城郭探訪

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歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」 後

2012年07月15日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

・北畠貝行墓

北畠具行卿墓・徳源院の案内板

    ⇐あと50m    

元弘(げんこう)の変(1331)で失脚した北畠具行の墓。徳源院(とくげんいん)(清滝寺)の南700m、丸山(285m)の山頂にあります。 後醍醐(ごだいご)天皇に仕えた具行は、鎌倉幕府打倒の謀議に度々加わり、その中心的存在でしたが笠置(かさぎ)落城の後に幕府方に捕らえられ、鎌倉に護送される身となりました。                                                                                             しかし、護送の途中、その人となりを惜しんだ京極道誉(きょうごくどうよ)(佐々木高氏)は、清滝寺(きよたきでら)に彼を留め、1ヶ月余りにわたって幕府に具行の命乞いを続けました。しかし、その願いも空しく、元弘2年(1332)6月19日にこの地で斬首され、その生涯を閉じました。
 墓は高さ204cmの宝篋印塔で、死後16年を経て建立されました。今もなお、6月19日の命日には、地元の人々によって手厚く供養されています。国指定の史跡です。

墓所への道、旧東山道・・・  墓所への道の入口の三叉路に芭蕉の句碑

・徳源院

弘安9年(1286)、京極氏の初代氏信が建立。京極家歴代の菩提寺である天台宗の寺。                                             京極氏は、鎌倉中期に近江で勢力を振るっていた近江源氏佐々木氏から分かれ、家名は氏信の宿所が京都の京極高辻(きょうごくたかつじ)にあったことによります。

       二代目道誉桜(京極家5代目当主・京極道誉が植えたと伝わる しだれ桜)代目道誉桜

  本堂裏に、清滝山の自然林を借景に回遊式の庭園があり、春には道誉桜と称されるしだれ桜が趣きを添えます。もにじや堂前に群生する萩が咲きこぼれる秋の風情も格別とか。小堀遠州庭園。

本堂      京極高豊の寄進した三重塔

<京極家墓所>

  

国の史跡に指定されている墓域には一族の墓が存在し、閑静なただずまいを見せる境内に、本堂、位牌殿、三重塔などを有します。なかでも朱塗りの三重塔は、寛文12年(1672)に讃岐丸亀藩主であった京極高豊が建てたもので、県の指定文化財になっています。
 寺地は、もと氏信の柏原館があったところで、<京極家墓所>
 京極家の菩提寺・徳源院(とくげんいん)(清滝寺(きよたきでら))の本堂裏手の山麓にあります。上段の始祖氏信(うじのぶ)を筆頭に、南北朝時代に活躍した道誉(どうよ)を含む、歴代当主の墓碑宝篋印塔(ほうきょういんとう)が18基。下段には、それ以降の当主や分家やらの宝篋印塔14基と、淀殿の妹・はつをめとった京極高次(たかつぐ)の墓石などが、整然と並んでいます。
 京極家は、浅井氏の台頭とともに一時期衰え、寺も荒れましたが、寛文12年(1672)高豊(たかとよ)が境内に三重塔(県の指定文化財)を建てて以来、勢力を取り戻しました。この時、付近に散在していた墓を一カ所に集めたといいます。
 塔の大きさは様々で、京極家の栄枯盛衰を表しています。現在、国の史跡および県の史跡に指定されています。

     京極19代、高次の墓は別格(石廟内部に宝篋印塔がある)  

片隅に北畠具行の墓が???                                                        元弘2年(1332)南朝方の北畠具行が捕らえられ、京極導誉によって鎌倉へ送られる途中、柏原(現山東町)で殺害されたが、このとき当寺に約1ヵ月間留め置かれたと伝えられている。

 

 

 

参考に:滋賀県米原市上平寺

 

 

京極氏一族の墓

 

  

京極氏の一族の墓と伝わる五輪塔。「上平寺城絵図」にも「御廟所」の記載がある。京極高清の墓石はもとはここにあったが、江戸時代に丸亀藩主京極高豊が京極家の菩提寺徳源院に歴代藩主の墓を整備した時に徳源院に移されたという。墓石の一つには「浄光院殿芳室宗口大禅尼 永正三(1506)年四月七日」の文字があり、京極氏ゆかりの女人の墓と伝えられているという。

