城郭探訪

yamaziro

百々屋敷 近江国(彦根)

2014年05月13日 | 館跡

名神高速をくぐる「彦根25」のトンネルから登ると間違えることはない。


途中に「百々某」の骨塔が建っている。 

 

【城郭の概要】

所在地:彦根市小野町

築 城:

初城主:百々氏

区 分:居館

遺 構 :横堀・曲輪・土塁・堀・

現 状:竹林(筍林)

訪城日2014.5.13

百々家代々の骨塔、他墓碑2基あり

主郭の上には、土塁で止められた池(堀:横堀)が!

 南北に曲輪を連ね、北の曲輪には土橋や削平された郭跡が4段は完全である。正面には、当然のことであるが佐和山を望む。

歴 史

~~~島記録(浅井氏の被管の今井氏の被管島氏の家記、戦国期の秀安が筆録)~~~

百々館(彦根市小野) 沢山籠城付あけのく事 「百々屋敷にハ丹羽五郎左衛門尉」…云々

この百々屋敷の詰め城が丸山砦!


 

---------以下、信長公記の抜粋--------
夫れより佐和山の城、磯野丹波守楯籠り、相拘え候へき。直ちに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取り詰め、鹿垣結はせられ、東百々屋敷御取手仰せつけらる。丹羽五郎左衛門置かれ、北の山(物生山)に市橋九郎右衛門、南の山(里根山)に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取り詰めさせ、諸口の通行をとめ、同七月六日、御馬廻ばかり召し列れられ、御上洛。
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 信長公記に百々屋敷とされているのは、丸山城より1kmほど北の鳥居本町本町にあったとされる。

信長公記にも「百々屋敷」と出てくる百々(どど)氏のものであろう。ここが百々屋敷かは定かでないが、この池は天然ではなく、南側は土塁で取り囲まれていて堀跡のようにも見える。とにかく骨塔付近から東背後の百々山(丸山砦)へ向かって登城路ある。

 小野町の大人たちは、名神東側の山々には人喰い蛇が出るから、決して行ってはならないと子供たちに言い聞かせていたようである。特にこの沼池あたりは危険であり、推測するに、もしかすると過去に命を落とした人がいたのかも知れない。

主郭の上には、土塁で止められた池(堀:横堀)が!

名神高速の「彦根25」のトンネルの西の空き地に駐車(私有地)

参考資料:島記録、信長公記、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


茂賀山(もがやま)城(茂賀山砦) 近江国(彦根)

2014年05月13日 | 

お城のデータ

所在地:彦根市賀田山町茂賀

築城期:鎌倉期

築城者:小林氏

現 状: 山林+工場

区 分:砦

遺 構:土塁・敷石

城 主:小林氏

目 標:亀山小学校の裏山

訪城日:2014.5.13

お城の歴史

小林氏代々の居城で姉川合戦では朝倉側の武将として、小林佐馬頭家正の名がみえ、その孫小林新太郎政祐は関ヶ原合戦で島津軍を誘導した(日本城郭体系)

そんな伝説を残す小林氏と茂賀山城は、戦国時代になると京極氏・浅井氏の臣下となりました。姉川の戦いでは小林宗正が藤堂高虎と共に織田信長の本陣まで迫る勇猛振りを発揮し信長に賞賛されたのです。しかし宗正は討死しました。
やがて浅井氏が滅びると姉川での勇猛ぶりから宗正の息子・正国と正敏が信長の側近として召し抱えられます。でも二人とも本能寺の変で信長と運命を共にしたのです。 
秀吉の時代になると茂賀山城主は正国の子・正祐が勤めました。
関ヶ原の戦いでは西軍に属して岐阜城を守りますが、岐阜城が落ちると茂賀山まで帰城します。
その途中で関ヶ原の戦いに敗れて落ち延びる島津義弘一行と出会い高宮までの道案内をして義弘から感状を受けているんですよ。 

この後、小林氏は彦根藩に城を追われ南川瀬村で庄屋として江戸時代を過ごし、茂賀山城は不思議な伝説と共に歴史の闇に消えてしまったのです。 
現在、茂賀山には歴山碑が残されています(写真)。

平安時代末期、平家繁栄に陰りが見え始めると各地の源氏が平家追討を旗印に京の都を目指しました。この騒乱で都に一番乗りしたのは木曽を本拠地としている木曽義仲だったのです。義仲は同じ源氏の源義経に都を追われ討死しますが、義仲最後の直前まで彼に従っていたのは愛妾・巴御前でした。
そんな巴御前が産んだ義仲の子・三郎義秀が当時の豪族だった和田義盛の庇護を受けて安房国小林郷に屋敷を持った事から小林氏を称したのです。
しかし、和田合戦で和田氏が敗れると小林三郎義秀は近江国甲賀に逃れこの地で隠れ住むようになったのです。
南北朝時代になると小林宗政が近江を本拠地としていた佐々木道誉に従って活躍し茂賀山付近六ヶ村の地頭となり城を築きます。 
そんな茂賀山城は不思議な伝説が残っている事で知られています。 

金のニワトリの由来が記された茂賀山の歴山碑

現 状

 彦根市の荒神山とJRの線路との間に亀山小学校があります。そのすぐ裏に、亀山(茂賀山(もがやま))や金鶏山など、いくつもの名前を持った小さな山があります。
 そのなかの一つ、金鶏山からもわかるように、民話『金のニワトリ』の伝説が残っており、その由来がふもとにある歴山碑に記されています。
 昔はもっと大きく、亀を想像させる山でしたが、造成工事などで削り取られ、今は小さくなってしまいました。山の上には遊具のある「ジャングルランド」があり、小学校の子どもたちの遊びや学習の場になっています

  

西山麓に光雲寺

南からの遠景

参考資料:『日本城郭大系』、「旧愛知・犬上郡の城」(『滋賀県中世城郭分布調査』5 

本日も訪問、ありがとうございました。


小野城 近江国(彦根)

2014年05月13日 | 平山城

小野こまち会館

小野の集落に入って行く。集落に入ると「小野こまち会館」があり、右手に「安立寺」がある。
道路わきには地蔵堂とお手洗いが目に付き、道路わきの流れいた。

 

 歴 史

小野こまち会館の南の道を東に抜け、名神高速「彦根20」のトンネルを抜けると小野城が残る

