喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

被災地、野村での自衛隊員に感動

2018-07-20 | 感動
 15日(日)、被災地である西予市野村にボランティア活動に行った。
猛暑日で、みなさん冷たいものを求めていた。

 そんなところへ、グッドタイミングで、軽トラを利用した給水車が回ってきた。
よく見ると知り合いの青木さん。
夫婦でボランティア活動をされていた。
 その思いにふれ、とてもうれしくなった。



 「冷たい飲み物はいかがですか?」
その言葉に誘われ、地元の人もボランティアも集まってくる。


 「冷たい」
 「おいしい」
 「生まれ変わるー」

などありがたい言葉が、自然と出てくる。

 そんな時、私の横を一人の迷彩色の服を着られた自衛隊員が通りかかった。
思わず、冷たい飲み物を軽トラから取り上げ、自衛隊員さんに駆け寄った。
「自衛隊員さん、お疲れさまです。
冷たい飲み物をどうぞ。」

 するとその自衛隊員さんが言われた言葉に感激。
「いえ、私はかまいません。
みなさんでいただいてください。」

 私はすかさず
「いえいえ、みなさん取られましたから、どうぞ。」


 そして自衛隊員さんから返ってきた言葉は、
「私は戻ったらあります。お気遣いありがとうございます。」


 この対応に胸が熱くなった。
そうして、何事もなかったように任務を続けられ、去って行った。
その後ろ姿に涙が出そうだった。


 みんな、がんばっている。
みんな応援している。

 私にもまだまだできることがある気がした。


            岬人(はなんちゅう)
 

 

 

島根県の峠ちゃんからのお土産  大吟醸 月山 ~扇~

2018-06-21 | 感動
 4月初め、喜久家に島根県出身の峠ちゃんが再び訪れてくれた。
人情味があり、とてもすてきな女性。
 平礒のことを「私の第二のふるさとのよう」と言ってくれた。
真の良さが分かる人。


 峠ちゃんからお土産にいただいていた日本酒を呑んだ。
「大吟醸 月山 ~扇~」

 島根県安来市広瀬町にある吉田酒造の逸品。

 島根県安来市広瀬町ー吉田酒造からのぞむ山「月山」には、
戦国時代における難攻不落の城として有名な富田城があった。
 この地では、その年の一番良い仕上がりの酒を「月山」と名付け、
一番樽(=最高の酒)として殿様へ献上していた歴史がある。

 この歴史背景になぞらえて、
「殿様へ献上していたような最高の酒を、常に造りつづける」
ことを目指し「月山」と命名したようだ。

 しかも「日本一柔らかい水」と言えるであろう硬度0.3の超軟水を使用して酒造りをしているようだ。




 一口、呑んでみる。
口の中に広がるフルーティーな味わい。
これが日本酒?
とさえ思ってしまうような。




 そんな地元の逸品を、峠ちゃんはお土産としてくれた。
その心遣いがすごくうれしい。

 こんな佐田岬の田舎にいても、
すてきな人とすてきな物に出会い、つながっていく。

 田舎暮らしを楽しんでいる。


          岬人(はなんちゅう)




 

樹のある暮らし ~父が植えた珊瑚樹~

2018-06-12 | 感動


 わが家を隠すかのように大きく枝を張った樹がある。
数年も刈りこみをしていないのどんどん大きくなっている。
 夏は木陰をつくり涼しく、風呂の目隠しにもなっている。

 以前から、「何の樹かな?」
と思っていたが、父の話でようやく分かった。


 この樹は、珊瑚樹(サンゴジュ)。

 常緑高木で、樹高は6m~10mにもなる。
海岸付近の湿地にはえ、また防風、防火林あるいは庭木、街路樹として栽植されている。
 国内では関東南部以西、朝鮮半島、台湾、インド、インドシナ、フィリピンなど暖帯から亜熱帯に分布する。
 