京極氏の本城「上平寺城・館跡」弥高寺跡・弥高寺城址(伊吹山系650mの天空の城)

米原市観光MAP                   

    中山道(旧東山道)

  

・参考資料:現地説明の神主、語り部、文化財保護課(県)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

 

本日の歩数 13,882歩   2時間23分 9.7km

 消費カロリー 465.9kcal    脂肪消費量 66.5g

 

 次回Dコース:歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」 前半 お楽しみに


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成菩提院

正式には寂照山円乗寺成菩提院と称提院するこの寺は、弘仁6(815)年に天台宗の開祖最澄が談議所を建てたのに始まり、のちに延暦寺の別院の一つとなりました。
 嘉暦元(1326)年、越前白山平泉寺の衆徒が乱入して全焼しましたが、69年後の応永2(1395)年に貞舜が再興しました。
 記録によると、戦国の武将織田信長・豊臣秀吉・小早川秀秋など有名な武将が宿営しています。

 寺領は160石余りで、末寺は80ヵ寺余り、また寛文5(1665)年の調書によると64坊、僧侶103人とあり、大きな寺院であったことが伺えます。
 絹本著色聖徳太子像など、多くの文化財があります。また、

      山門の竜はあまりにも出来がよかったために、本物の竜となって村里にあらわれ、大洪水を起こしたとの逸話があります。竜を止めるために、その目には大きな釘が打ち込まれているということです

 柏原宿柏原宿は、江戸時代、344軒の家数を数え、22軒の旅籠と多くの店がひしめく、中山道の中でも大規模な宿場町としてにぎわいました。長さが1.5kmと近江国最大級の宿場で、昔ながらのまちなみを残しています。この辺りは、伊吹山の麓にあって薬草の生産地として知られ、特に「もぐさ」は上質のものとして古くから有名でした。

      柏原宿は、伊吹山の麓にあって薬草を使用したもぐさの生産が盛んでした。、現在ももぐさの販売を続けている亀屋。

 織田信長と伊吹山の薬草園・・・HP
作成:筒井杏正

伊吹山には薬草園が作られていたことはよく知られていますが、当時から伊吹山が薬草園の適地であったことと、そこには豊富な薬草が自生していたことにも,織田信長が薬草園を開かせた理由の一つと思われます

ポルトガル宣教師日本でキリスト教を布教し貢献した聖フランシス・ザヴィエル 織田信長ポルトガル宣教師の進言を受け伊吹山での薬草園開設を許可した織田信長

 さて、その内容を察するに、織田信長が安土城にいた永録年間の頃、ポルトガルの宣教師と謁見した際、宣教師が人の病を治すには薬が必要であると、そのためには薬草栽培が必要であることを進言したそうです。また、もう一説には、鉄砲火薬の原料となる植物も含め移植したとも
 その進言を受けて信長は伊吹山に薬草園の開設を許可したのです。50ヘクタールという広大な薬草園には、西洋からもってきた薬草が3000種類も植えられていたと言われています。

 

柏原宿資料館の土間のようで、 住居部分も見学出来ます。

  

 寝物語の里の目標が、何故ここに?(安藤広重の「木曽街道六十九宿」に描かれた今須宿の図は、この地を描いたものです。現在宿等はなく、石碑のみが建っている。)

近江と美濃の国境は、この碑の東10m余にある細い溝だった。この溝を挟んで両国の番所や旅籠があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話合えた」ので、寝物語の名が生まれたといわれている。
また平治の乱(259年)後、源義朝を追ってきた常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話し声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも「源義経を追ってきた静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられている。
寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌等にもこの名が出ていたり、広重の浮世絵にもここが描かれている。
~ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに 太田道潅~

伊吹山のふもとの柏原という宿場に代々つたわるもぐさや「亀屋」に番頭福助がいた。           この番頭は正直一途、お店の創業以来伝えられた家訓をまもり、ふだんの日は裃を着け、扇子を手放さず、道行くお客さんを手招きしてもぐさをすすめ、お客に対して感謝の心をあらわしおべっかを言わず、真心で応え続けた。そのため商売が大いに繁盛し、主人もたいそう福助を大事にした。         やがてこの話が京都にも広まり伏見人形屋が耳にして、福を招く縁起物として福助の姿を人形にうつしたという当時は、茶店や旅籠も兼業していたという。