~~~「佐々木南北所氏帳」~~~

小野城

佐々木随兵千田源氏嫡流大和守頼信是流他 小野大善。同 草野大善~~の名が残る。

 

【城郭の概要】

所在地:彦根市小野町

築 城:

初城主:小野氏

区 分:居館

遺 構 :横堀・曲輪・土塁・堀・

現 状:森林

訪城日2014.5.13

丸山砦(城)

丸山砦(遠望)

丸山砦登り口

丸山砦(遠望)

 

小野小町塚概要: 伝承によると、小野小町の父親とされる小野美実(好実)が都から出羽へ赴任する途中に小野宿(滋賀県彦根市)で宿泊した際、宿所にいた赤ん坊があまりにも可愛かった為、養女として迎えたと伝えられています。この養女が出羽の国で成長し小野小町となったとされ、その後、小町が病気で薬師如来から授かった霊薬の製法を伝えたのが、同町の旧家池上家だったそうです。池上家では江戸時代初期まで小町から伝授された霊薬(赤玉の丸薬)を「小町丸」として販売していたそうです。当地には15世紀後半に小町地蔵が建立され小町塚として信仰されてきました。

小野町の説明では、(鎌倉時代、弘安二年(1279)に歌人阿仏尼が、京都から鎌倉に向う途中、小野宿に宿泊したと「十六夜日記」にある。
中世、小野の地は、東山道の駅家として機能していました。また、藤原定家の「明月記」などに記される庄園「小野庄」は、
当地域が想定されている。地元に伝わる郷土芸能「小野町太鼓踊り」の中には、小野小町が謡われており、この地を誕生と伝承が残っている。
『出羽郡小野美実(好美)は、奥州に下る途中に、小野に一夜の宿を求め、ここで生後間もない女児に出会った。
美実はこの女児を養女にもらい受け、出羽国へ連れて行った。この女児が小町という。』
――中略――
小町塚には、『小町地蔵』として親しまれてきた石仏(十五世紀後半の造仏)がある。
自然石を利用して、阿弥陀如来坐像が浮彫りにされている。正面だけでなく、両側面にも彫りこまれており、類例がなく貴重なものである。)(小野町)とある。

小野小町といえば有名な歌人で、百人一首にも選ばれている歌がある。

・ 花のいろは 移りにけりな いたずらに
        わが身世にふる ながめせし間に
である。

この歌がなければ、小野小町なんて知らなかったに違いない。(花の色は移りにけりな)とは、桜の花は満開になったがという意味だと教わって、花の色といえば日本では(桜)であると、はじめて知ったので記憶に残っている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、佐々木南北所氏帳

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!