カリフォルニアの疾風のエディ
のキュー。
バンパーゴムが無いオールド
タイプ。ハーマン・ランボー
だろう。
ジョイントリングは黒樹脂のみ。
ハギは四剣だ。コンバージョン
モデルと思われる。
当時の「最先鋭のキュー」として
の演出が採られている。
この『ハスラー』(1961)では36時間
に及ぶ125点先取りのストレート
プールで勝負が行なわれた。
凄いのはファッツに挑んだ若き
凄腕のエディではない。
周囲で見守る連中全員が只者では
ない。
これはラストゲームのサイド前の
15番を入れて125点撞き切る前の
ショット。
左から点数カウントのおやじ。
店員のオービス(25年後にエディ
と偶然再会する)。
黒幕の暗黒街の胴元バート・ゴー
ドン。
バーボン飲み過ぎで酔って爆睡
のエディ・フェルソン。
15年間全米一の撞球師ミネソタ・
ファッツ。
エディのマネージャーのチャーリー。
このビリヤード場の常連ビッグ・
ジョン(原作ではこの店の店主に
挑んで負けてからこの店に居ついた)。
使い走りのプリーチャー。
表世界の世界チャンピオンのウィリー・
モスコー二、お疲れ気味(実名で登
場)。
エディ以外、全員が起きている
のだ。ウィリーは疲れた芝居を
しているが、他はシャキッとし
ている。
ただ一人、エディのみが酔い潰
れて爆睡し、眠っている間に
ファッツに撞き切られるのを
繰り返していた。
最高潮の時は18000ドル(現在
の日本円で7000万円近く)を
稼いでいたのに。
だが、ここで疑問が生じる。
エディがJ.T.S.ブラウンの平瓶
を何本も空けた形跡はない。
エディ、もしかして、ほんの
300mlほどストレートでウイス
キーを飲んだだけで酔い潰れる
程に酒が弱いのだろうか。
それともう一つ。
エディは負けてはいないのだ。
実は。
これは多くの人が気づいている
だろう。
エディが最後にぶっ倒れる前に
は200ドルを持っていた。
そして、敗北後に100ドルと車を
眠っているチャーリーに置いて
そっと失意のうちにホテルを出た。
だが、女子大生サラと同棲を始め
たエディを訪ねてチャーリーが
やって来る。
その時に、エディに詰問された
チャーリーは、最初の掛け金の
出資額1500ドルを確保していた
事を白状する。
勝負は1ゲーム200ドルから初めて、
途中でエディの誘いで1ゲーム
1000ドルに掛け金を上げた。
結果、18000ドルは途中までエディ
が勝っていた。
そして、最後は掛け金の1000ドル
もなく、ベロベロに酔ったエディの
手持ちの200ドルだけで、ファッツ
から「ゲームオーバーだ」と一蹴
される。
さて。
チャーリーが出資した元金の1500
ドルはエディが勝っている間に
チャーリーはしっかりとキープ
していた。
つまり、エディは一文も負けてい
ないのだ。
ファッツのほうはウィリーに掛け金
の取り分を預けていたが、それを
すべて最後は胴元のゴードンに渡
した。
だが、ファッツは自分が負けた分
をようやく取り戻しただけだった
のだ。
つまり、バクチとしては勝ち負け
無し。勝負はドローだったのだ。
だが、撞球勝負としては、エディ
は負けた。
スコアは掛け金に反映するので、
スコア上はエディは負けていない。
ファッツも勝ってもいない。
ドローだ。
しかし、撞球師の人間勝負として
は、非凡な撞球の腕を持つエディ
もファッツに完敗した。
掛け金でも撞球のスコアでも引き
分けであるのに、「勝負」は負け。
それは、エディが「ルーザー=
落伍者」であったからだ。
本作で重要なポイントである。
この映画、まるでファッツにエディ
が掛け金でもストレートプールの
スコアでも負けたように勘違いを
しがちだが、実は勝敗はドローなの
である。引き分けなのだ。
エディは別な勝負師としての人間
勝負に完敗したのだ。
これ、かなり大切なとこ。
そして、そこから「何に負けたのか」
「なぜ自分は落伍者、負け犬である
のか」というテーマに作品は入って
行く。
本作はとてもテーマが深い。
本作品は1961年度の歴史的傑作だが、
同年は化け物作品の『ウエストサイド
物語』が公開されてアカデミー賞
を軒並みさらった。
しかし、本作はアカデミー賞8部門に
ノミネートされた。
そして、撮影賞と美術賞を獲得した。
作品構成はまるで舞台劇のような
緻密に計算された人物配置とカメラ
ワークを見せている。
テーマは深く、エディ・フェルソン
という若き主人公の成長の試練を
描いている。
なお、ウィキペディアでは、ミネソタ・
ファッツのモデルを実在の賭博師の
ルドルフ・ワンデロンであるとする
記述が見られるが、これは誤りだ。
原作者本人が生涯それを否定して
いる。
ワンデロンはニューヨークの博打打ち
で、映画の大ヒット後に「あれは俺を
モデルにしたものだ」と勝手に宣伝
して興行をかまして金儲けしようと
動いた人間だ。
また、本作品のテクニカル・アドバ
イザーの世界チャンピオンのウィリー・
