井伊家の「市長 井伊直愛」氏も居住され、現在は彦根市が管理している。
彦根藩11代藩主井伊直中が、城下松原村に文化年間(1810年頃)に造営した下屋敷の庭園である。周囲を巡る堀は彦根城・琵琶湖と繋がって、さらに庭園の池とも繋がって、いわゆる汐入の形式となってた。
庭園は主屋の前面に展開し、広々とした前庭部の先に池が南北に展開するように横たわり、橋が架けられていた(現状は橋はない)。橋を渡った東側は緩やかな起伏をなし,北に高く南に低い造成がなされ、松原越しに西方琵琶湖を望む展開となっていた。石組はほとんど施されず、汀は州浜や芝付で伸びやかな景を呈している。植栽はほとんどが後世のものであるが、昭和の終わり頃までは橋の北側に蘇鉄の植栽があって江戸期からの庭園植栽であったと想定されるがこれも今はなくなっている。
本庭園は上記のように江戸期を代表する大名庭園として、また汐入形式の庭園として貴重であり、名勝に指定して保護され、春と秋に無料公開される。
本庭園は,彦根藩11代藩主井伊直中が、城下松原村に文化年間(1810年頃)に造営した下屋敷の庭園である。
彦根城の北方、別名「お浜御殿」と呼ばれる「旧彦根藩松原下屋敷」は、彦根藩11代当主井伊直中[なおなか]によって文化7年(1810)頃に琵琶湖畔に造営された下屋敷。井伊家が内々で使用していた屋敷で、明治初期の廃藩置県後は、彦根の井伊家の居宅となっていた。
総敷地面積約2万1000平方m。現在は国の名勝に指定され、奥座敷棟、台所棟などが残る。敷地の半分を占める庭園は、優れた造園技術を駆使した江戸時代を代表する大名庭園で、琵琶湖の水位の変化に応じて水が満ち引きする汐入[しおいり]形式の池は、淡水を利用した汐入形式の池としては日本唯一。
西側は洲浜[すはま]が穏やかに広がり、東側には築山に石燈籠や石組が配され趣がある。新緑の春と紅葉の秋に特別公開され、イチョウやモミジが色付く秋の庭園の散策は特におすすめだ。
井伊氏の起源
井伊氏は、藤原北家の流れをくむとも、継体天皇の子三国氏を祖とするともされる共資が遠江国敷智郡村櫛に住し、その子共保が遠江国引佐郡井伊谷に土着し井伊氏を称したのが始まりだという。井伊の姓はこの本貫地井伊谷の地名に由来している。
井伊氏は以後約500年にも及び井伊谷を本拠とする国人領主であった。
戦国期の井伊氏は駿河・遠江・三河にかけて勢力を誇っていた今川氏に仕えた。初代共保から数えて23代直親は、今川氏直から謀反の嫌疑をかけられたため、殺され領地を没収された。その子直政はかろうじて難を逃れ密かに育てられた。
天正3年(1575)15歳になった直政は、徳川家康に謁見し気に入られ、以後家康の近習として仕えた。
元服後の直政は幾多の合戦に戦功を挙げて、しだいに徳川家臣団の中で重きを置かれるようになり、後世徳川四天王の一人として称えられるまでになった。家康の関東入封に際しては、上野国箕輪に12万石を与えられ、のち新たに高崎城を築城し移った。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の戦功により、近江佐和山城18万石で移封した。ここに直政は彦根藩初代として、彦根藩の礎が築かれた。
歴代彦根藩主家井伊家 (掃部頭家)
初代直政は彦根移封後間もなく関ヶ原合戦の傷がもとで佐和山城内で亡くなり、彦根山の新城を見ることはなかった。
また彦根城の築城を開始した直政の嫡子直継は、病弱であったなどの理由で将軍家康の進言により、異母弟直孝にその座を譲ることとなった。直継は分地された上野国安中藩の初代城主の肩書きとなり、歴代彦根藩主には数えられない。
2代直孝は、大坂の陣の戦功や秀忠・家光・家綱の3代にわたり将軍を補佐し、3度の加増を得て、都合35万石という徳川譜代の大名としては最高の地位を得るに至った。
