稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

剣道形で注意すべき点・後半(3月15日の木曜会稽古)

2018年03月16日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)
今年10回目の木曜会稽古。
四條畷の市民活動センター体育館。

3月8日に続き、審査を意識した木刀稽古2回目。
木刀を忘れた人もいるかと思い大小3組持って行った。
持って行って良かった。


(いつも車に積んでいる木刀、右端は一刀流の小刀で、剣道形木刀と刃長はほぼ同じ)

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以下、全体を指導して師匠からの注意されたこと。

5歩下がる際の最後の足の引き付けを忘れない。

3本目、下段の位置が高い者が多い。膝頭から3~6センチ下。
ただし仕太刀は打太刀の高さに揃えること。
仕太刀の突き返しは胸部。
最後に止まってから顔の中心ではなく、最後の1歩で胸部から顔の中心に。

4本目の仕太刀の脇構は鍔が口元を通るように。
打太刀の八相は上段から八相になるように。
全体的に切り結びが高すぎる。剣先の高さは面の高さ。
脇構の剣先の高さは下段よりも少し低くするように。

5本目の打太刀は3歩目で左足をしっかり引き付けてから面を打つこと。

6本目の仕太刀は下段からの攻め上げから小手摺り上げ面まで気を繋ぐこと。

7本目の仕太刀が突きを受ける時は高過ぎないように支える。
突きの場合、打太刀も仕太刀も刃先の向きを間違えないように。3本目も。
仕太刀が胴を打ったあとの木刀は腕と並行で床と並行では無い。
つまり腕の延長線上に一直線になるように手を伸ばす。

最後の礼の場で。

「右足から」という記述は左足の引き付けを伴う。
「右足を」という記述は左足の引き付けは伴わない。
審査で上がらないようにするには呼吸法しかない。
発声は、小手↑、面↑と語尾を上げること。
技は振り返って構えるまでが技である。
相面、出小手、相小手面、返し胴、自分から仕掛けていくこと。

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形審査で審査員が見るポイント。

1本目:打太刀の足の出し方。(引くと×)
2本目:打太刀が小手を打った時の高さ。
3本目:足捌き。(前進後退の時の足の間違い)
4本目:仕太刀の脇構は右足を引く。(左足出して構えると×)
4本目:切り結んだ剣先の位置。(高過ぎる者が多い)
5本目:打太刀が仕太刀の頭まで届いて打っているか。(届かない者が多い)
6本目:仕太刀が下段に構える時に打太刀が剣先を下げないように。
6本目:足捌き。(仕太刀の足捌き全体)
7本目:足捌き。(打太刀の面、仕太刀の胴)

4本目で切り結びが合わない者が多いのは、
仕太刀が脇構から頭上を通って面を打つのに対し、
打太刀が八相の位置からそのまま面を打ってしまうから。
打太刀も左上段に振りかぶってから面を打つように。
合わさなければならないと思ったら余計に縮こまってしまう。

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以下、小太刀。

小太刀の右手の位置は、太刀の中段の構えの位置である。
左手はしっかり腰の位置。指を揃えて手首が曲がらないように。
構えた時は太刀と同じ長さになるように半身になる。
構えを解いた時の左手は体側。
2本目の半身の構えは若干体勢が低くなる。
3本目の半身下段は刃先は真下。

1本目:仕太刀が入身になろうとする所を正面に打ち下ろす。
1本目:仕太刀は小さく身捌きして摺り上げる。
2本目:仕太刀が入身になって制するところを打太刀は脇構にひらく。
3本目:打太刀は逃げようとして下がる。
3本目:打太刀が左足から戻るのは死に体にならないためである。

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以下、私見。

手元にある、全日本剣道連盟の「日本剣道形解説書」の
「解説書の出来るまで」のところには、
仕太刀が左足から下がる件について以下の記述がある。
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誤植かと思われるので「右足から」とすべきであるとの意見もあったが、
審議会の審議で原本どおりとなった。(昭和60年11月27日)
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私も最初は誤植と思っていた。

が、本来(というか元の原型)は一刀流の小太刀と同じで、
仕太刀は打太刀を間接技で完全に腕を制せられ、体勢も崩れてしまうのである。
体勢が崩れるのと痛みのため、不本意ながらも打太刀は数歩下がる。

仕太刀が押すから下がるのでも無く、
打太刀が逃げようとして下がるのでもなく、
崩れるので自然に下がってしまうのである。

つまり最後の残心部分は、
身も心(体勢も精神も)も完全に仕太刀が勝ちを取った状態なのだ。

これに対し2本目の勝ちはまだ「勝ちとして不充分な状態」であり、
仕太刀が気を抜けばいつでも打太刀は反撃出来る状態なのである。
だから仕太刀は警戒しながら下がる必要がある。

3本目は完全に勝っている状態だから、あえて警戒しながら下がる必要は無い。
仕太刀は堂々と左足から下がって元に戻るのである。

(この件は研究中につき見解が変わることもあります)
(小太刀3本目は研究のあと、また別の機会にまとめてみます)
(ご意見あれば遠慮なくご連絡ください)

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参考記事

小太刀3本目関連(2016年12月21日)より
剣道形小太刀(仕太刀の打太刀に対する腕の制し方)
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/e/6855c6c42bdf1c0c592757de30cf17e7


(最初は狭かったので2回に分けて稽古した)
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昨夜(3月14日)の稽古(長正館矢田中稽古)

2018年03月15日 | 剣道・剣術
昨夜の長正館の矢田中学校水曜稽古。
暖かくなった。館長用のちっちゃな電気ストーブは置いてきた。
本日は平野剣道協会さんがお客様。
19時から稽古されるというので早めに到着。
前半は平野剣道協会さんの基本稽古、
後半は懸かり稽古の元立ちから自由稽古へ。
総勢27名。

懸かり稽古は思ったより大変だった。
子供達の数が多く、1回20秒の懸かり稽古。
小さな子供もいるので屈んで受けることもある。
左右の捌きが多いのだが、20人以上も連続したので、
右の太ももがつってきた。準備運動不足もある。

平野剣道協会さんの剣士は勝負強い者が多い。
稽古自体は30分ぐらいしか無くもの足りなかった。
しかし汗だくになった。つった太ももなお痛い。


(前半は平野剣道協会さんの基本稽古)


(後半は自由稽古)


(弟子の打ちは、未熟ながらも攻め溜めが出来て真っ直ぐ打てる)


(平野剣道協会、角谷先生の挨拶)


(稽古が終わって集合写真)


(引率のお母さん達も入って集合写真)
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そうだ 元気ですよ と答えよう

2018年03月14日 | 詩や短歌など
一生懸命がんばってきたのに
自分の将来が何も見えなくなって
心細くてやりきれなくて
誰にも相談も出来ずに大泣きに崩れてしまった

