城郭探訪

yamaziro

倭(皇倭姫=天智天皇后)神社 近江国  2013.10.3

2013年10月11日 | 遺蹟

倭神社

倭神社は、大津市滋賀里三丁目字天塚に所在し、京阪電鉄滋賀里駅の北方約500mの小丘上に位置する。祭神は天智天皇の皇后である倭姫と伝えるが、おそらくこの小丘上の本殿の改築の際、朱の痕跡が認められる花崗岩の板石が五~六枚発見されたことなどから古墳と考えられ、その被葬者が倭姫だとする伝承によるものであろう。江戸時代の記録によると、天正19年(1591)及び宝永7年(1710)に赤塚大明神として再興されたという。
 現在、墳頂には南向きの一間社流造りの簡素な本殿が建ち、本殿へいたる参道の石段付近の東側にクスノキ、西側にケヤキの巨木がみられ、それらは昭和51年(1976)12月1日付けで大津市保護樹木に指定されている。
 また、この古墳は「赤塚古墳」と命名され、地籍図等の復原による東向きの前方後円墳か、もしくは近年の測量調査による直径30~40m、高さ2.5~4.0mを測り円墳と思われ、築造年代は古墳時代中期の五世紀前半頃と推定されている。
 この神社は、通称「赤塚の明神さん」の名で滋賀里地区全域の住民に親しまれており、御例大祭は9月23日で、宵宮祭には江州音頭による踊りが平成8年まで催されていましたが、現在は行われていません。

被葬者が祭神・皇倭姫(天智天皇后)と伝承されている赤塚(または天塚)と呼ばれる古墳の墳丘上にある。赤塚は前方後円墳で、その後円部の頂上を削平して社地を営んでいる。
南向きの簡素な社殿のみがある

本日も訪問、ありがとうございました。


北之庄城(深谷・岩崎山城) 近江国(近江八幡)

2013年10月11日 | 戦国山城

佐々木経方の六男 乾六郎行範の城か?

所 在 地:滋賀県近江八幡市宮内町・北之庄町   map:http://yahoo.jp/QVlIou

別 名:深谷・岩崎山城

遺 構:石垣、曲郭、堀切、土橋、櫓台

区 分:山城

標高:251m    比高差:150m

築城者:佐々木経方の六男 乾六郎行範か? 

築城期:室町後期

訪城日:2013.10.8

北ノ庄神社の本殿の東側登り口

お城の概要

北之庄神社本殿の右側から山道に入り、25分ほどで主曲輪手前の堀切に掛けられた土橋に着く。この間、小さめの堀切と土橋、および堀切があるが、ルートによっては副曲輪の枡形虎口に出る可能性もある。

 北之庄城は八幡山城の築かれている八幡山(鶴翼山)と尾根続きの標高254mの山に築かれ、南北に延びる尾根に幾つかの曲輪連ねているが、大きくは2つの曲輪とみて差し支えない。
というのも、2つの曲輪が非常に大きく、他の小曲輪の存在を論じてもあまり意味がない。

 主曲輪は50m×50mほどの広さで、主曲輪の北側約30mほど下った副曲輪は100m×100mほどの広さを有し、いずれも周囲を切出しの分厚い土塁を巡らせている。
土塁の高さは高いものは5~6mをはかり、大きな中世城郭である。

主曲輪は南北に虎口を設け、いずれも平虎口ではあるが、北側虎口は石積みの跡が確認できる。
 副曲輪の虎口は、北に2つ、西に1つ、東の1つと計4つの虎口が設けられている。このうち東側の虎口は枡形虎口で、土塁を石垣に変えれば、近世城郭の虎口そのままともいえる規模と構造をしている。

 副曲輪には7つ池と称される7つの池がある。おそらく飲料水用の井戸代わりに使われたのではないか。
 主曲輪、および副曲輪内部の削平はあまく、この城が長期にわたって使われていなかったことを窺わせる。

犬走り最初のビューポイント・・・・観音寺城

八幡山城ビューポイント・・・・観音寺城

お城の歴史

『滋賀県中世城郭分布調査旧滋賀郡』 真野城に説明資料

「真野城は真野氏で、湖東の豪族近江源氏佐々木経方の六男行範が(乾六郎行範)、乾氏の始祖となり蒲生郡北ノ庄に本拠おいたその子孫乾氏の分流が真野郷を領して真野氏を称したという。」

 北之庄城は、八幡山城とは直線距離にして500~600mにあって、規模も大きな城であるが、いつ、どのような目的で築かれたかは全く判っていない。

北ノ庄神社鳥居前で

北ノ庄城遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板、

     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!