 「珊瑚樹」の由来は、果実が秋に赤く熟すので、それをサンゴに例えて名付けられた。

 厚く水分の多い葉や枝が火災の延焼防止に役立つともいわれ、昔から防火樹として使われてきた。
また、大気汚染にも強いと言われ、極めて環境適応力があり、
耐陰性、耐乾性、耐湿性、耐煙性、耐潮性、耐火性、耐風性などいずれも強く、
劣悪な環境に適応する数少ない樹木の一つとされている。

 植栽のポイントとしては、庭木としては円筒形となる本来の樹形を生かして背景樹や目隠しとして植栽される。
また生垣としての利用も多く、高生垣としてきちんと刈込みを行なうと、濃い緑色のウォールのように仕上がる。

 花や実を鑑賞する場合は、独立木の自然樹形が良い。
 
 葉は対生し長さ10~20cm、革質、滑らかで光沢がある。
開花時期は6月~7月で白い花が多数咲く、7~10月に紅い実をつける。 

        「世界の木材、樹木 サンゴジュ 木の情報発信基地より」



 父が語ってくれた。
「この樹は、珊瑚樹と言うがよ。
 オラが31歳の時、この鉄筋の家を建てる時に、
えびすのたね(谷)の河口から、葉っぱがかわいかったけん、持って帰ったものよ。
 その時は、まだ1mの高さもなかった。
それが、こげ大きくなるけんの。
 あれから、47年が経つの。」


 話を聞いて、心がジーンとなった。
 父は、母親のために建てた隠居部屋の前に植えようと、平礒の浜から持って帰った珊瑚樹。
私の祖母はもう亡くなりいないが、この樹は、我が家をずっと見守ってきた。

 樹のある暮らし。

 ふるさとには、思い出多いものがたくさん残っている。

       
                岬人(はなんちゅう)
 


喜久家ブログが、過去最高を記録

2018-06-11 | 感動
 喜久家ブログが過去最高の訪問者数、閲覧数を記録した。
これには驚いている。

 2009年に、田舎で働き隊として活動してくれていたのどかちゃんたちが
このブログを立ち上げてくれた。

 任期を終了するときに、引きついで書いてほしいとたのまれた。
日記でさえ、長続きしたことがないので、戸惑ったが、
できるところまでがんばってみようと引き受けた。

 あれから9年目になる。
よくここまで続いたものだ。


           「青々とした柑橘園と釜木湾」

 理由として3つある。
 1つ目は、尊敬する実践家、若松進一さんの影響。
その頃、私は毎日アップされる若松さんのブログのファンだった。
日々の暮らしや活動を楽しく、学び多く書かれていた。
毎日続けられているその実践力を自分も身につけたかった。

 2つ目は、ふるさと平礒を出て暮らしている同郷の人たちに、タイムリーなふるさとの様子を伝えたかった。
それがふるさとで暮らす自分ができる役目、恩返しだと思った。

 3つ目は、ブログの内容自体が、ふるさと平礒の郷土記録であると考えた。
家族だけではなく、未来の人たちに残したいと思った。


 最初の頃は、毎日10人くらいの訪問者数だった。
それが少しずつ増えはじめ、お盆に郷帰りしている人たちから、
「喜久家ブログを楽しみにみよるよ。」
などの声をかけてもらうようになった。



 訪問者数が、毎日50人を超え、100人を超え、
先週6月4日(月)には、626人もの人が見てくれ、
1284ページが閲覧された。

 先週の合計訪問者数は、何と2598人。
1日平均371人の訪問者。

 閲覧合計は、8378ページ。
1日平均1196ページという驚きの数字だった。



 超ローカルな暮らしや考えの記録と発信。

 ふるさとが輝いていく。


          岬人(はなんちゅう)



 

 


感動の八幡浜・西宇和中学校総体

2018-06-03 | 感動
 6月2日(土)、平成30年度八幡浜・西宇和中学校総体が開かれた。
四国最西端、佐田岬半島で行われた小さな大会。
夏の県大会、四国大会、そして全国大会はここから始まる。

