城郭探訪

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敏満寺城祉

2012年07月08日 | 平山城

敏満寺城は、名神自動車道の多賀SA内(上り方向)にある。

上り多賀SA内(前方のGS横)取り込まれた城としては全国でも極めて珍しい存在であろう。城郭遺跡の上にSAを造成したもの

しかし、SA北のはずれにある1郭は、長軸50mほどの広さであるが、公園化され、その周囲には高さ2mほどのしっかりとした土塁が残っている。また、土塁のそれぞれ隅は、相応のスペースを伴っており、これらは櫓台であったかとも思われる。
 (なお、下り方向のSAからも、歩道橋を使えば渡ってくることができる。)



 また、天然の沢を挟んで、南側のSA施設のある部分の一段下には、石垣や井戸が存在していたという。とすると少なくとも2郭はあったということになるが、その部分はSAとなって消滅してしまっているので、全体構造がどのようなものであったのかは、現在ではうかがい知ることはできない。櫓台跡

1郭と井戸跡のある郭との間の窪み。天然の沢を利用した堀であった。

多賀サービスエリア内に残る敏満寺城の土塁。高さ2m。

敏満寺は天台宗の寺院であったという。つまりこの城は、地元の豪族(六角氏や浅井氏)に対抗するために寺院そのものが要塞化したものであったらしい。

永禄5年(1562)には浅井氏に反抗したため、坊舎のほとんどを焼かれ、さらに元亀3年(1573)には信長に反抗したために、残りの建物もすべて焼かれてしまったという。天台宗の寺院であってか、たびたび時の支配者に対して自立性を強調していたことが、反抗と見られる。

 独自の立場を維持するというのはとても難しいことである。敏満寺はそのために支配者からたびたび攻撃されて、結局は打ち壊されてしまうことになったのであろう。

 朝廷の帰依も得て堂舎が整備され、南北朝、室町時代にはいってからは幕府の保護を受けていたが、しだいに近江守護佐々木氏との対立が激化し、たびたび兵火に遭っている。このころには比叡山延暦寺の末寺となって守護大名に対抗していた。
 戦国時代には、京極氏に背いて六角氏と通じた久徳実時を攻めた浅井長政は、これに味方した敏満寺を攻め、坊舎はことごとく灰燼と帰した

 再建途中にあった敏満寺は、織田信長に焼き払われ、寺領を取り上げられると、衰退の一途をたどり、ついに再建されることはなかった。
 敏満寺の概略は以上のようであるが、文献資料が少なく謎が多い敏満寺は発掘調査によってその様相が明らかになりつつある。昭和61年(1986)の発掘調査では、台地上の西端に虎口を有する土塁、堀に囲まれた防御施設が発見され、浅井あるいは信長に対抗するために築かれたと考えられている。平成6~12年(1994~2000)の発掘調査(3)では台地上の北東側に溝で区画された建物群や埋甕施設が発見され、敏満寺を中心として都市的な空間が広がっていたと考えられるようになった。

下りSA陸橋の下を南に行くと

12~15世紀当時は、比叡山をも凌ぐと言われた大きな寺院。その勢力ゆえに戦国時代に浅井氏・信長に攻められ寺坊は、焼討ちに合い。その後も再建されることなくSAの敷地とし現在に至っている。

この説明板と名神高速道路の間を南に進むと、金網のフェンスのすぐ向こうに故宮神社の石碑と灯篭。

金網のフェンスを開けて進むと故宮神社へ・・・すぐに着く。

左は。故宮神社の駐車場へと進むと故宮神社の参道に、「旧敏満寺祉」 古井戸と焼石塚

 故宮神社の参道に、「旧敏満寺祉 古井戸と焼石塚」の説明板

高速道路の近くにある胡宮神社の境内の参道の「土塁・井戸・焼石の遺構」が残る。

昭和61年5月〜昭和62年3月まで発掘調査 発掘当時の状況発掘当時の状況

造園部一帯は、昭和61年5月〜昭和62年3月まで発掘調査が行なわれ、調査の結果、十五世紀末から十六世紀末にかけての遺跡であり、高く盛られた土塁、深く掘られた空堀から、要塞化した寺院遺構と考えられ、櫓、建物、門、井戸等の跡及び土器類も出土しています。

  参考資料:主に多賀町「敏満寺城遺跡」・ 現地案内板を編集ほか


歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・多賀編

2012年07月08日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

 

歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・多賀編

 