風呂場でシャワーに打たれて号泣する
自分で自分の肩を両手で抱きしめて
おい お前は頑張ってるから 頑張っているんだからと
何度も何度も自分に言い聞かせたのだ

あれから20年以上も経って、
何とか元気に生きている
元気どころか申し分のない人生だと思っている

決してあきらめてはいけない

自分を責めるのではなく
たまには自分を慰めてあげて

もう駄目だとは思わず
もう少し頑張ってごらんと励ましてあげて

いまは立ち止まってもいい
充分休ませてからまた一歩踏み出そう

いつの日か「元気ですよ」って言えればそれで良い


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当時は今思い出しても人生で一番辛い時期でもあった。
会社での地位を剥奪され、給料は年々驚くほど下がり続け、
家のローンも子供の学費も支払いが困難になっていったのだ。
生活費を切り詰めてもまもなく限界が来るのが見えてきた。
仕事でも、何をしても責められ、表でも裏でも苛められたのだ。
人の卑しさ嫌らしさ、そして哀しささえも思い知らされた。

ひたすら稽古ばかりしていた。
陰口を言われるので稽古が終わってから職場に戻り仕事をした。
朝は誰よりも早く会社に行き会社の周りを掃き清めた。
誰も知らない、誰にも認めてもらえない自分だけの修行だ。
稽古の中でのみ生きていたと言って良い。
そんな時期が10年も続いたのだ。

当時、吉田拓郎の「元気です」という曲には泣けた。
昨夜も酒を飲みながら聴いていて涙が滲んできたほどだ。

吉田拓郎「元気です」歌詞(歌詞タイム)
http://j-lyric.net/artist/a001cc0/l006ca2.html



何度も聴いた。「元気ですよ」と呟いた。

剣道稽古によって人生は崩れなかった。
剣道のおかげで今の自分がある。


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神田広美(Hiromi Kanda)

2018年03月13日 | つれづれ
大学生の頃はラジオばかり聞いていた。
千葉の松戸の北小金の下宿屋の6畳間だった。
テレビなど贅沢な時代だったのだ。

ある夜、ラジオで、神田広美の「人見知り」という曲が流れた。

歌は下手なのだが声は透き通っている。
都会の中で恋愛経験の少ない女性が、
年上の彼からあっさりと別れをつげられるという切ないストーリーが、
歌唱力の未熟さと何故かぴったり合って、金も無いのにレコードを衝動買いした。

ジャケットの写真が、密かに憧れていた、
大学の正門前のパン屋の女の子に似ていたせいもあった。

神田広美・・・ふと思い出し、ウィキペディアで調べると、
「現在アメリカで活動している日本の歌手、作詞家」とある。

さっそくyoutubeで「Hiromi Kanda」の名で検索するといくつか出てくる。
ジャズに転向して、歌唱力も上がっていて見違えてしまった。

昔の片思いの女性が、遠くで元気で暮らしているのを見つけたような、
そんな気分になってyoutubeの彼女の歌を聴いていた次第。

うんそうだ。今夜はバーボンでも飲もう。


(哀しみ予報というレコードのジャケット)


(薔薇詩集というレコードのジャケット)


(ジャスジンガー、Hiromi Kanda、そっか、もう40年も経つんだ・・・)
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出稽古二部錬(3月11日)

2018年03月12日 | 剣道・剣術

(ダイキンの駐車場の車、かわいい!)

昨日は二部錬。
午前10時から12時までは摂津。
摂津市剣道協会主催ダイキン工業有心館合同稽古会。
八段の先生が6人、七段が17人、六段以下が50人、総勢73人。

最初は八段先生に掛かるので待ち時間があって楽チンである。
4月15日の全日本八段戦に出場する新屋誠先生に並んだ。
隣の佐藤誠先生の稽古ぶりと新屋誠先生の稽古ぶりを同時に見れる好位置だ。

さて佐藤誠先生の見事さの話である。
私が一目置いているT七段(八段挑戦者)に、最後の1本勝負、
蝕刃から交刃、少し間合いを詰めたと思ったら、すーと右足が出て、
いつも木曜会で教わっている基本技のごとくの面を見事に打ったこと。
姿勢気勢、間合いも絶妙だが、その後の、攻め、溜め、打ち、残心も完璧だった。
素晴らしい!あのような面を打ってみたいものだ!

自分の番が来て新屋先生に掛かる。
新屋先生は試合を意識されているのか荒々しくて怖いほど。
小手も面も何本も入れられてひたすら感謝感激な数分間だった。
新屋先生の気迫はすごい。エネルギーに満ち溢れている感じだ。


(総勢73人の大稽古会)


(新屋先生に掛かるT七段)

後半は元立ちに。
元立ちは苦しい。休めない。

そして最後は新屋誠八段と住野圭市八段との5分間の模範戦。
審判陣は岸本勝信、佐藤誠、田頭啓史のこれまた八段。
こんな豪華な試合を目の前で拝見できて本当に充実した稽古会だった。
新屋先生にはぜひ良い成績を取っていただきたいものだ。


(住野圭市八段と新屋誠八段、新屋先生の小手が決まる)


(住野先生の突きが決まったかのように見えたが不充分)


(その後も惜しい技が出たが、結果は新屋先生の1本勝ち)

終了後、急いで着替えて事務所に戻る途中で牛丼の昼食をとる。
歯が痛くてあまり噛めない。ほとんど飲み込んでいたという感じ。
新しい稽古着と防具を詰めて痛み止めのバファリン飲んで自転車で石切の剣道場まで。
自転車だったのは駐車場が満杯かな?と思ってだったがこれは杞憂だった。


(あまりに歯が痛いので取り合えずバファリンで誤魔化す)

こちらは七段受審の立ち合いに4回出場した。
そのあと地稽古。16時半まで。

最後はもうフラフラで、帰りに自転車に乗ったら転けそうになってしまった。
しかしそれなりに大変勉強になった稽古会である。


(六段受審、七段受審者の立ち合いを複数回行う)


(岸本八段による指導、呼吸を読む大切さを色々な事例で教えていただいた)
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週末の稽古(3月10日)

2018年03月11日 | 剣道・剣術
歯が痛い。歯が疼く(うずく)。
しかし稽古の虫のほうがより強く疼いた。

午前中は師匠の武道具店に寄る。
最近、竹刀の消耗が激しいため竹だけ4本を購入。

七段をいただいてから良い竹刀を使っている。
良い竹刀のほうが調子が良いのは事実だ。

買うのは数分。そのあと1時間ほど色々なお話を聞けた。
内緒の話もあるのでここには書かない。(笑)


