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コジキジゲン

「倍返し」に「蔀(しとみ)」はナイ?

2013-09-24 15:29:09 | 古事記字源
 ・・・九月二十一日・・・ケニアのナイロビのテロ事件・・・商業施設「ウエストゲート・ショッピング・モール」を襲撃・・・「キチガイ(発狂人)にハモノ」、「狂信者に銃」でなくても・・・「正常人も武器」を持てば「市民社会」で殺人を犯す・・・武器を持たなくても無防備な他人を「素手でも殺(や)る」・・・「瘋(フウ・ホウ)」=「疒+風」とも表記・・・「疒(やまいだれ)」の「風(かぜ・フウ)=几+ノ+虫」で、「虫(むし・チュウ)」は「地を這うモノ」だが「虫=中+ム(よこしま・シ→私)」で、更に「ム=む」である・・・「瘋」は「風邪」や「インフルエンザ」じゃぁないんだ・・・「キ印」は・・・「虫一匹」も殺せない「人間」が・・・「心の中のム(邪悪)」で豹変する・・・
 「狂(くるう・キョウ)」=「犭+王」の漢字を観ていると、この漢字はツクヅク日本人が「己自身のモノ」にした「カンジ」だと、思う・・・

 「狂う」は「痴呆=ボケ=認知症」ではない。「獣(けもの)」になった「王」である。類字の「枉=木+王」は「まがる・まげて・オウ」である・・・「曲げる」は「曲(キョク・コク・まげる)」で、「よこしま(邪)」とも訓じる・・・

 「王(おう)」は「玉(たま)=王+ヽ」が「元々(本々・もともと)」の「漢字」だったらしいから・・・「ヽ(テン・印し)」は「瑕=きづ=疵」の意味らしいから「きづ・テン」が除かれた「王」は人間ではなくなった・・・元々「玉(たま)」とは「瑕=きづ=疵」の有るもの、「不完全」で「キヅ」を有する「霊魂=タマしい=魂魄(コンパク)=心」と考えたのだろう。「全能の一神は完全」で「人間は完璧・完全」ではないと・・・「弄」=「王+廾(キョウ・ク)」、「玩」=「王+二+儿」で、「他人の命」を「玩(もてあそぶ・ガン)」、「玩具(おもちゃ)」にする「アたま=頭」が「オカシク(凶暴化)」なった「支配者・独裁者・専制主義者・指導者」なんだろう・・・そいつ自身の個人の仕業か、あるいは、彼の「意思」と、その「意志・命令」に盲従、追従し実行する徒党(凶暴化)集団・・・「命令」はコトバの「命」の「令」である・・・

 合体漢字の左右、上下の部首文字は「左・上」が「主語」で、「右・下」が「説明述語」だろう・・・合体漢字の読みの順序は左右、上下、上の左右、下の左右であろう・・・「狂=獣になったのは王」、「弄=王は廾(こまねく)、あるいはサ(唆・そそのかす)」、「玩=王は二(次・二心)の人」・・・前回記した「旧約のレビ記=モーゼ」は「神の言葉」でなくてもイイ。「無心論者」でもあっても「人間個々人相互の社会」での「アタリマエの掟=法」である・・・時代的状況を踏まえても人間の「社会原則」は「だますな・ぬすむな・殺傷するな・差別するな」である・・・家族は勿論、隣人にも、(外国)居留人にも・・・そして「七日目、七月目、七年目」と「七×七」は、この「社会原則」の「反省の点検時期」である・・・

ーーーーー

 枕草子

 (一四二段)・・・百四十二段・壱佰四拾弐段・壱四弐段・陌肆足仁段

          1+4+2=7=七=漆

          1×4×2=8=八=捌

 つれづれ・・・徒然→トゼン=賭全

 なるもの・・・名留摸之→鳴る摸埜

 所・・・・・・ところ・常呂・ジョ・序・叙・除

 さりたる・・・作理他留

 物忌。・・・・ものいみ・摸之意味

 馬・・・・・・うま・宇摩・得真・バ・場・歯・葉

 おりぬ・・・・降りぬ・下りぬ・居りぬ・織りぬ

        於理塗・緒理貫

 雙六。・・・・すごろく・双六・ソウリク・総理矩

 除目・・・・・じもく・耳目・字摸句

        のぞくめ・覗く目・覘く目

        除目(じもく・じょもく)

        平安中期以降の京官、外官の諸官を任命

        任命儀式自体・宮中の年中行事

        任官した者を列記した帳簿の除書

       「除」は前官を除いて新官を任ずる

       「目」は目録に記すこと

 官・・・・・・カン・漢・巻・刊・換・奸

        カン発音の同音異字のスベテ

 得ぬ・・・・・

 人の・・・・・ひとの・比賭之

 家。・・・・・いえ・云え・言え・謂え・居得・射得

        カ・可・化・仮

        歌・過

        花・椛・華・荷・茄

        渦・禍・佳

        靴

        蝦・鹿・蚊

        掛・加・科

 雨・・・・・・あめ・あま・ウ

 うち・・・・・得知

 降り・・・・・ふり・振り・付利・不利・不離

 たるは・・・・他留葉

 まして・・・・真詞出

 徒然・・・・・つれづれ

 なり。・・・・名理

ーーーーー

 ・・・まして、「徒然草」の「兼好法師の成り(生り)」である・・・以下はウイッキペデアやブログ記事を参考、参照した抜粋記事を若干改作したモノ・・・

ーー↓

 吉田兼好

 弘安六年(1283年)頃?

  ~

 文和元年・正平七年(1352年)以後?

 治部少輔

 卜部兼顕の子

 本名

 卜部兼好

 (うらべ かねよし・うらべ の かねよし)

 執筆後、約百年間は注目されなかった・・・?

 同時代の史料に

 「徒然草」の言及は皆無・・・?

 室町中期に

 僧

 正徹が

 写本し作品が兼好法師のものとし注記・・・?

 だいたいからして「正徹」自体が怪しい人物である・・生まれたのは備中、岡山県岡山市である・・・和歌を「今川了俊」に学んだ人物であるらしく、「キビ団子」と「今川焼き」のかさなりである・・・

ーーー↓

 清巌正徹

 永徳元年(1381年)

  ~

 長禄三年五月九日(1459年6月9日)

 神戸山城主

 小松康清(または秀清)の

 次男

 幼名は

 尊明、

 または

 尊明丸

 長じて

 正清(信清とも)と名のった 

 室町時代中期の

 臨済宗の歌僧

 道号は「清巌」

 庵号は招月庵

 石清水八幡宮に仕える祀官一族の出身

 父は

 小松康清、

 備中国小田郡(岡山県岡山市)の

 小田荘の知行主

 俗名は正清

 和歌を冷泉為尹と

 今川了俊に学ぶ

 藤原定家を崇拝・・・百人一首の撰者である

 応永二十一年出家

 法号を正徹と号

 京都

 東福寺の書記で

 徹書記とも呼ばれた

 「正しさ」に「徹する」・・・問う附句字の書記であるかな・・・

ーー↓

 江戸時代には

 加藤磐斎の

   ↓

 加藤磐斎

 寛永二年(1625年)

  ~

 延宝二年八月十一日(1674年9月10日)

 歌人、俳人、和学者

 出生地は摂津国山田

 通称は新太郎

 軒号は踏雪・臨淵

 号は冬木斎・等空・磐斎

 「清少納言枕草子抄」の著

   ↓

 「徒然草抄・(1661年・寛文一年)」

ーー↓

 北村季吟の

  ↓

 北村季吟(きたむら きぎん)

