・・・ETVの「サイエンス・ゼロ」、「蚕の繭の遺伝子操作」ですか・・・「梶取美和」さんと重なる「お蚕さん」・・・ボクの小さい頃、オバちゃんの娘で、ボクの従姉が大切に、大事に飼っていた記憶があるが、ソレが何であるかを小さいボクは理解していなかった。「蚕(かいこ・サン)」の漢字や「絹糸」を意識したのは随分と後のコト・・・「オバちゃんの不思議(4)」・・・オバちゃんは小学校にもロクに行かせてもらわなかったと云っていたが、ボクが訊く漢字の殆んどを教えてくれたし、習字も達筆であった。そして、時たま「バカも居なければ、世の中はヤッていけないからネッ」と云うのである。まだ幼かったボクにはその意味を理解する能力は無く、ただ、不思議に思っていただけだった。
次男坊であったオジちゃんも尋常小学校には尋常には行かせてもらえなかったらしい。農家の状況は子供が貴重な労働力であったから毎日の連続登校は不可能であった。義務教育の学校はあっても皆勤賞を手にする前提が無かった。それでも、応用問題で(x、y)を使用しての2次方程式で、ボクの中学校1年での宿題問題を解いてくれた。
馬鹿げた「007論議」の「シンボウ番組」も視たが「ロシア革命は日本の国家戦略(謀略・スパイ・間諜)の結果だった」とハッキリ言っているヤツラのコトバに「人間のコトバ」は皆無である・・・「スパイ」を無くすのが「人間の使命」ではないのか。それを無用とするのには「パラドックス(paradox)」の試練がある。だが、「人間を忘れ、国家論議を遊んで喰っているプチブル根性」のヤツラには「007」にナル覚悟はないだろう・・・自分のコトバで自分の首を〆ているコトにも無自覚である・・・「明石大佐」も歎いているだろう・・・「ロシア皇帝の腐敗と、国民の反抗の歴史・農奴制と、その解放後も国民には不満」を分析していたらしいが、自国である「大日本帝国」の分析ではドウ、認識していたんだか・・・元「伊賀忍者」の「石川五右衛門」の願いはナンだったのか、訊いてみたいが・・・
ETV(11月20日)では金曜日は「ハーバード大学」の数学のフレンケル教授(1968年に旧ソ連で生まれ・父親がユダヤ人だという理由で、1984年、モスクワ大学の入試で全問正解しながら不合格となった)の講義・・・「数学の対称性」がテーマらしい・・・「対称」とは記号「=」で異なった「数式を等価」とするものである・・・「コトバの単語自体」も殆んどが「肯定(である)・否定(でない)」の「対称性」でアル・・・そして、「数学で対称性」が出来ない「モノ」がある。数学記号では「≒」と「≠」である。ここでの問題は「対称性」であって、「対象認識」の「対象性」ではない。
ボクの問題は「≒」であるコトバの「大凡(おおよそ)・約(ヤク)・about(アバウト)・近似」であるが・・・
「数学の計算結果の対称性、非対称性」とは、である。
「有理数は分数で表せるもの、
無理数は分数で表せないもの」、
「無理数(irrational number)=実数・分子・分母ともに
整数である分数(比=ratio)
として表すことの
できない実数」
「無理数=√2・√3・π(円周率)・自然対数の底 e」など・・・
ーーー↓↑ーー
有理数・・・a,bを整数(b≠0)としたとき・・・
a/bの分数で表せる数
√0,04=(0,2)²=0,2の2乗=2/10=1/5
無理数・・・a,bを整数(b≠0)としたとき・・・a/bはムリ
a/bの分数では表せれない数
√3=1,7320508・・・小数点以下の数が永遠に続く
ーーー↓↑ーー
「数学での等価記号」の「=」だが、コトバは「あるコトバ」を「否定」スルことによって「等価記号」で示すコトが出来る・・・
「リンゴ・林檎」≠「ミカン・蜜柑」
「リンゴ・林檎」=「ミカンではない・否ミカン・非蜜柑」
