

Efren Bata Reyes v Shane Van Boening
2017 Derby City Classic | 9 ball Pool
エフレンが12分56秒の時に見せる
キュー切れのショットは、これは
プレーには絶対必要。
理論的な理由はいろいろあるが、
最大の理由は分かりやすく言うと
ビリヤードは「玉転がし」では
ないからだ。撞く。当て止めのよう
に突っつくのではなく、撞き貫く。
どんなソフトなショットの時でも。
上下ヒネリの撞点、距離、押し引
きによるキューアングルの差異は
あれど、どんなに長距離であって
も短距離であろうとも、キューは
「撞く」のである。
当て止め転がし玉は手玉と先玉が
不安定すぎる事と、ストロークに
よる撞球者の技法の伝達が手玉に
ほぼ伝えられないので、それは
「撞球」ではない。
(1941年ブランズウィック社の広告。
タイトリスト1stエイジとキャロムの
世界チャンピオン、ウィリー・ホッペ
のツーピース新型キュー)
1900年代初頭。
米国ブランズウィック社は歴史的
なビリヤードキューを発明、登場
させた。
それは1850年代にビリヤードの
道具がメイスというゴルフクラブ
のような木製道具から柄の部分
だけが分離して「キュー」として
人気を博してからキューがビリヤ
ードの道具として一般化した頃の
物とは全く異なる新方式の構造だ
った。
様式は従来の通りワンピースの
キューだが、ハギという別な材木
を繋ぎ合わせて、カラフルなべニ
アも噛ませた構造だった。
それはモデルナンバーはブランズ
ウィック 26 1/2という製品だった。
とてつもない人気を博し、この
新方式は21世紀のこんにちまで
続くキューの作り方の一つの指針
となった。
1930年代、ブランズウィック社は
さらにラインナップを広げた。
構造は四半世紀前に発表したフル
スプライス本ハギだ。製品はチャ
レンジャー、トゥルーバランス、
キャロムキングと命名された。
廉価で提供されたため、これも
また爆発的に人気を得た。
当時はビリヤードメーカー以外
ではキューなどは作れなかった
ので、ブランズウィック製品の
独占状態が続いた。
その製品のうちキャロムキング
という製品は、従来の26 1/2を
そのまま改名させたものだった。
これらのキューはタイトリスト
という区分けの名称が冠された。
さらに26 1/2→キャロムキング
と1930年代後半に改名された
製品は1941年に劇的な進化改名
を遂げる。
それは「ウィリー・ホッペ・
タイトリスト」と改名された
2ピースのジョイントキューと
して登場した。大革命だ。
その製品は鮮やかな色のべニア、
四剣、フォアアームに焼き印
の署名入り、エンドにはブラ
ンドシールが貼られていた。
先角はバックホーンの角が使わ
れていた。本当に「先角」で
ある。象牙の牙(歯)ではない。
このウィリー・ホッペ・タイト
リストの2ピースキューの誕生
は、その後数十年間も全世界の
ビリヤードのキュー作りに測り
知れない影響を与えた。
ハーマン・ランボウはブランズ
ウィックから入手したブランク
を使ってキュー作りをした。
ジョージ・バラブシュカ、フラ
ンク・パラダイス、ユージン・
バルナー(パーマー)、ガス・
ザンボッティ・・・他にも多く
の個人ビルダーが登場し、ブラン
ズウィック社のキューをブランク
(材料ベース)として使用した。
ブラジリアン・ローズウッドを
使ったタイトリストの本ハギ。
左の個体の色が薄く見えるのは
クリア塗膜が剥げているためだ。
ブランズウィックのファクトリー
ブランクこそが、こんにちの全
世界のキュー作りのベースとな
ったという歴史がある。
そして1960年代からは個人ビルダー
が台頭する時代となった。
個人ビルダーとその製品を指す
言葉としては、当時はカスタム・
キューメーカーなどという言葉
もコンバージョンという単語も
存在しなかったが、やがては法
人化させたりして大きな企業化
を遂げたメーカーもいた。
それがスウェーデン出身の旋盤工
だったユージン・バルナーが立ち
上げたPalmerだった。
パーマーというブランド名は、
バルナー(バーナー)では無名