 寛永元年十二月十一日(1625年1月19日)

  ~

 宝永二年六月十五日(1705年8月4日)

 京都で生まれる

 歌人、俳人、和学者

 名は静厚

 通称は久助・ 再昌院

 別号は慮庵・呂庵・七松子・拾穂軒・湖月亭

 祖父は宗竜

 父は宗円

 ともに

 近江野洲郡北村(滋賀県野洲町)の

 医師で、連歌をよくした

 二十五歳で俳書

 「山の井」を出版

 六十歳で新玉津神社宮司

 六十六歳で幕府の歌学所に入って、

 法印まで昇進

 「徒然草文段抄」・「源氏物語湖月抄」

 「枕草子春曙抄」・「八代集抄」・

 「万葉集集穂抄」など古典注釈

 芭蕉は、

 旧主蝉吟の縁故で

 季吟の門下に入り、

 秘伝の免許皆伝の証しである

 「埋木」を与えられたらしい・・・「埋木(うめき・マイボク・バイボク)」は「埋(うめ・生・楳・梅・宇目・倦・)られたキ」で、「ウマるキ」の「呻き(うめき→得目規)」だろう・・・?

 ・・・「大日本史」は「徳川光圀(梅里)=水戸黄門」の編纂だった・・・

ーー↓

 徳川光圀

 常陸国水戸藩の

 第二代藩主

 諡号は「義公」

 字は「子龍」

 号は「梅里」

 神号は

 「高  譲   味   道根  之 命」

 (たか・ゆずる・うまし・みちね・の・みこと)

 水戸藩初代藩主

 徳川頼房の三男

 徳川家康の孫

 彰考館を設立

 「大日本史」を編纂

 生年月日は

 寛永五年六月十日

 1628年7月11日

 死没

 元禄十三年十二月六日

 1701年1月14日

ーーー↓埋木(秘伝奥義)

 「此の書は家伝の深秘といえども、

  宗房生、俳諧執心浅からかざるによって、

  書写を免じて、

  且つ

  奥書を加うるものなり。

  必ず、

  外見有るべからざるもののみ

  延宝二年弥生中七・・・・・延宝(延寳)二年二月十七日?

               延宝二年(甲寅)二月(丙寅)

               1674年3月24日

                ↓

               五年

               延宝十勝沖(陸中)地震

               延宝房総沖地震

               六年

               宮城県北部沖地震

                ↓

               清国

               康熙十三年

               鄭氏政権・永暦二十八年

               楊起隆・広徳二年

               呉三桂・周王元年

               朝鮮

               李氏

               顕宗十五年

                ↓

               寛永通宝四貫=金一両と定める

               古銭の通用を停止

               江戸市中のを改める

               アントニ・ファン・レーウェンフック

               細菌を発見

               トーマス・ウィリス

               糖尿病存在を確認

  季吟 花押」

ーー↓

 「徒然草文段抄・(1667年・寛文七年)」の

 注釈書がある・・・

 写本は江戸時代のものが多く、・・・?

 室町時代のものは非常に少ない・・・?

 ・・・本人も実在しなかったのでは・・・?・・・

 だが、内容は「人災」と「天災」の記述と、それからの「解放」である・・・「諦め」ではない、それらの「明らめ」と、それからの「解放」の「客観主義的」な、「傍観主義者的」な個人的願望であろう・・・「庵」を結んで住んでいたのだから・・・?・・・「生きてイオリ生活」が出来る奴って・・・何者?・・・

コメント
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今川=コンセン・キンセン→混線・根釧(根室・釧路)→謹撰・金銭

2013-09-22 23:29:12 | 古事記字源
 ・・・チョコレート、「花梨等」、「駄菓子」、甘い物は何でも大好きだけれど・・・人生、そんなにアマイモノではない・・・喰えるうちが人生である・・・時たま硬い花梨等を買って、口にして歯応え、噛み砕きに「シマッた」と・・・「銅鑼(ドラ)焼き」とか、「今川焼き」は軟らかく美味しいけれど、咽喉に詰まる・・・「花梨等」はナゼか「糖」ではなく、「等」である・・・「花(はな)の梨(なし)」が「等しい」とは?・・・
ーー↓ウィキペディア

 「カリン(榠樝=メイサ(meisa)・学名はChaenomeles sinensis)」は

 バラ科の落葉高木で、果実はカリン酒などの原料

 マメ科の「カリン(花梨)」とは全くの別種・・・?

 「榠」=「呉音→ミョウ(ミャゥ)・漢音→メイ(メィ)」

 「樝」=「こぼけ・サ・シャ」=木+虍+且

 の漢字使用には

 「山樝子」=さんざし=「山査子」と言う「健胃・整腸」の薬草名がある

 「呆け・惚け・暈け」で、ボケ・・・

 「ボケ属」としての表記が多いが、

 「C. K. Schneider」 は「カリン属として一属一種」説を発表している。

 「マルメロ属」の果実も

 「かりん」と称されることがあるが、

 正しくは「マルメロ」である(ウィキペディアの説明)・・・

 ・・・「ボケ」に効くのか、利かないのか・・・ボケを装って、聴衆、観衆、観客をマルメろ・・・なんだか・・・

 「カリン(榠樝)」の

 別名は

 「安蘭樹(アンランジュ)」

  中国では

 「木瓜(モッカ)」と書く・・・きうり、胡瓜、窮理、究理だろう・・・

  ボケ属の学名は

  ギリシャ語の

 「chaino(カイノ・開ける)」+「melon(リンゴ)」が語源

 「裂けたリンゴ(林檎)」の意味・・・?・・・「梨(pear・a pear tree)」じゃぁないんだ・・・漢語の「梨子(ライシ)」の転じたもの・・・楊貴妃の食べた「ライチ=レイシ(荔枝・茘枝・Litchi chinensis)」は「梨子」とはチガウヨナッ・・・「ナシ」は「忌み言葉」であるらしいが泥棒よけに鬼門の方角に植えて「鬼門無し」と、したとか・・・

 ・・・「カイノ=開ける」と「裂ける」は異なるコトバだと思うが・・・「甲斐、之」、「割ける・避ける」・・・で、「甲斐=武田家臣団、之、サケル」・・・?

 漢字の見た目が似ているけれど

 「梨(利+木)」→「裂(列+衣)」・・・?

 共通文字は「り」だけ・・・

  ↓

 「生薬名」を

 「和木瓜(わもっか)」

 (和木瓜を「ボケ」や「クサボケ」、あるいは

  カリンを「木瓜(もっか)」とする人もいる)

  日本薬局方外生薬規格に於いては

 「カリンの果実」を「木瓜」と規定

  日本の市場で「木瓜」として

  流通している実は

 「カリン(榠樝)」である・・・らしい・・・

 古くから民間療法で

 咽喉の炎症を抑える、咳止め、利尿に利用

 種子に含まれる

 アミグダリンの

 加水分解した成分

 ベンズアルデヒドが、咳止効果

 (ただし、アミグダリンは加水分解で

  猛毒の

  シアン化水素も発生)・・・

 ・・・能登(能都)の

 ・・・延焼(煙硝・焔硝・艶笑)

 ・・・編み愚拿臨(アミグダリン)、

    仮推(加水・化垂・可推)した

    成文が(成分・正文・聖文・精分)

    弁ず、有る出、比度(ベンズアルデヒド)・・・?

    籍賭目考課(咳止効果・堰留高架)

 ・・・思案・試案・私案(シアン化水素)・・・?