モスコー二に限りなく粘着して口汚く
全米で罵りまくって歩いた。
これは人権侵害であるとして裁判に
まで発展した。
だが、ワンデロンは聴くに堪えない
罵詈雑言と侮辱と誹謗中傷をやめ
ない。映画の知的な紳士のファッツ
とは大違いだ。
やがて、ウィリーとワンデロンの
対戦カードが組まれた。
ワンデロンは名前さえも「ミネソタ・
ファッツ」に変更して小銭稼ぎの
興行を手広くやっていた。
嘘を続けると大衆は本物と思い込む
というところに付け込んだ卑劣な
所業だ。
勝負の結果は、どの種目でもワンデ
ロンがモスコー二に完敗した。
だが、化けの皮が剥がれた以降も、
アメリカでも日本でも、ワンデロン
が映画『ハスラー』のファッツの
モデルであるかと誤認している人
が多くいる。
嘘は嘘。
原作者が死ぬまでずっと否定し続け
ていた事だ。
ミネソタ・ファッツとワンデロンの
共通項はただデブであるという点
だけだ。
モスコー二とワンデロンの試合は
動画サイトで無料で見る事ができ
る。
あまりのワンデロンの狂犬ぶり、
無礼千万の口汚いわめきちらしの
実態を見る事ができる。
観察していると、なるほどファッツ
のモデルではないと自ら暴露して
いるのがよく判る。
そして、モスコー二のインタビュー
も収録されているが、いかにワンデ
ロンの言辞が出鱈目の嘘八百である
かもウィリーは説明している。
ワンデロンにしたら、映画ヒットを
ヒントに一世一代のハッスルを
かませたつもりだったのだろう。
かなりそれは成功して、多くの人々
が今でも騙され続けている。
ゴト師、詐欺師であるハスラー・
ワンデロンの目論見は真実が見えな
い人たちには成功した。
名前まで変えちゃうというのは
すごいですね。
「俺が柳生新陰流の宗家の宮本武蔵
だ!」みたいなものなのだから。
だが、得てしていつの時代にも
その手の詐欺を詐欺と気づかず
騙される人たちは多い。
かご・・・いや、探偵K。
アードベッグというのは良い選択
だが、水割りとは何ともいただけ
ねぇ。
スモーキーでピートなこいつは、
ストレートでアイラモルトの甘美
な肉体を褒め称えてやるのが礼儀だ。
日本では残念ながら今月から名品
アン・オーは終売だ。アードベッグ
ファンのみならず、衝撃的な嘘みた
いな話。
こいつはちょっとした事件だぜ。
このヴィンテージ・キューの
リア部はブランズウィック・
タイトリストと同じだ。ストン
と木部ハギ円筒部の隅切り。
手ごろな19.2オンスまで2.6オンス
(73.7g)足りない。
全長は標準よりも1インチ短い57
インチだ。
仮にコンバージョンを作るとした
ら、バット延長と重量増しの観点
から、リア部はこのような構造に
なるだろう。
ただ、この70年前のキュー、驚く
事実がある。
それは、押し引きヒネリもよく
利くだけでなく、トビが非常に
少なく、見越しをさほど取らな
くとも使える事だ。まるでハイ
テクシャフトの動きのように。
バットもシャフトも曲がりは
一切無い。
生まれた時代の古さを抜きに
して、特筆点としては、現代
には存在しない特性のキュー
だという事が不思議だ。
なぜこういうキューが出来るの
だろう。
謎。
先角は象牙(もしくはビッグ
ホーン)の突き通し。長さは
21ミリ。直径11ミリ台。
ヴィンテージなので、このまま
で若干メンテリペアのみで保管
しようか、コンバージョン改造
をしてプレーキューに加えよう
か今でも揺れているのは、それ
はこのキューの撞球性能があま
りにも高いからだ。持ちキュー
のトップクラス。笑える程に良
いキューだ。
春前にリペアした60'sキューも
そうだったが、半世紀以上前の
キューが今でも頗る性能が良い。
今の製品よりも常態にあって
潜在性能自体が良い。
これは全く以て、どういう事なの
だろう。
この半世紀以上の「キューの進化」
とは、一体なんだったのだろう。
これは考えさせられる問題だ。
もしかすると、インレイやリング
等の外飾ばかりが発達して、見て
くれの見掛け倒しのみが豪華絢爛
に「進化」したのではないか。
それは、まるですぐに折れ欠け
する元禄期以降の使えない日本刀
の新刀のように。
キューは日本刀と同じく、先ず
性能ありきが本分だ。
大昔のキューの驚異的な性能に
触れてみて、深く考えさせられ
る。
ちなみに、エフレン・レイエスが
ここ5年程愛用しているキューが
ある。彼は実にこれまで多くの
キューを使ってきたが、5年以上
というのは特例的に長い。
そのキューは、こうしたフルスプ
ライスの本ハギのノーラップで、
バットエンドにホワイトエンド
キャップを着けた物だ。ジョイン
トカラーは樹脂。
ジョイントピンは不明だが、基本
的に、70~80年前のブランズウィ
ック・コンバージョンの構造形式
のキューを今愛用している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/b6/172e9ae080c98309ab5ca0d25ae18b80.jpg?1657506720)