「リンゴ・林檎」=「ミカンではないが、果物である」
「リンゴ・林檎」=「果物であるが、ミカンではない」
ーーー↓↑ーー
・・・TVのニュースでは林檎を丸ごと齧(かじ)って、スマートフォンでその齧った林檎の歯型を映して歯の検診をしてくれるシステムがあるそうだ・・・林檎生産農家の人が考え出したモノらしい・・・
で、そのオジちゃんだが、ボクに不思議な質問をしてきたのだ。ある数字に「0=ゼロ」を掛けたらナゼ「ゼロ」になるのか、と云うコトであった・・・ボクもその意味を理解してはいなかった。だが学校で教えられた「丸々暗記」である。オジちゃんは算盤も利用し、帳簿も几帳面に「加減乗除」で記録、記入できるヒトだったのに、「0=ゼロ」自体を計算で「他の実数(整数)に掛けたコト」がなかったのカモ知れない・・・そして、オジちゃんの「不思議」は、ボクの「不思議」にもなった・・・ナゼ、「0=ゼロ」自体を「一京・一兆・一億・一萬・一千・一百・一拾・一・0」等の他の数字に掛けても「0=ゼロ」になってしまうのか・・・
・・・答えは「丸=まる=マル=円=圓=摶=満留=萬留」の枠内にスベテが存在する、と云うことである・・・では、その「マル」とはナニか、と云えば、数字概念の「不思議(不可思議・摩訶不思議)を超える数字の無限連続」であった・・・
数字の実数は「無限なモノ=0」を区切る「有限な数量範囲を示すモノ」である。ソレに「掛ける0」とは、当然「無限なモノ=0」に埋没する、と云うコトだ。「割る0」とは、当然「有限なモノ」を「無限に埋没させる」と云うコトだ。そして、「有限」とは「0=無限」の中に設定した「枠」であり、その「有限枠の加減(+-=0)」のスベテである・・・その「有限」に「カケるゼロ」とは「無限=0=スベテ」に戻す、と云うコトである・・・
N=0・・・-4-3-2-1←「0」→+1+2+3+4+・・・N=0
「0=ゼロ」で折り曲げても、加減計算は「+-=0=スベテ」である。これが「自然界の対称性」である。
他の数字の計算は
「人間の合理的な数字増減の認識計算方法」でしかない。「乗除計算」は「有限の枠内=整数」に「0=スベテ」で「乗除」すれば「0=スベテ」である。
「(-N)=0=(+N)」の「±N」とは「0=ゼロ=スベテの枠内」の「有限」の在り方でしかない・・・「±N」は「0=ゼロ」に埋没している「部分」でしかない・・・
で、折り曲げる「0」を「+1」あるいは「-1」にズラスとどうなるのか。「0」は「±1」に重なると・・・
「N=N+1」か「N=N-1」
-N ・・-4-3-2-1←0→+1+2+3+4+・・・+N
0
(+1)→+2+3+4+
-1-2-3-4・・・+N+1
-N ・・・-4-3-2←(-1)
+4+3+2+1 0・・・N=N-1
「0=ゼロ」で折り曲げた「対称」数字の
掛け算の乗計算は
「±(N²)=±(N)×±(N)」→「+(N²)」or「-(N²)」
割り算の除計算は
「(±N)/(±N)=(±N)÷(±N)=±(1)」
だが、「±N」は「0」の枠内である・・・
自然科学で「認識できる物質存在」が「実数」で計算できるならば「不思議」は無いデある・・・論理矛盾は「無限の中に有限」が「存在する」と云うコトである。それは「計算上、無理数のモノ」であっても同じである。「無限」のコトバは、ここでは「有限」認識の「対象性」ではないし、「等価(=)」としての「対称性」でもない・・・
「無限」>「有限」
であるなら、
「無限」のコトバは
「スベテのモノ=全部=全有」
と替えたほうがイイだろう。前提的に「無」は「存在しないモノのコトバ」だから・・・