  ↓

 「マルメロ属」の果実も「かりん」・・・

  マルメロの名前は、

  ポルトガル語の「Marmelo」 を

  英語読みしたもの

 「マーマレード」の語源は、

 「マルメロ」らしい・・・

 長野県の

 諏訪地方の・・・諏訪タイヘン

 特産品で、

 ここでは

 「マルメロ」のことを

 カリンと呼ぶ・・・

 出雲から逃げてきた大国主の子供の

 「諏訪地方」ですか・・・

 ↓

 薔薇(ばら)科

 学名

 Chaenomeles sinensis(中国の)

 Chaenomeles(ボケ属)

  Chaenomeles

 (カエノメレス)は、・・・?

  変、之、目、例、諏・・・?

 ギリシャ語の

 「chaino(開ける)」+「melon(リンゴ)」が

 語源で、

 「裂けたリンゴ」の意味・・・?

 ・・・「melon」は「甜瓜(メロン・檸檬)で、

 檸檬(レモン)・・・

ーー↓

 チョコレートは明治・・・だろう・・・

 ↓

 知古辣、知古辣他、貯古齢糖、貯古令糖、貯古冷糖、

 猪口齢糖、猪口令糖、猪口冷糖、千代古齢糖、血汚齢糖

 「貯古齢糖(チョコレート)」

 東京・両国

 若松町にあった

 米津風月堂(東京風月堂)店主

 米津松造氏が

 明治十一年(1878年)

 十二月二十四日の・・・・実記印刷記録示・・・

 「かなよみ新聞」に・・・仮名読新聞・・・

 チョコレート(猪口令糖)の

 広告(コマーシャル)で

 「当て字」にしたモノらしい・・・

 別のブログ記事には

 日本でチョコレートが、

 初めて販売されたのは

 明治十年(1877年)頃

         ・・・コロはアバウト(推理・推測)・・・

 ・・・駄菓子で、「拿可視」であろうか・・・

 ・・・「今川焼き」は咽喉に詰まって噎(む)せるが

 「手習い、手本の原点」である・・・「今川」はコンセンである・・・

 ↓

 今川義元(氏元)

 ↓

 永正十六年(1519年)

 今川氏親の

 五男として生まれる

 母は

 寿桂尼

 (中御門宣胤の娘)・・・宣胤(センイン)

 四歳で仏門

 臨済宗の駿河富士郡瀬古の

 善徳寺に預けられ

 栴岳承芳(せんがくしょうほう)

 梅岳承芳(ばいがくしょうほう)

 と称し、

 教育係の

 臨済僧

 太原雪斎と共に京都に上り、

 五山に学ぶ

 駿河に戻り

 天文五年(1536年)に

 今川氏輝が急死後に

 還俗し

 征夷大将軍

 足利義晴より偏偉を賜り、

 義元と名乗って家督を継ぎ

 駿河国及び遠江国の守護大名

 今川氏

 第十一代当主となった。

 武田信玄や

 北条氏康とは義兄弟にあたる

 弘治元年(1555年)

 第二次

 川中島の戦いで

 武田晴信と長尾景虎との

 両者を仲介し和睦を成立させた

 天文二十二年(1553年)

 二月には

 大永六年(1526年)四月に

 今川氏親が定めた家訓

 三十三条からなる

 「仮名目録」を

 分国法として

 「仮名目録追加二十一条」を制定補訂

 寄子の扶養に関する保護規定など

 社会保障制度に類似のものも記載・・・?

 ↓

 家訓(カクン)

 子孫の戒めとして家の当主が書き残して与えた

 手本は中国の

 「顔氏家訓」などで、家族の道徳を述べたものが、

 日本に移植されたもの

 天文二十三年(1554年)

 甲相駿(コウソウスン)三国同盟

 甲斐・相模・駿河の

 武田信玄・北条氏康・今川義元の

 三者の合意の和平同盟

 善徳寺の会盟とも呼ばれている

ーーーーー↓

 足利学校

 遺蹟図書館

 蔵書約三万二千冊

 古書約一万七千冊

 郷土資料約四千冊

 日本史関係等参考図書約一万冊

 古書は、宋版(南宋時代の刊本)や

 室町時代の写本を多く含み、

 足利文庫、足利学校や

 足利市の歴史に関する資料がある

 宋刊本文選(金沢文庫本)二十一冊

 南宋刊本(金沢文庫に蔵されていたもの)を

 1560年(永禄三年)に

 後北条氏が足利学校に寄進

 宋版礼記正義三十五冊

 宋版尚書正義八冊

 五経正義の南宋刊本

 上杉憲実が足利学校の公用に寄進した旨の墨書

 宋版周易註疏十三冊

 南宋刊本・・・上杉憲実の子、上杉憲忠の寄進

 足利学校旧鈔本四種十九冊

 「周易」五冊

 「周易伝」三冊

 「古文孝経」一冊

 「論語義疏」十冊

 室町時代中に足利学校で

 教科書として使用するため

 刊本から書写した写本

 宋刊本附釈音毛詩註疏三十冊

 「毛詩正義」の南宋刊本(上杉憲実寄進)

 宋刊本周礼二冊

 南宋刊本(1449年に足利学校に寄付の墨書)

 宋刊本附釈音春秋左伝註疏二十五冊

 「春秋正義」の南宋刊本(上杉憲実寄進)

 宋版唐書列伝残巻二十二冊

 上杉憲実が足利学校に寄進した

 「新唐書」の南宋刊本残巻は

 長澤規矩也によって足利学校に戻された

ーー↓

 「今川状」・・・いまがわ状

  コンセンジョウ・・・

  キンセンジョウ・・・

 今川了俊が弟の仲秋に与えた家訓

 二十三か条の道徳訓

 江戸時代に子供の

 手習い本、

 修身書とされた

  ↓

 女今川寳種

 女今川系の女性向け教訓書の典型例の一

 体裁は、本文と頭書との二段組を取っている

 本文は、

 「女今川」

 「四行×六字」の漢字仮名混じり文

 手習いの手本用として用いられたもの・・・

ーー↓

 ?・・・大塩平八郎←徳川←吉良←今川←足利←源氏(源字)・・・

 ・・・徳川家臣団には←旧武田家家臣団が臣従した

 ・・・そして、「会津」で・・・「合図」で「合通」である・・・ 

ーーーーー

 枕草子

 (一四一段)・・・百四十一段・壱佰四拾壱段・壱四壱段・陌肆足壱段

          1+4+1=6=六=陸

          1×4×1=4=四=肆

 圓融院の御はての年、

 (塩結う音の音葉出之賭詞)

 皆人御服ぬぎなどして、

 (解字務、音、伏、抜き→貫き、等詞出)

 (怪人→甲斐人→海神→灰塵)

 あはれなる事を、

 おほやけより始めて、

 院の人も、

 花の衣になどいひけん

 世の御事など思ひ出づるに、

 雨いたう降る日、

 藤三位の局に、

 蓑蟲のやうなる童の、

 大なる木の

 しろきに

 たて文をつけて、

 「これ奉らん」

 といひければ、

 「いづこよりぞ、

  今日明日

  御物忌なれば、

  御蔀もまゐらぬぞ」

 とて、

 しもは立てたる

 蔀のかみより取り入れて、

 (蔀=しとみ・ブ・ホウ)=艸+部

 さなんとはきかせ奉らず、

 「物忌なればえ見ず」

 とて、

 上についさして置きたるを、

 つとめて手洗ひて、

 「その卷數」

 と

 こひて、

 伏し

 拜みて

 あけたれば、

 胡桃色といふ

 (句留視、意賂、問、譜)