 3年生にとっては、これが最後の大会。
熱い思いで臨んだにちがいない。


 伊方中学校野球部は、瀬戸球場で松柏・愛宕連合チームと対戦。
合言葉は、「練習は試合のように。試合は練習のように。」

 昨年の新人戦では、5回コールドゲームで負けており、
4月の練習試合でもコールド負け。

 ところがこれまでの結果がうそのようなのびのびとしたプレー。
叩きつけるバッティング。
そしてヒットエンドランがみごとにきまり、1回で2点、2回で1点のすばらしいスタート。



 ベンチも応援スタンドもこれまでにない盛り上がりをみせた。

 先発ピッチャーもねばり強いピッチング。
中盤、相手の魂がこもったバッティングで追いつかれて同点。

 追加点がほしいところへ絶好のチャンスがめぐってきた。
ランナー3塁。
そしてサインは、スクイズ。
決まれば絶対有利。
 低めに入ったボールにバットは空を切った。


 3塁走者がはさまれ、アウト。

 この回に追加点は取れなかったが、7回最終回に執念の1点を追加。
あとはきっちり守るだけ。

 ところが相手のものすごい執念で再び同点に追いつかれ、
試合は延長戦へ。
8回、お互いに0点。
そして最終回9回。



 ランナーが出て追加点をめざしたが、抑えられ、最後の守りに入った。
 9回を一人で投げぬいたピッチャーの球速も落ちはじめ、
そこを逃さず打たれ、塁をうめられる。
満塁で、相手の打球がレフトの頭上を越えていき、逆転サヨナラ。



 選手の目に涙がうるんでいたが、
やりきった思いも感じられた。

 これからの人生で大きな意味をもつ経験となったにちがいない。

 佐田岬半島の小さな学校の大きな夢のある時間だった。


                岬人(はなんちゅう)

なごり雪 ~バスを待つ私は、時計を気にしてる~

2018-05-27 | 感動
 先週の5月20(土)・21(日)に福岡で研修があった。
大学時代のなつかしい思い出をふり返りながら、博多駅発大分行きの高速バスを待っていた。




 そこで感動の出来事があった。

 大学時代、親友の一人に森君がいた。
田舎から出てきた私を森君の家族はみんなで気にかけてくれた。
しょっちゅう、夕ご飯に招いてくれて、家族の温かさを感じさせてもらった。

 うれしいことに、今でもそのつきあいは続いている。



 研修が終わり、携帯に入ったメールに気付いた。
森君の妹さんからだった。
福岡に行くという私のブログを見て、都合が会えば会いに来てくれるという内容だった。

 急いで、連絡をとったが、バス出発まであと1時間前のことだった。
 妹さんが急いで来てくれてもぎりぎりか、間に合わない時間だったので、
その気持ちだけいただき、感謝の言葉を伝えた。


 バスの待合場所に30分前に着き、ベンチに座り本を読んでいた。
次々と高速バスが到着しては、出発していった。
そしていよいよ15分前。大分行きの高速バスの表示が出た。

 その時、
「こんにちは。」
という女性の声がし、顔を上げたら、森さんの姿があった。

 ビックリし、一瞬何が起こったかわからなかった。
「間に合ってよかったです。」
の言葉に、心の底から感動がこみあげてきた。

 それからわずか10分ほどだったが、近況などを話しすることができた。
思わず、30年前の時間が巻き戻しされたかのようだった。


 まちは変わっても、変わらない人がここにはいる。
そのことがとてもうれしかった。

 名残惜しかったが、バスに乗り込み、見送ってくれる森さんに手を振った。

 ぜひまた帰って来たい。

このまちには、忘れられない人たちが暮らしている。


          岬人(はなんちゅう)


インゲン豆の話 ~ストレスやプレッシャーが成長にどう関係するか~ 

2018-05-13 | 感動
 八幡浜市教育委員会、教育支援室が発行している「教育支援室だより」がある。
「ちょっと気になる話」コーナーで感激した話があったので、紹介する。



「2001年にノーベル化学賞に輝いた野依良治博士が、インゲンマメを使って興味深い実験を行っています。
 ふつうインゲンマメは、右巻きで伸びていくのだそうです。

そこで、実験。

➀ 本来の自然のまま、右巻きでつるを伸ばしたとき

➁ 巻かせずに、強制的にまっすぐ伸ばしたとき

➂ 無理失理、左巻きに伸ばしたとき


 さて、どのインゲンマメの収穫量が多いと思いますか?

