桃山初期の作庭といわれ、寺院叉は武家の書院に面した庭園機構です。当地には昔、延命山尊勝寺という東大寺所属の寺があって、松尾神社はその寺の鎮守であったと考えられるところから、当庭園もその機構と思われます。
しかし、一説では、永禄9年(1566)奈良興福寺、一乗院に隠れていた将軍足利義昭が、近江に佐々木義賢を頼った時、将軍を迎えるために義賢が作庭したともいわれています。
それは、同将軍が信長に追われて、朝倉義景を頼ったときも、義景が一乗ヶ谷の居城に作庭しており、その庭園と松尾神社庭園とが時代的にも、あるいは様式、手法なども全く同一であるところから類推されたもので、この地に豪族の邸宅があったことも考えられます。
山畔に多数の石組を建てた豪放なものは、蓬莢石組。中央部一群の石組は、須弥山(しゅみせん)や、鶴亀島の形態を整えており、武家書院好みの力強い造園技術を偲ばせる名園です。
~複雑な石組みが織り成す枯山水庭園の妙~
広大な市域をもつ東近江市の行政の中心地、八日市の街の中心部に、「こんなところにこんな素晴らしい庭園が・・・」と驚いてしまうような見事な枯山水庭園がある。近江鉄道八日市駅のすぐ裏手、延命山と呼ばれる小高い丘のような山の麓にある松尾神社庭園だ。
緑深い木立に包まれた松尾神社の境内。ごつごつとした自然石を多用した庭園は、松尾神社の鳥居をくぐってすぐのところ、拝殿の左脇に静寂とともにたたずんでいる。
松尾神社庭園は、桃山時代初期の作庭とされ、寺院か武家の書院に付随した庭園だったと見られている。だが、一説には、奈良の興福寺一乗院に身を寄せていた室町幕府最後の将軍、足利義昭が、永禄9年(1566年)に南近江の守護を担った後に隠居していた佐々木義賢を頼って近江に赴いた際に、義賢が将軍のために作庭したともされる。
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