城郭探訪

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建部館 (松尾神社庭園) 近江の国

2013年10月06日 | 館跡

 桃山初期の作庭といわれ、寺院叉は武家の書院に面した庭園機構です。当地には昔、延命山尊勝寺という東大寺所属の寺があって、松尾神社はその寺の鎮守であったと考えられるところから、当庭園もその機構と思われます。

 しかし、一説では、永禄9年(1566)奈良興福寺、一乗院に隠れていた将軍足利義昭が、近江に佐々木義賢を頼った時、将軍を迎えるために義賢が作庭したともいわれています。

 それは、同将軍が信長に追われて、朝倉義景を頼ったときも、義景が一乗ヶ谷の居城に作庭しており、その庭園と松尾神社庭園とが時代的にも、あるいは様式、手法なども全く同一であるところから類推されたもので、この地に豪族の邸宅があったことも考えられます。

 山畔に多数の石組を建てた豪放なものは、蓬莢石組。中央部一群の石組は、須弥山(しゅみせん)や、鶴亀島の形態を整えており、武家書院好みの力強い造園技術を偲ばせる名園です。

~複雑な石組みが織り成す枯山水庭園の妙~

作庭当時は、ここにこの辺りの領主であった建部氏の屋敷があったともいわれる

 広大な市域をもつ東近江市の行政の中心地、八日市の街の中心部に、「こんなところにこんな素晴らしい庭園が・・・」と驚いてしまうような見事な枯山水庭園がある。近江鉄道八日市駅のすぐ裏手、延命山と呼ばれる小高い丘のような山の麓にある松尾神社庭園だ。
緑深い木立に包まれた松尾神社の境内。ごつごつとした自然石を多用した庭園は、松尾神社の鳥居をくぐってすぐのところ、拝殿の左脇に静寂とともにたたずんでいる。

鶴島と亀島の間にかけられた一枚の大石の橋

 神社の前を通る道は多くの人や車が行き交うが、そのすぐ傍らにあるこの庭園を観ようとする人の姿はあまり多くはない。だが、松尾神社庭園の由緒を知れば、この庭が思いのほか深い歴史とエピソードを秘めた名庭だということがわかってくることだろう。
 松尾神社は、八日市の背後に控える山、延命山の麓にあり、古文書によれば、この山を北へ尾根伝いに行ったところにある、聖徳太子が創建したと伝わる瓦屋寺の別院、延命山尊勝寺(えんめいざんそんしょうじ)の鎮守としての神社だったという。尊勝寺は奈良・東大寺の管轄であったということから、このあたりでも重要な役割を担っていた神社であったことが想像できる。

中央にある須弥山。須弥山は仏教などで世界の中心を表すもの。庭園は昭和46年に旧八日市市の文化財に指定された(現・東近江市指定文化財)

 松尾神社庭園は、桃山時代初期の作庭とされ、寺院か武家の書院に付随した庭園だったと見られている。だが、一説には、奈良の興福寺一乗院に身を寄せていた室町幕府最後の将軍、足利義昭が、永禄9年(1566年)に南近江の守護を担った後に隠居していた佐々木義賢を頼って近江に赴いた際に、義賢が将軍のために作庭したともされる。

永禄11年(1568年)信長が佐々木氏を攻めた折、佐々木氏の配下であった建部氏の館も庭園だけを残して灰燼に帰し、その跡に松尾神社が建てられたともいわれる


 大小さまざまな石で組まれた庭園は、「蓬莱式枯山水」と呼ばれる庭園様式で、山際に蓬莱連山を思わせる石組みが、中央に須弥山(しゅみせん)と鶴島・亀島が配されている。複雑な石組みに用いられた石は背後の山から採取された花崗岩質のもので、その岩質の風合いもあいまって、豪快でどっしりとした武家好みの趣を醸し出している。
 はっきりとした庭園の由来は定かではないが、乱世の時代につくられたことを思い起こさせるその荒々しくも迫力のある作風から、湖国の名庭の一つにあげてもよいだろう。

 

 

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