なので、当時絶大な人気だった
ゴルフ選手のアーノルド・パーマー
にあやかって名称を頂き流用し
たという逸話がある。
パーマーは、とんでもない量の
製品を作り出した。
年間本数14,400本。それを超廉価
で販売した。納期は別メーカーが
半年~10ヶ月程かかるところ、
納期3ヶ月で納めた。
結果、爆発的に売れて市場を独占
するようになった。
キューメーカーのマスプロ企業の
登場だった。
そして、パーマーが作ったキュー
はバラブシュカやランボーの
キューにそっくりなモデルも
「タイプ」としてラインナップ
して廉価に販売した。
まだ商標や著作権認識が薄かった
時代を背景にパーマーは量産を
続けた。
一時期のアメリカン・プール・
キューの普及品は、日本での
一時期(1986年代~1995年)
にはアダムのみしかほぼ見られ
なかったのと同じ状態になった。
パーマーこそがアメリカンキュー
を独占席巻したのだった。
日本ではアダムから三木が独立
してからは人気を二分するよう
になり、それが世界勢力地図
を後年形成するようになる。
パーマーの初期製品。
(1960年代のカタログナンバー2
のラインナップを当時を再現して
並べたもの)
A:パーマー・カスタム
B:パーマー・パーソナル・カスタム
C:パーマー,ランボー・スタイル
D:パーマー・オリジナル
E:パーマー・オリジナル
F:パーマー・オリジナル
G:パーマー・オリジナル
H:パーマー・リミテッド
I:パーマー・デラックス
J:パーマー・デラックス
K:パーマー・デラックス
L:パーマー・デラックス
M:パーマー・サプリーム
見てすぐにお分かりになるだ
ろうが、Cなどはモロに映画
『ハスラー』(1961)で使用
されたランボー製のキューに
そっくりだ。全く同じ作り。
また、少しキューに詳しい方
は、どれもがジョージ・バラブ
シュカと見分けがつかない程
に似ている事に気づくだろう。
DやGなどは初期バラブシュカ
だと言われても、専門の鑑定士
以外は判らないのではとさえ
思われる。
パーマーは一つの時代を確実に
創ったといえる。
だが、その大元のルーツは、
ブランズウィック社だ。
パーパーはブランズウィックの
ブランクを使っていたからだ。
後に生産がおいつかず、助っ人
でバートン・スペインが作り出
す大量の本ハギブランクを導入
したが。
ともかく、地球上のキャロム
キューとポケットビリヤード
キューはブランズウィック社
のメーカーキューこそが歴史を
創り出した。
なぜアメリカでキャロム?と
現代なら思うだろうが、ボーク
ラインや三つ玉の世界チャンピ
オンはずっとアメリカ人だった
のだ。
そもそもアメリカでは赤白玉で
穴に落とすビリヤードが英国か
ら北米大陸に伝わって、独自に
カラーボールに進化し、メイス
から柄の部分がキューとなった。
1860年の第一回全米ビリヤード
大会はまだ紅白ボールで穴に
落とす大会だったが、全てキュー
を使うルールではなく、メイス
の使用も許可されていたようで、
当時のその大会を報じる新聞
によると「キューの人気がメイス
を上回っている」と書かれている。
完全にキューのみでビリヤード
が行なわれるようになったのは
1870年代中期以降のようだ。
ピース・メーカーが西部を征服
した頃から。日本ならば明治初頭
の鹿鳴館時代。
そして自動車もオートバイも発明
されて20世紀の幕が開け、1900
年代初頭にブランズウィック社
がビッグホーンの角をフェルール
に使った本ハギキューを発明した。
プールキューの歴史はブランズ
ウィックと共にあり。
ブランズウィック製のプールボール
(3番)とベルギーのアラミス製
手玉(乳白色球)。
ブランズウィックが生産拠点を世界
展開させた以降の製品なので、どち
らも製造はアラミスだ。この3番は
ブランズウィック社のアラミスOEM
製品。テーブルは1980年代から台湾
で製造するようになった。
西部開拓時代などはサルーンのバー
のバーカウンターなどはブランズ
ウィック社の米国製品が市場を独占
するような状態だった。ビリヤード
用品製造メーカーは家具調度品メー
カーでもあり、これは日本の神田の
淡路亭などもそうだった。

