僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

のたれ死に

2015-05-07 | Weblog
最近、人として生きるとはどういうことなのかと考えることが多い。
もちろん考え方は人それぞれ、ということを大前提に私の考えを書いてみたい。

一個人として生まれたからには「その人であること」が最も大切だと思う。
例えば他人に合わそうとばかりする人、他人のことばかり気にして行動する人は、すなわち「自分の型」がないわけだから、そんなのは、ただ心臓が働いているだけに過ぎないのではないか。男女を問わず、人と付き合う時の判断基準は「自分にとってその人の存在価値があるかどうか」であろう。それが相手によって変化してしまったら、その人である意味がない。

ひとつ例を挙げる。
紅白歌合戦にも出た元プロミュージシャンがいる。この人はとにかく酒癖が悪くて行きつけの店では必ずと言っていいほど出入り禁止にされてしまう。言葉づかいもよくなければ気遣いもない。周りに迷惑ばかりかけているやっかい者だ。
もちろん私に対しても例外ではなく、何度も殴ってやろうかと思うくらい腹の立つ思いをさせられた。
それがいつの日だろう。久しぶりにあった彼から「兄さん、お久しぶりです」と声をかけられた。一瞬誰なのかと疑う位今までの彼からは考えられないような言葉づかいである。
彼に何があったのかは分からない。あちこちで出入り禁止にされて遊ぶところがないので、テキトーな言葉を並べただけかも知れない。ただ、私がその言葉を聞いた時、真っ先に思ったのは「残念」ということだった。
良くも悪くも彼ははちゃめちゃだから彼なのだ。人に気遣いなんかしないし、礼儀なんか知ってたまるか、が彼なのだ。
そのはちゃめちゃさが紅白歌合戦に出られるほどの曲を生み出したのだ。誰にうっとうしがられようが、どの店も出入り禁止になろうが、それが彼なのだ。ひとりどこかで野垂れ死ぬ。それが彼の生き方であるべきだ。誰かに媚びを売ったら最後である。
(態度を改めたからかどうかは知らないが)この間、出入り禁止を解かれた店に来た帰り、彼は階段から落ちて救急車で運ばれたそそうである。幸い命に別状はなかったらしい。ただ、“あくまでも象徴的に”ではあるが、私はそこで彼に死んでいて欲しかった。彼らしく死ぬチャンスを逃した。そう思った。


もうひとつ、男女の話も例に挙げる。
殺人者に惚れる人がいる。DVの人に惚れる人がいる。障害を持った人に惚れる人がいる。きっとそれは良くも悪くも「それがその人である」からだ。良い面も悪い面も含めて、それはその人の細胞が生み出している。世の中で生きていくには、ある程度の社会的バランス感覚が必要なので、殺人者である人のそうでない時の振る舞いは私たちには計り知れないほど魅力的なのかも知れない。

尊敬する谷川俊太郎さんはこう言っている。
「自分の生が、自分の墓石であることを願う」
人に迷惑をかけることはいけない。他人の命を奪うことなど当然ながらもっての外だ。
が、生きていくことは、誰にも迷惑もかけずに存在を消すことではないはずである。

その葛藤を生きる。それこそが生きるということではないだろうか。