城郭探訪

yamaziro

佛生寺城 近江国(彦根)

2014年05月30日 | 山城

所在地:彦根市仏生寺町  map:http://yahoo.jp/YS_RPF

区 分:山城

現 状:山林・廃村

遺 構:矢倉台、曲郭、土塁

築城期:南北朝期

築城者:畑氏

城 主:畑 城左エ門

訪城日:2014.5.9

 

お城の概要

 一説には「年貢道」と云われる裏街道が近くを走っており、間道の押さえとして築かれたとの考えられる。

 多賀の町から彦根鳥居本に間道の押えの砦・城して利用、中山道の間道の監視目的の城であるという側面はあり、こうした間道を押さえるだけなら小さな砦・城である。  

  「ふるさと鳥居本」(彦根市鳥居本学区自治会刊)の仏生寺の記述には「金亀城(仏生寺城) 鳥居本村大字仏生寺の山上にある。今は城山(引用者者※的場。下屋敷、中屋敷、上屋敷、内屋敷、殿屋敷、大街道、浄土山、看観など総称して城山)と称す。また其の南方なる小字勘定谷にも一砦跡あり城跡と伝わる」とある。

 城山と称する山地は現在山麓の小字坂屋へ挙家移転した旧仏生寺の集落で、いわゆる家屋敷跡であるが、その一角に城跡と称すにふさわしい遺構が残る。櫓台跡の小高い凸地を残して削平され、南へ向けて舌状に張り出している。これが佛生寺城の中枢であった。

 そこから谷を隔て南尾根筋に「ふるさと鳥居本」にある一砦跡が存在するが、その遺構は山尾根を削平、尾根と並行して土塁を設け120mにも及ぶが明確とはいい難い。

歴 史

 佛生寺城主を『淡海国木間攫』には、畑 城左エ門としているが、隣村の荘厳寺城主として『大洞弁財天古城主名札』畑 四朗左衛門の名の見られ、同一人物と考えられる。

 No.1佛生寺城

No.2山上砦(詰め城)

間道脇の佛生寺城No.1

石仏 砦跡

見張り櫓か 郭跡   廃村に今も1軒がお住まい削平地・・・郭跡

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』5(旧愛知・犬上郡の城)・『淡海国木間攫』・『大洞弁財天古城主名札』・『ふるさと鳥居本』

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 


曽我城 近江国(多賀)

2014年05月30日 | 居館

曽我城館に建つ曽我神社

所在地:滋賀県犬上郡木曽字曽我   map:http://yahoo.jp/XCjWaS

築城期:文明17~18(1484~85)年頃

築城者:曽我兵庫允師助

城 主:赤田(曾我)次郎

遺 構::曲輪、墓地、墓碑、慰霊碑

目 標:曽我神社・開蓮寺

訪城日:2014.5.27

お城の概要

曽我城は、木曽集落北側上方にある開蓮寺北西の山中にあったとされる。同じ木曽地区に所在する小林城とは東方山続きで、所在地の北側には芹川ダム湖がある。

木曽地区は旧道がすぐ山麓を走り、山と旧道の狭い場所に集落が建つ。現在は民家のすぐ裏に堤防とフェンスが建設され、フェンスを越えたところに開蓮寺が建っている。この開蓮寺は城主赤田氏の菩提寺だというが、無人化し荒廃している。

 遺跡地図では山腹の急斜面が示されている。開蓮寺の東側山中に「赤田家遺蹟之碑」が建っているが、急斜面で狭い山腹のこの付近に城の施設と思える遺構は見当たらず。開蓮寺北西山中も同様に、急斜面で平削地すらないが、開蓮寺西隣・後方尾根の北の谷筋には平坦地がある。