(最近はこの竹刀を使うことが多い、刀魂別作)


(刀魂別作は39の八角小判型、これで竹刀の握りの矯正が出来、5-6年前とは構えが変わった)

夕方から一刀流の稽古。
石清水八幡宮の演武(4月15日)の稽古。
大太刀50本の後半でお相手はY君。
彼はベテランなので2回演じたが大丈夫。

夜は宝剣会で稽古。
4人なので稽古中の写真は無し。
面を打たれると歯が痛む。上の奥歯なので頭蓋骨全部が痛い。


(東住吉区、中野中学校の格技場で小野派一刀流の稽古)


(生駒市武道場の宝剣会、石丸師範は強くて歯が立たない)


(全員で4人、素振り、基本打ち、地稽古で約45分ほど、形稽古があると1時間を越える)
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歯の痛み・・・今朝の猫(3月10日)

2018年03月10日 | つれづれ
昨年の秋に歯医者の定期健診で、
「右ばかりで噛んでますね、左でも噛むようにしてください」と言われた。
何でも噛まないので左のアゴ骨が減りつつあるという。

そんなわけで左でばかり噛んでいたら、
3月初めから左の奥歯の上が痛くなってきたのだ。

痛いのは鍛え方が足りないのかと思って、
ますます左で噛んでいたら、ますます痛み出した。

歯医者に行って診察を受けたら「痛い時は噛まないように」と呆れられた。
歯は鍛えることは出来ないらしい。

何でも、歯ぎしりやスポーツで強く噛みしめると、
歯と骨の間の緩衝部分が潰れて痛みが出るんだとか。

睡眠時用のマウスピースを作ってもらうことになって、
それが出来上がるのが次の火曜日(13日)である。

しかし、急に2日前から食べ物が沁みるようになってしまった。
冷たいものではない。熱いもの、いや、温かいものでも沁みるのだ。
ラーメンや味噌汁が痛い。涙が出るほど痛い。
もしや歯に亀裂でも走ったのかと危惧している。

歯が痛いのはことのほか辛いもので、まったくやる気や元気が出てこない。

そんなわけで昨夜の稽古も休んでしまったし、
今から行けば間に合う稽古もサボろうか・・と思っている。

そんなわけで猫の写真。
たまたま膝に乗ってきた猫のみーちゃんを、
たまたまテーブルの上にあったカメラで撮影。


(SONY NEX-C3、f2.8、1/125秒、ISO-1600、35mm焦点距離24mm)


(SONY NEX-C3、f2.8、1/125秒、ISO-1600、35mm焦点距離24mm)
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昨夜(3月8日)の稽古(木曜会)

2018年03月09日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)
今年9回目の木曜会稽古。
雨。四條畷の市民活動センター体育館。
20時から21時過ぎまで。

師匠のお話から、左座右起(さざうき)の作法について訂正する次第。
勘違いしていたが、3月2日に書いた起居(ききょ)は跪居(ききょ)の間違いである。
つまり、跪居(ききょ)=跪座(きざ)なのである。音が同じなので間違えた。
跪居も跪座も、両膝をつき、つま先を立てて、かかとの上に尻をおく姿勢を言う。

座る際は、左右と膝を付き、跪座(立てた踵の上にいったんお尻を乗せる)から座るが原則。
立つ際も、跪座(立てた踵の上にいったんお尻を乗せる)から右左と立つのが原則。
子供は長時間の正座で足が痺れていることがあるので跪座を推奨。
ただし、レベルに応じて跪座は省略しても良いとのこと。

さて稽古。すぐに面を着ける。

大きなゆっくりとした切り返し。呼吸法の切り返し。
1拍子の正面打ち。相手に脇を見せない正面打ち。
手と足が同時が基本だが、レベルが上がれば足が先行して打つように。
右足をしっかり出して正面打ち。

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4人組での交互打ち。
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③①→②④  ①が打って②が受けて、②は③の後ろへ
②③←①④  ①が打って③が受けて、③は④の後ろへ
②①→④③  ①が打って④が受けて、④は②の後ろへ
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④②→③①  ②が打って③が受けて、③は④の後ろへ
③④←②①  ②が打って④が受けて、④は①の後ろへ
③②→①④  ②が打って①が受けて、①は③の後ろへ
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①③→④②  ③が打って④が受けて、④は①の後ろへ
④①←③②  ③が打って①が受けて、①は②の後ろへ
④③→②①  ③が打って②が受けて、②は④の後ろへ
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②④→①③  ④が打って①が受けて、①は②の後ろへ
①②←④③  ④が打って②が受けて、②は④の後ろへ
①④→③②  ④が打って③が受けて、③は①の後ろへ

この練習方法は部活など見ることはあるが初めての体験である。
打たれる方が止まっている正面打ちだと移動がスムーズに出来ず難しい。
相面だと移動はスムーズになるが、頭が混乱してごちゃごちゃになる。
途中で4人では無く5人でやったがますます混乱した。
打ちを意識すると順番が狂い、順番を意識すると打ちがいい加減になる。
やり慣れていないせいもあるが難しいものだ。

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遠間でしっかり声を出し、蝕刃、打ち間まで入って丁寧に打つ正面打ち。

間境(まざかい)の説明。
一足一刀の間でお互いがいつでも打てる(打たれる)その境目(さかい目)。
間境で形(自分の構えと心)が崩れないことが大切。
その間境のところからすぐ打たないで我慢する打ちが大切。
間境でもう一つ攻めてみる(膝を出すなど)打ちなど身につけたい。

相面勝負での交互打ち。
小手に対する応じ技(表摺り上げ面、裏摺り上げ面、相小手面)。

1分半の回り稽古を5回。
稽古になると気をつけていてもクセが出る。
師匠から指摘。

1)稽古(地稽古、立ち合い稽古)の時に基本稽古が出来なければ駄目。
2)上位の者が崩れて打っては駄目、究極の基本打ちを目指せ。

最後に大きく伸びやかな切り返しをして終了。

剣道は「気」。姿勢気勢が大事。調子の悪い時は無理をしない。
大きな声、遠間蝕刃の間を大切に。交刃、一足一刀の間、そこから攻め溜め。
調子が悪い時は稽古を休んで見学しても良いし、家でのんびりするも良し。
調子が悪い時は休むことも稽古のうちと思って良い。
ともかく稽古は元気が大事。





