城郭探訪

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大工奉行 甲良備後守

2012年07月20日 | 武将

甲良豊後守宗廣(1574-1646)日光東照宮の寛永大造替の大棟梁

城普請大名藤堂高虎と大工奉行 甲良備後守

 

甲良町役場に車を止めて「

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甲良神社(甲良町法養寺)

甲良神社(甲良町法養寺)

祭神:須佐之男命(すさのお)・伊弉諾命(いざなぎ)・伊弉冉命(いざなみ)

甲良神社は佐々木京極氏によって、永正15年(1518)弓削村(現・竜王町弓削)から御神体を迎えたと伝わる。
この法養寺は甲良大工発祥の地ともいわれている。
佐々木氏の子孫で、日光東照宮造営の棟梁をつとめた甲良豊後守宗廣が、慶長9年(1604)この社を修理したとされる。
この神社は古くから上の郷の総社として奉仕され、明治5年(1872)には郷社になった。

甲良宗廣の祖と生誕地
   甲良宗廣は甲良町法養寺に生まれる。甲良家は、中性から甲良に住む工匠で、もともと社寺の建築造営を担う大工を職務としていたと思われる。現に、永禄九年(1566)に造営された重要文化財の油日神社楼門(甲賀町)も棟札に、「内棟梁大工御子息甲良五郎左衛門殿・・・」とあり、甲良家が有力な名工であったことを物語っている。甲良光広の孫にあたる宗廣は、慶長九牛(1604)三十歳の時、幕府に召し出され、江戸の僧上寺造営の棟梁をはじめて務めたのである。そのあと、彼の畢生の業績として後世に伝えられた日光東照宮造営の大棟梁となった。甲良家の始祖ともなった宗廣は、幼年期から郷里の近くにある湖東三山の西明寺・金剛輪寺・.百済寺といった優れた建造物に親しみ、これらが格好の研究材料になる恵まれた環境にあったといえる。
藤堂高虎と宗廣
   東照宮は初め元和二年(1574)、同郷の藤堂高虎が作事奉行として造営されたが、現在に見るほどの立派さはなかった。同郷の宗廣が幕府作業方棟梁に召され絢襴豪華、壮麗無比の東照宮に生まれ変わった。
帰郷後の宗廣  
   宗廣は、六十三歳(1636)になった時、大棟梁の職を「子の宗次に譲り、甲良に帰郷する。しかし、生誕他の法養寺は、水害が多く彦根藩により村落が移されたため生家もなく、やむなく隣村四十九院の檀家の唯念寺に住まいすることとなった。宗廣は帰郷しながらも郷里の寺院の造営に援肋する。まず唯念寺の本堂を寄進し新築するが、惜しくも幕末に焼失する。また、信長の兵火で焼失し、甥が住職をしていた百済寺(愛東町)の本堂造営にあたる。晩年、宗廣は法衣の自像を彫り、唯念寺に残し、正保三年(1646)、七十二歳で情熱の生涯を終えた。

甲良豊後守宗廣記念館

甲良豊後守宗廣(1574-1646)の偉業をたたえ、幕府作事方(さくじがた)大棟梁職の甲良家に関する資料を展示する資料館です。江戸時代末期に建てられた旧家を利用した展示棟と、新築された研修棟が渡り廊下でつながれています。                   展示棟には、宗廣自筆の鯉の絵の掛軸や甲良大工道具などの甲良家や宗廣を偲ばせる資料が展示されているほか、収蔵室や談話室もあります。研修棟では、講演会が開かれたりもします。                                                                                   甲良豊後守宗廣は、甲良町法養寺の出身で代々宮大工の匠家を勤める家に生まれました。関白近衛(このえ)家館門や洛東吉田神社の造営を行い、寛水13年(1626)の日光東照宮人造替の大任を最後に仏門に帰依しました。                                                   宗廣の墓所は京都真如堂(しんにょどう)と東京芝の正念寺のニか所にあります。                                                              また、甲良家12代にわたって秘伝「神拝式書(しんぱいしきしょ)」、建築設計基準の嚆矢である「本途帳(ほんとちょう)をはじめ、数々の資料・図面など日本建築学界に多大の功績を残しています。

甲良氏(こうらし)は、江戸幕府の作事奉行輩下である幕府大棟梁を務めた家系である。建仁寺流として11代まで続いた。

  • 主に日光東照宮造営、修理を行った。江戸時代末期には安政大地震によって崩壊した江戸城修復なども行った。
  • 初代は甲良宗広(1574年-1646年)といい、現在の滋賀県甲良町法養寺出身。慶長元年(1596年)、京都近衛関白殿御門を建てる際、左甚五郎より片扉宛分を仰せ付けられ、褒美をいただいた。現在、甲良町には甲良豊後守宗廣記念館がある。
  • 3代宗賀の時、日光東照宮修繕の褒美として切米100俵と市谷の地(市谷甲良屋敷=現在の市谷柳町25番地)を拝領する。また自らは拝領地に居住せず、千住に屋敷を設けている。現在、東京都新宿区市谷甲良町にその名を残すが、前述のように屋敷地跡は隣接の市谷柳町となる。
  • 10代甲良棟全(明治11年(1878年)没)は安政大地震で倒壊した江戸城破損部の修繕を行い実質、最後の大仕事となった。
  • 11代甲良棟隆(匠造、明治43年(1910年)没)の際、明治維新を迎え、廃業した。流派は10代の子である大島盈株に引き継がれ、のちに初代新橋駅等の鉄道建築物の造営に貢献した。
  • 甲良氏は、11代棟隆の子・伝次郎(鉄道省技師)が昭和21年(1946年)に没して断絶した。菩提寺は港区正伝寺。