彦根藩は譜代大名の中でも別格とされ、徳川御三家や親藩同様に転封や移封がなく、常に溜間詰として将軍に近侍することを命じられた。以後、幕末までに14人の藩主を数えたが、5人が6回の大老職に任ぜられるなど長く譜代大名筆頭の格式を堅持した。
また直興・直定は退いたのち再度藩主に返り咲いたため、廃藩置県まで16代数えられる藩主は都合14人である。そのため例えば最も著名な直弼は15代藩主でありながら、13人目の藩主なので井伊家13代と記載されたりする。
生没 | 系統 | |||
(藩主在任期間) | ||||
初代 | 直政 | 1561-1602 | 直親長男 | 徳川四天王 |
(1600-1602) | 関ヶ原以前は上野国箕輪・高崎12万石 | |||
佐和山城18万石で入封 | ||||
関ヶ原合戦戦後処理 | ||||
毛利輝元との講和 | ||||
島津氏との和平仲介 | ||||
山内一豊の土佐入国援助 | ||||
(直継) | 1590-1662 | 直政長男 | 彦根城築城開始 | |
(1602-1615) | 病弱という理由で支藩に移封 | |||
分流上野国安中城初代藩主 | ||||
病弱といいながら直孝より長寿 | ||||
2代 | 直孝 | 1590-1659 | 直政次男 | 彦根藩主以前は上野国白井藩1万石 |
(1615-1659) | 大坂夏の陣で一番の活躍 | |||
家光の後見人・幕府初の大老職 | ||||
彦根藩石高を35万石まで押し上げる | ||||
3代 | 直澄 | 1625-1676 | 直孝5男 | 幕府大老職 |
(1659-1676) | 江戸切腹騒動鎮静化 | |||
浄瑠璃坂の仇討の裁定 | ||||
青岸寺の再興・多景島に直孝供養等 | ||||
直興に配慮し正室を娶らず | ||||
4代 | 直興 | 1656-1717 | 直縄長男 | 槻御殿(玄宮楽々園)建設 |
(1676-1701) | 松原港・長曽根港を改築 | |||
家中法度・侍中由緒書編纂 | ||||
日光東照宮改修総奉行 | ||||
長寿院(大洞弁財天)建立 | ||||
幕府大老職 | ||||
5代 | 直通 | 1689-1710 | 直興8男 | 質素倹約・聡明 |
(1701-1710) | 22歳で死去 | |||
6代 | 直恒 | 1693-1710 | 直興10男 | 一度も彦根に入ることなく江戸藩邸にて18歳で死去 |
(1710) | ||||
7代 | 直該 | 幕府大老職再選 | ||
(直興)(2) | (1710-1714) | 直政・直孝に次ぐ井伊氏中興の祖 | ||
33人の子だくさん | ||||
直興のみ永源寺を墓所とした | ||||
8代 | 直惟 | 1700-1736 | 直興13男 | 質素倹約・武芸奨励 |
(1714-1735) | 鷹狩りを好む | |||
石垣の改修工事 | ||||
9代 | 直定 | 1700-1760 | 直興14男 | 彦根藩主以前は彦根新田藩1万石 |
(1735-1754) | 幕府奏者番 | |||
質素倹約 | ||||
10代 | 直 | 1727-1754 | 直惟長男 | 質素倹約 |
(1754) | ||||
11代 | 直定 | 10代直の急死で再び藩主に | ||
(2) | (1754-1755) | |||
12代 | 直幸 | 1729-1789 | 直惟次男 | 幕府大老職 |
(直英) | (1755-1789) | 田沼意次と執政 | ||
13代 | 直中 | 1766-1831 | 直幸6男 | 稽古館(弘道館)創設 |
(1789-1812) | 井伊神社建設 | |||
石田三成慰霊のため石田群霊碑建立 | ||||