 色紙の厚肥えたるを、

 あやしと見てあけもてゆけば、

 老法師の

 いみじげなるが手にて、

   これを

   だに

かたみと

思ふに

都には

   葉

   が

   へ

   や

   し

   つる

   しひ

   しばの袖

 とかきたり。

 あさましく

 ねた

 かり

 ける

 わざ

 かな。

 誰がしたるにかあらん。

 仁和寺の僧正のにやと思へど、

 よもかかる事のたまはじ。

 なほ誰ならん。

 藤大納言ぞ

 かの院の別當におはせしかば、

 そのし給へる事なめり。

 これをうへの御前、

 宮などに、

 疾う

 きこしめさせばやと思ふに、

 いと心もとなけれど、

 なほ恐しう言ひたる

 物忌をしはてんと

 念じくらして、

 まだつとめて、

 藤大納言の御許に、

 この御返しをして

 さしおかせたれば、

 すなはち

 又

 返事しておかせ給へりけり。

 それを二つながら取りて、

 急ぎ參りて、

 「かかる事なん侍りし」と、

 うへもおはします御前にて語り申し給ふを、

 宮はいとつれなく御覽じて、

 「藤大納言の

  手のさまにはあらで、

  法師にこそあめれ」

 との給はすれば、

 「さはこは誰がしわざにか。

  すきずきしき上達部、

  僧綱などは誰かはある。

  それ

  にや

  かれ

  にや」

 など、

 おぼめきゆかしがり給ふに、

 うへ

 「このわたりに見えしにこそは、

  いとよく似ためれ」

 と打ちほほゑませ給ひて、

 今一すぢ

 御厨子の

 もとなりけるを、

 取り出でさせ給へれば、

 「いであな心う、

  これおぼされよ、

  あな頭いたや、

  いかで聞き侍らん」

 と、

 ただせめに責め申して、

 恨み聞えて笑ひ給ふに、

 やうやう仰せられ出でて、

 「御使にいきたりける

  鬼童は、

 (鬼道、頗)

  臺盤所の・・・台盤所(ダイバンジョ)

         台盤を置く所

         清涼殿の一室で女房の詰め所

         食物を調理する台所

         大臣・大将など貴人の妻の称

         奥方

         御台所(みだいどころ)。

        (臺=うてな・タイ・ダイ)

        (臺→台=お膳台)

ーー↓

  刀自と

  いふものの供なりけるを、

  小兵衞が語ひ出したる

  にや

  ありけん」

 など仰せらるれば、

 宮も笑はせ給ふを、

 引きゆるがし奉りて、

 「など

  かく

  謀らせ

  おはします。

  なほ

  うたがひもなく

  手を打ち

  洗ひて

  伏し

  拜み

  侍り

  し

  ことよ」

 と笑ひねたがり居給へるさまも、

 いとほこりかに愛敬づきてをかし。

 さてうへの

 臺盤所にも

 笑ひののしりて、

 局におりて、

 この童尋ね出でて、

 文取り入れし

 人に見すれば、

 「それにこそ侍るめれ」

 といふ。

 「誰が文を、

  誰がとらせしぞ」

 とい

 へば、

 しれじれと

 うち笑みて、

 ともかくも

 いはで走りにけり。

 藤大納言

 後に聞きて、

 笑ひ

 興じ

 給ひ

 けり。

ーーーーー

 ・・・

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いざや、視よ

2013-09-20 23:57:00 | 古事記字源
 「九(玖)月(肉)」の「二十(念)日(比)」・・・天変地異は収まらず・・・今度は「衣類柔軟剤の匂い」で「頭痛や咳、体調不良」ですか・・・香る花、「ミルトス」・・・「蜜蜂の大量死亡、北半球の4分の1のミツバチ消滅」は「農薬のネオニコチノイド系殺虫剤成分(イミダクロプリド)」だとの説も・・・放射能での「汚染米」だけではないんだ。オフクロも隣接の病院に入院し、少々様態が落ち着き、帰りには台風被害を免れた「お米」の収穫を観て、勝手に「安心・安堵」の気分になっていたが・・・
 「地元北海道」はオオラカで、「いいヒトが多い」と思っていた・・・が、結構「ワルイ奴」もいるらしく、全国並みの「詐欺師集団の法人会社」も・・・コノ地方での「多発する連続鉄道事故」も、なんか「人為的な匂い」がすると思っていたけれど・・・TVがイカレて、TVニュースを見逃していたが、従姉のハナシではこの小さな町でも「事件」があったらしく、初耳だった・・・町内の回覧板にも無かった?・・「女性の腕や足には、擦過傷や打撲痕。暴行を受けた可能性もある(北海道新聞・08/29 14:32)」とのコト・・・

 ・・・

ーーーーー

 枕草子

 (一四〇段)・・・百四十段・壱佰四拾段・壱四零段・陌肆足段

          1+4+0=5=五=伍

          1×4×0=0=零

 五月ばかりに、

 (語解通、測り爾)

 月もなくいとくらき夜、

 (通記摸、納句、意図、句等紀、代)

 「女房やさぶらひ給ふ」

 (如望哉、作分等比、他真譜)

 と、

 (賭・途・渡・徒・図)

 こゑごゑしていへば、

 (声、語重→乞え→請→肥→越、詞出、意得葉)

 「出でて見よ。

  (意出、氐→弖、視代)

  例ならずいふは誰そ」

  (例、鳴らず、移付葉、誰そ)

 と仰せらるれば、

 出でて、

 「こは誰そ。・・・コレはダレだッ!?

  おどろ

  おどろしうき

  はやか

  なるは」

  (於泥、嗚度賂、詞得、記、葉也掛、納留葉)

ーーー↓

  おどろ(棘=荊棘)

  髪などの乱れているさま

  草木やイバラなどの乱れ茂っていること

  その場所やそのさま

  やぶ(藪・薮・籔)

ーー↓

 といふに、

 物もいはで、

 御簾をもたげて、

 (音素を擡げて)

 (遠祖→怨遡→恩蘇、緒→於、

     摸他解出→摸太解出)

 そよろとさし入るるは、

 (措与路、賭、作詞、意、留留→縷々、葉)

 呉竹の枝なりけり。

 (繰れ他懸、埜、重拿、那里懸吏)

 (誤知句、之、重拿、名理懸理)

 (呉知句、埜、得拿、納裏化理)

 (娯→悞、焚け→炊け→茸

      他家→嶽→武→長→建→丈)

 「おい、

 (甥→老→負→追→笈←於意←於異)

  このきみにこそ」

  (胡之、記視、爾、故蘇)

 といひたるを聞きて、

 「いざや、

ーーーー↓

  (イザヤ→イザヤ書)

         ↓

      「イザヤ書」

       旧約聖書の一書

       三大預言書

       イザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書の一

       伝承では紀元前8世紀の預言者イザヤに帰す

       プロテスタント教会の一般的な配列では

       旧約聖書の

       23番目の書

        ↓

       1の2

       天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、

       主が次のように語られたから、

      「わたしは子を養い育てた

       しかし彼らは私に背いた

       1の3

       牛はその飼主を知り、

       驢馬はその主人の

       馬草(秣)桶を知る。

       しかし

       イスラエルは知らず、

       わが民は悟らない

       ↓

       旧約聖書〈預言者〉の冒頭に収められ

       預言者イザヤの名を冠した預言書

       イザヤ以後、前二世紀までの間に

       繰り返し

       加筆、編集

       他の預言集と合体され

       現在の形態をとる

       ↓

       元前八世紀、

       国家の崩壊を目前にした

       イスラエルの

       十部族と

       南ユダ王国

       二部族に対し、

       イザヤが南北の

       同朋に警告

       ↓

       旧約聖書

       66巻

       イザヤ書

       66章

       イザヤは

       前760年頃、

       アモツの息子として生まれた

       ユダ王国の

       王

       アハズの治世に活躍

       ↓

       アモツの子イザヤが

       ユダとエルサレムについて

       見た幻(幻覚)