  

最澄が創立したという明星山明星輪寺泉明院への道しるべである。
宿内東に、同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、西やくし道とも呼んだ。太平洋戦争までは、眼病に霊験ありと賑わったが、門前の明星村も消え、今は往年の面影がない。
この道標は享保2年(1717年)と古く、正面が漢文、横二面が平仮名・変体仮名を使った二つの和文体で刻まれている。 

お茶屋御殿跡

お茶屋御殿跡の小公園

お茶屋御殿跡と郷宿(ごうやど)跡がある。郷宿とは脇本陣と旅籠屋の中間で、武士や公用で旅する庄屋などに使用された旅館である。         皇女和宮宿泊の本陣とか、この宿場は中山道4番目の規模だったと。                                                      柏宿企画展 「中山道と和宮下嫁展」開催中、撮影禁止:チラシ20120710~819をhttp://plaza.rakuten.co.jp/t036kkk/diary/201207150000

脇本陣は、大名・幕府役人・宮家・公卿・高僧他貴人が、本陣を利用できないときの、公的休泊施設である。柏原宿は南部本陣の別家が本陣同様江戸時代を通して務めた。間口は、屋敷は228坪、建坪は73坪あったと。

  柏原宿は、江戸時代、344軒の家数を数え、22軒の旅籠と多くの店がひしめく、中山道の中でも大規模な宿場町としてにぎわいました。長さが1.5kmと近江国最大級の宿場で、昔ながらのまちなみを残しています。この辺りは、伊吹山の麓にあって薬草の生産地として知られ、特に「もぐさ」は上質のものとして古くから有名でした。

 

 

・参考資料:現地説明はご住職、文化財保護課(県)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

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探訪 【柏原城 近江国】  2012.7.15

2012年07月15日 | 平城

 柏原城は京極家の菩提寺である清滝寺徳源院を中心とした一帯で、徳源院の山門の横に、柏原城の石碑がひっそりと建っている。

 徳源院背後の清滝山山頂には、柏原城の詰の城の遺構が残る。清滝山の山頂からは、東山道(中山道)と北国脇往還道が手を伸ばせば届くような位置に見え、京極氏がこの柏原に居城を構えた意図がハッキリと分かる。

弘安9年(1286)、京極氏の初代氏信が建立。京極家歴代の菩提寺である天台宗の寺。                                             京極氏は、鎌倉中期に近江で勢力を振るっていた近江源氏佐々木氏から分かれ、家名は氏信の宿所が京都の京極高辻(きょうごくたかつじ)にあったことによります。

徳源院の土塀

 

二代目道誉桜(京極家5代目当主・京極道誉が植えたと伝わる しだれ桜)代目道誉桜

本堂裏に、清滝山の自然林を借景に回遊式の庭園があり、春には道誉桜と称されるしだれ桜が趣きを添えます。もにじや堂前に群生する萩が咲きこぼれる秋の風情も格別とか。小堀遠州庭園。

本堂・

京極高豊の寄進した三重塔

<京極家墓所>

国の史跡に指定されている墓域には一族の墓が存在し、閑静なただずまいを見せる境内に、本堂、位牌殿、三重塔などを有します。なかでも朱塗りの三重塔は、寛文12年(1672)に讃岐丸亀藩主であった京極高豊が建てたもので、県の指定文化財になっています。
 寺地は、もと氏信の柏原館があったところで、<京極家墓所>
 京極家の菩提寺・徳源院(とくげんいん)(清滝寺(きよたきでら))の本堂裏手の山麓にあります。上段の始祖氏信(うじのぶ)を筆頭に、南北朝時代に活躍した道誉(どうよ)を含む、歴代当主の墓碑宝篋印塔(ほうきょういんとう)が18基。下段には、それ以降の当主や分家やらの宝篋印塔14基と、淀殿の妹・はつをめとった京極高次(たかつぐ)の墓石などが、整然と並んでいます。
 京極家は、浅井氏の台頭とともに一時期衰え、寺も荒れましたが、寛文12年(1672)高豊(たかとよ)が境内に三重塔(県の指定文化財)を建てて以来、勢力を取り戻しました。この時、付近に散在していた墓を一カ所に集めたといいます。
 塔の大きさは様々で、京極家の栄枯盛衰を表しています。現在、国の史跡および県の史跡に指定されています。