当然、「数学」の「対称性・非対称性」は「ゼロ枠」の「有限なモノ」を前提的に「認識対象」にした「対称性・非対称性」である・・・底存在するモノは「無」ではない。「有」である。「無」とは「人間の脳ミソにのみ巣食うコトバ」である・・・「0=ゼロ」≠「無」であり、「0=ゼロ=全有」である・・・そして「全能の神」ではなく、「全有の自然」である。
「0=ゼロ=全有」とは
「対象認識」はされているが、
未だコトバとして認識組織化されていない「対象存在」である。「無」ではない「底存在」する「アルもの」の論理的な認識コトバとしての整合性である。
「無」は「仮想」として「脳ミソ」に非対象性としのみ巣食っているモノである・・・
「ゼロ=0=全有」、それは、モチロン、現在的な人間認識としての「超常現象」も含めた「未知な存在」のスベテである。
やっかいな問題は脳ミソ領域でのカミをも含めた実体の無い「空想物・妄想物・想像物」である。これらのモノは「実体」として未来的に存在させられる可能性のあるモノもある。
人間の認識対象に対する「数理的な整合性」は「空想物・妄想物・想像物」であろうと、その可能性を設計し、創り出してきた。
だが、その「創造物」の材料、原料は「現物」であり、「現物」なしでは不可能である。
「人間の創造物・造形物」は「存在」するモノの「構造認識、形態認識」がナイ限り、あり得ない。
「無想(想い自体が無)」
と
「空想(想い自体が空)」
は同じコトバ(概念)ではナイ・・・
「空」は視覚的な動的認識対象である。
仏教で云えば「色即是空=空即是色」である。ここでの
「空」とは存在のスベテであり、
「色」とは脳ミソに「認識」されたコトバである。
そして、自然科学での「0」とは
脳ミソの認識、記憶、思考、判断の空間領域で、
未だ認識されていない対象存在のスベテであり、
認識されていても
コトバとして存在に対する論理性、整合性を
未だ有していないモノ、
仮定段階のモノと云うコトに尽きる。
では、
人間社会(社会科学)での「0=ゼロ」とはナニか?・・・
人間社会の人間諸関係での「不合理な生活の認識」は「色(色情=愛欲)の悟り」だけではないコトは確かである。「所為色列=以色列=イスラエル」の漢字が「以色列」とアテラレタのは尤(もっと)もなコトである・・・「意賂(イロ)」であるカナ・・・
「犹大 Yóudà=ユダ=猶太」≒「以色列=イスラエル」
「犹他 Yóutā=ユタ=猶太」≒「以色列=イスラエル」
・・・ナゼ、「国家」として分裂したのか?・・・「人間の生き方」の相違であったのか・・・「十戎」を守れない「人間のエゴ」・・・「ネタミの神」ではムリである・・・
「ユダヤ、ショクをモってレツする」・・・
記号的には「≠」ではないが「≒」である。「=」ではない・・・「近似」である。モチロン、「漢字字形」は異なっている・・・
「空即是色、色即是空」の文字仮名交換、文字代替である・・・
「空=ゼロ=全有(存在)」、「ゼロ=色=識(識別)」・・・
多分、「旧約(舊約)」を読んだ人びとは原則的には自分自身の「労働の交換対価」の「+-」の「0=ゼロ」であるコトに気付いていただろう。
しかも、「個々人の労働交換の対価」ではない、「社会的な人間協働社会の総労働」としての「社会的交換対価」であるコトを・・・
コトバを変えれば「生産物の社会的な公平分配」である。人間個々人の「労働能力=生産能力」は「平等」ではない。それに「社会的協働分担」の職種は様々である。老若男女、健常者、非健常者、知識力、体力も異なって存在する。先ずは「衣食住」と「医療」の社会的な公平保障である。これらは「社会的な人間協働社会の総労働=総生産」の枠内での「公平な分配」であり、これらの配分後の「総生産」の「余剰」があれば、それは「公共財産」としての予備として「蓄積」されるモノのだ。・・・明治のインテリは「公」の漢字も「民」に交換すべき漢字であったろう・・・