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千葉、宏道会の小野派一刀流

2018年03月08日 | 剣道・剣術
昨夜7日は学校行事の関係で稽古も無いので、
仕事が終ったあと、保存していた動画や写真を見てあれこれ思い出していた。

2008年の秋口に千葉の市川から宏道会の佐瀬霞山氏と岡根谷無刀氏が見えられた。
ついこの間、だと思っていたが、もう10年も前のことである。

宏道会は小川忠太郎先生(範士九段)が最高師範だった道場で、
言わば長正館とは親戚筋になる小野派一刀流の道場である。

宏道会の佐瀬霞山氏と岡根谷無刀氏の演武は、
大太刀60本、小太刀、合小太刀、刃引き、払捨刀、高上極意五点で、
これを残暑で蒸し暑い長正館で、休み無く連続して行う過酷なものであった。
両氏の演武には、自分達の一刀流には無い力強さ、真剣味が溢れ、
その後の自分の修業の指標に少なからず影響を受けた次第だ。

動画はいま見ても面白い。
長正館の一刀流は静かで滑らかで美しいが、
個人的には宏道会のような荒々しさが好きである。

さて、関連したちょっとした思い出である。
当日、両氏は予定時間より少し早く来られた。
まだ何の準備もしていないので、あわてて掃除をし始めた。
その時、岡根谷氏が「長正館では上の者が掃除するんですねえ」と言われた。

考えてみたら、いつも稽古の数時間前に我々指導者が来て、
早く来た者が、自主的に掃除をして、順次稽古をしていた時代だ。

だから一般の練習生が来る頃には、
掃除も、ひと通りの稽古も終わっていたわけで、
新人や一般の練習生は掃除をする必要が無かったのである。
いや、掃除をするという意識すら無くなっていたのだ。

指摘され、これを機会にルールを作り、
掃除は稽古の直前に、一般練習生がするようになった。
そして指導者は自分のレベルアップのみ専念出来るようになったのである。
なんだか小さなことでもあるが、これも影響を受けた一例である。

当時の稽古は朝の7時15分から始まる。
指導者は朝の4時や5時に来て稽古をしていたわけだ。
指導者が誰より早く道場に来て、掃除をして、稽古をしていた時代。
苦にもならなかったし今に無い充実感があった時代だ。

率先して掃除する。率先して稽古をする。
先に先に行動するという姿勢は大事にしたい。
稽古の中身だけが修業では無いと思う。


(宏道会の佐瀬霞山氏と岡根谷無刀氏の演武、動画のキャプチャーより)

以下は保存した画像の中から・・・


(懐かしの画像、長正館の玄関を入ったすぐ)


(懐かしの画像、奥の階段前の洗面所)


(懐かしの画像、通りから見た練習生募集の看板)


(笹森順三「循環無端」の額)


(笹森順三「一刀円相」の額)


(笹森建美「回炎剣」の額)


(懐かしの画像、長正館の表玄関)


(懐かしの画像、表から見た練習生募集の看板)
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No.6(昭和59年9月14日)

2018年03月07日 | 長井長正範士の遺文
○剣道は心身の鍛錬を言うが、精神的な問題が、
肉体的に如何に及ぼすかをはっきり知らなければならない。
心に感謝報恩の念があれば肉体のあらゆる所に至るまでこだわりがない。

こだわりがなければ体が柔軟になる。
怒ると血液が沸き、血管を圧迫して血液の循環をさまたげる。
そうすれば肉体が堅くなり、運動をさまたげ、筋肉の発達を阻害する。
故に剣道の稽古の時は敢闘精神の中にも、喜びのある感謝の気持ちが剣先に表れなくてはならない。
しかも自己の最高の道徳を竹刀に表現していくのである。

○「参りました」と言うことは、自己の隙(欠点)を
打突によって教えてくれたことに対して言う人間最高の表現である。
「神仏に参る」から来た言葉である。

○敢闘精神(勇敢に闘う)と敵愾心(敵と戦う心)をはき違えてはいけない。
剣道は命をかけて修養するもので、ここに真剣味があり敢闘精神が生まれる。
敵愾心を抱いて叩きあいするのは剣道ではない。

○刃筋を立てると言うことは、人間としての律義
(人として当然なすべきさだめ、きまりの道)を立てると言うことである。

○人間は正しいだけでは何にもならない。
正しさの中に人間の奥ゆかしさが出来、人間自体にワビとかサビとかが出来なければならない。
言うに言われない、他から見て、どこか感じさすものがなければならない。
例えば刀剣の美術品として言うに言われないニエとかあるように
人間の奥底に巾と深みがなければならない。
それを剣道によって養うのである。

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剣道の垣根

2018年03月06日 | 剣道・剣術


若い頃は自分の道場しか知らなくて、
他の道場の方と稽古する機会なんかほとんど無かった。
自分の道場だけの稽古ではどうしてもマンネリ感がぬぐえない。
たまに出稽古に来られた方と稽古すると新鮮な気持ちになったものだ。
当時はインターネットなど無くて自分の道場だけがすべてだったのだ。

五段で伸び悩んでいた頃からインターネットの時代になった。
(もちろん最初はパソコン通信と言われるものだったが)

ネット上の剣道仲間と何回も集まって稽古した。
先方の所属道場に積極的に出稽古にも行った。
自分の道場にも出稽古に来てもらった。
自分の道場以外での経験が無くては今の自分はいない。
初めてのお相手と稽古する新鮮味と真剣味はこの上無い経験だ。

お年を取った先生で、たまに出稽古を極端に嫌う先生がいる。
自分の道場生が他所に行くのも、他の道場の者が来るのも快く思わない。
昔からある剣道界の垣根。垣根を守って生きておられる。
禁止されているので隠れて出稽古に行ったりする者も出てくる。
そういう道場はだんだん衰退していくのが常である。
小さな小さな井の中の蛙で終ってしまうのだ。
そして他の道場の悪口だけはする。
実につまらないことだ。

初心者は別として、試合に出れるようなレベルなら積極的に出稽古に出て欲しい。
自分の得意技を磨くとともに、苦手な技もどんどん使って稽古して欲しい。
出稽古を禁止している道場などさっさと見切りをつけるべきだ。
インターネット時代に所属にこだわり過ぎるのもどうかと思う。
メインの道場だけ決めて、あとは積極的に行動すべき時代だ。

昔からある剣道界のつまらぬ垣根など飛び越えて、
仲良く楽しく稽古出来れば良いと思うところだ。


(フェイスブックを頼りに出稽古、尼崎市青年部会での稽古風景)
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出稽古「尼崎市青年部会稽古会」(3月4日)

2018年03月05日 | 剣道・剣術
4日は第1日曜日で、通常だと長正館の月例稽古で、
湯里小学校において一刀流と剣道の稽古だ。
しかし卒業式の準備だとかでお休み。

で、フェイスブック(小田高志先生)のお力を借りて、
新日鉄住金体育館で尼崎市青年部会の稽古会にお邪魔した。
もちろん私は青年では無いが、青年の気持ちであれば参加OKだとか。

