城郭探訪

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歴史ブロガーの「妓王妓女と源義経の里を訪ねて」・・・野洲編

2012年07月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

歴史ブロガーの歴史探訪禄 ・・・野洲編

 

 野洲の妓王寺の「清盛と妓王」

 

歴史ブロガー「妓王妓女と源義経の里を訪ねて」・・・野洲編

 

平家の家・江部庄に父(橘次郎時長)と母(刀自)と幸せに暮らしていた。 父時長が保元の乱で亡くなると」、妓王16歳の春の頃母と妹に妓女と共に京に上洛し、白拍子になり・・・。

江国江部庄(現・滋賀県野洲市)。その生誕の地には村人が、感謝を込めて妓王の菩提を弔うために建てられた妓王寺。

 

祇王屋敷跡

   妓王と妓女の姉妹はこの地に生まれたが、保元の乱で父を亡くしたため母とともに京都に出て白拍子になり、平清盛に仕え寵愛を受けた。ある時、妓王は清盛から「何か望むものはないか」と聞かれたが、「故郷の人々が水不足で苦しんでおり、ぜひ故郷に水路を引いて下さい」とお願いしたところ、早速清盛は野洲川から水路を引かせた。おかげで付近一帯の水不足は一気に解消し近江でも有数の米どころとなった。
地元では深く妓王の恩沢を謝し、出生地中北に一宇を建立して妓祇王寺と名づけ、邸跡には碑石を建て功績を永久に伝えることとなった。

版画-1:野洲川(出所:近江名所図会) 祇王井川より

祇王井が引かれた八百年前はどのような風景だったのだろうか?
自動車も新幹線もなかったのはもちろんのこと、川や道の整備状況は想像を絶するほどに遅れていたに違いない。
しかし、現在の土地を歩いて昔の面影を偲ぶためには、昔の風景に想いを馳せてみることも大切であろう。
 上の版画(近江名所図会)は、およそ200年前の風景を描いたものである。
橋や護岸が整備されたのは明治時代以降のことであり、江戸時代以前の数百年間はあまり変化がなかったと考えてよいだろう。さしあたって、八百年前の野洲川
の風景はこの画に描かれているような状態だった、と想定しておくことにする。
 さらに想像を膨らませるならば、祇王井の取水口は、この画の中央左側、橋の付近だったのではないか、と思われるのである。

 

 偏在の野洲駅前、旧朝鮮人街道沿いの祇王井川

  

 

http://www.biwa.ne.jp/~tam/sansaku/report/02%20gioh/gioh.html

清盛は天下をとっている時、意表をつく振る舞いをすることがあった。

平家物語では、

当時、京都で有名であった白拍子に妓王・妓女という姉妹がいたが、妓王を召し、妓女や母の刀自(とぢ)にもいい生活を送らせていた。祇王の隆盛は大変なもので、うらやむ者やそねむ者があり。平清盛に寵愛された妓王の生涯が語られている。

その妓王は近江の国江部荘(えべのしょう:滋賀県野洲町)の出身と言われている。清盛の寵愛が深かったとき、水不足に苦しんでいた人々のため、祇王は清盛に頼んで江部荘に水路を引いてもらった。人々は大変喜び、この水路を祈王井と呼ぶようになったという。今から八百年余り前、承安三年(1173年)のこと。 

  

土安神社

 今から800年ほど前、江部の荘の荘司で橘時長の娘、妓王と妓女の姉妹は京の都に出て、平清盛に仕えていた。ある時、妓王はふるさとの用水不足の嘆きを清盛に申したところ、さっそく三上山の麓の野洲川より分水して水路を開通させてくれた。その工事の途中で行き詰ったことがあったとき、夢に現れた一童子が工事の手法を授けたことによって完成したので上流を祈王井、下流を童子川と名づけ、この童子を土安神社に祀った 

平家終焉の地

 野洲町大篠原(おおしのはら)は、平家終焉の地。現在は、「平宗盛卿終焉之地」と刻まれた碑と風雪に耐えた石仏がまつられている。

「首洗いの池】は昭和55年までは2町程有りましたが開発で埋め立てられ今は六分の一程の大きさに!

1185年3月24日壇ノ浦合戦で敗れた平家一門はことごとく入水、戦死しました。
しかし一門のうち建礼門院(けんれいもんいん)、平宗盛(たいらのむねもり)父子、清盛の妻の兄平時忠(たいらのときただ)だけは捕らえられました。

宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉に向かいましたが、兄の頼朝は勝手に官位をもらった者は、鎌倉に入ってはならないと命令を出し、義経は仕方なく腰越(こしごえ)から京に引き返します。
その途中、京まであと一日の、ここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため、平家最後の総大将宗盛とその子清宗を処刑した。
義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられました。

 今は狭くなっていますが、塚の前には広い池がありこの池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなった事から「蛙なかずの池」とも。

 

