城郭探訪

yamaziro

岩室城 近江国(甲賀)

2014年05月29日 | 居城

   

所在地:滋賀県甲賀市甲賀町岩室字中野(広潭寺) map:http://yahoo.jp/ndJaa6

区 分:平城

現 状:寺地(広漂寺)

遺 構:土塁・虎口(広漂寺裏)

目 標:野洲川 岩室橋~岩室集落内 広漂寺  

築城期:室町期(正応年間)

築城者:岩室家教(岩室大学)

城 主:岩室氏

訪城日:2014.5.27

お城の概要

 岩室集落の中にある広潭寺のある場所が岩室城址だ。 寺の本堂裏(墓地)と庫裡裏に僅かであるが土塁が残っている。

 広潭寺住職の奥方によると、「寺の山門前には沼地と化した堀跡が子供の頃にはあった」

 また、現在は山門の両側に塀があるが、ここには元々土塁があり、塀を修築する前には、甲賀町が建てた史跡案内板があったが、修築後にはその案内板も撤去されたとか。 

寺紋は三つ葉葵

現在は広潭寺の境内となっている。遺構は境内の裏側にわずかに土塁の一部を留める程度である。

 寺の古里の庭園も土塁と印塔が 虎口したの野洲川段丘の平削地石仏の台座少し気になる!楼門の横・・土塀の石積    

広漂寺土塁の裏、野洲川南段丘(遠景)

歴 史  

室町期に、岩室大学により築かれたと伝わるが、詳細は不詳。

又、築城年代は、正応年間(1288年~1292年)岩室家教によって築かれたと云われる。

岩室氏は山中氏の一族で岩室を領して甲賀五十三家の一員であった。

その子孫の岩室貞俊の時、豊臣秀吉に属していたが、天正13年(1585年)紀伊川治水に関して罪をおかし領地を没収されたという。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

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平野城 近江国(甲賀・水口)

2014年05月29日 | 居城

 

 

所在地:甲賀市水口町和野字東岨(平野)  map:http://yahoo.jp/gPqzyk

現 状:寺地(意頼寺)

遺 構:土塁・空堀・櫓台カ

区 分:平城

目標:平野バス停・意頼寺

標 高:199m    比高差:0m

築城期:

築城者:

訪城日:2014.5.27

お城の概要

平野城は、野洲川南岸と嶬峨城がある山塊の間で東西に広がる平地の西和野集落内(平野)に所在する。

現在平野城内には意頼寺が建立されているが、この意頼寺を取り囲むように三方に高さ約2m~3m土塁が残っている。南面だけは土塁がないが、土塁の途切れる部分を見ると明らかに破壊されたような断面になっており、本来は約50m×60m四方でを土塁、空堀を含めると75m方形が廻っていた。また東辺の土塁外側には堀跡の痕跡が見られ、(意頼寺の石碑の道路脇まで)空堀も本来は四方を廻っていた可能性がある。

平野城は単郭の居館とみられ、現在は意頼寺の境内となっている。 南側を除く三方に土塁が残っているが、外側の堀は圃場整備によって失われている。集落との比高差はない。

土塁上は建物が建つほど幅が広く、削られ物見櫓でもあったような感じ。

平野城は甲賀郡では数少ない遺構の残る平地城館ではあるが、分厚い土塁が廻る単郭城館は甲賀の典型的な縄張でもある。

歴 史

 佐治氏は甲賀郡佐治郷から発祥し、佐治城を本拠として中世の近江を生きた豪族である。甲賀郡は近江国南部に位置し、伊賀と並んで忍者の里として有名なところである。

戦国時代の甲賀には、甲賀五十三家と称される大小の武士団が割拠していた。そのなかでも佐治氏は、山中氏、伴一族と並んで古い歴史をもつ武士であった。

 佐治氏の出自を探ると、平安時代末期の康平五年(1062)、平維時の子業国が佐治郷に住して小佐治を名乗ったことに始まるという。その伝を信じれば、平氏の分かれということになる。そして、業国は小佐治、神保、隠岐、伊佐野、平野の佐治郷五ケ村を領して佐治城を築いたと伝えられる。

乱世を生きる

 佐治氏の歴史に関しては不明なところが多いが、南北朝の動乱期、佐治河内守基氏と一族が近江守護佐々木道誉に属し、北朝方として活動していた。建武四年(1337)の正月、後醍醐方の勢力が信楽に蜂起した。これに対して道誉は、山中・岩室・美濃部・小佐治ら甲賀武士たちをもって迎撃させた。その後の一連の戦いにおいて、山中道俊が本隊を率い、小佐治基氏は別働隊に属して奮戦したことが『小佐治基氏軍忠状』によって知られる。

 その後、近江国南半分の守護職に佐々木六角氏が補任されると、甲賀郡の武士たちは六角氏の被官に組み込まれていった。佐治氏も六角氏の被官として勢力を維持、応仁の乱に際しては、美作守為氏が六角軍の一翼を担って各地に転戦している。また、為氏は乱の最中の文明二年(1470)、小佐治、伊佐野、平野三ヶ村の氏神である佐治神社の再建を行ったことが棟札に残されている。

 応仁の乱を生き抜いた六角高頼は、寺社領を押領するなどして勢力を拡大していった。幕府からは再三にわたって返還命令が発せられたが、逆に高頼は幕府奉公衆の所領までも押領するようになった。