京極19代、高次の墓は別格(石廟内部に宝篋印塔がある)

片隅に北畠具行の墓が???                                                        元弘2年(1332)南朝方の北畠具行が捕らえられ、京極導誉によって鎌倉へ送られる途中、柏原(現山東町)で殺害されたが、このとき当寺に約1ヵ月間留め置かれたと伝えられている。


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2012年07月15日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」・・・清岸寺・蓮華寺・居醒の泉

 

歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」

 

米原駅前 

米原駅から東へほんの100m、旧中山道を越えてちょっと太尾山の西麓の清岸寺。

(旧米原尋常高等小学校のすぐ東側にある駐車場がある。

清岸寺

 楼門をくぐると、一面のイワヒバが青々として広がっています。これは自生したもので、このお寺は別名、「岩桧葉の寺」とも。

創立は南北朝時代の中期、近江の守護職だった佐々木京極道誉によって開創され不動山米泉寺と呼ばれていました。その後延文年間(1356~61)に自ら法華経八巻を書写し、その最後の一軸(太尾)をこの寺に奉納して祈願所としました。

現在の背後の山を太尾山とするのはこのことからです。太尾山城祉 - harimaya.com京極の城跡が・・・(未訪問…秋にお庭・予約して食事と城跡を
 佐々木六角太夫判官氏頼 もこの寺に参詣のおり、開創時からの来歴を聞き感ずるところがあって諸堂を修理するとともに、金剛仏師讃岐法眼尭尊に命じて聖観世音菩薩を刻ませ安置しました。

御厨子の中からしずかに微笑んでおられます。

体内には佐々木六角太夫判官氏頼が常に念持して戦場におもむく時も旗竿の中にいれて離さなかったと言われる八寸ほどの観音像が納められています。

 江戸時代に入って曹洞宗彦根大雲寺三世の要津守三和尚がこの寺を訪れ余りの荒廃ぶりに心を痛め、この寺の再興を決意して慶安三年(1650)小堂に居を移しました。これを知った敦賀の伊藤五郎助は私財をなげうって自らの力の限りを尽くしたので諸堂・伽藍は整い、寺は完全に復興しました。
 しかし復興後まもなく五郎助は他界しました。これを悼んで五郎助(諡を青岸宗天という)の中興の功績を讃え永く伝えるために吸湖山清岸寺と改称しました。

和洋折衷の石灯篭---(上部には仏像、下部はキリシタンの十字形をしている寄せ灯篭)。

<仏法を伝える名勝庭園>

 この寺は名勝清岸寺庭園として知られています。非常に多くの石を使い、豪華にして仏法の理を込めた意味深い庭園で延宝六年(1678)の作です。
 約三百坪の広さにまとめられた回遊式と観賞式をかねた築山林泉式の枯山水庭園で、興欣和尚が築いた当時の姿を現在に伝えています。

蓮華寺

 

誰一人訪れない、時が止まったかのようにひっそりとしてた、北条仲時公以下430余名のお墓

寺伝では、北条仲時公以下430余名のお墓は、寺の境内に散在していたが、江戸時代、井伊の殿様が馬で蓮華寺を訪ねたとのこと。
 その夜、仲時公が、夢に現れ「馬で見下ろすとは、何事」といわれ、北条仲時公のお墓は、向かいの山の頂上に移転したとか
お墓も、このように、集めて、整然とお祭りしたようです。

北条仲時は元弘3年(1333)5月7日の六波羅探題陥落の際、北朝の光厳天皇、後伏見・花園上皇を伴い中山道を鎌倉へと東走しますが、近江国番場宿(ばんばのしゅく)(現、滋賀県米原市番場)にて佐々木京極道誉らに行く手を阻まれ止むなく蓮華寺に籠り応戦したが、5月9日、奮戦空しく本堂前庭で自刃して果てました。
仲時は自害する際、配下の者たちに「我が首を敵に奉じて手柄にせよ」と言い残しましたが、配下の者たちも仲時の後を追うように自害して果て、その数は432名を数えました。                                                                                           蓮華寺の住職が深く同情し、境内に墓を建ててその冥福を弔い、彼らの姓名と年齢を一巻の過去帳に記しました。それが国宝『陸波羅(ろくはら)南北過去帳』(『六波羅過去帳』)です。中には中学生くらいの年頃の者、姓がなく名のみ記載されている者が多く見られます。