北村季吟の句碑 【祇王井に とけてや民も やすごおり】

 

 北という地区がある。江戸時代の国文学者・北村季吟(1624-1704)はここで生まれた。

 源氏物語や徒然草などの古典の注釈を手がけただけでなく、歌人としても名を上げ、松尾芭蕉などを育てた人である。この地区の北自治会館前には北村季吟の句碑がある。
 【祇王井に とけてや民も やすごおり】この句意は「妓王のおかげで野洲の人たちは安らかに過ごすことができる」というような意味でしょう。

永原御殿

永原御殿は御茶屋御殿の遺構です。御茶屋御殿とは徳川将軍が上洛の際に整備した宿泊所を指し、近江には東海道に水口城が、 中山道に柏原御殿、朝鮮人街道に伊庭御殿が、そして中仙道と朝鮮人街道の近くに、この永原御殿が整備されました。
1国に4ヶ所も御茶屋御殿が整備されたのは近江だけです。これは近江が京都に近く、朝廷を牽制するのに最も適した所だったためでしょう。
永原御殿を始め各御殿は、いずれも石垣や土塁を用いた城郭の構造を示しており、御殿が、単なる将軍の宿泊施設だけではなく、 有事に備えた軍事施設の性格を併せ持っていたことを示しています。
幕藩体制が確立した三代将軍以降、将軍上洛の必要性がなくなり、これらの御殿は役目を終え、廃されることになります。

永原御殿は、慶長6年 (1601)に徳川家康が最初に宿泊し、以後、家康が6回、二代秀忠2回、三代家光が寛永11年(1634)に泊まったのを最後として、 計10回利用されました

     

 

 仏性寺

仏性寺概要: 仏性寺の創建は天平元年(729)、当時の惣官豊積益人宿称息長、忠国が行基菩薩を招いて開いたのが始まりと伝えられています。建久年間(1190~99)、源頼朝の発願により再興、最澄や法然上人などから再建修復され天正年間(1573~92)の兵火により多くの堂宇や寺宝などが焼失し一時衰退しましたが江戸時代初期に再興されました。本尊の阿弥陀如来座像は平安時代に制作されたもので像高2.82m、檜材、寄木造、全国的に見ても稀に見る優作として貴重なことから国指定重要文化財に指定されています。

 

兵主大社
一ノ鳥居と社号標
落ち着いた農村部に鎮座。

開基は養老年間と古く、神仏習合の名残が色濃い。社名の「つはもの」から武家の信心が篤く、頼朝や尊氏が社殿を造営したと伝わる。

http://www.geocities.jp/flow_and_stock/jisya-kinki/hyozutaisya.html

 狛犬包帯でぐるぐる巻きになった狛犬
不思議に思い尋ねてみると、包帯を巻くことで参拝者の身体の痛みを和らげてくれるご利益があるのだという。

 

本殿の北にある大規模な庭園は平安期の遺構を復元したもので、国指定の名勝。

社務所も立派!

 

鮎屋の郷へhttp://www.ayuyanosato.co.jp/top.html

食事や湖魚土産・滋賀土産が揃っています。

・鮎屋の郷のギャラリーで近江商人の古道具(商売道具)のウインドウ

 

 ・・・続きは、歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・安土編

 参考資料:現地ガイドさんの説明・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々


歴史ブロガーの「妓王妓女と源義経の里を訪ねて」・・・竜王編

2012年07月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

  歴史ブロガーの「祇王祇女と源義経の里を訪ねて」・・・竜王編

歴史ブロガー「妓王妓女と源義経の里を訪ねて」・・・竜王編

苗村神社 由緒の詳しくはhttp://www.geocities.jp/engisiki/oumi/bun/oum220506-02.html

〈重文〉境内社八幡社本殿 楼門 東本殿 境内社十禅師神社本殿 神輿庫 木造不動明王立像

 近郷三十三ヶ村の氏神さまで、茅葺きの楼門は遠くからでも目を引きます。延喜式神名帳に名を残す長寸神社(なむらじんじゃ)。

  〈国宝〉苗村神社西本殿 三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)桧皮ぶき、鎌倉時代の建築

   国宝の西本殿【祭神国狭槌命(くにのさづちのみこと)】

     殿に茅野輪

 

    

  神仏混合時代の名残りら、境内の不動堂には明王像も安置。

一般の明王像は直立不動なのに、像は、太い眉の間にシワを寄せた顔を左に向け、さらに上体をひねった動きのある、木造の不動明王立像

旧不動明王社殿

東本殿(祭神大国主命(おおくにぬしのみこと)・素盞嗚尊(すさのおのみこと))

社殿は簡素な造りですが、それぞれの蟇股(かえるまた)内の彫刻など細部の意匠が優れこのほか、境内社の八幡社本殿・十禅師(じゅうぜんし)神社本殿など。

 

 

