後でも
自分たちと異なる主張の勢力に
対しては米帝のスパイだ敵だ過激
派だとでっちあげて社会キャンペ
ーンに力を注ぎ、一方では実力
暴力行使の武装襲撃を繰り返し
た。非暴力平和主義の使者面した
党の実体とはまさしくそれである。
いや、まじでそれ。
実際にそれをやって来たのだから。
日本共産党の根底に流れるその
体質は今も一切変わらない。
60年安保で樺美智子さんが死亡
した事について国交さえなかった
中国政府が見舞金を今日の金額
相当で一千万円送金したが、日本
共産党がすべて「これは中国共産
党が日本の前衛党に送ったものだ」
として懐に入れた。盗取ですね。
かなり各方面で叩かれて、しぶ
しぶ共産党が樺さんの国民葬に
際して出した見舞金は5万円だった。
与党の上を行く汚い政党が日本
共産党であり、これは日本共産党
の正しい歴史を正しい日本史と
共に学べばよく分かる。
人民を裏切り続けて来た党利党略
のその体質は遥か自民党でさえも
全く適わない。手練手管デマと捏造、
自己正当化の権化なのである。
結局は、ロシアがそうであるよう
に、ソ連型スターリニストという
のはそんなもんみたい。
こういう事は教科書には書いて
いない。
また、公共放送などでも、その
あたりの歴史的真実は語られない。
なぜならば、日本共産党は、今は
(今も。1955年から)一般合法
政党、暴力を排する平和主義の
政党であるかのような擬態を装っ
ているからだ。
本当の事を言ったらとてつもなく
叩かれる。
でも暴力を排するどころか拝して
るのは果たして誰なのか、という
のが真実のところある。
そして、「差別用語辞典」などと
いうろくでもない物を作って、差
別を更に助長させたのが日共だ。
特に部落差別についての日共の
態度はひどすぎるものがあるし、
ここらあたりはよくよく歴史を
正確に知ってほしいと願う。










日本語吹き替えが収録されてい
ることが多い。
き替えは、充分に「俳優」の技
量を発揮する職人技なので、メ
ディアにおける日本語吹き替え
版を映画愛好者、文芸、演劇愛
好者として存分に楽しんでい
る。
を堪能した上でだ。
のみが映画鑑賞の本道ではない。
私は、各国語の吹き替えは多い
に評価する。字幕もだ。正確に
訳している事限定だが。
日本人の声優の俳優としての演
技を観ることができる。
が可能だ。
るだろうかと思う。
き替えバージョンまで入ってい
るものもある。
は、6連発のコルトから10発連続
連射されるその一点のシーン以外
は実にリアルだ。
背景を鮮明に映し出す手法も素晴
らしい。
このトップ画像のシーンで、悪役
の町の権力者は、「マック・ラング
無駄だ」というセリフ、日本語吹き
替えの声優さんは、「お前のばやい」
と言ってる(笑)。
のか。
人の声優さんの演技に触れられるっ
てのは、文芸、演劇、映像を愛する
者にとっては、暁光である訳。
邦題『荒野の決闘』だ。
観るかのような、あの日本語吹き
替え俳優たちの素晴らしい声の演技。
洋画の楽しみ。
それはDVDやブルーレイで増幅させ
る事もできる。
映画は映画館が一番だが、別な付帯
要素としての楽しみがメディア円盤
には収められている。
家で観る映画もこれまた楽し。

















西部劇ファンの方は是非とも
ご覧いただきたい作品。
本当に絵の色が綺麗な映画です。
また、主人公ケビン・コスナー
の6連発から15発発射される
シーン以外は、かなり衣装や
風俗も時代考証がしっかりし
ています。
ただ、拳銃だけは、1882年の
舞台なのに1896年以降の拳銃
となっていますが、これはハリ
ウッド映画の定番なのでしかた
ありません。
1896年以降の無縁火薬と同タイプ
のコルトSAAのモデルガン
1871年に開発され、1872年に
米軍制式採用テストに合格し、
1873年から米軍制式化され、
1875年から一般販売された
黒色火薬タイプのコルトSAAの
モデルガン
ハリウッド映画では正確な時代
考証で銃を出すことは少ない。
だが、それは幕末の利刀源清麿
を赤穂浪士討ち入りに出すよう
