城郭探訪

yamaziro

小谷城 近江国(浅井)

2013年10月15日 | 平城

近江中世城郭調査委員会主催の「秋一番 あざい ほっと 城郭見学交流会」が開催されました。

講師は、城郭研究家 長谷川博美氏。
午前11時、小谷城戦国歴史資料館前駐車場画像に集合し、「旧伊吹町 甲津原治山城郭遺跡、向山城郭遺跡」へ向かう前に

小谷城本丸を見学

小谷城番所まで車で・・・で「浅井三代の里」から山道を登り、「小谷城番所」手前に駐車し、(数台駐車可能。)、そこから歩いて本丸まで行きます。。

所在地:長浜市湖北町伊部      (東浅井郡湖北町伊部)    map: http://yahoo.jp/rS8KPm

築 城:大永4年(1524)

初城主:浅井亮政

区 分:山城

遺 構:空掘,土塁,堅堀,石垣

城 域:1000mx1800m

標 高:495m       比高差:230m

 浅井氏の家紋井家の紋三つ盛亀甲)

戦 い:

大永5年(1525)  ○六角定頼 VS ●京極高清・浅井亮政

天文7年(1538)  ○六角定頼 VS ●浅井亮政        

元亀3年(1572)  △織田信長 VS △浅井長政    

 姉川の戦い(あねがわのたたかい)という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ   

天正元年(1573) ○織田信長 VS ●浅井長政・朝倉義景 

訪城日:2013.10.13

今回、先に本丸を見る目的は、

その堅固な切岸、帯郭、空堀の構造を頭に入れておくと、次に見学する「甲津原 治山城郭遺跡」がよく解ると講師曰く。「番所跡」で小谷城跡絵図の本丸位置を確認する。

ここから本丸まで400mです。本丸へ通じる道は幅が広く、よく整備されて歩き易い。

番所跡この景色は、NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の第1話で、確か小谷城からびわ湖、竹生島

しばらく行くと、左手前に虎御前山、遠くびわ湖に浮かぶ竹生島、右手に山本山が見渡せるビューポイント!

御茶屋敷

馬洗池この日は「猪のヌタ場」でしたしばらく行くと、姉川合戦場・・・手間が大井山砦(浅井+朝倉軍)VS遠景茶臼山砦(織田+徳川軍)、横山城も見渡せるビューポイント

首据石【今井秀信の首をさらしたとされる石】

黒金紋

桜馬場は3段の曲輪からなり、南端の曲輪からは清水谷、および北国脇往還道(現在の国道365号線)を眼下におく。また中島城、丁野山城が築かれている岡山をも見通すことが出来る。ここが本当の馬場かどうかは疑問の残るところである。
 中段の曲輪には浅井氏及家臣供養塔が建てられている。

それから、御馬屋跡と言われる石積みで囲まれた池、黒金御門跡の石段を上がると大広間跡と呼ばれる郭が出現する。

下側に石垣が見られます。すごい。

浅井氏及家臣供養塔

この景色は、NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の第1話で、確か小谷城からびわ湖、竹生島を見るシーンはここ桜馬場で撮影された。

中世山城をあちこち観て廻るが、この小谷城の千畳敷ほど大きな曲輪はあまり記憶にない。

さて、この大きな曲輪がどのような目的で使用されたのだろうか。

   本丸下の大石垣(大広間千畳敷も奥に)。しかし、石は小さい(砕石されてはいるが)

大広間の奥に土塁が

その左側から帯郭、北側の大きな空堀、右へ回
ると下に赤尾屋敷が見えます。一周すると台を切り岸、その上に本丸の郭や櫓台が築かれたことが解ります。

その奥には高さ10m位の切り立った本丸の台形が見えます。元々は、丸い山だったところを、削り落として台形に造ったのでしょう。鋤と鍬しかない時代に、いったい何千人がもっこ 【知らない人のために解説:天秤棒に前後に藁で編んだ網に土を入れて運ぶ道具】で運んだと思うと気が遠くなる。

大堀切

本丸:大堀切や大広間の間に10m以上切岸で囲まれて

下に赤尾屋敷の長政自刃の碑が見える。これも大きい。】

赤尾屋敷:ここから160m往復 右手奥が赤尾屋敷跡(浅井長
政が自刃した所)の標識を

長政自刃の地

 

 
小谷城の白米伝説】
 大手道の番所を過ぎてしばらく山道を登ると、馬洗池と云われる石組みで作られた池がある。
小谷城の水は、はるか東方の天吉寺山の海抜650mの元池から延々10数キロ以上のサイフオン仕掛けの竹の"とい"で引いてきたらしく、水は城中からこの池に流れ込んでいたという。

 天正元年(1573)8月、織田信長は小谷城最後の総攻撃の前に、天吉寺山からの竹の樋を破壊したため、小谷城内には水が一滴もなくなった。小谷城の浅井側では水が絶えたと知れば、敵は勢いづいて攻め込んで来る。そこで水を落としていた樋から白米を馬洗い池に流して、城にはまだ水があるように見せかけたという。

歴 史

 浅井氏の出自は明らかではない。亮政の3代前の重政が明応5年(1491)に京極持清に仕えた時から歴史に登場する。
 大永3年(1523)15代当主京極高清の跡目相続について、浅井町野瀬の梅本坊で家臣団の協議(梅本坊公事)が行われるが、長男・高広を立てようとする浅井亮政,今井越前守等と、次男・高慶を立てようとする父高清,上坂信光,多賀四郎左衛等が対立する。

 梅本坊公事の結果、跡目は次男高慶に決定するが、次男高慶派の中心となっていた上坂氏の横暴に反感を持っていた長男・高延派の浅井亮政、今井越前守は尾上城に寄って次男・高慶派を排除することを画策する。
 大永4年(1524)六角氏の援助を受けて、上平寺城の京極高清,上坂信光を攻め、高延を救出する。上坂氏の今浜を攻略した浅井亮政は小谷京極丸に高清,高延を迎え入れる。この時点で名目はともかく、江北の実権は浅井氏が握ることとなる。
 小谷城が築城された年については諸説があるが、ここでは大永4年(1524)としておく。

 

本日も訪問、ありがとうございました。



 亮政,久政,長政と三代にわたって湖北を納め、栄華を誇った小谷城であったが、元亀元年(1570)姉川の戦いで織田・徳川軍に敗れた後、天正元年(1573)8、清月水谷から攻め上った織田軍によって落城した。
 浅井氏滅亡後、木下籐吉郎が湖北三郡を与えられ、天正3年(1585)に今浜の地に新たに長浜城を築いた後は廃城となる。