1982年にボブ・ランデにより採用
されたRシリーズは1981年の1年間
だけ作られたSシリーズに代わる
シリーズとなった。
ロバート・ランデのショーン・ラ
インナップ・シーリズ第2ジェネレ
ーションの世代のモデルである。
アーリー・ランデ・ショーンから
は三代目。これがこんにちまでの
ショーン・キューのベースとなる
基本路線が確立したショーンの
骨子となった。
この電子制御マシンの導入による
新工法のRシリーズのデザインは、
その後のショーン・カスタムキュー
の基礎となったが、多くのメーカー
も剣先丸まりのキューの嚆矢であ
るショーン(ロバート・ランデ)
の工法を模倣した。
この画像の私のキューにも見ら
れるステッチリングのデザイン
は1985年までの標準であり、その
当時にはニッケルシルバーリング
はオプション扱いだった。
ニッケルの合金。現在の日本の
500円玉の素材)リングが標準と
なった。
この画像の個体に見られるような
それまでの標準ステッチリングは
特別注文により1985年以降もオー
ダーが可能だった。
メーカーが特注を受け付けていた
そんな時代。ニーズに応えた時代。
だが現在も、特別注文でショーン
はステッチリング仕様でのオーダー
を受け付けてくれているようだ。

ほぼ入手不能)の本黒檀に本象牙
のダイヤインレイ。ハギとスリーブ
はローズウッド系に属するチュー
リップウッドだ。ブラジリアン・
チューリップウッドは別名ピンク・
ウッドとも呼ばれる希少種だ。
硬いのだが割れやすく加工し難い。
注目すべきはダイヤインレイの
象牙の先が鋭利に尖っている事。
85年以降のショーンには見られ
ない。初期ランデの技法を垣間
見せている。
オリジナルシャフトは2本。
先角はマイカルタの物と本象牙。
切れ味を示す。
どちらのシャフトも特筆すべきは
音色で、両者ともに透き通る清々
しい高音を発する。

見事な飴色になっているマイカルタ。
1970年代末期のマーティンギター
のパーツにも採用されていた。
ミカルタと表記する日本語も散見
されるが、英語発音はマイカータ
が一番原音に近い。ミカルタという
のは英語スペルのローマ字読みの
日本語英語であり、英米人にそれを
言っても通じない。
だったのがこのショーン。
多くの玉筋を私に教えてくれた
キューだ。
このR-21は日本国内にはこの他に
は1本も入って来ていない。
この個体は1980年代前半にアメ
リカ本土から持ち帰ったキュー
である。
初期のショーン・カスタムキュー
の特徴として、カチンカチンに
硬いクリア塗装が挙げられる。
これはリペアの際に判明した。
キュー特性はスティッフだ。
その後のシリーズのショーンは
何故だか腰が弱い物が一般化し
たが、この80年代前期のショーン
はとても張りのある性質で、かつ
音がとても良い。頗る良い。
1980年代のショーンはカスタム
キューと呼べる物で、Rシリーズ
のミドルクラスからハイクラスは
日本国内では30万円以上の金額だ
った。1ドル250円の時代。この
schön とはドイツ語で美しいと
いう意味だ。
たしかに、名に恥じず、ショーン
のキューはどれもがとても美しい。
そして、私の個体だけでなく、
ショーンは奏でる音色が美しい。



最初はバイクに乗るのが下手だった


かなり面白い『少年メリケンサック』。











Vの岡田、演技ではとてもいい味
出してるのだが、射撃シーンでは
プッシュアウト側の肩が上がり過
ぎ。
研究してほしい。
堤さん。努力賞。
しかし、握り方。
研究してほしい。ジャムる握り。
真の役者はこの人。
真木よう子さん。アクション完璧。
そうした演技がまた「いい女」を
倍増させている。
素の状態でも決して飾らない、媚
びを売らない、流れに阿る事を拒否
する本物のいい女。
仲代大先生にゴルァかます程のいい
女。
プロップガンだが、発砲の時に
一切目をつぶらない。
クリント・イースドウッドが
学んでほしいポイント。
これが正しい。
プロップガンなのでここまで青白い
煙が出る。
現行の無煙発射薬ならば実銃はこう
はならない。
運動会のスターターピストルと同じ
「火薬」しか日本の映画界の撮影で
は許可されない。それを使っている。
そのため、どうしても、黒色火薬使用
の西部劇のようになってしまう。
わかりやすくいえば、爆竹の火薬と
同じものを使用している。
プロップガンは電着で、排莢カート
はCGの可能性もある。
女優「真木よう子」がいい。
真木よう子さんは清野菜名さんと
並んで歩き方と走り方がとても
綺麗な女優さん。だらしなく爪先
が外に向く歩き方、走り方はしな
い。
真木さんは陸上選手だったからか、
正しい身体用法を行使している。
人体の構造から、正しい歩行法
および走法では爪先は真っすぐに
前に向ける。
実銃でも発火火薬を使用したプロップ
ガンでもモデルガンでもエアソフト
ガンでも、射撃の瞬間に目を閉じる
のは✖だ。これは絶対的に✖。
拳銃でなく小銃でもそうである。
コツはある。どんなにリアサイトを
目の真ん前に近づけても、眼を瞑ら
ない方法がある。
それは、的を観るのである。
サイトに焦点は合わせない。
サイトこそ「遠山の目付」で観る
のである。焦点は着弾対象に合わ
せる。
どんなに眼球にリヤサイトが近く
ともそれ。
だが、それで実銃は中る。
拳銃だろうが小銃だろうが、実弾
射撃ではそれで中る。
(ライフル遠距離狙撃などは別な
重要ファクターあり)
俳優さんたちは「演技のプロ」で
あるので、現実の射撃態様について
よく研究してほしいと願う。
これは時代劇の刀法においても同。
映画『SP 革命篇』は日本の闇を
描いた「創作作品」。
しかし、限りなく現実に近いもの
を描いている。
ただし、国会制圧をしたテロリスト
SPと日本支配を狙う東大卒のおぼっ
ちゃま官僚たち(最後には黒幕の
「一部」によって仮の黒幕の若い
官僚グループは全員一気に爆殺さ
れる)が言う「革命」なのだが、
やってる事は全く政治学的には
「革命」ではない。
これは「クーデター」である。
そうした誤認はあるが、本作は
絵空事ではない日本の闇を克明
に描いている。
そして、ラストシーンの布石は
後半から散見されるが、まさに
この作品の行方、物語の真相
自体も「闇」として描かれている。
秀作。
続編は作られないが、多くの謎
を残したままの完結となっている。