「社会的な人間協働社会の総労働」とは「社会的労働時間の総体」でもある。そして、「剰余」とは「社会的総労働の総体に含まれる部分」である。当然、この「剰余」は「社会的に使用」されるか、あるいは「剰余時間=消費時間=余暇時間」として「総労働時間」からの「+-=0」として交換使用されるモノである。
だが、個々人の「消費時間の分配=蓄積された労働時間の配分=労働から解放された余暇としての自由使用の時間配分」は、公平配分されるが、その時々の「社会的状況」と「個々人の事情」による。地球人全員が同時期に「お祭り・クリスマス」と云うワケにはいかない。社会的生活の中で、個々人の「自由な消費時間帯」のローテーション(rotation)が必要だろう・・・
これらの「論理」は一見すると、今現在の社会システムと同じように見えるカモ知れないが、「総労働=総生産=総消費」に「私有」は無い、と云うコトであり、個的に配分された剰余労働の「私的相続」は無い、と云うコトに尽きる。それは「公的」に個々人に配分された「衣食住+医療」の生産物に於いても、「自由な消費時間帯の余り」に於いても、人生が終われば、「0=ゼロ=全有」として協働社会に「還元」される。
↓↑
・・・「オバちゃんのクロウ」・・・
時たまオバちゃんは小さいボクに「赤毛と縮れ毛のオンナは意地が悪いからネッ、お前も気をつけて」であった。特にそのコトバはオバちゃんの母親を「苛(虐)めていたヒト」の印象でもあったらしいが・・・多分、職場でオバちゃんを「苛(虐)めていたヒト」の一般的な印象でもあったろう。オバちゃんの母親は気が強く、勝ち気で、付き合う合う人間の上下関係を無視して好き嫌いがハッキリしている女性であった。それで、その人にはハッキリと「善悪」を云うか、時には道で出逢っても全く相手を無視する態度をとったらしく、「仕事先」で支障をきたすコトもあったらしい・・・だが、オバちゃんは相手がどんな人にでも愛想よく付き合っていた。我慢と忍耐がオバちゃんの生き方で人前で相手を悪く言うことは皆無だったが、自分の家族親戚は褒めすぎで、オジちゃんには「自分の身内はホメルもんではない」と云われていた。ボクは時たまオバちゃんの苦労ばなしと愚痴を聞かされたが・・・ある時、「クロンボが怖い」と云っていたので、その「クロンボ」の意味と理由を訊いてみると「クロンボは見たことが無いけれど、聞いたハナシ」とのコトだった・・・どうやら「黒人」のコトではないようであった。住んでいた所は「炭鉱」だったから・・・穴から出てきた労働者の顔は「まっ黒け」・・・
それに、オバちゃんは当時としても「血液型」での人間関係の「相性」には敏感であった・・・その「科学的根拠」はないようであるが、「相性」に関する「直観」は相互な人間関係で、現実的に騙されやすい人間の防御策としては不可欠だろう・・・特に経験的に騙された人間には・・・「イイコト云う奴には注意しろ」だが・・・「相性過信」がワナでもアル・・・
オバちゃんは、その生涯で「海を見たコト」がなく逝ってしまったヒトでもあったが・・・「海を見たい」とも云わなかった。本当はドウだったんだろう・・・オバちゃんがジィ~ッと眺めていたのは一息ついて、橋の上で佇み、その下を流れる黒い川だった・・・
ーーーーー
旧約聖書
約伯 記
ヨブ・・・「与分・余部」記
・・・・呼ぶ記(紀)
第39章
39:1
あなたは
岩間の
やぎが子を産むときを
知っているか。
あなたは
雌じかが子を産むのを
見たことがあるか。
39:2
これらの
妊娠の月を
数えることができるか。
これらが
産む時を知っているか。
39:3
これらは
身をかがめて
子を産み、
その
はらみ子を産みいだす。
39:4
その子は
強くなって、
野に育ち、
出て行って、
その親のもとに帰らない。
39:5
だれが
野ろばを放って、
自由にしたか。
