歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・多賀編
敏満寺遺跡を示す案内板
レジュメの縄張り図
高速道路のSAやPA内にある城跡は、この敏満寺城以外にない。
名神高速道路上り線の多賀SAのガソリンスタンド近くに小公園が整備されているが、ここで土塁や櫓台をみることが出来ます。
城址案内解説板は、レストランと小公園の間に設置されています。
下り線のサービスエリア内にも遺構が残されている。
さらに、高速道路の東側を南進すろ。近くの胡宮神社境内に土塁や井戸・焼石の遺構が残されている。
敏満寺は、九世紀末から十世紀初頭ごろに、伊吹山寺の開基にたずさわった三修上人の弟子敏満童子の開基にかかる天台密教寺院であると伝えられています。
以後、敏満寺は、天皇や皇族の崇敬を受け隆盛していきました。鎌倉時代に記された「一山目録」には、現在の胡宮神社付近を本堂とし、四十余りの塔堂が立ち並んでいたことが書かれています。
室町時代に湖東の一大寺院と化した敏満寺は、その勢力ゆえに守護大名佐々木氏や京極氏とたびたび対立するようになります。“応仁の乱”以降は山門の一翼をにない、ことあれば僧兵を動員することになり、寺は要塞化した軍事拠点(城郭)となっていきました。
そして戦国時代、永禄五年(1562)に浅井長政の攻撃を受けた久徳氏に味方したため長政に攻められ、当時120以上あったという坊舎は炎上焼失してしまいました。
さらに、元亀三年(1572)には織田信長の命に応じなかったことから、残りの坊舎をことごとく焼かれ、寺領も取り上げられ、衰微の一途をたどっていったのです。
慶長年間(十七世紀初頭)には残った礎石も彦根城普請のため運び去られました。
造園部一帯は、昭和61年5月~昭和62年3月まで発掘調査が行なわれ、調査の結果、十五世紀末から十六世紀末にかけての遺跡であり、高く盛られた土塁、深く掘られた空堀から、要塞化した寺院遺構と考えられ、櫓、建物、門、井戸等の跡及び土器類も出土しています。 (現地案内解説板より)
歴史ブロガー歴史ブロガーの「京極道誉と平景清の足跡を訪ねて」・・・多賀編
Bコースルート(レジュメより)
名神高速道路の下り線の多賀SAへは、SA下に大きな駐車場があり、一般道路からも入れます。
SA・PA グルメ温泉の旅 名神高速 多賀SA(下り)
下り線から上りSAの敏満寺跡へ。 上り・下りSAの陸橋。
場所は多賀SA(上り)の北端にあり。本線合流前にあるガソリンスタンドの横ので、スタバの前を抜けて行きます。ドッグランができる「プラザ多賀の駅」公園が城址の一部。
現在放送中の大河ドラマでは、平清盛は白河法皇の息子だとされています。
実はその説の根拠のひとつとされているのが、敏満寺にあった文書『仏舎利相承図』。
この文書は敏満寺に伝わってきた仏舎利のルーツを示すもので、祇園女御の妹について「白河法皇の子を懐妊後、忠盛がこれを賜り、生まれた清盛は忠盛の子息となる」と記されているのです。清盛の出生の秘密につながる文書が近江にあったなんて、なんだかすごい。
古い歴史を持ち、ひとつの時代に隆盛を極めながら、戦乱の渦中に姿を消した敏満寺。今はサービスエリアにある全国でも珍しい城跡。
土塁を別の角度から。こうして土を積んで、お寺(城)を守ってきた。
多賀SA(上り)内のガソリンスタンド近くに建つ
敏満寺跡の石碑
行くのが難しい城は数あれど、サービスエリア内にある城はたぶん日本でここだけ。もちろん城跡です。敏満寺城(址)は名神高速道路の多賀SA(上りの給油スタンド横・ドックランもここに!)にあります。
敏満寺は天台宗の寺院ということで興りは1,200年前にさかのぼる。中世に入り湖東一大寺院となった敏満寺は、その勢力故に近江を支配していた佐々木六角氏や佐々木京極氏と対立することになり、寺院も城塞化していったとされている。
永禄3年(1560)浅井長政は久徳城を攻め、久徳氏を亡ぼした後、永禄5年(1562)に久徳氏に味方したた敏満寺を攻め、学頭以下800人が戦死し、120余りあったといわれる坊舎のほとんどは焼失した。