 長享元年(1487)、将軍足利義尚は幕府の命令を無視し続ける高頼を討伐するため、近江に出陣した。いわゆる長享の乱であり、佐治河内守は三雲氏らとともに高頼を支援して活躍。義尚の拠る鈎の陣を夜襲、大いに武名をあげた。この戦いに活躍した甲賀武士五十三家が甲賀五十三家と呼ばれ、そのなかで高頼から感状をもらった二十一家がとくに甲賀二十一家に数えられ武名を讃えられたのである。

 その後も六角氏は、戦いに敗れると甲賀に奔り、甲賀武士たちの支援を得て勢力を盛り返すということを繰り返した。時代は下剋上が横行する戦国乱世であったが、甲賀諸将の中から甲賀を統一して六角氏を倒して戦国大名に飛躍する者は出なかった。戦国時代、甲賀の武士たちは同名中を組織し、さらにそれが集合して「甲賀郡中惣」という地縁的連合体を結成しており、突出した大名が出にくい環境にあった。いいかえれば、甲賀郡の平和と秩序を維持した強固な自治組織をみずからで運営し、その庇護者として六角氏を立て、その軍事力の一翼を担ったとも考えられる。  

駐車可(生活改善センター)

   意頼寺の裏の土塁の角に物見台があったカ?

平野城館前にバス停「平野」

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

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今宿堀田陣屋 (甲賀・土山)

2014年05月29日 | 陣屋

八幡神社から東の「ホッタヤシキ」を望む・・・空き地。

所在地:甲賀市土山大野

現 状:空地

遺 構:なし(私有地で破壊カ)

築城者:堀田氏

築城期:江戸期

築城者:堀田伯耆守

訪城日:2014.5.27

今宿城の南、野洲川段丘沿いにある、八幡神社の東側は「ホッタヤキシ」と呼ばれる。「ホッタホウキノカミ」の屋敷と伝えられる。それは、元今宿城にあったものを、八幡神社の東に移ったと伝えられる。

         

 今宿堀田陣屋は、土山町大野のうち、今宿集落の国道を挟んだ南側にあったとされる。八幡神社が建つ東隣りで、現在の空き地である。

遺構らしきものはなく規模なども不明である。

歴 史

当初は北側にあった中世今宿城の跡地に屋敷を構えていたが、のち(江戸期)にこの地に移転したと伝わる。

宮川藩(長浜市)堀田氏13000石は、蒲生郡や甲賀郡に所領が点在していたため、各地に陣屋が設けられていた。

今宿村は、『元禄郷帳』に近江宮川藩領をあり、このホッタヤシキは、宮川藩堀田氏の陣屋である。

 

近江宮川藩は、近江国坂田郡宮川(現在の滋賀県長浜市宮司町)に存在した藩。藩庁は宮川陣屋。

藩史

藩主家は堀田家である。第3代将軍・徳川家光の時代に老中となった堀田氏初代正盛は、継祖母・春日局が乳母を務めた徳川家光が3代将軍となると近習に取り立てられ、家光から重用されて下総国佐倉藩12万石の大名にまで栄進した。正盛は家光の死去に伴って殉死し、子の堀田正信が跡を継いだ。

しかし正信は、万治3年(1660年)に老中・松平信綱と対立したため、所領を没収され改易となった。

 正信の嫡男・堀田正休は父の罪を許されて天和2年(1682年)3月に1万石の大名として復帰を許され、上野国吉井藩に封じられた。正休は元禄11年(1698年)3月7日に吉井から近江国坂田郡宮川に移封となり、宮川藩が成立した。

第3代藩主・堀田正陳は若年寄となって寛延元年(1748年)10月15日に3000石の加増を受け、1万3000石を領することになった。第5代藩主・堀田正穀の時代には所領のうち3600石が近江国蒲生郡から播磨国に替えられたが、新たな領知は生産性が近江よりも高かったため、実質的な加増であった。この実質加増は文化4年(1807年)2月7日に元に戻された。第6代藩主・堀田正民は絵画に造詣が深かった文化人である。幕末期に入ると、宮川藩は佐幕派として活動したが、やがて近江国内における諸藩が新政府側に与すると、やむなく新政府側に与した。

歴代藩主の多くが大番頭や奏者番、そして若年寄など幕府の要職を務めているが、藩政における治績はほとんど見られない小藩だった。

歴代宮川藩主

堀田家 譜代。1万石→1万3000石。
  1. 堀田正休(まさやす)【元禄11年(1698年)3月7日藩主就任-正徳5年(1715年)6月29日隠居】
  2. 堀田正朝(まさとも)【正徳5年6月29日藩主就任-享保4年(1719年)8月20日死去】
  3. 堀田正陳(まさのぶ)【享保4年10月18日藩主就任-宝暦3年(1753年)10月4日死去】
  4. 堀田正邦(まさくに)【宝暦3年11月25日藩主就任-安永元年(1772年)6月2日死去】
  5. 堀田正穀(まさざね)【安永元年7月25日藩主就任-文化12年(1815年)2月6日隠居】
  6. 堀田正民(まさたみ)【文化12年2月7日藩主就任-天保9年(1838年)8月19日死去】
  7. 堀田正義(まさよし)【天保9年10月11日藩主就任-天保12年(1841年)8月3日(または9月27日)死去】
  8. 堀田正誠(まさみ)【天保12年9月25日藩主就任-文久3年(1863年)5月12日死去】
  9. 堀田正養(まさやす)【文久3年7月4日藩主就任-明治4年(1871年)7月14日免官】

幕末の領地

近江国

    • 滋賀郡のうち - 4村
    • 野洲郡のうち - 3村
    • 甲賀郡のうち - 5村
    • 蒲生郡のうち - 5村
    • 愛知郡のうち - 3村
    • 坂田郡のうち - 16村
 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!