蓮華寺の本堂の裏に‐‐‐長谷川伸の戯曲『瞼の母』で一躍脚光を浴びた山里の宿場町(番場の宿)です。

付近には一向上人開山と伝わる蓮華寺や、脇本陣跡といったみどころがあります。

国道21号線番場の陸橋に「忠太郎像

居醒の泉

 古事記」、「日本書紀」にも記載されている日本武尊が伊吹山の荒ぶる神の毒気にあたったとき、その高熱を源流の水で癒したという「居醒清水(いさめのしみず)」、「居醒の泉」と記載されている。

峨天皇の時代、百日を越える旱魃が続いたことがあった。降雨の命を受けた伝教大師は、夢の中で、「東に清浄な泉がある。そこへ行って雨を求めよ。」とお告げを受ける。伝教大師が泉を尋ねてこの地に来た際に、白髪の老翁が忽然と現れ、「私はこの水の守護神である。ここに地蔵尊の像を刻み安置すれば、雨が降り草木も生き返るであろう。」と言って水の中へ消えた。早速石工を集めて坐像を刻んで祈念したところ、大雨が三日降り続き、緑は甦ったという伝説が残っている。

(透明な水に梅花藻の白い花

宿場の道路は、とても清らかな冷たい水が流れ、ハリヨも梅花藻もこの冷水の中に繁殖する。季節でもないのに梅花藻が小さな花を付けている。ハリヨも梅花藻と共に天然記念物として保護されている。

 

木彫の里上丹生」 は、木彫りの里(仏具・欄間・・・)ヒコニャンの木彫が?醒井木彫美術館(森大造記念館)の前

 

水彩の画家さんグループ約20人が観光客に目もくれず!

ヴォーリス建築 旧米原 醒井郵便局跡、今は醒井宿資料館

醒井 水の宿駅で昼食予定、満席・時間がない

やむなく、醒ヶ井駅前の布屋食堂で「冷やしぶっかけそば」

 JR東海のさわらかウォーク!に参加者約800名+観光バス+水彩画グループ・・・

 

 

・参考資料:現地説明はご住職、文化財保護課(県)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

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西光寺(さいこうじ)跡の宝篋印塔(ほうきょういんとう) (公開期間:7月25日まで)

2012年07月15日 | 番外編

現地説明板

竜王町観光協会HPにhttp://www.rmc.ne.jp/dragon-kanko/area/kagaminosato.html

伝教大師(最澄)建立の西光寺跡にそっとたたずむ他に類をみない逸品 重要文化財指定
西光寺(さいこうじ)跡の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
宝篋印塔(ほうきょういんとう)
西光寺は、伝教大師(最澄)(767~822)が夢の御告げにより鏡山十二峰の一つ星ケ峰の麓に(818)建立しました。嵯峨天皇(809~823)の勅願所(ちょくがんしょ)で、増坊(そうぼう)三百坊といわれていました。足利尊氏(あしかがたかうじ)が、元弘(げんこう)3年4月20日(1334)、後醍醐(ごだいご)天皇に帰順(きじゅん)を表明した所でもあります。よって、その後の足利尊氏があったといわれています。
源頼朝(みなもとのよりとも)も往還の時、西光寺でしばし宿泊をしています。
康平(こうへい)2年(1060)の乱で一山焼亡し中興(ちゅうこう)されましたが、信長の兵火(1571)で廃寺となります。
その名残をとどめているのがこの宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、記念宝塔として昭和35年2月に国の重要文化財に指定されました。塔の高さ210cmの堂々としたもので笠石の下の塔身の周囲は180cmです。2段の基壇を築き、その上に孔雀の向かい合っている格挟間を彫った基礎を置き塔身、笠、相輪を積み重ねています。また、石の角に梟(ふくろう)の彫刻は、あまり例のない塔であるといわれています。
(鳥形の塔身は、宝篋印塔の源流といわれる中国の金塗塔の伝統を示すといわれているもので、その意味でも、この宝篋印塔は大変貴重なものなのです。)
大正三年、東京帝室博物館(国立博物館の前身)の高橋健自(たかはしけんじ)氏に「他に類をみない逸品である」「この塔を見ずして他の宝篋印塔を語るなかれ」といわしめた立派なものなのです。鎌倉時代後期1300年頃の作。