翌年一部再建されるが、元亀3年(1573)には織田信長の寺領召し上げに抵抗したため、残りの坊舎をことごとく焼かれ廃寺となる。
慶長年間には(17世紀初頭)には、彦根城築城のため残った礎石を運び去られたといわれている。
敏満寺城(址)の説明板
櫓台跡
敏満寺城は、天台宗寺院が城塞化した城郭寺院で、中世には湖東一大寺院であった。
永禄5年、久徳城(多賀町)主久徳実時が、当初京極氏に従っていたが観音寺城の六角氏に従ったため、小谷城主浅井長政攻められた時、久徳氏に与したため、長政に攻められ40余りあったといわれる坊舎のほとんどは焼失した。
上り・下り・SAは陸橋で行き来でき下り線の陸橋下の南側の説明板
敏満寺城は青龍山(敏満寺山)の西麓に位置し、胡宮神社を中心とした敏満寺との関係が注目されているが、敏満寺城と敏満寺の関係は不明。 敏満寺の寺域は現在の大字敏満寺とされており、一方敏満寺城は名神高速道路多賀サービスエリア上り線の一画とされ、寺域と城域とは一致しない。 従来、寺院が城塞化していったものとして、近江には湖東三山の西明寺,百済寺などがあるが、この敏満寺城は敏満寺とは独立した城であった可能性もある。 城郭遺構としては、土塁や枡形虎口などが状態良く残されており、虎口形態から近江における元亀争乱の時に改修されたことが考えられる。
下り線の横を故宮神社へ、金網のゲートを開けてすぐ故宮神社の石碑・灯篭。
国道307の敏満寺のトンネルの上が故宮神社!
南側のトンネルの上は、唯一のビューポイント。本殿
青龍山の麓に鎮座。神の山への道は胡神社から通じており、磐座へのガイドはきちんとされている。 徒歩20分。
本殿・拝殿の横を降りると
高速道路の近くにある胡宮神社境内にも土塁の遺構が残る。
故宮神社の参道に、敏満寺城祉 古井戸と焼石塚
国道307の故宮神社の鳥居、「下乗」の石碑
故宮神社境内図
多賀大社
「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」
「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあり、「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子である神話体系を歌詞に映したもの。
古くから、お多賀さん参りの参拝者で賑わう多賀大社。古事記によると、伊邪那岐と伊邪那美が天下ったという伝説のある多賀町の地は、この夫婦神を祭った多賀大社の門前町として栄えてきました。
天照大神の親神様である伊邪那岐と伊邪那美を祭り、縁結びの神、長寿の神として信仰されてきました。
境内には寿命石の史跡があり、延命のご利益があるというお多賀杓子も販売されています。
門前に、多賀大社の土産、「本家と元祖がある糸切餅」
糸切餅由来
糸切餅の三筋の線は、蒙古軍の旗印です。社人あだ舟の旗印を作って、これを断ち切り調状の祈りを込めてお社のほとりに埋納しました船塚はそのあとともいわれています。 里人これにならい餅に青・赤・を上下三筋にいろどり敵の旗をになぞらえ弓に糸づるで」これを切って神前にお供えしなのが始まりと伝えられてます。(糸切餅の箱蓋より)
滋賀県多賀町にある多賀大社、お土産といえば「糸切餅」。筒状になった薄い餅の皮の中にこしあんが入っており、薄い色で赤と青の3本ラインが入っているのが特徴である。
自宅で、美味しく食べた。門前の旨いものあり、近江路を往く。
サプライズで・・・【あけぼのパーク多賀博物館】へ
・・・詳しくあけぼのパーク多賀 - 多賀町
アケボノゾウの発掘
1993年2月,多賀町四手で行われていた造成工事の際,現場で作業していた建設会社の方たちが,古琵琶湖層の粘土の中から大きな動物の骨らしきもの(後でアケボノゾウの腰の骨と判明)を見つけました.それをきっかけにして,この付近の地層を前々から調査していた小学校や高校の先生たちが中心となって,何回も通って発掘するうちに,アケボノゾウの骨が一頭分埋っていることが分かってきました.そこで,3月19日より多賀町教育委員会と琵琶湖博物館の合同で,学校の先生方も加え,本格的な発掘が始まりました.その結果,4月3日までかかって見事に1頭分の象化石がほりあげられました.