だれが
野ろばの
つなぎを解いたか。
39:6
わたし(わたくし・ム・よこしま・私)は
荒野を
その家として与え、
荒れ地を
そのすみかとして与えた。
39:7
これは
町の騒ぎを
いやしめ、
御者の呼ぶ声を
聞きいれず、
39:8
山を牧場として
はせまわり、
もろもろの青物を
尋ね求める。
39:9
野牛は
快く
あなたに仕え、
あなたの飼葉おけの
かたわらに
とどまるだろうか。
39:10
あなたは
野牛に手綱をつけて
うねを歩かせることができるか、
これは
あなたに従って
谷を耕すであろうか。
39:11
その力が
強いからとて、
あなたは
これに頼むであろうか。
また
あなたの仕事を
これに任せるであろうか。
39:12
あなたは
これにたよって、
あなたの穀物を
打ち場に
運び帰らせるであろうか。
39:13
だちょうは
威勢よくその翼をふるう。
しかし
これには
きれいな羽と羽毛があるか。
39:14
これは
その卵を
土の中に捨て置き、
これを
砂のなかで暖め、
39:15
足でつぶされることも、
野の獣に
踏まれることも忘れている。
39:16
これは
その子に無情であって、
あたかも
自分の子でないようにし、
その
苦労のむなしくなるをも
恐れない。
39:17
これは
神が
これに知恵を授けず、
悟りを
与えなかった
ゆえである。
39:18
これが
その身を起して
走る時には、
馬をも、
その乗り手をも
あざける。
39:19
あなたは
馬にその力を
与えることができるか。
力をもって
その首を
装うことができるか。
39:20
あなたは
これを
いなごのように、
とばせることができるか。
その
鼻あらしの
威力は恐ろしい。
39:21
これは
谷であがき、
その力に誇り、
みずから出ていって
武器に向かう。
39:22
これは
恐れを
あざ笑って、
驚くことなく、
つるぎをさけて
退くことがない。
39:23
矢筒は
その上に鳴り、
やりと
投げやりと、
あい
きらめく。
39:24
これは
たけりつ、
狂いつ、
地を
ひとのみにし、
ラッパ
の音が鳴り渡っても、
立ちどまることがない。
39:25
これは
ラッパ
の鳴るごとに
ハアハア
と言い、
遠くから戦いを
かぎつけ、
隊長の大声
および
ときの声を聞き知る。
39:26
たかが
舞いあがり、
その翼を
のべて
南に向かうのは、
あなたの
知恵によるのか、
39:27
わし
が
かけのぼり、
その巣を
高い所につくるのは、
あなたの命令によるのか。
39:28
これは
岩の上にすみかを構え、
岩のとがり、
または
険しい所におり、
39:29
そこから
獲物をうかがう。
その目の及ぶところは
遠い。
39:30
その
ひな
も
また
血を吸う。
おおよそ
殺された者のある所には、
これも
そこにいる」。
ーーーーー
・・・「ソ連(ロシア)」は「理不尽な国家」であった・・・「ユダヤ人の迫害、弾圧」・・・もちろん、「帝国日本」もであった・・・「迫害・弾圧」は「人種・民族・国籍」には関係ない。「人種・民族・国籍」は紛争、戦争、虐殺、弾圧、迫害の「支配階級のイイワケ」である。「兵士」は「国家と云う宗教幻想を振り撒く支配階級の人身御供」であるに過ぎない。「生きている間は金銭売買で飼育され、銃を持たされている家畜」で、「闘鶏」である・・・そして「人間同士への迫害・弾圧のテコ」でもある。戦後の「日本(国)憲法」が「自虐思想」であるなどとダレが云っているんだか。「人間」としての立場を欠落させるのは「国家」である・・・
そして、靖国神社のトイレに時限爆弾・・・「死者への怨恨」が目的で「生きている人間の殺傷」を目論むとはアサハカな奴である・・・そんな暇があるなら「人間を生かすコト」をヤレッ・・・