エフレン自身のこのキューでの
シャフトニスの剥がし方はラン
ダムだ。
まるで日本刀の刃文のように
不規則に紙やすりで剥がして
いる。
私もこのニスの剥がし方が好き
で、1980年代中期から自分の
キューはすべて刀の乱れ刃文の
ようにランダムに波打つような
剥がしにしている。
テープを巻いて一直線に剥がす
のは不自然なソックスの日焼け
痕のようで、どうにも好きにな
れないからだ。
それに一直線はがしは、誰もが
同じ見た目になる。誰もが同じ。
それが何よりも好きではない。
雑なような剥がしの中に自然の
波の揺れの妙あり。海のさざ波
のように、同じ物が二つと無い
景色がそこにある。
それが自分の中では一つの表現
手段における美的要素と思えて
いる。
さざ波の陰影がまるで機械的で
画一だとしたら、そこに大自然
が織りなす地球の景色の息吹を
私は感じられない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/8a/7de2ec60a95b441daa5861ec6673b5ab.png)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/c1/d73ad64a1d3ce9486976b3ef0558ce37.jpg?1658200089)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/75/93d5c32b0ff59f508e3100e522ebc71e.jpg?1658195010)
うちの会のイタ車乗りの友人は
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/5f/2058e05a823dc7ad9867699c34607b11.jpg?1658195355)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/8a/7de2ec60a95b441daa5861ec6673b5ab.png)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/9a/7e50cdf0d2f82344a86258c0e5e55e58.jpg?1658189983)
日本刀武術の後輩の新車大型バイク
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/13/02747421f1d43763dd90e4cd9f2f1b95.jpg?1658189983)
富士山講の流れの神社なので江戸
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/a0/05eb69a328b76cd8decc41400c2dfd72.jpg?1658189983)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/7c/cb3c8c91dd0f8ab2ddb25a5faeddf628.jpg?1658189624)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/dd/29a36319f5d5c089aaf08e7cc9fe3f22.jpg?1658188458)
なんか猫語でシマ子が話しかけて
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/76/e3f74d603ff44c47a390dae66275412c.jpg?1658188458)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/e7/9068519a4903fe10bde2efdafa13ea5f.jpg?1658191058)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/80/75a5429614d959a820070330123b88fe.jpg?1658187261)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/06/6912176f1d0a821c47c8aa400c26fc52.jpg?1658187261)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/92/e3f427a77132106d01e9282275b4ed72.jpg?1658187261)
枯れ葉 / Autumn Leaves jazz piano
JAZZはブルーズと並んで悪魔の