苗村の称号は社蔵の古文書によりますと、もとこの地域は日本書紀垂仁記3年3月新羅王子天日槍(しらぎのこきしのこあまのひほこ)の條に曰う吾那邑(あなのむら)でありましたが、その後、那牟羅(なむら)に改まり更に長寸(なむら)に替えられ、

次いで寛仁元年(1017年)正月、朝廷に門松用の松苗を献上することの栄に浴して以来、年々の吉例となり、時の帝、御一條天皇はこれを嘉みせられ、苗村(なむら)の称号を賜り、以后苗村と呼ぶ、と記されています。

 

 

 

鏡の里エリア http://www.rmc.ne.jp/dragon-kanko/area/kagaminosato.html

 

 

  鏡神社 重要文化財

南北朝時代の建築で「日本書紀」にも記されている朝鮮半島の新羅(しらぎ)から陶製技術(渡来文化)を伝えた天日槍(あめのひぼこ)を祀る神社です。
本殿は三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)の、こけら葺(ぶき)で国の重要文化財に指定されています。

  義経元服の折使用の盥(たらい)

元服後の判官義経公を祀り、他の境内社と異なり京都鞍馬の方角に向けられている

義経宿泊の館「白木屋」義経宿泊の館「白木屋」跡

 源義経 元服の地 東山道 鏡の宿(とうさんどう かがみのしゅく)

源義経(みなもとのよしつね)元服の地、いにしえの馨りを感じさせてくれる滋賀県竜王町「鏡の里」にようこそおこしくださいました。
鏡の里は、旧義経街道といわれた「東山道」(とうさんどう)八十六の駅(うまや)のひとつ「鏡の宿」に位置し、古来より多くの旅人たちの休、泊の宿場でありました。
平安後期、平治の乱で源氏が敗れ、平氏が台頭、世はまさに平家一門の栄華を極めた時代でございました。
しかし、密かに平家の滅亡を夢み、京の鞍馬でただひたすら剣術の稽古に励む少年がおりました。
その名は遮那王、幼名を牛若丸と申します。
機熟し、奥州下向の途中ここ「鏡の宿」にて烏帽子を着け、ただひとりで元服したと言われております。
今もこの地には「元服池」や、元服の時に使った盥(たらい)の底、烏帽子を掛けたとされる「烏帽子掛松」などが残っております。
これから皆様に、義経の元服にまつわる物語と、鏡の里周辺の見どころや竜王の名所、

道の駅「竜王かがみの里」

近江牛100%のハンバーグ定食(近江牛(おうみうし)の飼育は竜王町が多いとか)

古式ゆかしく鏡の里で元服してみませんかhttp://www.town.ryuoh.shiga.jp/yoshitune/genpuku-shiki/recruitment.html

近江の国で昼食は・・・「近江牛_ ランチ」で検索 (近江牛(おうみうし)の飼育は竜王町が多いとか)

今も昔も変わることのない確かな信頼のブランド近江牛。

江戸時代からすでに、牛肉が「養生薬」の名目で、近江牛は味噌漬や干し肉として彦根藩から将軍家へ献上、賞味されていた。本格的に「近江牛」というブランドが確立されたのは明治以後で、その発祥の地がここ竜王町と蒲生町。

(3大ブランド牛:ブランド和牛の最高峰と名高い「松阪牛」、和牛最古の歴史を誇る「近江牛」、認定基準の厳しさで有名な「神戸牛(神戸ビーフ)

・・・神戸ビーフは神戸産の牛ではなく、輸送のために神戸港に運ばれてきた近江牛(または但馬牛)を在留外国人が賞味し、名付けたともいわれる。 

道の駅「竜王かがみの里」向かい 西光寺廃寺跡、星が崎城址祉

  宝篋印塔(重要文化財)

伝教大師(最澄)が鏡山十二峰の一つ星ケ峰の麓に建立した西光寺が、信長の兵火で廃寺となり、その名残にそっとたたずむ塔。
総高210cm、笠石の下の塔身の周囲は180cmです。2段の基壇を築き、その上に孔雀の向かい合っている格挟間を彫った基礎を置き塔身、笠、相輪を積み重ねています。石の角に梟(ふくろう)の彫刻は珍しく、国の重要文化財。
鎌倉時代後期1300年頃の作。

   灯篭(重要文化財)西光寺の鎮守、八柱神社(やばしらじんじゃ)の社宝で高さが2.8mもある背の高い灯篭です。
八角柱の灯篭は特に珍しく、また笠を持ち火袋には四仏が彫られていて誠に優美な意匠を凝らした灯籠。重要文化財指定。室町時代初期の作。

万葉・歴史エリアhttp://www.rmc.ne.jp/dragon-kanko/area/history.html

その他の竜王の歴史探訪はhttp://www.town.ryuoh.shiga.jp/sightseeing/rekishi.html

 

・・・続きは、歴史ブロガーの「祇王祇女と源義経の里を訪ねて」・・・野洲編

 

参考資料:現地ガイドさんの説明・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々