 その結果は‥ 

               岬人(はなんちゅう)

父親とは‥  ~ふるさとに生きる父~ 

2018-02-22 | 感動
 ふるさとで両親と同居している。
 毎朝、そして帰宅して、母家に顔を出し、両親の様子をみたり、
何気ない会話を楽しんだりしている。

 心にグッとくる新聞記事があった。

『 父親とは・・・
 
 いつのころからか父親を超えていると思っていた。
体格では高校生の時に抜かしていたし、学歴でも勝っている。
社会での肩書でも私の方が受けがいいと思っている。
父は借家住まいで、私は持ち家。
父と違って酒にも飲まれない。
 
 その父がこの冬84歳で他界した。
亡くなる十日前に、入院した父を家族が交代で夜間の付き添いをした。
 
 最後の付き添いとなったその夜、私は間違いに気づいた。
意識がもうろう状態の父に向かって私は言った。
「何不自由なく育ててくれてありがとう」。

 父はベッドの中でわずかな力を振り絞って私の頭をなでてくれた。

 その時思った。
私は父を超えてなんかいない。
私はいつまでもこの人の子どもなんだと。
 涙が流れた。

 それから3日後に父はこの世を去った。
この夏、初盆を迎える。
きっと日本の歴史にまったくその名を残すことのない父の人生に、精一杯の拍手を送る。
 
 オヤジ、あなたの孫となるこの子たち3人を嫁さんと一緒に、
誰にも恥じない立派な大人に育ててみせます。
 
 これからも少しでもあなたに近づいていきたい。』


 77歳になる私の父はまだ健在だが、
この気持ちはよくわかる。

 今夜、いつもよりも少し長く、
父や母とおしゃべりしてみようかと思う。

         
          岬人(はなんちゅう) 

ふるさと佐田岬の豊かで、幸せな暮らし ~老いていく母に頭を下げる~

2018-02-15 | 感動
 先日2月12日(月)。
仕事に行こうとしていると、母が作業していた。


「何しよるが?」
母は、
「ジャガイモを植えるための準備をしよるんよ。」
との返事。

 先日手術したばかりの眼のことが気になり、
「眼の調子はどうよ?」
母は、
「よー、見えるんよ。お世話になったなー。」
と目を大きく開き、うれしそうに返事をした。

 胸が熱くなった。



 夜帰宅し、いつものように母家の戸を開ける。
明かりはついているが、誰もいないので、
「母ーちゃん、おるかな?」
と寝室に向かって大きな声で呼びかける。

すると
「ジャガイモを植えて、疲れて寝よるんよ。」
としんどそうな声が返って来た。

 申しわけなさで、寝室の母に向かって静かに頭を下げた。

 いくつになっても親を超えることはできない、と思った。



 私は、こうやってふるさとに住み、親の様子を間近で感じることができる。
それは本当に幸せなことだ。

 本当の豊かさ、幸せがここにはある。



       岬人(はなんちゅう)





 

 

 

春の道後、石手寺を散策して感じたこと

2018-02-15 | 感動
 4年前の平成26年(2014年)2月14日(金)のブログを読み返してみた。
寒くなったり、温かくなったり、三寒四温の季節。
 一気に暖かくなるのもいいが、こんな時期も趣があっていい。

 道後、石手寺という歴史ある地域を歩いて感じたことを綴っていた。


「世の中は、バレンタインデーということでうきうきしている日。
松山で愛媛県内から集まった150人の前で、プレゼンをすることになっていた。

 道中、長浜・双海あたりでは北西の風がきびしく、護岸に打ちつけられた波しぶきがあがっていた。
そして見上げれば、山の上のあたりはうっすら雪化粧。





 プレゼン内容を巻き返しくり返し、シュミレーションし準備した。
何とも重いバレンタインデー。
 でもその甲斐あってか、本番ではあまり緊張することなく、
かえって熱くなるような場面さえあった。
 こうして何とか務めを終えることができ、肩の荷もおりた。