天寧寺(五百羅漢)建立 | ||||
子だくさん | ||||
14代 | 直亮 | 1794-1850 | 直中3男 | 幕府大老職 |
将軍家斉死去により大老辞職 | ||||
(1812-1846) | 西洋好き | |||
15代 | 直弼 | 1815-1860 | 直中14男 | 幕府大老職 |
(1846-1860) | 日米修好通商条約 | |||
安政の大獄 | ||||
桜田門外の変により暗殺 | ||||
16代 | 直憲 | 1848-1904 | 直弼次男 | 直弼の専横・圧政を糾弾20万石へ減封 |
佐幕派から倒幕派へ転身 | ||||
(1860-1871) | 明治維新後、彦根藩知事 | |||
1871廃藩置県 | ||||
(17代) | 直忠 | 1881-1947 | 直憲長男 | 伯爵・関東大震災により東京本邸焼失 |
(18代) | 直愛 | 1910-1993 | 直忠長男 | 伯爵・双子・彦根市長9期46年 |
井伊家の石高・知行地・藩邸
初代直政 | |
天正10年(1582) | 遠江井伊谷4万石 |
天正13年(1585) | 小牧長久手の戦い・真田攻めの功にて遠江井伊谷6万石 |
天正18年(1590) | 小田原の役の功・徳川氏関東移封にて上野箕輪12万石 |
慶長3年(1598) | 新城築城にて上野高崎12万石 |
慶長5年(1600) | 関ヶ原の戦いの功・戦後処理にて近江佐和山18万石 |
2代直孝 | |
慶長20年(1615) | 上野安中藩に3万石を分知15万石 |
慶長20年(1615) | 大坂夏の陣の功20万石 |
寛永9年(1632) | 将軍補佐・3代将軍家光の後見役・大老職25万石→30万石 |
※知行高は30万石だが城附米2万石(知行高換算5万石)があり35万石の格式とされる | |
16代直憲 | |
文久2年(1862) | 先代直弼の専横・圧政を糾弾され、20万石へ減封 |
元治元年(1864) | 池田屋事件・禁門の変の功23万石 |
30万石の知行地
近江国28万石・下野国安蘇郡1万7700石・武蔵国荏原郡多摩郡2300石
各地の藩邸
彦根城表御殿
江戸藩邸 桜田門外に上屋敷、赤坂喰違に中屋敷、八丁堀と千駄ヶ谷に下屋敷
京都藩邸 河原町三条下がる
大阪藩邸蔵屋敷 過書町
分流井伊氏 (兵部少輔家)
彦根藩井伊家は徳川幕府譜代大名の筆頭角として知られた名門であるが、井伊氏には彦根以外に分家があったことは案外知られていない。彦根藩初代直政が亡くなり、2代藩主となった直継は病弱だったなどという理由から、直政似と称された剛毅さで大坂の陣で武功をあげた弟直孝にその座を譲り、将軍家康から分地された上野安中3万石を与えられる。
直継は直勝と名を改め、井伊氏分家の初代藩主となった。
元和元年(1615)上野国安中藩3万石
正保2年(1645)三河国西尾藩3万5000石
万治2年(1659)遠江国掛川藩3万5000石
宝永2年(1705)越後国与板藩2万石
明治維新を迎え子爵として華族に列する。
彦根新田藩
彦根新田藩は、正徳4年(1714)より享保19年(1734)まで存在した藩である。4代及びに7代藩主直興(該)の14男直定が1万石を分与され立藩した。
父直興は、直定を評価しつつも兄直椎に家督を継がせる必要があったため、せめて直定のために新田藩を立藩させたのではないかと思われる。
享保17年(1732)直定は奏者番に就任。享保19年、兄で8代藩主の直椎の養嗣子となったため廃藩となった。直定はのちに、彦根藩主家の9代・11代藩主となった。
新田藩とは、与えられた領地ではなく新規に開発した領地(新田)を分与する方式である(新田分知)。これにより、本家の表高を減少させずに分家を創設する事が出来る。