一圓屋敷・多賀「里の駅」
一圓家は江戸時代の庄屋で、屋敷は安政4年(1857)に建てられたとされ、平成20年に所有者の一圓六郎氏よりNPO法人彦根景観フォーラムに譲渡された。現在は同団体と、地元住民らで組織の多賀クラブとが結成した団体「多賀『里の駅』」が地元の町おこしの拠点として活用している。敷地1,678㎡、建物面積が約560㎡。3つの蔵がある。
一圓家年表
寛文 | 1661年 | 初代 高重 江戸時代はじめに初代(1672年没) |
2代 高義 杢太夫(もくだゆう)を世襲(1705年没) | ||
正徳 | 1711年 | 3代 高次(友之助)(1758年没) |
宝暦 | 1751年 |
4代 秀綱(弥惣八)(1795年没) |
寛政 | 1789年 | 5代 秀経 (杢太夫)(1793年没) |
享和 | 1801年 | 6代 秀成 (弥惣八)(1808年没) |
文化 | 1804年 | 7代 秀房 (杢太夫)「庄屋」の初見(1829年没) |
天保 | 1830年 |
8代 有秀 (杢太夫)「庄屋」の初見(1881年没) |
明治 | 1868年 | 9代 秀延 (弥太郎)(1891年没) |
10代 秀褒 (杢太夫) |
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昭和 | 1926年 | 11代 菊太郎 |
12代 六郎 現当主 |
伊勢と多賀のつながり
実は一圓屋敷には、江戸時代に京都で活躍した小澤華岳の「おかげまいり絵図」(天保9年(1838年)が飾られていた。これは、天保元年(1830年)に427万人もの人々が押し寄せた伊勢神宮への参拝の喧騒を生き生きと描いたもので、なぜこの絵が多賀の一圓屋敷にあるのか謎だった。
伊勢と多賀のつながりが見えた。
「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」
「お伊勢七度 熊野に三度 お多賀さんへは月詣り」
と民間で歌いはやされたフレーズには、現代風に言えば、伊勢神宮との本店・支店関係における正統性を強調しつつ、巧みなプロモーションによって参詣客を増やす「フォロアーの戦略」がうかがえる。
そういえば、彦根から多賀に至る道にも「伊勢」や「鳥羽」という名前の店舗や旅館があることに気づいた。地域あげて、大プロモーションを展開していたのかもしれない。
一圓氏
一圓 但馬守 (いちえん たじまのかみ、生没年不詳)
は、戦国時代の武将。宇多源氏京極氏支流であり、始めは土佐一条氏の家臣として後に長宗我部氏に仕える。
初代は一圓氏直。父は一圓隼人、弟に一圓帰部。官位は但馬守。一円とも名乗る。安芸羽根城城主。
生涯
一圓氏は滋賀県犬上郡多賀町一円より派生した京極氏の一統であり、一条氏が応仁の乱で土佐に一圓氏直が付き添い共に下向した。長宗我部氏の史料である一宮興人夫割張に但馬守の名前がのっており、土佐一条氏滅亡後には長宗我部氏に仕え、安芸羽根城城主として働いた。
弟の一圓帰部は長宗我部氏滅亡後に浪人したが、長宗我部盛親が大坂の役にて参戦することに至ると、これに参戦し盛親と共に戦うも敗戦し、その後は阿波へと逃亡した。
一圓氏はその後土佐で帰農し、直系の子孫は高知県田野町一円に、滋賀県の宗家である一圓氏は現在も犬上郡一円に在住しており、彦根藩の庄屋として生き残り明治維新後には地元で石炭の卸売り業を営んでいる。
また、高知の一族には高知市初代市長となり、後の高知商業の前身となる簡易商業学校の設立にも携わった一圓正興がいる。
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