別 称:大岩助左衛門邸
所在地:東近江市蛭谷町 (旧神崎郡永源寺町蛭谷) map:http://yahoo.jp/GUejXd
現 状:筒井神社・帰雲庵・民家
築城期:室町期
築城者:大岩助左衛門
遺 構:説明板・石碑
目標:蛭谷バス停
区 分:居館
訪城日:2014.5.19
筒井神社(筒井八幡宮)入り口。
お城の概要
蛭谷には筒井公文所館、筒井八幡宮、帰雲庵があり、吉田神道家の系統。
5月5日大祭、7月惟喬親王祭。
かつては筒井千軒と言われるほど人口が多かった。
それも明治に入るとだんだん人口が減って、道も荒れて、祭りなどの行事のときに蛭谷から筒井まで行くのが大変になり。特に冬場は雪が積もりますしね。それで筒井神社は、明治時代に筒井峠近くからこの蛭谷に移しました。
今は冬を避けて7月の海の日にお祭りをしています。大勢の人がお参りに来られます
かつて全国に散ってゆき、各地に住みついた木地師たちにとって、心のふるさとである筒井神社を訪ねることは、生涯の念願だったことだろう。各地の木地師たちは、一般の人々が講によって代表が伊勢参りをしたように、全国各地の木地師の代表が、この神社に参拝したことだろう。
そんな筒井神社の拝殿には「東京都金属加工挽物協同組合」が奉納した扁額が掲げられており、木地師だけでなく、轆轤(ろくろ)を使って金属の挽物を業とする人たちにも、信仰が受け継がれている。
円形の台座に「親王講」の名が。
帰雲庵
歴 史
惟喬親王「御縁起」には、
「天皇の位を弟宮に譲られた親王」は世の無常を儚み出家されたが、都にとどまることを憚り、大納言・藤原実秀(のち小椋実秀)や堀川中納言らわずかな供をしたがえ東路をさして出発された。
親王は琵琶湖をわたり、愛知川源流の小椋谷に安住の地を見つけ御所をもうけられた。
惟喬親王の随臣が小椋氏であったことから、木地師の末裔たちも、「小椋姓」を名乗ることにより、自ら由緒ある随臣の末裔であるという誇りを持ち続けたらしい。
そして木地師たちは、随臣の子孫であるという誇りから、周辺の農民たちとの婚姻を結ばず、同族間での結婚が多かったという。一方、木地師の仕事は厳しく、農家から嫁いできた嫁では、とても木地師の仕事はできなかったという面もあったらしい。
『筒井神社』の名前は、筒井峠の『筒井千軒』とかかわりがあるのですか。『千軒』とは、ずいぶん大勢の人が峠近くに住んでいたのです。
筒井だけで千軒とはいきませんが、まあ、君ヶ畑、蛭谷、箕川、政所、黄和田、杭居瀬など『六ヶ畑』の小椋谷一帯に、木地師たちが大勢住んでいたということです。
蛭谷・帰雲庵の住僧や筒井神社の神主を務めていた大岩助左衛門の『大岩日記』は、
蛭谷・君ケ畑の支配所役人が全国の木地師を訪ね歩き、金銭を徴収した記録である氏子駈帳・氏子狩帳の現存分を翻刻。さらに廻国先の現代地名を注記した。主要な木地師関係文書と「大岩助左衛門日記」・・・(33代大岩助左衛門尉重綱が、1695(元禄8)年にまとめたものである)
「明応二年十月十日、川上村にて野良畑と一義に付、今日より取合しける。左衛門尉、大岩助殿、両家大将して同四月一六日、当四ケ村の定を書留て其時に大利を得る。箕川道善も手がらして、万惣公事を免じけろ。」記されている。
この門にも、「小椋」の表札神社の石段の下にあるベンガラの立派な屋敷には、「あそこは、元神主の屋敷でね。今は誰も住んでいません。息子が東近江市市長をまして、週にいっぺんぐらい帰ってきます。別荘みたいなもんですわ」
蛭谷バス停
参考資料:現地説明板、パンフレット、ウィキペディア(Wikipedia)』:『滋賀県中世城郭分布調査』4(「旧蒲生・神崎郡の城 1986.3) 淡海の城、神崎郡志
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!