       ユダの王、

       ウジヤ、

       ヨタム、

       アハズ、

       ヒゼキヤ

       の治世

       ↓

       イザヤ書・

       55章の1

       ああ。

       渇いている者はみな、

       水を求めて出て来い。

       金のない者も。

       さあ、

       穀物を買って食べよ。

       さあ、

       金を払わないで、

       穀物を買い、

       代価を払わないで、

       葡萄酒と

       乳を買え

       55章の2

       なぜ、あなたがたは、

       食糧にもならない物のために金を払い、

       腹を満たさない物のために労するのか。

       わたしに聞き従い、良い物を食べよ。

       そうすれば、あなたがたは

       脂肪で元気づこう

       55章の7

       悪者は己の道を捨て、

       不法者は

       己の謀(はかりごと)を捨て去れ。

       主に帰れ。

       そうすれば、

       主は憐(あわ)れんでくださる。

       私たちの神に帰れ。

       豊かに赦(許)してくださるから。

       55章の8

       わたしの思いは、

       あなたがたの思いと異なり、

       わたしの道は、

       あなたがたの道と異なるからだ。

       55章の9

       天が地よりも高いように、

       わたしの道は、

       あなたがたの道よりも高く、

       わたしの思いは、

       あなたがたの思いよりも高い。

       55章の10

       雨や雪が天から降って

       もとに戻らず、

       必ず地を潤し、

       それに物を生えさせ、

       芽を出させ、

       種蒔く者には種を与え、

       食べる者にはパンを与える。

       55章の11

       そのように、

       わたしの口から出る

       わたしのことば(言葉・詞)も、

       むなしく、

       わたしのところに帰っては来ない。

       必ず、

       わたしの望む事を成し遂げ、

       わたしの言い送った事を成功させる。

       55章の12

       まことに、

       あなたがたは

       喜びをもって出て行き、

       安らかに導かれて行く。

       山と丘は、

       あなたがたの前で

       喜びの歌声をあげ、

       野の木々もみな、

       手を打ち鳴らす。

       55章の13

       いばら(荊・棘・茨)の代わりに

       もみ(樅・紅)の木が生え、

       おどろ(オドロ)の代わりに

       ミルトスが生える。

       これは主の記念となり、

       絶えることのない

       永遠のしるしとなる。

       ↓

       ミルトス

       ラテン語起源の言葉

       ヘブライ語でハダス

       和名は

       ギンバイカ(銀梅花)

       ギンコウバイ(銀紅梅)

       ハーブ名はマートル

       地中海沿岸原産の常緑低木

       芳香の木

       ↓

       異訳(イザヤ55章の13)

       茨に代わって

       糸杉が

       おどろに代わって

       ミルトスが生える。

       これは、

       主に対する

       記念となり、

       しるし(記・標・験・徴・印)となる。

       それは

       とこしえに消し去られることがない。

       (イザヤ55章の13)

       ↓

       ミルトスは

       切られた後も生命力が強く、

       枯れにくく、

       干ばつ(旱魃)にも耐える木

       不死の象徴

       ユダヤ教の伝統の中では、

       臨終の床に備えたり、

       結婚式で、

       花嫁が天蓋(カノピー)の下で

       ブーケや、

       ウエディング・リ-スとして

       編み込んだモノ

      「仮庵祭」で使用される

       4つの植物

      (ナツメヤシ=棗椰子の葉・

       アラバ=川柳の枝

       エトログ=シトロン=仏手柑橘

       ミルトス=芳香の花)の一

ーー↓枕草子

  これ殿上に行きて語らん」

 (胡例、伝條爾、行記出、騙らん)

 とて、

 中將、

ーー↓

 (チュウショウ=中称→抽象→柱姓→中傷

   注章→注頌)

      ↓

      頌(ジュ・ズ・ショウ・ショゥ)=公+頁

      ↓

      かたち・たたえる・ほめる・のぶ・つぐ

      中国の詩の六義(リクギ)の一

      「風」、「雅」と並んで

      「詩経」の一分野を構成

       周王室、魯・宋(商)の諸侯が

       宗廟で祖先を讃えた神楽歌(かぐらうた)

      「古今集序」は「いはひうた」と訓ずる

      「‎賀頌・‎偈頌」

       人の徳や物の美などをほめたたえること

       また、ほめたたえた言葉や詩文

       キリスト教で、神をたたえる歌・

       頌栄

ーー↓

 新中將、

 (新注証→身中症→心中証→進駐将)

 六位どもなどありけるはいぬ。

 (録意智、納度、阿里懸留、頗意又)

 (陸尉供、名度、在り懸留、葉、入ぬ)

 頭辨はとまり給ひて、

 「怪しくいぬるものどもかな。

  御前の竹ををりて歌よまんとしつるを、

  職にまゐりて、

  同じくば、

  女房など呼び出ててをと言ひてきつるを、

  呉竹の名をいと疾くいはれて、

  いぬるこそをかしけれ。

  誰が教をしりて、

  人のなべて知るべくもあらぬ事をばいふぞ」

 などのたまへば、

 「竹の名とも知らぬものを、

  なまねたしとや思しつらん」

  (名真似、足し→他史→多詞→太史、

   徒也、重意史、吊らん→通等務)

   ↓

   生根神社(いくねじんじゃ)

   大阪市住吉区にある神社

   別名「奥の天神」

   式内社で、住吉大社の摂社

   明治時代に独立の神社となった

ーー↓

 といへば、

 (問経葉)

 「實ぞえ知らじ」

 (字通、措、得、史等事)

 (視、措、重、詞等字)

 などの給ふ。

 まめごとなど言ひ合せて居給へるに、

 この君と稱すといふ詩を誦して、

 又集り來れば、

 「殿上にていひ期しつる本意もなくては、

  などかへり給ひぬるぞ。

  いと怪しくこそありつれ」

 との給へば、

 「さる事には何の答をかせん。

  いとなかなかならん。

  殿上にても言ひののしりつれば、

  うへも聞しめして、

  興ぜさせ給ひつる」

 とかたる。

 辨もろともに、

 かへすがえす同じ事を誦じて、

 いとをかしがれば、

 人々出でて見る。

 とりどりに物ども言ひかはして歸るとて、

 なほ同じ事を諸聲に誦じて、

 左衞門の陣に入るまで聞ゆ。

 翌朝、

 いと疾く、

 (意図、解く→読→説く→匿)