10時から始まって、体操、素振り。面を着けて基本稽古。
最近は長丁場の稽古をしていないので素振りと切返しと基本稽古で、
体力のほとんどを使い果たしてしまった。

何とか休み休み2時間ほどの稽古を終えたが、
初めての方と稽古するのは本当に良い勉強になるものだ。
打たれても良し。自分の課題を試してみる良いチャンスである。





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長正館一刀流と宝剣会剣道稽古(3月3日)

2018年03月04日 | 剣道・剣術
午前中はタイヤ交換。
アトレー7とデリカスターワゴン。
デリカスターワゴンのタイヤは重い。
おかげで膝を少し痛めてしまった。

夕方から一刀流の稽古。
写真は無い。いろいろあったから。
写す気にもならなかった。

夜は宝剣会で稽古。
ともかく声を出し身体を動かす。
汗とともにストレスが出てしまうように。


(A七段と石丸師範)


(石丸師範とN五段、N五段は打てそうで打てない試合巧者でもある)


(A七段とO四段、フットワークの良いO四段は高段者でも手に余すほどだ)


(O四段とN五段)


(稽古を終えて・・・)
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「大和心を語るねずさんのひとりごと」より「昭和天皇行幸」

2018年03月03日 | 政治や歴史など
今回も「ねずさんのひとりごと」に感銘を受けたので紹介します。
私はこの文章を読んで涙が止まりません。

大和心を語るねずさんのひとりごと
「昭和天皇行幸」

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1322.html

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お腹を空かせた者がいたら、パンを与えても、それでは一時しのぎにしかならない。
だから、お腹を空かせた者がいたら、パンを得る方法を諭すのが
より良いことだという話を聞いたことがあります。
けれど日本には、それ以外の第三の道があります。

昭和20年8月の終戦後のことです。
日本は未曾有の食料危機となりました。
物価も高騰しました。

食料の配給制度は人々の生活を賄うに足りませんでした。
不衛生で暴力が支配する闇市があちこちに立ち並びました。
それまで、東亜の平和を願い皇国不滅を信じていた人々は、
価値観を根底から否定され、
いかに生きるべきか、
どう生きるべきかという規範さえも失い、
呆然とし頽廃と恐怖と飢えが人々を支配していました。

その日本人が、ある事件をきっかけに、
国土復旧のために元気になって立ち上がりました。
きっかけとなったのが、
「昭和天皇の全国行幸」です。

そこで昭和24年5月に行われた佐賀県行幸のときのお話しを書いてみたいと思います。
きっと感動されると思います。

昭和天皇の行幸は、
昭和21年の神奈川県を皮切りに、
昭和29年の北海道まで、
足かけ8年半にかけて行われました。
全行程は3万3000km、
総日数は165日です。

実はこれはたいへんなことです。
そもそも陛下の日常は、
我々平民と違って休日がありません。
一年365日、常に式典や祭事、
他国の元首その他の訪問、
政府決定の承認等があり、
その数なんと年間約2000件を超えるご公務です。

そうしたお忙しい日々を割いて、
昭和天皇は、全国行幸をなさいました。

この巡幸を始めるにあたり、
陛下はその意義について
次のように述べられています。

「この戦争によって祖先からの領土を失い、
 国民の多くの生命を失い、
 たいへんな災厄を受けました。
 この際、わたしとしては、
 どうすればいいのかと考え、
 また退位も考えました。

 しかし、よくよく考えた末、
 この際は全国を隈なく歩いて、
 国民を慰め、励まし、
 また復興のために立ちあがらせる為の
 勇気を与えることが責任と思う。」

当時、焼け野原になった日本で、
人々はそれまでの悠久の大義という価値観を失い、
正義が悪に、悪が正義とされる世の中を迎えていました。
しかも、たいへんな食料不足です。
物価は日々高騰していました。

お腹を空かせた家族のために闇市に買い出しに行けば、
そこは暴力が支配するドヤ街です。
嫁入り道具の着物を持って、
ようやく物々交換で米を手に入れると、
それを根こそぎ暴力で奪われる。
まるで無政府状態といえるような
たいへんな状況だったのです。

そういう状況から
国内が一日も早く脱皮し、
日本人が普通に生活できるように
しなくてはならない。
そんなときに陛下が選択されたのが、
全国行幸だったのです。

未曽有の戦災を被った日本を
不法な闇市を通さなくても
十分に食料が分配できるように
するために何が必要か。

いまの世の中なら、
すぐに財政出動だ、
何々手当の支給だ等という話になるのでしょうが、
あの時代に陛下が選択されたのは、
全国民の真心を喚起するということでした。

国民の一人ひとりが、
炭鉱で、農村で、役場で、学校で、会社で、
あるいは工場で真心をもって生産に勤しむ。
ひとりひとりの国民が復興のために、
未来の建設のために立ち上がる。
そのために陛下は、
「全国を隈なく歩いて、
 国民を慰め、
 励まし、
 また復興のために
 立ちあがらせる為の
 勇気を与え」
ようと全国を回られたのです。

ところが共産主義に感化された一部の人々は、
そうした陛下を亡き者にしようとか、
あるいは陛下を吊るし上げようと、
各地で待ち受けました。

そんな中での陛下の行幸のご様子を、
佐賀のケースで見てみようと思うのです。

陛下が佐賀県に行幸されたのは、
昭和24年5月24日のことです。
この日陛下は、
たってのご希望で、
佐賀県三養基郡にある
「因通寺」というお寺に行幸されています。

因通寺は、
戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、
皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、
それを百万人の女性たちの手で歌を刺繍して
天皇陛下と皇后陛下の御許に
奉じ奉ろうとされていたのです。

その歌というのが、
昭和13年に皇后陛下が
戦没者に対して詠まれた次の二首です。

 やすらかに
 眠れとぞ思う きみのため
 いのち捧げし ますらをのとも

 なぐさめん
 ことのはもがな たたかいの
 にはを偲びて すぐすやからを

陛下は、このことをいたく喜ばれ、
皇后陛下はすぐに針をおとりになって、
御みずからこの大幟に
一針を刺繍してくださったという経緯があります。

また終戦後には因通寺は、
寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、
そこで戦争で羅災した児童
約40名を養っていました。

陛下が寺におこしになるという当日、
寺に至る県道から町道には、
多くの人が集まっていました。
道路の傍らはもちろんのこと、
麦畑の中にも、
集まった方がたくさんいました。

その町道の一角には、
ある左翼系の男が麦畑を作っていました。
この男は、行幸の一週間くらい前までは、
自分の麦畑に入る奴がいたら
竹竿で追っ払ってやるなどと豪語していたのですが、
当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、
感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、
すっかり心が変わってしまい、
自ら麦畑を解放して
「ここで休んでください、
 ここで腰を下ろしてください」
などと集まった方々に声をかけていました。