音楽である。これは確かだ。
JAZZに魅入られると、取り憑か
れたように他は何も要らなくなる。
フライフィッシングが「悪魔の
釣り」といわれているのに等しい。
この子の弾くような音楽は、学校
では忌避されるのだろう。
先に紹介した小学生ギタリストも
音楽の授業ではJAZZが教科書に載
っているのに無視されたと語って
いた。
21世紀の現代でもそうだ。
さて昭和30年代生まれの私の時代
はどうだったか。
まず、ロックは「不良の音楽」と
いう事で、世の中では大人たちか
ら蛇蝎のように嫌われていた。
ロックをやるのは不良であり、非行
であり、聴く事さえも素行不良の
社会的脱落者のように言われた。
これ、ほんと。
だからなおさら若者たちは反抗心を
込めてロックに傾倒した。
だが、ビートルズがぬるい音階と
歌詞で「愛」を謳う事で一変した。
すでに私の時代、中学の音楽の教科書
にはビートルズの楽曲が載っていた。
「はあ?」である。
ほんの数年前まで、音楽の時間は
頭にカツラかぶった西洋のおっさん
たちがやっていたクラシックのみが
「音楽である」とした教育をしていた
のにだ。
中学の時に思った。
「はは~ん。戦中から戦後にかけて
教育の『掌返し』に言い知れない不
信感を生徒や学生たちが持ったと
いうのはこのパターンだな」と。
それでも私の中学時代はロックを聴い
たり演奏したり嗜好したりするのは
「不良たち」とされていた。
かなり様変わりするのは高校あたり
からだ。
そして、ロックどころかJAZZに至っ
ては「大人の裏社会の音楽」という
イメージを世間では鼓舞していた。
いや、これホント。
一例を実例で挙げよう。
町の喫茶店には1960年代~70年代
には「名曲喫茶」なるものが存在
した。
そこで流される音楽は何だ。
すべてクラシックである。
JAZZやロックはどんなに名曲であろう
とも「曲」とは認められていなかっ
た。
JAZZはジャズ喫茶でなければ聴けなか
った。場末のバーのような薄暗く、
煙草の煙が充満する喫茶店だ。
私は高1の15歳の時からよくJAZZ
喫茶に通ったが、一般喫茶店が今の
ファストフードのように思われてい
て中学生や高校生が普通に入店して
いた時代であっても、JAZZ喫茶に行く
のは「不良」しか行かなかったのだ。
これは1960年代末期からその後10年
以上も。(そのあたりの社会情勢を
映画『初恋』は忠実に描いている)
なので小学生がJAZZに親しむとかは
考えられなかったのだ。
酒と煙草と女と麻薬。それらが充満
する世界で流れているのがJAZZだっ
たからだ。これは現実的にも。
かといって、健康優良児のような
顔を上げると輝く清純な汗の光、
というような人々が馴染むのが
JAZZだとしたら、それはそれで
かなり気持ち悪い。
品行方正な真面目君やザーマスの
一族のような連中が親しむのが
JAZZだとしたらウルトラきもい。
彼らはやはりショパンあたりだろう。
今の嫌煙ファシズムの私設警察の
ような感覚の連中が好むのがJAZZ
だとしたら、それはもう度し難く
承服しかねる。
カレーは辛いから砂糖を入れましょ
う、ザーマスザーマス、みたいな
感じだからだ。
わさびは子どもによくないので
お握りのお寿司におわさびは全部
抜きにする条例を作りましょう、
みたいな連中。代々木に多いよう
な感覚の。
だが、小学生でJAZZ。
そういう時代になったのだなぁと
思う。
しかし、勘違いしないでほしい。
JAZZは黒人の歴史抜きにしては
存在しない。
そこには絶対に目を逸らせてはなら
ない人間の歴史がある。
JAZZをただ音の旋律が好きだからと
いって好みを持って行くのは、それ
は「きょうは寒いので毛皮を着て
いきましょう」とか平気で口にする
動物愛護団体の人間のようなもの
なのだ。
「きのうはお寿司だったからきょう
はフレンチにいたしましょう」と
いう感覚で音楽の中でのJAZZに
接近するのは、それは根本をないが
しろにしている。
創り出した人たちの負った歴史と
事実、そしてその中から出て来た
音の旋律に対する敬意が不在だから
だ。
私が小学生の頃、JAZZというのは
何なのですかと父に尋ねた。
かつてJAZZマンだった父は延々と
講義しはじめた。
「授業なげーよ」とは思ったが、
結論からいうと、父が言うには
「君が自分で判断できるように
なってから接近すべき音楽だと
思う」との事だった。「音だけを
追ってはいけない」と。
小学生に解るのだろうか、と思う。
社会的未成熟な年齢層に。
ただ、音やリズムが好きだから、
というだけではないのか。
だとしたら、いくら演奏が巧みでも
大きく道を踏み外す。
それは三ツ星レストランと同じ感覚
のクラシック界の連中の亜流でしか
なくなるからだ。
JAZZって、それじゃない。
心の叫びを伴わない指の動きが
上手いのは「お上手」というだけ
で、それは音楽ではないし、無論
JAZZでもない。