城郭探訪

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・瀬田川洗堰

2013年10月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

2013.9.16の台風18号で全閉した(+100cm)が・全開中(9/29-13cm)の瀬田川洗堰

大正貞明皇后行啓碑

南郷洗堰の近く(南郷1丁目17番街区の南郷公園前)に滋賀県知事堀田義次郎の書による記念碑が建てられています。 

高さ2.13mで「皇后陛下行啓記念碑大正11年(1922)11月12日(行啓)」と記されています。

 琵琶湖の洪水を防ぐために、瀬田川の川底にたまった土砂を堀取る「川ざらえの工事」が昔から何度も行われてきました。それで、瀬田川の川底が深くなり、よりたくさんの水が流れるようになって、琵琶湖の洪水は少なくなりました。
 しかし、瀬田川の川の流れがよくなると、今度は下流の淀川が洪水を起こしやすくなってしまいました。また、長い間雨が降らないと、琵琶湖の水が少なくなって、水不足になったりします。

これを解決したのが、洗堰です。洗堰の役目は、

  1. 大雨で琵琶湖の水の量が多いときには、たくさんの水を流す
  2. 雨不足で水の量が少なくなると、むだな水は流さない
  3. 上流と下流で洪水が起こらないように、水位調節する
堰を開けたり閉めたりする順序
越流
大雨で宇治川、木津川、桂川、淀川の水位が上がると、洗堰は水門を半分開いて少し水を流します。
全閉
宇治川、木津川、桂川、淀川の水位が最高になると、下流が洪水にならないように洗堰は水門を閉めます。
全開
宇治川、木津川、桂川、淀川の水位が下がってくると、洗堰は水門を全開して水を流し、琵琶湖の水位を下げます。


・旧南郷洗堰

2013年10月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

~日本の近代治水事業のシンボルともいえる存在~

 琵琶湖には一級河川だけで118本、支川も含めると400以上もの河川が流入している。その一方、琵琶湖から流れ出る川は唯一瀬田川のみ。たった1本しかない流出河川であるにもかかわらず、瀬田川の川底には琵琶湖から流れ出る土砂に加え、瀬田川に合流する大戸川が運ぶ砂礫が溜まり、川の疎通能力が極端に低かったという。上古の時代より、平城京や寺院造営のための木材切り出しなどで禿山になっていた田上山(たなかみやま)からは、大量の土砂が大戸川に流れ出し、「水七合に砂三合」などと例えられていたほどだった。
 瀬田川の水はけの悪さゆえ、雪解けや台風の季節には琵琶湖の水位が上昇し、沿岸が浸水被害に見舞われることがたびたびあった。有史以前より水害に苦しめられていた琵琶湖周辺の人々の懸案は、瀬田川の川底を浚渫し、流出水量の拡大を目指すことにあった。
 奈良時代、全国各地を遊行しながら民衆救済事業に尽力した行基は、瀬田川の「川ざらえ」(浚渫)を初めて指揮。その際、瀬田川に張り出し、川幅を狭くしていた大日山の開削によって川の流量を増やそうと試みたが、下流の氾濫を恐れて断念した。その後の記録は定かではないが、江戸時代には5回ほど大規模な「川ざらえ」が行われている。なかでも、天明年間(1781~1788年)から天保年間(1830~1843年)にかけて、親子3代にわたって瀬田川の浚渫に尽力した藤本太郎兵衛という庄屋のことは知る人ぞ知る話だ。

明治時代、地元住民だけが洗堰の上を通行することが許されていたという。平成14年(2002年)、洗堰の歴史的価値が認められ、土木学会選奨土木遺産に選ばれた。
 

 

瀬田川西岸

 琵琶湖から唯一流れ出る河川、瀬田川。琵琶湖から流れ出て大阪湾に至るまでの間に、宇治川、淀川と名前を変えて流れ下るこの川は、古くから東西交通の要衝でもあり、京都、大阪の利水と水運を担う、いわば「近畿地方のライフライン」のような存在だった。
 一方、その水はけの悪さから、大雨が降ると行き場を失った水が琵琶湖に滞留し、湖水面の上昇で沿岸が浸水するなど、近江の国の人々は「水込み」と呼ばれる浸水被害に悩まされていた。琵琶湖沿岸の「水込み」被害をなくすことは、人々にとって昔から変わらぬ切実な願いであったと同時に叶わぬ夢のような話でもあった。

 

河岸に残る一部残る旧南郷洗堰の遺構。背後に見えるのは大日山。大日山開削を断念した行基は、山に大日如来を祀り、大日山に手をつけると祟りが起こると言い残したという。上・下流住民の対立を見越して、大日山を破壊することをタブーにしたかったのだろう。
 
瀬田川左岸、旧洗堰の遺構の脇にある「水のめぐみ館 アクア琵琶」の館内。
洗堰の歴史に関するパネルや旧洗堰の操作の様子を表した模型展示などがある。

http://mizutakara.shigabunka.net/e582849.html

本日も訪問、ありがとうございました。


・関西電力宇治発電所 【南郷呑口】

2013年10月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

発電用の水は、琵琶湖から流れ出す唯一の河川、瀬田川に設置されている。
瀬田川洗堰の上流300mのところ(滋賀県大津市南郷)から取水し、約11kmの水路を通って、12号開渠から調整池に入り、五条の水圧鉄管を通して5台の水車を回している。

明治39年、京都府と滋賀県の共同出資により宇治川電気株式会社が設立(明治41年2月に着工、大正2年6月に竣工)。

戦中戦後の電力会社統廃合により関西電力株式会社となる

1.水路総長 6137間
 隧道 5070間
 暗渠  440間
 開渠  627間
1.最長隧道 第1号 1357間
     第7号 1658間
1.使用水量 1秒時2000立方尺
1.有効落差 204尺
1.機械容量 48000馬力
1.送電線路 大阪線 22哩
    京都線  8哩
1.工事費総額 1600万圓
1.工事着手 明治41年12月
1.工事竣功 大正2年6月
  大正3年10月  宇治川電気株式会社
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http://lalalasayu.jugem.jp/?eid=921

 本日も訪問、ありがとうございました。


・大津放水路(湖都は水害対策が出来ていた)

2013年10月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

大津放水路は、大津市街地の慢性的な洪水被害を軽減するために、大津市南部を流れる8つの小河川の洪水を中流部でカットし、放水路を通 して、瀬田川へ流下させる地下トンネル放水路です。

http://www.biwakokasen.go.jp/ohtsu/guidance/o2const_pgs.html#top

大津放水路は、大津市街地の慢性的な洪水被害を軽減するために、大津市南部を流れる8つの小河川の洪水を中流部でカットし、放水路を通 して、瀬田川へ流下させる地下トンネル放水路です。

ひとたび、豪雨によって、河川が氾濫すると地域住民に大きな被害をもたらします。

大津市南部の8河川においても過去に大きな被害をもたらした数々の洪水記録が残されています大津放水路は、伽藍山から石山高校の地下を通って、名神高速道路の山沿いに諸子川の流れる膳所付近まで約4.7kmの地下トンネルが続く予定です。また、地上部では、対象河川からトンネルへ洪水を導水する施設として、分水施設を設置します。一期区間として、瀬田川から盛越川までの約2.4kmで現在工事を終えて、既に通水開始しています

羅漢山公園の手前(石山寺駅の自転車置き場が併設されてます)

本日も訪問、ありがとうございました。