宝篋印塔を拡大して見る→
珍しい背の高い灯籠 重要文化財指定
八柱神社(やばしらじんじゃ)跡の石灯籠(いしどうろう)
石灯籠 この石灯籠は、西光寺の鎮守八柱神社の社宝で高さ2.8mあり裏面に
「応永(おうえい)28年8月8日(1422)願主敬白」の刻銘があり、室町時代初期の作とされます。
願主は不明。
当時の様式の多くは、丸柱の中央に周帯を有するものですが、八角柱は珍しく笠を持ち火袋には四仏が彫られていて優美な意匠を凝らしたもので特に珍重される背の高い灯籠です。重要文化財指定。
足の病に草鞋(わらじ)をお供え
仁王尊(におうそん)
仁王尊 西光寺跡地のお堂に祀(まつ)られている石の仁王尊で、そのうちの一体は、昔、山崩れの際に地下に埋没されたといわれています。
毎年7月1日の千日会(せんにちえ)には、足の病を癒してくださると言い伝えがあり、この日には草鞋(わらじ)をお供えする風習があって平癒(へいゆ)を願う参拝者が今も絶えません。

 

苗村神社 http://www.rmc.ne.jp/dragon-kanko/area/history.html 

ウィキペヂアサイトhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%97%E6%9D%91%E7%A5%9E%E7%A4%BE

苗村神社
(なむらじんじゃ)
延喜式神名帳に名を残す「長寸(なむら)神社」であると言われています。
荘厳な森と楼閣は、33余郷の総社にふさわしい風格と古代建築の技法に感動。
苗村神社
楼門 重要文化財(綾戸・苗村神社)
(ろうもん)
三間一戸の入母屋造・茅葺で、室町時代の造営とされ、和洋を基本とした禅宗様を混在する雄大な楼門です。
西本殿 国宝(綾戸・苗村神社)
(にしほんでん)
主神は那牟羅彦神と国狭槌尊です。三間社流造りで、一間の向拝を付し、屋根は檜皮葺です。
棟札の銘文によれば、徳治3年(1308年)とあり、鎌倉時代の建立と考えられます。
 苗村祭 4月20日
 節句祭 5月5日
木造十二神将立像




木造十二神将立像 重要文化財(川守・龍王寺)
(もくぞうじゅうにしんしょうりゅうぞう)  
ご本尊の左右に六躯づつ安置され、像高約75cmの甲冑に身を固めた武将の姿で、頭上に十二支が乗せられています。
鎌倉時代に彫られた仏像です。

 

重要文化財 町指定文化財
苗村神社東本殿(綾戸;苗村神社)
境内社八幡社本殿(綾戸;苗村神社)
境内社十禅師社本殿(綾戸;苗村神社)
神輿庫(綾戸;苗村神社)
木造不動明王立像(綾戸;苗村神社)
八幡神社宝塔(島;八幡神社)
木造阿弥陀如来坐像(綾戸;正覚院)
木造地蔵菩薩立像(綾戸;正覚院)
絹本著色絵系図(川上;光明寺)
絹本著色光明本尊図(川上;光明寺)
木造地蔵菩薩半跏像(川上;地蔵堂)
木造釈迦如来坐像(弓削;正光寺)
山王社旧本殿蟇股(川上;地蔵堂)
紙本著色市橋直方像(岩井;安楽寺)
木造薬師如来坐像(川守;龍王寺)
木造聖観音立像(川守;龍王寺)
木造地蔵菩薩立像(川守;龍王寺)
木造聖観音立像(島;観音堂)
廃福田寺七重塔(駕輿丁村座)
木造地蔵菩薩立像(駕輿丁村座)
県指定文化財  
雪野寺跡(川守;龍王寺)
左右神社文書(橋本;左右神社 安土城考古博物館寄託)