敏満寺遺跡を示す案内板

 レジュメの縄張り図

 高速道路のSAやPA内にある城跡は、この敏満寺城以外にない。

 名神高速道路上り線の多賀SAのガソリンスタンド近くに小公園が整備されているが、ここで土塁や櫓台をみることが出来ます。
城址案内解説板は、レストランと小公園の間に設置されています。

 下り線のサービスエリア内にも遺構が残されている。
 さらに、高速道路の東側を南進すろ。近くの胡宮神社境内に土塁や井戸・焼石の遺構が残されている。

 敏満寺は、九世紀末から十世紀初頭ごろに、伊吹山寺の開基にたずさわった三修上人の弟子敏満童子の開基にかかる天台密教寺院であると伝えられています。

 以後、敏満寺は、天皇や皇族の崇敬を受け隆盛していきました。鎌倉時代に記された「一山目録」には、現在の胡宮神社付近を本堂とし、四十余りの塔堂が立ち並んでいたことが書かれています。

 室町時代に湖東の一大寺院と化した敏満寺は、その勢力ゆえに守護大名佐々木氏や京極氏とたびたび対立するようになります。“応仁の乱”以降は山門の一翼をにない、ことあれば僧兵を動員することになり、寺は要塞化した軍事拠点(城郭)となっていきました。

 そして戦国時代、永禄五年(1562)に浅井長政の攻撃を受けた久徳氏に味方したため長政に攻められ、当時120以上あったという坊舎は炎上焼失してしまいました。
 さらに、元亀三年(1572)には織田信長の命に応じなかったことから、残りの坊舎をことごとく焼かれ、寺領も取り上げられ、衰微の一途をたどっていったのです。
 慶長年間(十七世紀初頭)には残った礎石も彦根城普請のため運び去られました。

 造園部一帯は、昭和61年5月~昭和62年3月まで発掘調査が行なわれ、調査の結果、十五世紀末から十六世紀末にかけての遺跡であり、高く盛られた土塁、深く掘られた空堀から、要塞化した寺院遺構と考えられ、櫓、建物、門、井戸等の跡及び土器類も出土しています。 (現地案内解説板より)

歴史ブロガー歴史ブロガーの「京極道誉と平景清の足跡を訪ねて」・・・多賀編

Bコースルート(レジュメより)

名神高速道路の下り線の多賀SAへは、SA下に大きな駐車場があり、一般道路からも入れます。

SA・PA グルメ温泉の旅 名神高速 多賀SA(下り)

下り線から上りSAの敏満寺跡へ。 上り・下りSAの陸橋。

場所は多賀SA(上り)の北端にあり。本線合流前にあるガソリンスタンドの横ので、スタバの前を抜けて行きます。ドッグランができる「プラザ多賀の駅」公園が城址の一部。

現在放送中の大河ドラマでは、平清盛は白河法皇の息子だとされています。
実はその説の根拠のひとつとされているのが、敏満寺にあった文書『仏舎利相承図』。

この文書は敏満寺に伝わってきた仏舎利のルーツを示すもので、祇園女御の妹について「白河法皇の子を懐妊後、忠盛がこれを賜り、生まれた清盛は忠盛の子息となる」と記されているのです。清盛の出生の秘密につながる文書が近江にあったなんて、なんだかすごい。
古い歴史を持ち、ひとつの時代に隆盛を極めながら、戦乱の渦中に姿を消した敏満寺。今はサービスエリアにある全国でも珍しい城跡。

土塁を別の角度から。こうして土を積んで、お寺(城)を守ってきた。

多賀SA(上り)内のガソリンスタンド近くに建つ
敏満寺跡の石碑

行くのが難しい城は数あれど、サービスエリア内にある城はたぶん日本でここだけ。もちろん城跡です。敏満寺城(址)は名神高速道路の多賀SA(上りの給油スタンド横・ドックランもここに!)にあります。

 敏満寺は天台宗の寺院ということで興りは1,200年前にさかのぼる。中世に入り湖東一大寺院となった敏満寺は、その勢力故に近江を支配していた佐々木六角氏や佐々木京極氏と対立することになり、寺院も城塞化していったとされている。

 永禄3年(1560)浅井長政は久徳城を攻め、久徳氏を亡ぼした後、永禄5年(1562)に久徳氏に味方したた敏満寺を攻め、学頭以下800人が戦死し、120余りあったといわれる坊舎のほとんどは焼失した。
 翌年一部再建されるが、元亀3年(1573)には織田信長の寺領召し上げに抵抗したため、残りの坊舎をことごとく焼かれ廃寺となる。