 少納言の命婦といふが御文まゐらせたるに、

 この事を啓したれば、

 しもなるを召して、

 「さる事やありし」

 と問はせ給へば、

 「知らず、

  何とも思はでいひ出で侍りしを、

  行成の朝臣のとりなしたるにや侍らん」

 と申せば、

 「とりなすとても」

 と打ち笑ませ給へり。

 誰が事をも、

 殿上人譽めけりと聞かせ給ふをば、

 さ言はるる人をよろこばせ給ふもをかし。

ーーーーー

 ・・・「イザヤ、視ん」・・・「いざや」とは、誘いカケる時、促す時に用いる語の「さあ・いざ」・・・調べんかい、ッ!・・・

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耗招訓・モウショウクン・蒙背負う訓

2013-09-19 22:40:56 | 古事記字源
 3時ころ、北東に山の麓から半分の大きな虹・・・病院からの帰りには大雨の粒に直撃された・・・孟嘗君(モウショウクン)=田文(でんぶん)・・・伝聞・・・電文・・・亡将軍、望将軍、網障群・・・、糖尿病性網膜症・・・盲唱訓・・・はなわ(塙)、き(己)、ほ(保)、いち(一)・・・
 色んな「人間」が居てもイイとは思うけれど・・・移民、住民生活で物まね、オワライはヨシとは思うが、「嘘吐き」と「泥棒」は「国家の柱」・・・であるらしい・・・「国民」は猛烈に嘗めるられているとの訓辞・・・

ーーーーー

 枕草子

 (一三九段)・・・百三十九段・壱佰参拾九段・壱参九段・陌参足玖段

          1+3+9=13=十三=壱拾参=足参

          1×3×9=27=二十七=弐拾七=弐足漆

 頭辨の職にまゐり給ひて、

 (答弁之→問弁之→当弁之、

  初句爾、磨意理他真意出)

 物語などし給ふに、

 夜いと更けぬ。

 「明日御物忌なるにこもるべければ、

 (亜詞多、音分通記、鳴る爾、胡摸留、部懸例葉)

  丑になりなば惡しかりなん」

 (得詞爾名理納葉、蛙詞→足、仮納)

 とてまゐり給ひぬ。

 つとめて、

 藏人所の紙屋紙ひきかさねて、

 (句等得度常呂之、詞也、史曳き重ね出)

 「後のあしたは殘り多かる心地なんする。

 (語之蛙詞多葉、竄裏、集る、個々知、難諏留)

  夜を通して昔物語も聞え明さんとせしを、

 (代於通して昔物語も聞え明さんとせしを)

  鷄の聲に催されて」と、

 (取り之声爾、摸与推作例出)

 いといみじう清げに、

 (意図、意味、字得、記与解爾)

 裏表に事多く書き給へる、

 (裏表に言他句、書き給へる)

 いとめでたし。

 (意図、芽出度し)

 御返に、

 (音、変え詞爾)

 「いと夜深く侍りける鷄のこゑは、

 (意図、代譜化句、葉部裏懸留、取りの胡重葉)

 (異賭、野心、公事裏懸留、景之→桂之、乞葉→請場)

  孟嘗君のにや」

 (摸得証訓之爾也→亡称訓之似哉)

ーーー

  孟嘗君(もうしょうくん)=田 文(でんぶん)

  ?年五月五日~紀元前279年

  姓は嬀(ギ)=女+為

      「女(おんな・ジョ)」→音名・音納・序

      「爲(なす・ため・する・イ)」→名素・意

  氏は田(た・デン)→他伝・多伝・太伝(太安萬侶)

  諱は文

  諡が孟嘗君

  斉の

  威王の孫

  戦国・・・・・撰語句

  四君の一人・・詞訓

  父は斉の

  宣王の・・・・撰姶・潜欧→宣負(本居宣長)

  異母弟の

  田嬰(デンエイ)で・・・伝洩・伝英

  薛(ヘキ・山東省滕州)の領主

ーー↓

  薛=まさき・セチ・セツ

  漢姓の一

  薛=艸+阜(おか・フ・ブ)+辛

      ↓

     「阜・追・官・逭・耜・槌」の漢字の部分

    阜=小里←こざとへん(阝)

      大里←おおざと(邑)

      阜←左耳旁(人間の耳の字形である)?

      山地を表す字の一つ

      小さい方から

     「丘・阜・陵・阿」の順

     「説文解字」では

     「山」は「石有りて高い岩の山」

     「阜」は「土の山」

        ↓

    薛(セツ・セチ)の

    類字は

    ↓

   「薜(こけ・ヘイ・バイ

      ヒャク・ハク・ヘイ)」

    薜=艸+辟(尸口立十)

      こけ→苔・虚仮・鱗・扱け

    避(さける・ヘキ・ヒャク)

    僻(ひがむ・ヘキ・ヒャク)

  ↓

  薛

  植物名

  かわらよもぎ=菊科の多年草

         ↓

         聴くか、之、多念想

  はますげ

  まさき=ニシキギ科の常緑小高木

       園芸植物

       薬用植物

  薜蘿(つたかずら・セツラ・セチラ)

  葡萄の蔓(つる・かずら)

  ↓

  人物

  薛綜(セツソウ・?~243年)

  三国時代の呉の武将

  字は敬文

  沛郡竹邑の人

  戦国時代の斉・魏・秦の宰相を務めた

  孟嘗君の末裔

  ↓

  薛稷

  唐代の書家

  字は嗣通

  山西省の人

  工部と

  礼部の

  尚書を経て

  太子少保に叙せられた

  「竇懐貞(トウカイテイ)の事件」に

  連座して死刑(死を賜る)

  ↓

  薛瑄

  明代初期の思想家

  字は徳温

  号は敬軒

  河津(山西省稷山)の人

  呉与弼(ゴヨヒツ)と共に明初の

  朱子学を代表する

  靖難の変後の思想弾圧の中で

  朱子学を修た

  ↓

  薛聡‎

  朝鮮・新羅の七世紀の文人

  字は聡智

  号は于堂

  元暁の子

  新羅語を漢字で表す方法

  後世の

 「吏読(リト)」を集成

  漢文を新羅語で読み解く方法

 「吐(ト)」を考案

  ↓

  薛永(セツエイ)

  小説の

  四大奇書の一の

  「水滸伝」の登場人物

  梁山泊

  第八十四位の好漢

  地幽星の生まれ変わり

  渾名は病大虫(ビョウダイチュウ)

 「病」は「顔が黄色い事・匹敵」の意味

 「大虫」は「虎」を指す

  ↓

  癖(くせ・ヘキ)=疒(ダク)+辟(ヘキ・ヒャク)

  に類字

 「へき」の同音異字

  ↓

  日置(ひおき・ひき・ひち・ひじ・ひお・ヘキ)

     古代の地方役場

  日置荘は大阪府堺市東区日置荘原寺町   

  日置江は岐阜県岐阜市

  日置

  京都府宮津市日置

  山口県北西部にあった町

  鹿児島県の中央部(薩摩半島)に位置する市

  薩摩国、廃藩置県後の鹿児島県にあった郡

  和弓の流派の一(日置流・ヘキリュウ)

  阿弖流爲は蝦夷

  日置部

  ↓

  清和天皇の子孫(清和源氏)、

  宇多天皇の皇子の

  敦実親王を祖(宇多源氏)

  中臣鎌足が

  天智天皇より賜った

  氏(藤原氏)秀郷流、

  大江氏(土師の族で相撲の元祖の野見宿禰の子孫)

  平城天皇の子孫などの姓

ーー↓枕草子

  孟嘗君

 「鶏鳴狗盗(ケイメイクトウ)」

  狗盗(泥棒)と

  鶏鳴(物真似)の名人の食客で

  孟嘗君(田文)は

  秦の拘束から脱出することができた

ーー

 ときこえたれば、

 (説き→解き、肥→請え、他例葉)

 たちかへり、

 (他知変え理→建ち替え理→絶ち代え理)

 「孟嘗君の鷄は、

 (亡→望、頌訓之、形葉)

  函谷關を開きて、

 (巻古句、換、於記紀出)

 (韓国官→漢国間→勧告間、於、聴き手)

  三千の客僅にされりといふは、

 (纂撰之→参戦之、書く、話事掛爾、作例理、問附葉)