なものなのだが、奈良時代の天平
時代の話に湾刀を出す程にひどい
ことではないので、大目にみて
ください的な程度の齟齬。
コルト・シングル・アクション・
アーミーのファーストジェネ
レーションのうち、初期型の
黒色火薬モデルと後期型の無
煙火薬モデルの見分け方は、
フレームサイドにシリンダー
ベースピンを固定するネジが
あるかないかが一番判りやす
い判別の仕方です。
他にも沢山あるのですが、
一番判りやすいのはそれ。
黒色火薬というのは爆竹の
火薬みたいなもので、火縄
銃の発射薬と同質の古式発射
薬です。
ところが、1890年代に、現代
に繋がる大発明がされました。
それが無煙火薬。
厳密には無煙ではないけどね(笑
発射により煙幕張ったような
煙は出なくなった。
兵器武器の類いだから、それ
の発達はどうかとも思うが、
世の中良い人だけならお巡り
さん拳銃持たない訳でして。
西部劇が面白いのは、アメリカ
の時代劇でもあるからだろうと
思います。
そして、西部劇には必ず、まず
必ずヒロインが出てくる(笑
人間ドラマなのよね、結局。
この映画、何度も観た。
色が凄く綺麗だ。
主人公コスナーのピースメー
カーから10数発連続して弾が
出るシーン以外は概ね銃撃
シーンはリアルだし、かなり
の佳作といえる。
舞台は1882年の西部で、レート
を現代換算すると1ドル8,000円
程が相場ではなかろうか。
本作は現実世界でよく起きた
牛を負う流れ者の漂泊のカウ
ボーイと定住牧場主との争い
を描いた西部劇で、野に生き
た男と「町の人たち」との確執
や軋轢を描いている。
これは現実のアメリカ合衆国
の歴史であり、多くの西部劇
で描かれた。
日本の場合、こうした時代の
移り変わりの中での人々の苦
渋が描かれた作品は極めて少
なく、辛うじて『北の零年』
が時代に翻弄される人々の姿
を描いている。
この『ワイルド・レンジ 最後
の銃撃』は原題が「オープン
レンジ」なのだが、この原題に
こそこの映画の核心があるのに、
くだらない陳腐な邦題にして
しまい、作品の表現性を台無し
にしてしまっている。
まるで『子連れ狼』を「Shogun
Assassin」とした海外映画の
ようにてんで分かってない。
それは、『マイダーリンクレ
メンタイン』という英語原題
を「荒野の決闘」だなどと残念
なお題にしてよしとする日本
映画界の安直さがある。
小説ならは、さしずめ何でも
かんでも「〜殺人事件」とす
れば売れ線に乗せられるだろ
うというチープな商業主義が
ある。
本作のこの画像のやり取りは、
私はとても好きだ。
キャンプ地から町に買い物に
出て暴行を受けた仲間を救う
為に町に乗り込む前に、コス
ナーは銃を点検する。
コスナーの銃は7.5インチの
1873年砲兵モデルの銃身を6
インチ程にカットしたモデル
だ。当然、フロントサイトは
無い。それは抜き撃ちにも適
している。ソードオフカスタム。
こういう仕様は西部劇によく
出て来る。要は「人殺しの銃」
なのだ。
『シェーン』においては、シェ
ーン(アラン・ラッド)が、
悪役の用心棒ジャック・パラ
ンスを指して「銃を二丁持つ
のは人殺しだ」と言う。
だが、自分自身が過去に影を
持つことを、語らないまでも
シェーンのフロントサイトが
無い銃によって表していた。
シェーンは自虐的に「自分も
同類なのだ」と無言のうちに
語っていたのだ。それがあの
映画のテーマ。
本作『ワイル・ドレンジ』では、
この町に乗り込む前のシーンで、
銃を媒介にして、老カウボーイ
が時代の移り変わりの象徴と
してコスナーに語るのである。
重い銃は古い銃の象徴であり、
軽い銃は新しい時代の象徴
なのだ。
古い時代にいろいろ心に傷を
負った主人公コスナーが新し
い時代には馴染めないまま心
に影を落としている。
しかし、ある医師の兄妹に出
会って、主人公コスナーの頑な
な自己否定の心はゆっくりと
溶けて行くのだった。新しい
時代にはきっと希望が待って
いる筈だ、と。
この映画は導入部分がかなり
長い作品だが、シリアスで、
とても良作と私には思える。
軽い銃が好きかって?
