私が初めてオートバイに乗った
のは2才になる前だった。
1962年。
タンクの上に跨らされて、そこ
らを一周走って来た。
祖父の弟のヤマハのYDS-1だった。
自分の力で初めて動力付二輪車
を運転したのは1973年1月、12才
の時だった。
乗った車はスーパーカブだ。
最初一学年上の中1のイトコが
敷地内で乗っていたので、私も
乗らせてくれと乗ってみた。
2才前の記憶とこの12才の時の
記憶は今でも鮮明に映像と音
として記憶に残っている。
それほど強烈な出来事だった。
最初イトコがカブに乗っている
のを見つけた時、イトコはエン
ストしたのか、必死でキックを
何度かやっていた時だった。
父の実家の広島県の家に家族で
東京から正月に着いた夜だった。
私も乗らせてもらった。
親戚が集まっている時に叔父が
乗って来た業務用カブだった。
生まれて初めての自分で運転
する二輪。
ギヤについての説明をイトコ
から教わり乗った。
世界が変わった。
アクセルをひねるとどんどん
前に進む。
これは衝撃的だった。
翌日も乗った。
翌日も叔父の許可をもらって。
前日より速度を出してみた。
世界が広がった。
連日乗った。
その時から私は二輪に乗るよう
になった。河川敷のダートコー
スで。
中学の時には借り物のヤマハの
ミニトレGT50がメインだった。
いろんな乗り方を覚えた。
そして1976年に16才になり、
自動二輪免許を取って公道を
走り出した。
サンパチに乗っていたイトコ
がカワサキのMS90をくれた。
それが初めての私のオートバイ
となった。1975年式。
公道に走り出して、これまた
自分の人生の中で第三の衝撃
が走った。
「どこまでも行ける」
これだ。
中学生の時までは公道では自
転車に乗っての移動しか経験
が無い。
だが、運転免許を取得してから
16才が自分の運転で車両を運行
させる。
ガソリンとオイルさえあれば、
本当にどこまでも行けるのでは
と感じさせた。
公道と河川敷を走りまくった。
私が16才高1の時に両親は広島に
転住して私は一人東京に残って
高校に通っていた。もう、毎日
やりたい放題、この世の天国(笑
この河川敷の階段を土手上から
MSで走り下りたりもした。
階段を登るのは仮面ライダー
1号のようには上手く登れなか
った。
公道以外のダートでの練習を
除くと、高校時代はどんな二輪
でも私は一般公道では無転倒だ
った。サーキットでも。
公道ではいろいろな「試し」を
しなかったからだろうと思う。
無理も無茶もしなかった。
それでも、ステップガリガリ、
スタンドガリガリ、スラローム
も極限スラロームとかはやって
いた。峠では当時は国内では
レーシングライダーのごく一部
しか見ないハングフォームを
すでに使っていた。同級生では
私とその後国際A級になった
クラスメートの奴だけが、峠
ではハングフォームだった。
「ハングオン」などという言葉
さえ無かった時代。
だが、転ばなかった。
人生で初転倒を喫したのは1982
年に前年購入したヤマハRZ350
にてだった。旋回中にスロット
ルをやや開けすぎてリヤが滑っ
て転んだ。ハマの「への字」
看板のGベストを着てる奴と
一緒に走っていて、私鉄の高架
トンネルを抜けた左コーナーで
人生初公道コケを経験した。
かなりの距離を滑った。
その後、ガンマでもセカンド
バイクのARでも転びまくった。
全て左コーナー。サーキット
以外右で飛んだ事はない。
だが、バカなのか?という程
によく転んだ。バカだから、
公道での限界がよくわからず、
コースと同じような乗り方(走
らせ方の事。操作はサーキット
と同じ)をしたため、適合選択
ができていなかったので転倒し
ていたのだった。
買ったばかりのAR50で横浜から
広島県三原に一日以内で行った時
も、真夏の翌日に広島県三原の
峠で転んだ。
遅いVT250が峠にいたのでそれ
を下りでぶち抜いて6速全開で
左コーナーを旋回していたら
フロントから一気に転んだ。
崖下に落ちそうになったが、
ガードレールにバイクと自分が
挟まってかろうじて死ななかっ
た。
崖下は断崖絶壁の場所だ。助か
らなかっただろう。
対向車が来ていたら即死だった
だろう。
ただし、同じ転倒は繰り返して
いない。過去に二輪で転んだ時
は全部状況と挙動が異なる転倒
だった。
1985年9月以降現在まで、公道
では一度も転んでいない。
ある現象が分かっている。
それは「サスではなくタイヤ
頼りの走行状態になると転ぶ」
ということだ。
トラクションと接地感の問題。
これを適正把握して対処できれ
自分の人生の中で第三の衝撃
が走った。
「どこまでも行ける」
これだ。
中学生の時までは公道では自
転車に乗っての移動しか経験
が無い。
だが、運転免許を取得してから
16才が自分の運転で車両を運行
させる。
ガソリンとオイルさえあれば、
本当にどこまでも行けるのでは
と感じさせた。
公道と河川敷を走りまくった。
私が16才高1の時に両親は広島に
転住して私は一人東京に残って
高校に通っていた。もう、毎日