 慶長年間には(17世紀初頭)には、彦根城築城のため残った礎石を運び去られたといわれている。

敏満寺城(址)の説明板

櫓台跡

 敏満寺城は、天台宗寺院が城塞化した城郭寺院で、中世には湖東一大寺院であった。

 永禄5年、久徳城(多賀町)主久徳実時が、当初京極氏に従っていたが観音寺城の六角氏に従ったため、小谷城主浅井長政攻められた時、久徳氏に与したため、長政に攻められ40余りあったといわれる坊舎のほとんどは焼失した。 

 

上り・下り・SAは陸橋で行き来でき下り線の陸橋下の南側の説明板

 敏満寺城は青龍山(敏満寺山)の西麓に位置し、胡宮神社を中心とした敏満寺との関係が注目されているが、敏満寺城と敏満寺の関係は不明。 敏満寺の寺域は現在の大字敏満寺とされており、一方敏満寺城は名神高速道路多賀サービスエリア上り線の一画とされ、寺域と城域とは一致しない。 従来、寺院が城塞化していったものとして、近江には湖東三山の西明寺,百済寺などがあるが、この敏満寺城は敏満寺とは独立した城であった可能性もある。 城郭遺構としては、土塁や枡形虎口などが状態良く残されており、虎口形態から近江における元亀争乱の時に改修されたことが考えられる。

下り線の横を故宮神社へ、金網のゲートを開けてすぐ故宮神社の石碑・灯篭。

 

国道307の敏満寺のトンネルの上が故宮神社!

南側のトンネルの上は、唯一のビューポイント。本殿

 青龍山の麓に鎮座。神の山への道は胡神社から通じており、磐座へのガイドはきちんとされている。 徒歩20分。

本殿・拝殿の横を降りると

 高速道路の近くにある胡宮神社境内にも土塁の遺構が残る。

故宮神社の参道に、敏満寺城祉 古井戸と焼石塚

 国道307の故宮神社の鳥居、「下乗」の石碑

故宮神社境内図

 

 

 

 

多賀大社

 
「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」
「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあり、「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子である神話体系を歌詞に映したもの。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古くから、お多賀さん参りの参拝者で賑わう多賀大社。古事記によると、伊邪那岐と伊邪那美が天下ったという伝説のある多賀町の地は、この夫婦神を祭った多賀大社の門前町として栄えてきました。
天照大神の親神様である伊邪那岐と伊邪那美を祭り、縁結びの神、長寿の神として信仰されてきました。
境内には寿命石の史跡があり、延命のご利益があるというお多賀杓子も販売されています。
 
 
多賀大社境内図・・・・詳しくは多賀大社のご案内
 
 
 門前に、多賀大社の土産、「本家と元祖がある糸切餅」
 糸切餅由来
糸切餅の三筋の線は、蒙古軍の旗印です。社人あだ舟の旗印を作って、これを断ち切り調状の祈りを込めてお社のほとりに埋納しました船塚はそのあとともいわれています。 里人これにならい餅に青・赤・を上下三筋にいろどり敵の旗をになぞらえ弓に糸づるで」これを切って神前にお供えしなのが始まりと伝えられてます。(糸切餅の箱蓋より)
 滋賀県多賀町にある多賀大社、お土産といえば「糸切餅」。筒状になった薄い餅の皮の中にこしあんが入っており、薄い色で赤と青の3本ラインが入っているのが特徴である。
 
自宅で、美味しく食べた。門前の旨いものあり、近江路を往く。

 

 

 

 

 

 

サプライズで・・・【あけぼのパーク多賀博物館】へ

・・・詳しくあけぼのパーク多賀 - 多賀町

アケボノゾウの発掘

発掘風景 1993年2月,多賀町四手で行われていた造成工事の際,現場で作業していた建設会社の方たちが,古琵琶湖層の粘土の中から大きな動物の骨らしきもの(後でアケボノゾウの腰の骨と判明)を見つけました.それをきっかけにして,この付近の地層を前々から調査していた小学校や高校の先生たちが中心となって,何回も通って発掘するうちに,アケボノゾウの骨が一頭分埋っていることが分かってきました.そこで,3月19日より多賀町教育委員会と琵琶湖博物館の合同で,学校の先生方も加え,本格的な発掘が始まりました.その結果,4月3日までかかって見事に1頭分の象化石がほりあげられました.

