渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

サウンド

2022年07月16日 | open




1941年から1960年の間に作られた
このキュー、家で撞いたらカンカン
音だったのに、グリーンテーブル上
で撞いたら驚いた。
キンキン音。
そして、ズレ極小。
シャフトもバットも曲がりゼロ。
恐るべし。大時代のメリケンテク
ノロジー。
爆撃機搭乗員が革のボンバージャ
ケット着ていた時代ね。

でね、入れがめちゃくちゃ強いの。
こういうのがゴロゴロと標準品で
あったのだろうなぁ。
恐れ入りやした。


蝉時雨

2022年07月16日 | open


桜山は蝉時雨。
中世に山名氏の城があった。
山頂には井戸遺跡や曲輪跡の土塁
が残っている。
まだ日本が「町」を作る前、武士
の城は山頂にあった。
「城下町」を作り、物流と経済街
区の都市計画を初めて成したのは
織田信長だ。
それまでは都以外に都市は存在し
なかった。
さらに平地に城を作り、町全体を
軍事都市とする事が安土桃山から
江戸初期に各地で実行された。
現在の主要県庁所在地がほぼ城下
町であるのはそのためだ。典型例
が東京都。東京は日本最大の城下
町だ。日本人の人口の1/10が東京
に住んでいる。

桜山はこのような登山道で登る。

600年前の建物は残ってはいない
が、山頂に建築物を建てるのは
大変だっただろう。
というか、井戸って何?
地下水脈の水を得る井戸ではない
井戸というのは。
山頂に水脈はないだろう。
かなり深い中世の穴が残っている。
溜め水用?


中世の城郭は砦のようなものなの
で、あちこちにある。
軍事作戦の際の戦略ベースとなる
軍事拠点なので、弾力的武装解除
の為には取り壊しが江戸幕府にと
っては必要だった。そのため、
「一国一城」の令を出して無数に
あった城を解体させた。
さらに城郭新築は基本的に禁止、
改修も厳格な審査をした。
勝手に瓦一枚替えてはならない。
どんなに災害被害が出てもだ。
それを無視して実利優先で城の
曲輪の壁を修復した福島正則な
どは改易された。
元デークの福島は「ざけんな、
バーカ」てなもんで武家もやめち
まった。ほぼでっち上げのような
幕府の言いがかりパワハラだった
からだろう。

備後三原において不思議に思う事
これあり。
それは、三原市民は三原城を築城
した毛利一門の小早川隆景を慕っ
ている事だ。
だが、実際に城郭完備完成させ、
町を完成させたのは築城の名人
福島正則だった。
だが、福島正則やその後紀州から
の転封で安芸と備後西部に入封し
明治まで治めた浅野氏には全く
恩顧も慕情も寄せていない。ゼロ。
ほんの短期間三原に在した西国に
押しやられた毛利一門の人物を慕
っているし、まるで「建国の父」
であるかのように崇め奉っている。

これは、私からすると非常に奇異
に見える。
武家政権の地方治世と現今の市民
との結節点が100%不在だからだ。
現在の広島県内の住民は浅野家の
家中で明治に東京に転住せずに
在地に本家を残したかそのまま
領地に住した士族と江戸期からの
領民、そして、明治以降に別場所
から転入してきた国民で人口が構
成されている。浅野家中+城下町
の町人+数百年以上住む農村部の
領民+外部流入者、である。
だが、現在まで続くその流れとは
一切関係ない毛利一門小早川の人
物を三原の人たちは慕う。
この精神背景は私には全く理解
できない。
小早川殿は貴方と一体何の関係、
縁故、利害関係があるのか?と。
福島殿、浅野殿の事はまる無視な
のだ。
なんとも、空想脳内ファンタジー
嗜好に思えてならない。現実的な
連綿性から完全に乖離している
らだ。

山名氏に至っては、それ以上に
「無縁」であるかのように扱われ
ている。いない人であるかのよう
に。
小早川殿が海上に築城以降誕生し
た戦国末期登場の新しい町とはい
え、現在の三原市民の血のルーツ
と、人と歴史の現実の繋がりを自
ら確認するその心の在りかはどこ
なのだ?
謎。解けない謎。