 曽我神社には曽我祐重と師助を祀る曽我神社が建てられている。

境内には曽我兵庫允の碑があり、隣接する旧永晶庵の墓地には曽我氏代々の墓石がある。

曽我氏代々の墓曽我氏代々の墓石

また集落内に鎮座する曽我神社付近に曽我城があったという説もあるが、こちらも非常に狭い場所である。

曽我神社の東隣の墓地には、城主曽我氏の墓が建つ。末裔がお住まいなのだ。

 歴 史

曽我城は、文明17~18(1484~85)年頃に曽我兵庫允師助が久徳郷の背後の山裾に築いたものとされる。

 曽我氏は恒武平氏の嫡流である平良文の曽孫・千葉介常将の子・常信が相模国足柄郡曽我郷に移り住んだことに始まる。
常信の孫・祐信の子が“曽我の仇討ち”で有名な十郎祐成、五郎時致(ときむね)兄弟である。

 時致(ときむね)の孫に当たる祐重が承久の乱の際、北条義時に属して宇治川の合戦で討死にした功により、子祐盛に犬上郡久徳郷曽我の地頭職が与えられた。

 応永年間(1393~1427)多賀庄に京極道誉の勢力が伸びるおよんで曽我氏は衰退し、替わって赤田信濃守高が越後から赴任して曽我城を本拠とした。

赤田家遺跡の碑

 また、近隣の開蓮寺は赤田氏の菩提寺で、境内には赤田家遺跡之碑が建てられている。
この碑は讃岐丸亀藩最後の藩主・京極朗徹の孫である京極高修子爵によって書かれたとある。赤田家と京極家の繋がりは相当に深いものがあったということか。

多賀氏が勢力を拡大すると赤田氏は河瀬庄八丁村の八丁城(八町城)に移り、曽我城は廃城となった。

その後、久徳郷に城を構えたのが久徳城主・多賀二郎定高である。  

 応永年間(1393~1427)多賀庄に京極道誉の勢力が伸びるおよんで曽我氏は衰退し、替わって赤田信濃守高が越後から赴任して曽我城を本拠とした。

赤田氏の菩提寺「開蓮寺」の後方の山は中腹(現在は、曽我集落の墓地)まで、曽我城(曽我氏・赤田氏)の詰め城であった。か?

    開蓮寺は城主赤田氏の菩提寺だというが、無人化し荒廃している。          

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


小林城 近江国(多賀)

2014年05月30日 | 平山城

 

別 名:小林遺構

所在地:犬上郡多賀町木曽字小林 map:http://yahoo.jp/5cJJoN

現 状:山林

区 分:平山城

遺 構:曲郭

築城期:室町期カ

築城者:小林宗家

目 標:照蓮寺

訪城日:2014.5.27

 

小林城は、彦根市との境 界付近のR306号すぐ北側、木曽小林地区集落西側の丘陵上一帯に築かれていたとされる。

                       

お城の概要

小林集落北西の照蓮寺背後から山中に入り、獣害フェンスを入り、元墓地?を進み、南の尾根へ斜面を登る。ほどなく山頂平坦部に辿り着く。

 標高約165mの頂部は、獣害対策フェンス沿いに南北に約150m。東西50m平削地が広がっている。平削地の山中は下草で、城跡の遺構を確認は困難である、御椀型の城郭で、防御には不安が残る。

 頂部の南方からさらに西方は痩せ細った尾根が東西に続き、湖東平野の堤防のようだ。又平削地の北側は切岸状の谷筋であった。

最近この尾根部に獣害フェンスが設置され、それに伴ってか森林が伐採されていて、彦根方面の遠望が開けていた。城山の北側は水路や池が通り、水源としては良い立地に築かれている。

自然の地形を利用して、東に開口分を(甲賀の単郭のように)、頂部の平削地は詰め城カ?、或いは曽我城の出城カ?

曲郭跡を、後世に墓地として使用いていたか?

  

歴  史

「多賀神社文書」に小林左衛門尉宗家の名がみえるが、その他詳細は不明。

尚、同じ山塊のここから東方約400mには曽我城が所在する。

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査 、淡海の城、多賀文書、

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!