ケボノゾウの足跡(親・子)クリックすると拡大 

芹川でのナウマンゾウ化石大量発見
━次の発見者はあなたかも!━

芹川のナウマンゾウ化石とその発見地点

 

南から北から

中川原の芹川沿い(名神高速道路を背に)、上流に向って立つ「ナウマン象」ドウ

 

日本最大の湖として知られる琵琶湖は、毎年北方向へ1.5~3cmくらい移動している。琵琶湖は誕生してから約600万年経っており、バイカル湖やカスピ海に続いて世界でも3番目に古い湖である。誕生当時は伊賀盆地の東部、現在の三重県にあった「古琵琶湖」は、面積を広げながらだんだん北西へ移動して今の琵琶湖の形になった。100万年後には日本海に到達して同化するとも考えられている。

7月7日は七夕だが、曇っていて・・・!

 

参考資料:現地ガイドさんの説明・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

  

 敏満寺石仏谷遺跡・・・blog・気の向くままに 「胡宮神社」と「敏満寺」より

胡宮神社表参道を登り切ると右手に「敏満寺遺跡」の案内板。
右手の山道を登って竹林の中を行くと中世の墓跡がフェンスで囲まれています。
地表には石仏や一石五輪塔が散乱した個所が何箇所もあります。

中世の墓跡が発掘調査されずにフェンスで囲まれています。
地表には石仏や一石五輪塔が散乱しブルーシートで覆われた個所が何箇所もあります。

石仏谷2

石仏谷3

発堀調査がされておらず、具体的なことは判らないそうですが地表面から採取した土器は12世紀から15世紀の終わりの土器が見つかっているそうです。
見つかった蔵骨器は瀬戸・常滑とか、庶民には手に入らない貴重な壺をつかっており被葬者は僧侶などではないかと考えられています。
しかし、中世の墓地が荒涼とした谷間にある風景は興味をそそられます。
敏満寺は寺院・城や商業を行った町屋・墓地などの遺跡を見て歩くと中世の宗教都市を想像できるエリアです。

石仏谷・・・・・・・・・・・・敏満寺遺跡現地説明会概要/近江の城郭より
 青龍山の山頂に磐座(いわくら)と云った大きな岩を祀って、信仰の対象になっていたと云われている、その青龍山の標高171mぐらいの山裾の西側に墓が造られている。西側に湖東平野が広がる谷の間に挟まれた所に墓が造られている。


石列があり、川原石が見られる。おそらく道の入口が一番古い段階に造られた墓ではないかと考えられます。
入口を削平し、川原石を並べて墓を造っている。墓は枝分かれしていくように雛壇状に造られている。

 発掘調査はしておらず、具体的なことは分からないが地表面から採取した土器を見てみると12世紀の終わりから15世紀の終わりの土器が見つかっている。
地元の人は地蔵があったとしていたが、ほとんどが阿弥陀如来像で、一体だけ地蔵菩薩が見つかっている。
これらを見ると石仏や、ひとつの石で造った一石五輪塔もあるが16世紀台になる。しかし16世紀台の土器は見つかっておらず。使われたのは石仏がおかれた16世紀台を中心に墓が使われたと考えている。
信長によって攻められ衰退し、滅亡しましたが、その頃からこの墓が使われなくなった状態で現在に残されていた。
中世墓という当時の姿を残した状態であるのは貴重なものである。


林の中に平坦な面には堂が建っていたと考えられ、中世史を考える上で重要であると考えられる。
 見つかっている蔵骨器は瀬戸物、常滑とか、庶民には手に入らない貴重な壺を使って埋葬されており、被葬者は宗教都市の有力な人物と考えられます。なお、石仏、加工していない部分が残っており、川原石を部分的に加工して使われいます。
 以上のことから、石仏は後世になって信仰の対象として庶民が供養のために納めたと云う可能性が考えられます。

 この敏満寺の周辺には、発掘の結果、城があり、商工業をした町屋の一画があり、宗教都市があったと云うことが分かってきています。

2003年11月22日  文責:箕浦

次回 Cコース:歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」 前半も、訪問下さいね!