そうだ。俺もそうさ。ただし、
俺は新しい時代には馴染めない(笑
馴染むつもりもない。
フロントサイトなんて要らない。
なぜなら、誰も狙わないから。
なんてな。
この『ワイルドレンジ』の中で
無性に感じ入ったシーンがある。
銃撃戦の前に二人が交わす会話だ。
「この際だから本名を互いに言お
うではないか」というシーンだ。
戦闘が始まって死ねばもう会う
ことも話すこともできないからだ。
これはですね・・・ちと感じ入り
ました(苦笑
大いにあるよね、これは、と。
あるある、それ、と。
でもって、互いに生き残ったら
バツの悪いこと、悪いこと(笑)。
あと、映画的に最高だったシーン
がある。
敵側には殺し屋が雇われている。
それが絵に描いたようないけす
かない野郎なのだ。(名演。特
に日本語吹き替え版では日本の
声優さんの名演で、とんでもない
カス野郎ぶりが表現されていた)
双方が接近して対峙した時に
コスナーが訊く。コスナーた
ちが運んでいる牛を盗もうと
して町の牧場主が殺し屋を雇い、
牧童と愛犬が射殺され、16歳の
少年が撃たれて瀕死の重体だ
ったからだ。
「やったのはお前か?」と。
すると殺し屋ガンマンは答える。
「ああ、やったのは俺だ。
楽しかったぜい」と。
その直後、コスナーは表情一つ
変えない無言の抜き撃ちで至近
距離からその殺し屋の額のど真
ん中に一発.45口径をくらわして
瞬殺で即死させるのだ。
これは今までの西部劇に全く
無かったガンファイト(ファ
イトしていない。一方的に先
に撃って瞬殺している。これ
は銃撃ではなく射殺だ)描写で、
痛快の最絶頂だ。
他にも、女性を盾に銃を向ける
敵側にコスナーはスーッと近づ
き、女性の首を抱えて「下が
れ」と言う敵に躊躇なく2メー
トル程の距離から発砲している。
このあたりの「人殺し」ぶりが
くっそリアルであり、この映画
のテーマもよく表現している。
主人公コスナーは、軍隊での
殺戮によってPTSDに悩まされ
る日々を送っているのだが、
そのあたりも、西部劇ながら
現代劇としての社会問題性と
しても描かれているのがこの
『ワイルド・レンジ』の見所
でもある。
銃撃戦のさなかにボスである
老カウボーイはコスナーに言
う。「殺人者にはなるな」と。
ここらあたりは日本人には解か
りづらいが、アメリカの正義は
アメリカの文化の中での正義
なのだと痛感する。
だが、もう撃ち負けて無抵抗
になって怯える敵に銃を突き
つけた時にコスナーはボスか
らそれを言われたので、踏み
とどまった。
これもとても実感として感じ
入った。
彼は「殺人者」にはならなか
ったのだ。(実際には何人も
撃ち殺しているが)
こうした彼の思いとどまりの
心の在りかは、躊躇や逡巡で
はない。
ただ、今の現代社会では、
どんな理由であれ、人を殺し
てはいけない。
人を殺して勲章を貰うという
ことも現代においては世界中
であるが、日本の場合はそれ
をよしとはしない世界になった。
今の日本はダメダメなところが
多いのは確かだが、なんだかん
だで、良い国だと私は思う。
『ワイルド・レンジ』、おすすめ。

Cue lathe ビリヤードキュー製作
システム ML-1800
日本人が作ったビリヤードキュー
専用の旋盤。
これ、今のところ、性能と使い勝手
世界一なのでは。
ある製作者によると「キュー旋盤を
選ぶならばこれ一択」とまで言う。
お値段、新車900ccオートバイ程。
この業者さんに好感が持てるのは、
マイカルタをきちんと「マイカル
タ」と表記している事。日本のビ
リヤード界では大変珍しい。
日本のビリヤード界では、大抵は
「ミカルタ」という誤表現をする。
製作した機械の性能精度だけでな
く、この業者さんのきちんとした
正確さが出ている。
こちらはキュー製作旋盤ではなく
メンテナンス専用の旋盤。
ビリヤードキュー
メンテナンス旋盤 SL-1200
イエロー・マイカルタにもいろいろ
あるようだ。
どれも味わいがある。
一番下の物などは、なかなか上品な
色合いだ。
ところで MICARTA の事を日本の
ビリヤード界ではミカルタと呼ぶ。
英語でも米語でも発音はマイカルタ
だ。
日本のナイフ界ではマイカルタと
きちんと英語で呼んでいる。
なぜ日本撞球業界がミカルタと呼ぶ
のかは不明。
日本のビリヤード界はタップ、ネキ
スト、ホーティワンの世界だから
かも知れない。
まあ、米語の世界も似たり寄ったり
なんだけどね。
米国人はチャンピオンシップの事を
発音できなくてチャンピオンチップ
と言う。本人たちはシップと言って
いるつもりなのだそうだ。
なんというか、江戸者が日比谷公園
を言ってるつもりで渋谷公園になっ
ちまうようなものか。