朝、8時15分頃、
県道から町道の分かれ道のところに、
御料車が到着しました。

群衆の人達からは、
自然と「天皇陛下万歳」の声があがりました。
誰が音頭をとったというものではありません。
群衆の自然の発露として、この声があがりました。

御料車が停車しますと、
群衆の万歳の声が、ピタリとやみました。
一瞬、静まり返ったところに、
車から、まず入江侍従さんが降り立たれ、
そのあとから陛下が車から降りられると、
入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。

その瞬間、再び群衆の間から、
「天皇陛下万歳」の声があがりました。

陛下は、その群衆に向かって、
御自らも帽子をとってお応えになられる。
その姿に、群衆の感動はいっそう深まりました。

ここに集まった人達は、
生まれてこのかた、
お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない。
その陛下が、いま、目の前におわすのです。
言い表すことのできないほどの
感動が群衆を包み込みました。

お車を停められたところから、
因通寺の門まで約700メートルです。
その700メートルの道路の脇には、
よくもこんなにもと思うくらい、
たくさんの人が集まっていました。
そのたくさんの人達をかきわけるようにして、
陛下は一歩一歩お進みになられたそうです。

町役場のほうは、
担当の役席者が反日主義者
(当時、まともな人は公職追放となり、
 共産主義者が役席ポストに座っていた)
で、まさかこんなにも
多くの人が出るとはおもってもみなかったらしく、
道路わきのロープもありません。
陛下は、ひとごみのまっただ中を、
そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。

そして沿道の人達は、
いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返しました。
その声は、まるで大地そのものが
感動に震えているかのような
感じだったと言います。

陛下が寺の山門に到着されました。
山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、
その坂を上り詰めると、23段の階段があります。
その階段を登りきられたとき、
陛下はそこで足を停め、
「ホーッ」と感嘆の声をあげられました。

そうです。
石段を登りきった目の前に、
新緑に彩られた因通寺の洗心の山々が
グッと迫っていたのです。
陛下は、その自然の織りなす姿に、
感嘆の声をあげられた。

陛下が足をお留めになられている時間が
あまりに長いので、
入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、
何らかの言葉を申し上げると、
陛下はうなずかれて、
本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝をされました。

そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれました。
寮の二階の図書室で、机を用意して、
そこで佐賀県知事が
陛下にお迎えの言葉を申し上げる
という手はずになっていたのです。

図書室で、所定の場所に着かれた陛下に、
当時佐賀県知事だった沖森源一氏が、
恭しく最敬礼をし、
陛下にお迎えの言葉を述べました。

「本日ここに、
 90万県民が
 久しくお待ち申し上げておりました
 天皇陛下を目の当たりに・・・・」

そこまで言上申し上げていた沖森知事は、
言葉が途切れてしまいました。
知事だって日本人です。
明治に生まれ、
大正から昭和初期という
日本の苦難の時代を生き、
その生きることの中心に陛下がおわし、
自分の存在も陛下の存在と受け止めていたのです。
知事は陛下のお姿を前に、
もろもろの思いが胸一杯に広がって、
嗚咽とともに、
言葉を詰まらせてしまったのです。

するとそのとき入江侍従さんが、
知事の後ろにそっと近づかれ、
知事の背中を静かに撫でながら、
「落ち着いて、落ち着いて」と申されました。
すると不思議なことに
知事の心が休まり、
あとの言葉がスムーズに言えるようになったそうです。

この知事のお迎えの挨拶のあと、
お寺の住職が、
寺にある戦争羅災孤児救護所について
ご説明申し上げることになっていました。

自分の前にご挨拶に立った知事が、
目の前で言葉を詰まらせたのです。
自分はあんなことがあってはいけない、
そう強く自分に言い聞かせた住職は
奏上文を書いた奉書を持って、
陛下の前に進み出ました。
そして書いてある奏上文を読み上げました。

「本日ここに、
 一天万乗の大君を
 この山深き古寺にお迎え申し上げ、
 感激これにすぎたるものはありません」

住職はここまで一気に奏上文を読み上げました。
ところがここまで読み上げたところで、住職の胸に
ググっと熱いものが突き上げてきました。

引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、
戦争で亡くなった
小学校、中学校、高校、大学の
級友たちの面影、
「天皇陛下万歳」と
唱えて死んで行った戦友たちの姿と、
一緒に過ごした日々、
そうしたありとあらゆることが
一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、
目の前におわず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、
陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが
目の前に浮かんで、
奏上申し上げる文さえも
奏書から消えてなくなったかのようになってしまったのです。

意識は、懸命に文字を探そうとしていました。
けれどその文字はまったく見えず、
発する言葉も声もなくなってしまいました。
ただただ、目から涙がこぼれてとまらない。
どう自分をコントロールしようとしても、
それがまったく不可能な状態になってしまわれたのです。

そのとき誰かの手が、
自分の背中に触れるのを感じました。
入江侍従さんが、
「落ち着いて、落ち着いて」と
背中に触れていてくれたのです。

このときのことを住職は、
前に挨拶に立った知事の姿を見て、
自分はあんなことは絶対にないと思っていたのに、
知事さんと同じ状態になってしまったと述べています。

こうしたことは外国の大使の方々も
同様のことがあるのだそうです。
外国の大使の方々は、
日本に駐在していていよいよ日本を離れるときに、
おいとまごいのために
陛下のところにご挨拶に来る習わしになっています。

駐日大使というと、長い方で6~7年、
短い方でも2~3年の滞在ですが、
帰国前に陛下にお目にかかって
お別れのご挨拶をするとき、
ほとんどの駐日大使が
「日本を去るに忍びない、
 日本には陛下がおいでになり、
 陛下とお別れをすることが
 とても悲しい」と申されるそうです。

この言葉が儀礼的なものではないことは、
その場の空気ではっきりとわかります。
陛下とお話しをされながら、
駐日大使のほとんどの方が、
目に涙を浮かべて、言葉を詰まらせるのです。

特に大使夫人などは、
頬に伝わる涙を拭くこともせず、
泣きながら陛下においとまごいをされるといいます。

こうしたことは、
その大使が王国であろうと
共和国であろうと、
共産圏の方であろうと、
みな同じなのだそうです。

むしろ共産圏の国々の方々のほうが、
より深い惜別の情を示される。

さて、ようやく気を取り直した住職は、
自らも戦地におもむいた経験から、
天皇皇后両陛下の御心に報いんと、
羅災孤児たちの収容を行うことになった
経緯を奏上しました。