アケボノゾウの足跡(親・子)
芹川でのナウマンゾウ化石大量発見
━次の発見者はあなたかも!━
芹川のナウマンゾウ化石とその発見地点
南から北から
中川原の芹川沿い(名神高速道路を背に)、上流に向って立つ「ナウマン象」ドウ
日本最大の湖として知られる琵琶湖は、毎年北方向へ1.5~3cmくらい移動している。琵琶湖は誕生してから約600万年経っており、バイカル湖やカスピ海に続いて世界でも3番目に古い湖である。誕生当時は伊賀盆地の東部、現在の三重県にあった「古琵琶湖」は、面積を広げながらだんだん北西へ移動して今の琵琶湖の形になった。100万年後には日本海に到達して同化するとも考えられている。
7月7日は七夕だが、曇っていて・・・!
参考資料:現地ガイドさんの説明・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々
敏満寺石仏谷遺跡・・・blog・気の向くままに 「胡宮神社」と「敏満寺」より
胡宮神社表参道を登り切ると右手に「敏満寺遺跡」の案内板。
右手の山道を登って竹林の中を行くと中世の墓跡がフェンスで囲まれています。
地表には石仏や一石五輪塔が散乱した個所が何箇所もあります。
中世の墓跡が発掘調査されずにフェンスで囲まれています。
地表には石仏や一石五輪塔が散乱しブルーシートで覆われた個所が何箇所もあります。
発堀調査がされておらず、具体的なことは判らないそうですが地表面から採取した土器は12世紀から15世紀の終わりの土器が見つかっているそうです。
見つかった蔵骨器は瀬戸・常滑とか、庶民には手に入らない貴重な壺をつかっており被葬者は僧侶などではないかと考えられています。
しかし、中世の墓地が荒涼とした谷間にある風景は興味をそそられます。
敏満寺は寺院・城や商業を行った町屋・墓地などの遺跡を見て歩くと中世の宗教都市を想像できるエリアです。
石仏谷・・・・・・・・・・・・敏満寺遺跡現地説明会概要/近江の城郭より
青龍山の山頂に磐座(いわくら)と云った大きな岩を祀って、信仰の対象になっていたと云われている、その青龍山の標高171mぐらいの山裾の西側に墓が造られている。西側に湖東平野が広がる谷の間に挟まれた所に墓が造られている。
石列があり、川原石が見られる。おそらく道の入口が一番古い段階に造られた墓ではないかと考えられます。
入口を削平し、川原石を並べて墓を造っている。墓は枝分かれしていくように雛壇状に造られている。
発掘調査はしておらず、具体的なことは分からないが地表面から採取した土器を見てみると12世紀の終わりから15世紀の終わりの土器が見つかっている。
地元の人は地蔵があったとしていたが、ほとんどが阿弥陀如来像で、一体だけ地蔵菩薩が見つかっている。
これらを見ると石仏や、ひとつの石で造った一石五輪塔もあるが16世紀台になる。しかし16世紀台の土器は見つかっておらず。使われたのは石仏がおかれた16世紀台を中心に墓が使われたと考えている。
信長によって攻められ衰退し、滅亡しましたが、その頃からこの墓が使われなくなった状態で現在に残されていた。
中世墓という当時の姿を残した状態であるのは貴重なものである。
林の中に平坦な面には堂が建っていたと考えられ、中世史を考える上で重要であると考えられる。
見つかっている蔵骨器は瀬戸物、常滑とか、庶民には手に入らない貴重な壺を使って埋葬されており、被葬者は宗教都市の有力な人物と考えられます。なお、石仏、加工していない部分が残っており、川原石を部分的に加工して使われいます。
以上のことから、石仏は後世になって信仰の対象として庶民が供養のために納めたと云う可能性が考えられます。
この敏満寺の周辺には、発掘の結果、城があり、商工業をした町屋の一画があり、宗教都市があったと云うことが分かってきています。
2003年11月22日 文責:箕浦
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