  逢阪の關の事なり」

 (合意版之、籍之言、納理→名理)

 とあれば、

  夜をこめて

 (代於混めて→込めて→籠めて)

  鳥のそらねは

 (調之素等音葉)

  はかるとも

 (葉借る、賭摸→伴→共→友)

  世に

 (代爾)

  あふ阪の

 (合版之)

  關はゆるさじ

  (施記葉、喩留差字)

 心かしこき關守侍るめりと聞ゆ。

 立ちかへり、

  逢阪は

  人

  こえ

  やすき

  關なれば

  とりも鳴かねど

  あけて

  まつとか

 とありし文どもを、

 はじめのは、

 僧都の君の額を

 (想通之→双通之、訓之、比他意緒)

 さへつきて取り給ひてき。

 後々のは御前にて、

 (後語之葉、音撰爾出)

 「さて逢阪の歌はよみへされて、

  返しもせずなりにたる、

  いとわろし」

 (意図、話賂史)

 と笑はせ給ふ。

 「さてその文は、

  殿上人皆見てしは」

 (伝定比渡、視名、見て史頗)

 との給へば、

 實に覺しけりとは、

 これにてこそ知りぬれ。

 「めでたき事など人のいひ傳へぬは、

 かひなき業ぞかし。

 また見苦しければ、

 御文は

 (音文葉)

 いみじく隱して、

 (意味字句、隠して→隔して→書く詞出)

 人につゆ見せ侍らぬ志のほどをくらぶるに、

 ひとしうこそは」

 といへば、

 「かう物思ひしりていふこそ、

  なほ人々には似ず思へど、

  思ひ隈なくあしうしたりなど、

  例の女のやうに

 (例之、音名之、哉得爾)

  いはんとこそ思ひつるに」

 とて、

 いみじう

 (意味字有)

 笑ひ給ふ。

 (話等比、他真譜)

 「こはなぞ、

 (胡葉、謎→名蘇)

  よろこびをこそ聞えめ」

 などいふ。

 「まろが文をかくし給ひける、

 (太安満侶、臥文於、書く詞、他真意懸留)

  又

  猶

  うれしきことなり

  いかに心憂くつらからまし。

  今よりもなほ頼み聞えん」

 などの給ひて、

 後に經房の中將

 (語爾、形望之、納化真作)

 (埜知爾、警防之、中傷→柱状→中条)

 「頭辨はいみじう譽め給ふとは知りたりや。

  一日の文のついでに、

 (対性質之文之、接意出爾)

  ありし事など語り給ふ。

  思ふ人々の譽めらるるは、

  いみじく嬉しく」

 など、

 まめやかにの給ふもをかし。

 「うれしきことも二つにてこそ。

  かの譽めたまふなるに、

  また思ふ人の中に侍りけるを」

 などいへば、

 「それはめづらしう、

 今の事のやうにもよろこび給ふかな」

 との給ふ。

ーーーーー

 ・・・

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尊=みこと=命→見事・視言

2013-09-18 19:45:15 | 古事記字源
 高熱、嘔吐、点滴・・・オフクロ・・・(辛酉・庚子・乙丑)×(癸巳・辛酉・丁亥)・・・
ーーーーー

 枕草子

 (一三八段)・・・百三十八・壱佰参拾八・壱参八・陌参足捌

          1+3+8=12=十二=壱拾弐=足弐

          1×3×8=24=二十四=弐拾四=念肆

 故殿の御ために、

(古伝の音矯め爾)

 月ごとの十日、

 (解通語渡の問う可)

 御經佛供養せさせ給ひしを、

 (音響、譜通、共用、施作是、他真、比詞記)

 九月十日、

 (句解通、読比)

 職の御曹司にてせさせ給ふ。

 (私記→史記→子規→死期→指揮の音蔵詞)

 上達部、

 (漢立ち目・韓絶ち目・定立つ辺)

 殿上人いとおほかり。

 (伝條比渡、意図、於補仮理)

 清範講師にて、

 (審判乞うし爾出・新版合史にて・侵犯行使にて)

 説く事どもいとかなしければ、

 (読異度摸、意図、仮名詞、化例葉)

 殊に物のあはれふかかるまじき若き人も、

 (言爾、摸之埜、亜葉例譜化掛留、混記、和歌記比渡摸)

 皆泣くめり。

 (視名、納句目理→拿組めり)

 終てて酒のみ詩誦じなどするに、

 (尾張出手、作化之視、史、生じ等素留爾)

 頭中將齊信の君、

 (頭注、将に再審→再診の訓)

 月と秋と期して

 (解通→通記と、亜記→亜紀→安岐→安芸と記して)

 身いづくにか

 (実、何処爾化)

 といふ事を

 (問い符言緒→渡移付言於→賭、委付異於)

 うち出し給へりしかば、

 (得知出し他真重理詩歌葉→詞花葉→視河馬→視椛)

 いみじうめでたし。

 (意味、字得、目出、足し)

 いかでかは思ひいで給ひけん。

 (異化出化葉、尾摸比→緒摸意→重い、出、他真比懸)

 おはします所に

 (於葉詞、真諏、常呂、爾)

 分け參るほどに、

 (和気→訳→別け→湧け、真意留保努爾)

 立ち出でさせ給ひて、

 (他知意出、作施、他真意出)

 「めでたしな。

 (目出度し→芽出度し→愛でたし)

  いみじうけうの事にいひたる事にこそ

 (意味字得、稀有の言爾、意比他留言爾、故素)

  あれ」

 (亜例→亜鈴→阿礼→古事記序文)

ーー↓ーーーーー↓

      稗田阿礼(ひえだ の あれ)

     「古事記・編纂者の一人」

      時有二 舎人一。 姓稗田、名阿礼。

      年是廿八。為レ人聡明、度レ目誦レ口、

      拂レ耳勒レ心。即、勅_語二阿礼一、

      令レ誦_習二帝皇日継及先代旧辞一。

      然、運移世異、

      未レ行二其事一矣。

        ↓

     「あ(生)れ・有れ・在れ」

      賀茂祭の幣帛(へいはく)

      榊(さかき)に種々の綾絹(あやぎぬ)や

      鈴などをつけたもの

ーー↓      

 とのたまはすれば、

 (と、之他真葉諏例葉→場・羽・馬・婆

            歯→尚歯会)

               ↓

            ショウシカイ

            老人の敬老会

            中国の風習、唐の

            白楽天が最初に行ったが

            江戸時代の「尚歯会」は

             ↓

            構成員

            高野長英・小関三英・渡辺崋山

            江川英龍・川路聖謨

            シーボルトに学んだ

            鳴滝塾の卒業生や

            吉田長淑に学んだ者などで結成

            天保の大飢饉などの相次ぐ

            飢饉対策を講ずるために結成された

            主宰者

            遠藤泰通(遠藤勝助・遠藤鶴洲)

            寛政元年(1789)~嘉永四年(1851)

            紀州藩士遠藤新右衛門泰陳の次男

            幼名は竹松・勝助から新右衛門と改名

            字は子同

            号は古愚・鶴洲

             ↓

            泰通は儒学者で「志学問答」の著者

            天保八年(1837)の

            「救荒便覧」・・・

            「尚歯会」の中心メンバー

            渡辺崋山

             ↓

            天保七年(1836年)から翌年の

            天保の大飢饉の際には、食料備蓄庫(報民倉)を

            築き、

           「凶荒心得書」という対応手引きを著し

            倹約の徹底、領民救済を徹底させ

            餓死者を出さなかった

           「蘭学にて大施主(と藤田東湖が賞賛)」

            紀州藩儒官

            遠藤泰通(勝助)が設立した

           「尚歯会」に参加

            高野長英などと飢饉の対策

            長英は

            ジャガイモ(馬鈴薯)と

            ソバ(早ソバ)を

            飢饉対策として提案

           「救荒二物考」を上梓し

            崋山がその挿絵を担当

            モリソン号事件後

            海防問題を議論し

           「シーボルト事件」に連座            

ーー↓

 「それを啓しにとて、

    (啓→もうす・ひらく

     ケイ→啓蒙・啓発・啓示→形而)