 その夜は、関係者といっしょに松山の夜を満喫した。
昼間の延長のような熱い時間だった。
 そのせいか、いつものように酔うことなくベッドに。
そして疲れのせいか、ぐっすり。

 翌朝15日は、さわやかな目ざめだった。
天気も落ち着き、プチ旅行気分を味わいに道後を散策することにした。

 まず向かったのは、一度行ってみたかった「石手寺」。
四国八十八カ所51番札所で、境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されている壮観さ。
それに寺宝を常時展示している宝物館を備えており、四国霊場では随一ともいえる文化財の寺院。

 それらに見とれていると、ひとりのおばあちゃんに声をかけられた。
「お接待、いただきませんか。」
地元のお大師さん信者のみなさんが、白装束に身をつつみ、お接待をしていた。
何とこの日は、お釈迦様の命日ということだった。
 
 せっかくなので、お接待のあられをいただき、お参りをした。
信者のみなさんは、それからもお参りに来られた多くの人に声をかけ、お接待。




 お堂の中から鉦の音色といっしょにご詠歌が聞こえてくる。
それに心ひかれたのか、一人の女性が見入っていた。
 
 その女性におばあちゃんが何やら話しをされている。
背中には「南無大師遍照金剛」の尊い文字。
おばあちゃんの話しにうなづきながら耳を傾ける女性。
ふたりの女性の美しい光景だった。


 そんな温かい思いで、寺の隅々、回廊にいたるまで歩いた。
次に向かったのは、伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)。



 下から見上げる美しい階段。
国の重要文化財に指定されている社殿は、全国に3例しかない八幡造。
 その後、昨年の夏の火災でなくなってはいたが、一遍上人が生まれた宝厳寺にも足をのばした。

 かなり歩きお腹も減ったところで、これまた一度行ってみたかった「道後やや」のお昼をいただくことにした。



 全てを愛媛県内の地産地消にこだわりつくしたもの。
ビュッフェ形式を取り入れているのだが、デザートの柑橘だけでも
みかん、伊予柑、デコポン、はるみ、清見…など8種類ほどあった。
 器は、砥部焼。

 少しずつ取って食べてもお腹いっぱい。

 心もお腹も満たされた道後散策。
前日のプレゼンのごほうびのようだった。

 私のふるさとも、このような温かい、こだわりのあるふるさとにしていきたい。」 


                       岬人(はなんちゅう)

バレンタインデー ~少女の気配り~

2018-02-14 | 感動
 2月14日は、バレンタインデー。
 記念日には、物語がある。

 平成27年(2015年)の物語。


 『2月14日は、バレンタインデー。
もうチョコレートをわくわくしながら待つという歳でもない。

 息子が同級生から手作りのケーキをもらって帰った。
あわせて、
「家族のみなさんにも食べてもらってください。」
と言って、5人分。

 この心遣いには、ビックリ。



 しかもこのくるみケーキが絶品。

こんな少女がふるさとで育っていることが、とてもうれしい。』

        
                  岬人(はなんちゅう)
        

人生はチョコレートの箱のようなもの  ~ Life is like a box of chocolates. ~

2018-02-14 | 感動
今日は2月14日、バレンタインデー。
記念日には、物語がある。

 平成26年(2014年)の物語。


『歳を重ねるごとに、その日のわくわく、どきどき感が薄らいでいくような感じがする。

 それなのにプレゼントされると、とてもあたたかい気持ちになる。
今年は、いつもの年になくプレゼントをいただいた。



 毎年の妻と娘たちからのもの。
ホテルフロントの方からのもの。
中学生からのもの。
日赤の前田さんからのもの。
知り合いからのもの。

 わざわざ準備をしてプレゼントしていただいた気持ちがとてもうれしい。
そう思うと食べるのがもったいなく思える。
すてきなラッピングやデコレーションも目を楽しませてくれる。
そのうちゆっくりと味わっていただこうと、いまだにある。