やりたい放題、この世の天国(笑
この河川敷の階段を土手上から
MSで走り下りたりもした。
階段を登るのは仮面ライダー
1号のようには上手く登れなか
った。
公道以外のダートでの練習を
除くと、高校時代はどんな二輪
でも私は一般公道では無転倒だ
った。サーキットでも。
公道ではいろいろな「試し」を
しなかったからだろうと思う。
無理も無茶もしなかった。
それでも、ステップガリガリ、
スタンドガリガリ、スラローム
も極限スラロームとかはやって
いた。峠では当時は国内では
レーシングライダーのごく一部
しか見ないハングフォームを
すでに使っていた。同級生では
私とその後国際A級になった
クラスメートの奴だけが、峠
ではハングフォームだった。
「ハングオン」などという言葉
さえ無かった時代。
だが、転ばなかった。
人生で初転倒を喫したのは1982
年に前年購入したヤマハRZ350
にてだった。旋回中にスロット
ルをやや開けすぎてリヤが滑っ
て転んだ。ハマの「への字」
看板のGベストを着てる奴と
一緒に走っていて、私鉄の高架
トンネルを抜けた左コーナーで
人生初公道コケを経験した。
かなりの距離を滑った。
その後、ガンマでもセカンド
バイクのARでも転びまくった。
全て左コーナー。サーキット
以外右で飛んだ事はない。
だが、バカなのか?という程
によく転んだ。バカだから、
公道での限界がよくわからず、
コースと同じような乗り方(走
らせ方の事。操作はサーキット
と同じ)をしたため、適合選択
ができていなかったので転倒し
ていたのだった。
買ったばかりのAR50で横浜から
広島県三原に一日以内で行った時
も、真夏の翌日に広島県三原の
峠で転んだ。
遅いVT250が峠にいたのでそれ
を下りでぶち抜いて6速全開で
左コーナーを旋回していたら
フロントから一気に転んだ。
崖下に落ちそうになったが、
ガードレールにバイクと自分が
挟まってかろうじて死ななかっ
た。
崖下は断崖絶壁の場所だ。助か
らなかっただろう。
対向車が来ていたら即死だった
だろう。
ただし、同じ転倒は繰り返して
いない。過去に二輪で転んだ時
は全部状況と挙動が異なる転倒
だった。
1985年9月以降現在まで、公道
では一度も転んでいない。
ある現象が分かっている。
それは「サスではなくタイヤ
頼りの走行状態になると転ぶ」
ということだ。
トラクションと接地感の問題。
これを適正把握して対処できれ
ば寝かそうが立てようが転ばな
い。
今では公道では前後輪滑らせて
旋回走行させるのはやめた。
なおさら転ぶ要素が捨象された
ことだろう。
さらに、今は峠などは自分の限
界の4割で走るようにしている。
仲間内と走る時も、限界の5割を
超えないように心がけている。
絶対に転ばないためだ。
コースなどは競技なので限界の
9割9分8厘で走るが、公道は
自分の限界の4割を超えず、残
りの60%を安全マージンに充て
るようにしている。
生まれて初めて自分で二輪を
運転してから50年以上が過ぎ
た。
今後も「もはやこれまで」と
いう時まで二輪には乗る。
それは2才になる前に始まった。
今年で64才になるが、二輪に
乗るのがひとつも苦痛ではない
どころか、今でも楽しすぎて
仕方ない。
だから今でも1日750km走行と
かもできるのだろう。
走りの相方の友人が、ロンツー
に二人で行った時、休憩でコー
ヒー飲みながらぼそりと呟いた。
普段仕事が激務であまり二輪で
遠乗りできない奴だ。
「一日中バイクに乗ってられる
なんて・・・こんなのは」と。
噛みしめるように至福の時を
味わっているようだった。
それなんだよな。
でも、この感覚は、バイクを所
有しているだけの人間には解ら
ないだろう。二輪に乗って走る
人でないと。
どこまでも。
い。
今では公道では前後輪滑らせて
旋回走行させるのはやめた。
なおさら転ぶ要素が捨象された
ことだろう。
さらに、今は峠などは自分の限
界の4割で走るようにしている。
仲間内と走る時も、限界の5割を
超えないように心がけている。
絶対に転ばないためだ。
コースなどは競技なので限界の
9割9分8厘で走るが、公道は
自分の限界の4割を超えず、残
りの60%を安全マージンに充て
るようにしている。
生まれて初めて自分で二輪を
運転してから50年以上が過ぎ
た。
今後も「もはやこれまで」と
いう時まで二輪には乗る。
それは2才になる前に始まった。
今年で64才になるが、二輪に
乗るのがひとつも苦痛ではない
どころか、今でも楽しすぎて
仕方ない。
だから今でも1日750km走行と
かもできるのだろう。
走りの相方の友人が、ロンツー
に二人で行った時、休憩でコー
ヒー飲みながらぼそりと呟いた。
普段仕事が激務であまり二輪で
遠乗りできない奴だ。
「一日中バイクに乗ってられる
なんて・・・こんなのは」と。
噛みしめるように至福の時を
味わっているようだった。
それなんだよな。
でも、この感覚は、バイクを所
有しているだけの人間には解ら
ないだろう。二輪に乗って走る
人でないと。
どこまでも。