 


歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・甲良編

2012年07月08日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

勝樂寺

導誉は法名で、諱は高氏勝楽寺蔵

 

佐々木 導誉/京極 導誉(ささき どうよ/きょうごく - )または佐々木 高氏/京極 高氏( - たかうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。一般的に「佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)」や「佐々木道誉」の名で知られる。

鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれ、執権北条高時に御相供衆として仕える。後醍醐天皇の綸旨を受け鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従い、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏の開いた室町幕府において政所執事や6ヶ国の守護を兼ねた。

ばさらと呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られ、『太平記』には謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う導誉の逸話を多く記している。「婆娑羅」とは室町時代の流行語で、遠慮なく振舞い、派手で、傍若無人な事を意味します。                                   戦国時代、傾奇者(かぶきもの)と呼ばれた漢(おとこ)達が居たの。傾く(かぶく)と言う言葉が語源で、その時代から見れば常識外れな異様な格好や言動で、時代を駆け抜けた変人或いは不良とも言える、しかし爽快な人物達。
(既成の権威に屈せず、自由奔放に、そしてすぐれた文化人でもある道誉は、人々のあこがれであったのかも!)

 近江源氏の佐々木氏は、第五十九代宇多天皇の皇子敦実親王の王子、雅信が源氏の姓を賜った事が始まり。                         この宇多源氏の源経方が近江国蒲生郡佐々木荘小脇(滋賀県東近江市【旧八日市市)小脇町)に居を構えた事から、佐々木氏を名乗るの滋賀県東近江市【旧八日市市)小脇町

源頼朝の挙兵に際して、それに従い戦功を挙げた佐々木定綱が近江守護職と成り、その子信綱は鎌倉執権北条義時の娘を正室とし、この二人から生まれたのが泰綱と氏信。近江守護職と佐々木総領職を受け継ぐのが泰綱
この兄弟の内、佐々木泰綱は京の六角東洞院に住んだ事から六角氏を名乗る様になり、弟の氏信は京極高辻に住んだ為に京極氏を名乗る事になるのね。この後、六角氏と京極氏は佐々木総領職を巡って争う事に成るんだけれど、それはまた別の話

「佐々木道誉」

戦国時代、傾奇者(かぶきもの)と呼ばれた漢(おとこ)達が居たの。傾く(かぶく)と言う言葉が語源で、その時代から見れば常識外れな異様な格好や言動で、時代を駆け抜けた変人或いは不良とも言える、しかし爽快な人物達ね。
前田慶次郎が居るけれど、彼の叔父である前田利家も傾き者だったし、言ってみれば織田信長や伊達政宗などもその部類の一人。
「歌舞伎」の語源も、当時としては奇想天外な格好をして大げさな立ち居振る舞いの演技だったから、この「傾奇者」から付いた名称。

鎌倉末期や南北朝時代にもこの傾奇者が居て、この様な漢達を当時は「婆裟羅(ばさら)」と呼んだ
その婆裟羅大名の代表と呼ばれる人物が、佐々木道誉。佐々木道誉は研究者によっては京極道誉(きょうごくどうよ)と言う人も居る。

勝楽寺城は、未訪問

 現在見られる勝楽寺の山門は、背後の山にあった勝楽寺城の城門を移築したものとされる。

天明年間(1781~1788年)に移築されるまでは山中にあった。山の頂には、道誉の館を守るために築かれたという勝楽寺城の主曲輪跡が今も残る。

 寺の屋根にも「四ツ目結」

 

  

佐々木道誉の墓。道誉の墓は勝楽寺のほかに、京極家の菩提寺・清滝寺徳源院(米原市清滝)にも存在する。

山門の軒瓦に見える佐々木京極家の「四つ目結紋」。

勝楽寺城址へ道横の石仏群

 

参考資料:ご住職の説明・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・多賀編へと続く・・・

 


歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・五個荘編

2012年07月08日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

三方よし館

「三方よし」 ミニ情報 - 用語解説 - 近江商人関係

 

 三方よしの原典 

 


三方よしの原典(中村治兵衛宗岸宗次郎幼主書置)
 「三方よし」とは、近江商人の活動の理念を表す代表的な言葉で、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の精神として知られています。現代社会においては、取引の際に売買当事者双方のみならずその取引自体が社会をも利する、ということがいえるでしょう。
その原典となるのが、江戸時代中期の近江商人である中村治兵衛が孫に遺した「書置」ですが、この中に 「三方よし」の文字は存在しません。何故なら、この言葉は近江商人の活動や精神を研究している現代の研究者が考案したものであるからです。「書置」には、「三方よし」の原典は、近江の国石場寺(いしばじ)(現東近江市五個荘石場寺町(ごかしょういしばじちょう))の麻布商・中村治兵衛(法名宗岸、宝暦7年4月25日没、享年73歳)が宝暦4年(1754年)に制定した「家訓」の中の一節、「他国ヘ行商スルモ総テ我事ノミト思ハズ其国一切ノ人ヲ大切ニシテ私利ヲ貪ルコト勿レ、神仏ノコトハ常ニ忘レザル様致スベシ」に由来するとされている。「たとえ他国へ行商に参り候ても、この商内物、この国の人一切の人々、心よく着申され候ようにと、自分のことに思わず、皆人よき様にと思い」とあり、「自分のことよりもお客のことを考え、行き先(商売に回る地方)の人のことを大切にして商売をする」という近江商人の商道徳の真髄が示されています。