 チョコレートと言えば、昔観た映画「フォレストガンプ」を思い出す。
とってもすばらしかった。
調べて、ふり返ってみた。




『人生はチョコレートの箱

 チョコレートはその甘さと食感ゆえに映画の中では人生を豊かに彩る菓子として描かれることが多い。
「フォレスト・ガンプ/一期一会」 (1994)はそんな作品の代表格である。

 守護天使の落し物と思しき白い羽根が上空から風に乗って主人公フォレスト・ガンプ(トム・ハンクス)
の足元に舞い降りるまでをワンカットで捉えたシーンで始まる。
 彼がバスを待つベンチで居合わせた人々にこれまでの半生を語り聞かせる回想形式で進行する。
その最初の一人である黒人女性にチョコレートを薦めていうのが次のセリフである。


“Life is like a box of chocolates. You never know what you’re gonna get.”

(人生はチョコレートの箱のようなもの、開けてみるまで中身はわからない)


 フォレストは生まれつき知能指数が低く、背骨が歪んでいるため脚装具を付けないとまともに歩けなかったが、
母はそんな彼を特別扱いせずに女手ひとつで育て上げた。
チョコレートのセリフは、その母の息子への励ましの言葉の一つである。

 アメリカではミルク、ナッツ、ヌガーなどいろいろな味のチョコレートのランダムな詰め合わせが売られていることが多い。
ここで言うチョコレートの箱とはそれのことで、
開けて食べてみないと中身がわからないことを先読みのできない人生のたとえとして、
ハンディキャップを背負ったフォレストにも希望があることを教えていた。

 彼の人生はこのセリフに象徴される波乱万丈の軌跡をたどる。

 母の愛情を受けて天真爛漫に育ったフォレストは、ある日いじめっ子に追いかけられていると、
突然脚装具が外れて信じられないスピードで疾走し始める。
 走りながら脚装具が外れていく様子をスローモーションでとらえた映像は、
彼を拘束し束縛していたものから解放されて眼前に拡がる自由な世界に跳躍して行くかのように見える。

 彼はその俊足を生かして大学ではフットボール選手として活躍し、
従軍したベトナム戦争では銃弾飛び交う戦場を駆け抜けて命拾いし、
復員後にビジネスで成功した後はアメリカ大陸を走って何往復も横断して一躍時の人となるのである。



 そんな彼とは対照的な人生を送るのが彼の幼馴染で運命の人であるジェニーである。
 フォレストと小学校のスクールバスで出会った彼女は、母以外に彼をバカにしなかった唯一の味方として、
フォレスト曰く「豆とニンジンのようにいつも一緒」の関係になる。
これはアメリカの家庭料理ではシチューなどを煮込む時に豆とニンジンは必ず入る定番の食材であることから、
切っても切れない関係を示す諺である。

 しかし彼女は幼児期に父親に性的虐待を受けた事件がトラウマとなり、
「鳥になってここではないどこかへ逃げ出したい」と願うようになる。
「PLAYBOY」のモデルになって女子大を退学になった後は、ストリップ小屋の歌手やヒッピー暮らしと転々とし、
ブラックパンサー党(Black Panther)の反戦闘争に関わった後に麻薬に手を染める。

 実は冒頭のシーンでフォレストはジェニーに久しぶりに会うためにバスを待っていて、
黒人女性に薦めたチョコレートは彼女へのプレゼントなのである。
それをつまみ食いしてしまうあたりが天真爛漫なフォレストらしいのだが、
 彼は大学時代にも彼女にチョコレートを贈っており、
それは人生に苦悩する彼女にも母の教えをわかって欲しいという彼なりの愛情表現なのだろう。』



 この映画は、一歩踏み出す勇気を教えてくれる。
人生って歩いてみないとわからない。

 そうチョコレートとは、喜びと希望の食べ物。
どんなものが入っているか、チョコレート箱を開けて、食べてみないとわからない。

 自分の未来、ふるさとの未来と重なる。

 