城普請大名「藤堂高虎」

2012年07月20日 | 武将

高虎公園の藤堂高虎(1555~1630) 

藤堂高虎(とうどう たかとら)b
(プロフィール)
七度主君を変え、豊臣秀吉・徳川家康にも仕えた戦国武将で、外様大名でありながら徳川十七将に数えられる知勇兼備の将。
不義理者と評価されることが多いが、実際には仕えた主君を裏切った事はなく、滅私奉公の如く働いた。

城普請大名藤堂高虎と大工奉行 甲良備後守

誕生
   天文二十四年(1555)、近江国藤堂村(在土)に生まれる。父藤堂虎高は京極家の後、浅井家に仕えた犬上郡数村の領主。藤堂家は、中原氏(平安時代以来の朝廷に仕えた大臣)の家柄であるが、高虎時代は状勢より藤僚氏系と名のった。
徳川時代
   慶長五年(1600)四十五歳・関ケ原戦で家康に従軍し、功績をたて今治二十万石の城主となる。以後、丹波篠山城・亀山城の普請奉行に任ぜられる。慶長十九年(1614)五十九歳・江戸城普請奉行となる。元和三年(1617)六十二歳・東照宮の縄張りを賞せられ、三十二万二千九百余石の大大名となる。寛永七年(1630)七十五歳・十月五日没す。寒松院(津市)に葬る。
藤堂高虎
十五歳にして191Cmの体格
   生まれたときから乳母の一人の乳だけではたらず、家来の女房から乳をもらった。三歳には餅を食い、六歳で大人の食事をし、七歳で40Kgの荷物を持ち、元服の十五歳には191Cmの筋骨たくましい怪童であった。
高虎公園内(高虎像)
高虎公園内(高虎像)
誠意ある人柄
   生涯を通じて誠意を冬くす人に対して必ず誠意を冬くす人であった。若武者時代は父に従って湖北の雄「浅井家」に仕え織田信長軍(姉川合戦)とよく戦った。浅井家滅亡後、秀吉の弟「秀長」に仕え、彼の実力が認められるようになる。主君秀長が死んだ時は、高野山で出家(僧になる)までする。徳川家康に武家屋敷を建てた時、自費を払って裏門を造営する。秀吉亡きあと、後見人石田三成の高慢なところに嫌気がさしていたところ、徳川家康の誠意に共感し、家康こそが私の主君と決断し関ケ原戦で徳川軍として善戦する。家康は高虎の仕事に対する気構えと忠臣精神を認め、遺言状の後見人としての扱いをたまわり、伊勢国三十二万石余の大名となる。
築地土木の天才
   高虎の体は巨人であったが、指がなく全身は刀傷で切り刻まれていた。彼の武勇を語る証である。そればかりではない、高虎には築城工事に優れ名築城家としての才能があった。秀吉時代は伊予大洲城、宇和島城、家康時代は普請奉行としてヨーロッパ築城技術を取り入れた今治城、二条城、穴太衆(滋賀)の石垣技術をフルに利用した再建の大阪城、日本一高い石垣の伊賀上野城、伏見城の補修、そして城主となった津城、また、江戸城の修築などと日光東照宮である。家康の命によって日光東照宮の大棟梁となった甲良豊後守宗廣は、高虎と同郷である。ときに高虎四十五歳、宗廣二十八歳であった。

甲良町役場に車を止めて

近江国の豪族であったが、虎高は武田信虎に仕えて偏諱を受けたという。のち浅井亮政に仕えた(『寛政重修諸家譜』、太田亮『姓氏家系大辞典』)。 虎高の子・高虎は、浅井氏・阿閉氏・磯野氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏と主を次々と乗り換え、最後は伊勢国津藩三十万石を手に入れる事に成功している。

高虎公園

 八幡神社は、五命という女神を祀り、戦勝、家内安全五穀豊穣を祈ることで知られています。                                                                           在士(ざいじ)八幡神社の創基ははっきりわかりませんが、藤党影盛(とうどうかげもり)が石清水八幡宮を勧請して建立したのが始まりといわれ、極彩色の本堂は藤原氏が大名になる時に修復されたと伝えられます。                                                                       鳥居脇と本殿裏にある紫藤は、八幡神社を勧請した時、影盛が子孫繁栄米を祈願して植えたと伝えられています。                                                         毎年5月中旬頃が最盛期で、棚いっぱいに藤の房が下がります。1房が1m以上もあり、さながら藤のカーテンのようです。毎年5月の弟2日曜には在士(ざいじ)の化切りと呼ばれる藤切祭りが行なわれ、東京の藤堂家に贈ることが毎年の行事となっています。藤堂家では、贈られた12の花房で花見の宴が催されるといいます。昭和52年(1977)1月、藤が町の花に選定されています