この奏上が終わると、
何を思われたか陛下が壇上から床に降り立ち、
つかつかと住職のもとにお近寄りになられました。

「親を失った子供達は大変可哀想である。
 人の心のやさしさが
 子供達を救うことができると思う。
 預かっているたくさんの仏の子供達が、
 立派な人になるよう、
 心から希望します」と住職に申されました。
住職はそのお言葉を聞き、
身動きさえもままなりませんでした。

この挨拶のあと陛下は、
孤児たちのいる寮に向かわれました。
孤児たちには、あらかじめ
陛下がお越しになったら部屋で
きちんと挨拶するように申し向けてありました。

ところが一部屋ごとに足を停められる陛下に、
子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしません。
昨日まであれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、
みな、呆然と黙って立っていました。

すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。
頭をぐっとおさげになり、
腰をかがめて挨拶され、
満面に笑みをたたえていらっしゃる。
それはまるで陛下が
子供達を御自らお慰めされているように
見受けられました。

そして陛下はひとりひとりの子供に、
お言葉をかけられました。
「どこから?」
「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました。」

すると陛下は、この子供らに
「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。
そして、
「おいくつ?」
「七つです」
「五つです」と子供達が答える。

すると陛下は、子供達ひとりひとりに
まるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、
「立派にね、元気にね」
とおっしゃる。

陛下のお言葉は短いのだけれど、
その短いお言葉の中に、
深い御心が込められています。
この「立派にね、元気にね」の言葉には、
「おまえたちは、
 遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどから
 この日本に帰ってきたが、
 お父さん、お母さんがいないことは、
 さぞかし淋しかろう。悲しかろう。
 けれど今こうして寮で立派に日本人として
 育ててもらっていることは、
 たいへん良かったことであるし、
 私も嬉しい。
 これからは、
 今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、
 立派な日本人になっておくれ。
 元気で大きくなってくれることを
 私は心から願っているよ」
というお心が込められているのです。
そしてそのお心が、短い言葉で、
ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。

陛下が次の部屋にお移りになると、
子供達の口から
「さようなら、さようなら」
とごく自然に声がでるのです。
すると子供達の声を聞いた陛下が、
次の部屋の前から、
いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、
その子に
「さようならね、さようならね」
と親しさをいっぱいにたたえたお顔で
ご挨拶なされるのです。

次の部屋には、
病気で休んでいる二人の子供がいて、
主治医の鹿毛医師が付き添っていました。
その姿をご覧になった陛下は、
病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、
鹿毛医師に
「大切に病を治すように希望します」と申されました。
鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、
「誠心誠意万全を尽くします」
と答えたのですが、
そのときの鹿毛医師の顔は、
まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。

こうして各お部屋を回られた陛下は、
一番最後に禅定の間までお越しになられました。
この部屋の前で足を停められた陛下は、
突然、直立不動の姿勢をとられ、
そのまま身じろぎもせずに、
ある一点を見つめられました。

それまでは、どのお部屋でも
満面に笑みをたたえて、
おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、
この禅定の間では、
うってかわって、
きびしいお顔をなされたのです。

入江侍従長も、田島宮内庁長官も、
沖森知事も、県警本部長も、
何事があったのかと顔を見合わせました。
重苦しい時間が流れました。

ややしばらくして、
陛下がこの部屋でお待ち申していた
三人の女の子の真ん中の子に
近づかれました。
そしてやさしいというより静かなお声で、
「お父さん。
 お母さん」
とお尋ねになったのです。

一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、
何事があったのかわからりません。

けれど陛下の目は、一点を見つめています。
そこには、
三人の女の子の真ん中の子の手には、
二つの位牌が
胸に抱きしめられていたのです。

陛下はその二つの位牌が
「お父さん?お母さん?」
とお尋ねになったのです。

女の子が答えました。
「はい。これは父と母の位牌です」

これを聞かれた陛下は、
はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」とお尋ねになられました。
「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。
 母は引揚途中で病のために亡くなりました」
この子は、よどむことなく答えました。

すると陛下は
「おひとりで?」とお尋ねになる。
父母と別れ、
ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。

「いいえ、奉天からコロ島までは
 日本のおじさん、おばさんと一緒でした。
 船に乗ったら船のおじさんたちが
 親切にしてくださいました。
 佐世保の引揚援護局には、
 ここの先生が迎えにきてくださいました」

この子がそう答えている間、
陛下はじっとこの子をご覧になりながら、
何度もお頷かれました。
そしてこの子の言葉が終わると、陛下は
「お淋しい」と、
それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらました。

しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、
この子は
「いいえ、淋しいことはありません。
 私は仏の子です。
 仏の子は、
 亡くなったお父さんともお母さんとも、
 お浄土に行ったら、
 きっとまたあうことができるのです。
 お父さんに会いたいと思うとき、
 お母さんに会いたいと思うとき、
 私は御仏さまの前に座ります。
 そしてそっとお父さんの名前を呼びます。
 そっとお母さんの名前を呼びます。
 するとお父さんもお母さんも、
 私のそばにやってきて、
 私を抱いてくれます。
 だから私は淋しいことはありません。
 私は仏の子供です。」

こう申し上げたとき、
陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。
この子も、じっと陛下を見上げていました。
陛下とこの子の間に、
何か特別な時間が流れたような感じがしました。

そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられました。
部屋に入られた陛下は、
右の御手に持たれていたお帽子を左手に持ちかえられ、
右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。

そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。
 これからも立派に育っておくれよ」と申されました。
そのとき、陛下のお目から、
ハタハタと数的の涙が、
お眼鏡を通して畳の上に落ちました。

そのときこの女の子が、小さな声で、
「お父さん」
と呼んだのです。
これを聞いた陛下は、
深くおうなずきになられました。

その様子を眺めていた周囲の者は、
皆、泣きました。
東京から随行してきていた新聞記者も、
肩をふるわせて泣いていました。

子供達の寮を後にされた陛下は、
お寺の山門から、お帰りになられます。
山門から県道にいたる町道には、
たくさんの人達が、
自分の立場を明らかにする掲示板を持って
道路の両側に座り込んでいました。

その中の「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまで
お進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、
「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、
 そのためにみんなが悲しんでいるが、
 自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、
遺族の方達に、深々と頭を下げられました。

遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえました。

陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられました。
「どなたが戦死されたのか?」
「息子でございます。
 たったひとりの息子でございました。」
そう返事しながら、
老婆は声を詰まらせました。

「うん、うん」と頷かれながら陛下は
「どこで戦死をされたの?」

「ビルマでございます。
 激しい戦いだったそうですが、
 息子は最後に天皇陛下万歳と言って
 戦死をしたそうででございます。
 でも息子の遺骨はまだ帰ってきません。
 軍のほうからいただいた白木の箱には、
 石がひとつだけはいっていました。
 天皇陛下さま、
 息子はいまどこにいるのでしょうか。
 せめて遺骨の一本でも
 帰ってくればと思いますが、
 それはもうかなわぬことでございましょうか。
 天皇陛下さま。
 息子の命はあなたさまに差し上げております。
 息子の命のためにも、
 天皇陛下さま、長生きしてください。
 ワーン・・・・」