 いただいたチョコレート箱をいつ開けて食べようか。
その時を楽しみにしたい。』


                  岬人(はなんちゅう)

せんたんミーティング ~愛媛県立三崎高等学校の高校生が地域でつくる高校生イベント~

2018-02-04 | 感動
 2月3日(土)から開かれていた愛媛県立三崎高等学校主催の
「せんたんミーティング」。

 最初のあいさつに
「知らないことだらけ、知りたいことだらけ、の私たち。
佐田岬半島の先端にあっちの高校や向こうの大学からも集まって、
出会い、語り、遊び、叫ぶ せんたんミーティングを開催します。
イベントをきっかけにそれぞれの地域が一層盛り上がりますように。」


 内容は、
「先端にであう、先端でかたる、先端であそぶ、先端でさけぶ」

 最終日の最後は、プログラム交流を通じた参加メンバーによる宣言。
雪のため途中で帰った参加者もいて、参観者も飛び入り参加。
 世代を超えて、立場を超えて自分の夢を語り合い、それに対する意見を言い、深まっていく。



 代表者が宣言。
 大学生のこんなまちに住みたい宣言。




 高校生の宣言。




 これに参加した高門伊方町長から講評と感想が語られた。


その言葉が感動的。
「歳をとってくると、町に対してこれもしてほしい、あれもしてほしいと、要望ばかりが多くなりがちです。
でもこのせんたんミーティングでは、自分はこうしたい、これができる等、地域のために何ができるかという
自分を生かす思いにつまっていました。
 若さっていいなと改めて感じました。
このような若者がいるまちの将来は明るいです。
ありがとうございました。」



 高門町長の話を聞きながら、ケネディー大統領の言葉と重なった。

「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが、国のために何をできるかを問うて欲しい。
Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.

 これは1961年にジョン・F・ケネディが第35代アメリカ合衆国大統領に就任した際の演説で話された内容の一部。
 この当時は東西冷戦時代真っただ中。
この世の中には差別、貧困、暴力、様々な問題があり、人間の尊厳と自由を脅かす。

 それに立ち向かっていくのは国の制度だろうか。
そうではなく、国と国民が一つとなって立ち向かっていこうという
国民のアクションに対しての提言だった。


 またオバマ大統領の就任演説のひとこま

「政府に何ができ、何をしなければならないかということと同じく、最終的にこの国が頼みとするのは、アメリカ国民の信念と決意なのです。」
For as much as government can do and must do, it is ultimately the faith and determination of the American people upon which this nation relies.

 オバマ大統領もケネディ大統領の名言を参考として、
結局、国をつくっていくのは、国民が何ができるかということであると演説している。

 国をつくっている人が変わらなければ、国は変わらない。



 誰かに何かを期待するばかりはやめよう。
 地域・学校・職場において、地域・学校・職場が自分に何をしてくれるのかを考えるのではなく、
自分が地域・学校・職場に何ができるかのを考えよう。

 社会を動かす原動力になりたい。小さくてもいい。

 たった一人で社会を変えることはできない。
しかし、社会を変えるきっかけはたった一人から始まることもある。

 誰かが社会をよくしてくれることを望むのではなく、
自分が社会を変えるために何ができるか。
それをいつも自分に問うていきたい。

 今回のせんたんミーティングで、
若者たちと共にそんな大切な思いを共有することができた。



 みんなで後片付け。
お客さまではなく、仲間なのだ。



 先端が、未来を照らす。
先端が、時代を拓く。

 先端には、夢がある。


        岬人(はなんちゅう)


       

気心の知れた人たちとの時間 ~代官町別邸「橙」にて~

2018-01-30 | 感動
 田舎者の私に松山でお気に入りの店がある。
代官町別邸「橙」。
 


 地下に広がる別世界。
そしてこのネーミング。

 柑橘農家の我が家ではかつて橙が生業の中心だった。

 橙は、暖地で栽培される常緑低木。果皮を乾燥したものが橙皮で、芳香性健胃に、また香料・調味にも用いる。
冬になると果実が橙黄色になり、夏を過ぎた頃から緑色になって、果実が2~3年は落ちない。
次の年も代々、果実がついているのでダイダイの名がついた。
 こうして縁起担ぎとして新年に飾られるようになった。