     ↓

    拝啓→ハイケイ→背景→敬老

     ↓       ↓

     ケイシ(軽視・刑死)にとて

             ↓

           高橋景保

ーー↓  

  物も

  見さして

  參り侍り

 (纂理・字理→事理)

  つる

  (鶴・蔓・弦・都留・津留・吊る・釣る)

  なり。

  (納裏・名裏・拿理)

  猶

  (尚・名捕・名保)

  いとめでたくこそ思ひはべれ」

  (意図芽出度く故措、重い、葉部例)

 と聞えさすれば、

 「ましてさ覺ゆらん」

  (真詞出、於簿喩覧)

 と仰せらるる。

 (賭、於補施等留瑠)

 わざと呼びもいで、

 おのづからあふ所にては、

 「などかまろを、

  まほに近くは語ひ給はぬ。

  さすがににくしなど思ひたるさまにはあらずと知りたるを、

  いと怪しくなん。

  さばかり年ごろになりぬる得意の、

  疎くてやむはなし。

  殿上などに明暮なきをりもあらば、

  何事をかおもひでにせん」

 との給へば、

 「さらなり。

  かたかるべき事にもあらぬを、

  さもあらん後には、

  え譽め奉らざらんが口惜しきなり。

  うへの御前などにて、

  役とあつまりて譽め聞ゆるに、

  いかでか。

  ただおぼせかし。

  かたはらいたく、

  心の鬼いで來て、

  言ひにくく侍りなんものを」

 といへば、

 笑ひて、

 「などさる人しも、

  他目より外に、

  誉むるたぐひ多かり」

 との給ふ。

 「それがにくからずばこそあらめ。

  男も女も、

  けぢかき人をかたひき、

  思ふ人のいささかあしき事をいへば、

  腹だちなどするが、

  わびしう覺ゆるなり」

 といへば、

 「たのもしげなの事や」

 との給ふもをかし。

ーーーーー

 猶(なお・ユウ)=犭+酋(おさ・シュウ・ジュウ)

 ↓       =追加説明・および・そして・アンド

 ↓        猶太(ユダヤ人の漢字名)

 ↓    「酋」の部首漢字は・・・

 ↓     遵(したがう・ジュン)

 ↓     鄭(かさねる・テイ・ジョウ)

 ↓     ↓

       周王室と同じ姫姓の国

       紀元前806年に周の王の末子である

       姫友(桓公)が鄭の地(陝西省華県)に封

       桓公の跡を継いだ

       武公は、周の東遷後の平王の治世を支え、

       新鄭(河南省新鄭市)に国を移した

       紀元前375年

       幽公の時に韓によって滅亡

 ↓     ↓

       鄭和(1371年~1434年)

       永楽帝の宦官

       南海への七度の大航海の海軍提督

       本姓は馬、初名は三保

       イスラム教徒・・・?

       通称

       宦官最高位の太監・三保太監・三宝太監

       1404年に特使として十万人を率い、

       日本に派遣され

       足利義満に倭寇取締りを要請し、

       朝貢形式の勘合貿易に同意・・・

       1405年7月11日

       永楽帝の命で第一次航海~

       蘇州から出発

       1431年12月

       第七次航海は永楽帝の死後に彼の孫の

       宣徳帝の命令で出発

       アフリカ東海岸の

       マリンディ(ケニアのマリンディ)まで

       宝船(ホウセン)

       全長は120メートル超の大型船)で航海

 ↓     ↓

       鄭成功(テイセイコウ)

       寛永元年

       大明の

       天啓四年七月十四日(1624年8月27日)

        ~

       永暦十六年五月八日(1662年6月23日)

       諱は森

       字は明儼

       幼名は福松

       父、芝龍は福建省の人

       平戸老一官と称し、

       第二十八代藩主

       宋陽隆信の下で川内浦に住む

       母は浦人田川マツ

       十五歳

       院考に合格し、南安県の生員

       明の南京で

       東林党の

       銭謙益に師事

       1644年

       明国滅亡

       清の侵略に明を擁護の抵抗運動をし

       1661年に台湾を占拠していた

       オランダ人を追放

       承天府及び

       天興、

       万年の二県を、

       澎湖島には

       安撫司を設置し

       台湾の鄭氏政権の祖となった

       俗称は国姓爺・鉄人

       倭銃隊(日本式の鎧・鉄砲隊・騎馬兵)を指揮

 ↓     ↓

 ↓     奠(まつる・さだめる・テン・デン)

 ↓     樽(たる)

 ↓     尊(みこと・とうとい・とうとぶ)

 ↓     ↓

 尚(とうとぶ・なほ・なお・ショウ・ジュウ)

 歯(は・シ)

 会(あう・あい・カイ)

   ↓

 「尚」の類字は

 「向」=むく・むける・コウ・キョウ・・・

 考史会・後史解・・・視界、美濃、文多・・・

   ↓

 「向」の同音異字は

  ↓

  嚆矢会・・・嚆矢(かぶらや・コウシ)は先端に「鏑=(金+啇)・かぶら・やじり・テキ、チャク」という、矢が飛行中に大きな音響を出す仕組みの矢・会戦の始まりを知らせる用具」で「鏑矢(かぶらや)」は「流鏑馬(やぶさめ)に用いる矢」・・・ものごとの始まり・・・「嚆」は「呼ぶ(さけぶ)・鳴り響く(なりひびく)・ キョウ(ケウ)・コウ(カウ)・かぶら矢・・・「最初」の意味である・・・

  ↓

 尚=なお=猶=直=名緒・・・

 異体字、旧字は「尙(小+冋→ケイ)

 朝鮮の

 尚真王、旧字で「尚眞王」

 1465年(成化元年)

  ~

 1527年1月12日(嘉靖五年十二月十一日)

  ↓

 琉球王国の

 第二

 尚氏王統の

 第三代国王(在位1477年(成化十三年)

  ~

 1526年(嘉靖五年)

 童名は真加戸樽金(まかとたるかね)

 神号は於義也嘉茂慧(おぎやかもけい)

 尚氏(しょうし)は、琉球国・琉球藩の王家およびその姓

 途中、金丸(後の尚円王)の王位簒奪により王家交替

 第一尚氏・第二尚氏として区別している

  ↓

 第一尚氏は「尚思紹王・尚巴志王」を始祖とし

 七代六十三年間続いた

 1406年(永楽四年)~1469年( 成 ...第二尚氏 -

  ↓

 第二尚氏は「尚円王」を始祖とし

 尚円王即位の

 1469年(成化六年)

  ~

 1879年(光緒五年)までの

 410年間、沖縄の琉球王国を統治した王家

  ↓

 尚寧王(しょうねいおう)

 1564年(嘉靖四十三年)

  ~

 1620年10月14日(万暦四十八年、泰昌元年九月十九日)

 琉球王国

 第二尚氏王統

 第七代目の国王

 在位1599年~1620年

ーーーーー

 ・・・関連アルや、ナシや・・・

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