そう言って泣き伏す老婆の前で、
陛下の両目からは滂沱の涙が伝わりました。
そうなのです。
この老婆の悲しみは陛下の悲しみであり、
陛下の悲しみは、老婆の悲しみでもあったのです。
そばにいた者全員が、この様子に涙しました。

遺族の方々との交流を終えられた陛下は、
次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれました。
そして「引揚者」と書かれた人達の前で、
足を停められました。

そこには若い青年たちが数十人、
一団となって陛下をお待ちしていました。

実はこの人達は、
シベリア抑留されていたときに徹底的に洗脳され、
日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、
誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達でした。

この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、
陛下に戦争責任を問いつめ、
もし陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、
暴力をもってしても
天皇に戦争責任をとるように発言させようと、
待ち構えていたのです。

そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、
ただちに全国の同志にこれを知らしめ、
日本国内で一斉に決起して
一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、
共産主義国家の樹立を図る手はずになっていました。

そうした意図を知ってか知らずか、
陛下はその一団の前で足をお止めになられました。
そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、
深々とその一団に頭を下げられました。
「長い間、
 遠い外国で
 いろいろ苦労して
 大変であっただろうと思うとき、
 私の胸は痛むだけでなく、
 このような戦争があったことに対し、
 深く苦しみをともにするものであります。
 みなさんは外国において、
 いろいろと築き上げたものを
 全部失ってしまったことであるが、
 日本という国がある限り、
 再び戦争のない平和な国として
 新しい方向に進むことを希望しています。
 みなさんと共に手を携えて、
 新しい道を築き上げたいと思います。」

陛下の長いお言葉でした。
そのときの陛下の御表情とお声は、
まさに慈愛に満ちたものでした。
はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、
陛下のお言葉を聞いているうちに、
陛下の人格に引き入れられてしまいました。

「引揚者」の一団の中から、
ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきました。
そして、
「天皇陛下さま。
 ありがとうございました。
 いまいただいたお言葉で、
 私の胸の中は晴れました。
 引揚げてきたときは、
 着の身着のままでした。
 外地で相当の財をなし、
 相当の生活をしておったのに、
 戦争に負けて帰ってみればまるで赤裸です。
 生活も最低のものになった。
 ああ、戦争さえなかったら、
 こんなことにはならなかったのにと
 思ったことも何度もありました。
 そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。
 しかし苦しんでいるのは、
 私だけではなかった。
 天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、
 いま、わかりました。
 今日からは決して世の中を呪いません。
 人を恨みません。
 天皇陛下さまと一緒に、
 私も頑張ります!」
と、ここまでこの男が申した時、
そのそばにいたシベリア帰りのひとりの青年が、
ワーッと泣き伏したのです。
「こんな筈じゃなかった。
 こんな筈じゃなかった。
 俺が間違えていた。
 俺が誤っておった」
と泣きじゃくるのです。

すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、
ほとんどが目に涙を浮かべながら、
この青年の言葉に同意して泣いている。

彼らを見ながら陛下は、
おうなずきになられながら、
慈愛をもって微笑みかけられました。
それは、何も言うことのない、
感動と感激の場面でした。

いよいよ陛下が御料車に乗り込まれようとしたとき、
寮から見送りにきていた
先ほどの孤児の子供達が、
陛下のお洋服の端をしっかりと握り、
「また来てね」と申しました。

すると陛下は、この子をじっと見つめ、
にっこりと微笑まれると
「また来るよ。
 今度はお母さんと一緒にくるよ」と申されました。

御料車に乗り込まれた陛下が、
道をゆっくりと立ち去っていかれました。
そのお車の窓からは、
陛下がいつまでも御手をお振りになっていました。

宮中にお帰りになられた陛下は、
次の歌を詠まれました。

 みほとけの
 教へ まもりて すくすくと
 生い育つべき 子らに幸あれ

※出典:しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」
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剣道形で注意すべき点(3月1日の木曜会稽古)

2018年03月02日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)
今年8回目の木曜会稽古。
四條畷の市民活動センター体育館。

前回(7回目)を欠席したので今週が剣道形の稽古だとは知らなかった。
まあ、いつも木刀は車の中に入れているので大丈夫。
20時から21時過ぎまで。全員で40名ほど。

参加人数が奇数になったので、横から見たり指導したりとなる。
実は形稽古は四段の時に東京の武道学園の丸山鐵男先生の前で大恥をかいてから、
けっこう自分なりに一生懸命取り組んできたつもりだ。
もう30年以上もほど前の話だ。


(故 丸山鐵男範士八段、写真は全日本剣道連盟サイトより拝借)

以下、師匠が言う間違い易い点、自分として気がついた点のみ書き記す。
細かな所作については文章では表現できないので省く。

所作

跪居(ききょ)=跪座(きざ)
両膝をつき、つま先を立てて、踵(かかと)の上に尻をおく姿勢。

座る際は、左右と膝を付き、跪座(立てた踵の上にいったんお尻を乗せる)から座るが原則。
立つ際も、跪座(立てた踵の上にいったんお尻を乗せる)から右左と立つのが原則。
子供は長時間の正座で足が痺れていることがあるので跪座を推奨。
ただし、レベルに応じて跪座は省略しても良いとのこと。(以上、3月9日、訂正)

大刀を帯刀の際は柄頭が身体の中心の位置。

帯刀時の礼で持った木刀が動かないように。

1本目
仕太刀は剣先方向に抜くこと。

2本目
お互いが3歩で入った間合いは横手(よこて=切先の根元)では無く一足一刀の間合いである。

3本目
下段の間合い、位置や、上げ具合は仕太刀が打太刀に合わせること。
仕太刀の「入れ突きに萎(な)やす」が出来ていない人が多い。

4本目
仕太刀、脇構で相手から刀身が見えている人が何人か見受けられた。
打太刀が突いた時に、目だけで仕太刀を追っている人が多い。顔も向けること。

5本目
打太刀はしっかりと仕太刀の面に届くように打つこと。
でなければ摺り上げが出来ない。

6本目
縁の切れないように。
仕太刀が上段から下がるのは右足から。左足から下がる者が少なからずいる。

7本目
打太刀は捨て身の面を打ったあと、すぐに仕太刀のほうへ顔を向けること。


(これだけいると数組見るのが精一杯だった)


(どこで間違い易いか・・・という良い勉強になった)
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