 酸味があまりにも強く食べられたものではない。
ほとんどが甘夏に切り換えられ、今や橙は残っていない。

 だから「橙」という響きに、そんな懐かしさがこみあげてくる。



 平成30年1月27日(土)に、お気に入りの店「橙」で、
気心の知れた人たちと新春の会をもった。

 雰囲気のみならず、創作料理もいい。
まずは、サラダ。
今年は、野菜の不作により値段がとても高い。ほうれん草がうまい。


 魚は地元佐田岬のものが美味いと思うが、寒ブリの刺身。


 創作料理で、あなごを湯葉で巻き、チーズをたっぷりとかけている。
これは初めての味。かなり美味い。


 次はすき焼きを餃子の皮で巻いたようなもの。
濃い味で、ビールにはよく合う。


 飲み物は、ビールや超辛口の日本酒「石鎚」を呑みながら、満たされた気分。


 顔なじみの小林店長が、気づかいしてくれながら、
注文や様子をうかがいに来てくれるのもありがたかった。

 酒良し、料理良し、おもてなし良しの三方良し。

 だから話も途切れることなく盛り上がる。
笑いも絶えない。


 ふと、思った。
橙という店の空間で共にする時間。

 話のなかみは大したことではない。
25年を超す、気心の知れた者たち同士だからできあがる、この雰囲気がたまらなくいい。

 こんなつながりができていることを、幸せに思う。
これからもずっと大切にしていきたい。


 この後、まだまだ松山の夜は続いた。


         岬人(はなんちゅう)

 

 

 

フェイスブックから見えてくるつき合い

2017-12-28 | 感動
 国内外の様々な人との交流を求め、フェイスブックを使い始めてもう長い。
若者に聞いてみると、
「フェイスブックはちょっと固い、かしこまっているので、あまり使わない」
という声も聞く。

 逆に私は、軽いツイッターやラインをしない。
思いを伝えたい、発信したいと考えたら、少し軽すぎるから。

 フェイスブックにより、国内外の様々な人と交流ができている。
めったに会わないのに、いつも会っているかのように、お互いのことをよく知っている間柄の人もいる。

 使い方によっては、すばらしいものだ。
先日、友だちとしてつながっている人をみてみた。

 友だち数 - 634 名 
 男 性  - 340 名 (54%)
 女 性  - 294 名 (46%)
 外国人  - 110 名 (17.4%)
 フォロワー-  75 名 (11・8%)
 未承認数 -  89 名


 この数字から様々なことが見えてくる。

1 男性とのつながりが多い
  もっと女性が多いと思っていたら、男性が断然多い。
 しかも記事をアップした時の「いいね」数でいくと、男性7割くらい。
 地域づくりのことが多いので、男性と思いが通じるのだろう。


2 友だち未承認が89名もいる
  自分の中につながりたい人へのこだわりがある。
 メッセージもなく、友だちリクエストされた人は丁重にお断り。
  全く面識がない人も丁重にお断り。
  つまり、顔の見える、深いつきあいをしたいと思っている。
 フェイスブックというくらいだから。

3 フォロワーが75名もいる
  フォロワーになると、常に私の記事が、その人の画面に掲載されることになる。
 国内外で意識して見てもらえる人がこんなにもいることは、とてもうれしいことだ。

4 外国人がけっこう多い
  110名ものよく知った外国人がいる。
 全体の約12%が外国人というのは、けっこう多い割合だろう。
  これは、喜久家プロジェクトの影響だ。
  忘れられない、一生つきあっていきたい友達が世界中にいることは、
 とても大きな幸せだ。 



 
 今年も多くの人とつながりを広げ、深めることができた。
自分の浅く、狭い世界を大きく変えてもらった。
本当、感謝の思いでいっぱい。

 来年もさらにいい年にしたい。
そしてつながってもらっている人たちに、少しでもいい影響を与えることができる自分でありたい。

             岬人(はなんちゅう)