 

弘誓寺(ぐせいじ)

 那須与一には七人の子供がありそれぞれ一寺を建て寺名をすべて弘誓寺(ぐせいじ)と号しました。これを那須の七弘誓寺といいます。この寺だけが浄土宗で住職の姓も稲岡姓ですが、八日市の建部下野< 御身山 無量院 弘誓寺>。他の六ヶ寺はすべて浄土真宗で住職はみな、那須姓を名乗っています。
 八日市の瓜生野(西本願寺)・五個荘金堂(大谷 東本願寺)・能登川の躰光寺(西本願寺)・湖東町小田刈(西本願寺)・湖東町中一色(東本願寺)・南川瀬の法蔵寺(西本願寺)です。 

八日市の建部下野< 御身山 無量院 弘誓寺>は、この寺は平安初期の延暦十年(791)建部社の神宮寺として建てられ比叡山延暦寺一乗止観院に属し大願寺と称していました。中興の祖は源平の合戦のときの「扇の的」で有名な源氏の武士那須与一宗高の二男である願名坊宗信です。那須与一は東国下野国から近江の国に封ぜられ石畑建部領主となり発願して建てたのがこの寺です。正元元年(1259)2月7日のことでした。

近江商人(五個荘商人)屋敷

近江商人の行商は、他国で商売をし、やがて開店することが本務であり、旅先の人々の信頼を得ることが何より大切であった。そのための心得として説かれたのが、売り手よし、買い手よし、世間よしの「三方よし」である。取引は、当事者だけでなく、世間の為にも !

近江商人

近江商人とは主に今の滋賀県、かつての近江国を出身とする商人のことで、大阪商人、伊勢商人と並んで日本三大商人といわれることもあります。

琵琶湖に臨んだ近江国は、古来水陸交通の要衝の地として開け、農産物も豊かで早くから市が立ち、商業が盛んでした。

鎌倉、室町時代になると、この地の商人達は比叡山延暦寺と結んで座を結成し、越前、伊勢、美濃方面へ盛んに行商に出かけるようになりました。

江戸時代に入ると交通の発達と市場の拡大にともなって全国に進出し、その活躍はいっそう活発になりました。徳川幕府が鎖国政策をとる以前に、安南屋、シャムロ屋などのように海外へ飛躍したものもいました。

近江の商人達は、はじめ天秤棒を肩に、近江特産の蚊帳、上布、畳表などをもって出発し、各地で売りさばきながら、その地の特産を仕入れ、さらにそれを売りながら旅を続ける「持ち下り商い」と呼ぶ行商で富を蓄えました。次に各地に出店を構え、その出店の間で産物を回す、「産物回し」によって財をなし、江戸日本橋通り、大阪の本通り、京都三条通に大店舗を連ねるようになりました。
琵琶湖の鮎と近江商人は他所へ言って出世するといわれるように、地元には会社を作らず、別の地に会社を構えるのが特徴でした。

近江商人は一般的に「八幡商人」「日野商人」「五個荘商人」と分けられるのが多いのですが、豪商を多くだしたのは、近江のうちでも八幡、日野、彦根などで、最上の紅花、会津の漆器、名古屋の青貝塗といった各地の産物を一手に動かし、関東の醸造業、松前の漁業にまで商才をふるいました。

さらにその富力によって、金融の上においても大いに活躍し、大名貸しや、日野出身の中井家のように仙台藩、その他の藩の藩財政の実験を握るものまで現れました。

昼食は・・・五個荘

【うどん たなか】本日のおすすめを(うどんやでそばを注文!)

近江商人の旧邸で

舟板塀が、屋敷の一部に使われてます。

三方よし会館(東近江観光協会も館内に)遠景は観音寺城

館内郷土銘産売り場・・・無人でしたが!

参考資料:現地ガイドさんの説明・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・甲良編・・・・へと続く