所在地:甲賀市水口町和野字東岨(平野) map:http://yahoo.jp/gPqzyk
現 状:寺地(意頼寺)
遺 構:土塁・空堀・櫓台カ
区 分:平城
目標:平野バス停・意頼寺
標 高:199m 比高差:0m
築城期:
築城者:
訪城日:2014.5.27
お城の概要
平野城は、野洲川南岸と嶬峨城がある山塊の間で東西に広がる平地の西和野集落内(平野)に所在する。
現在平野城内には意頼寺が建立されているが、この意頼寺を取り囲むように三方に高さ約2m~3m土塁が残っている。南面だけは土塁がないが、土塁の途切れる部分を見ると明らかに破壊されたような断面になっており、本来は約50m×60m四方でを土塁、空堀を含めると75m方形が廻っていた。また東辺の土塁外側には堀跡の痕跡が見られ、(意頼寺の石碑の道路脇まで)空堀も本来は四方を廻っていた可能性がある。
平野城は単郭の居館とみられ、現在は意頼寺の境内となっている。 南側を除く三方に土塁が残っているが、外側の堀は圃場整備によって失われている。集落との比高差はない。
土塁上は建物が建つほど幅が広く、削られ物見櫓でもあったような感じ。
平野城は甲賀郡では数少ない遺構の残る平地城館ではあるが、分厚い土塁が廻る単郭城館は甲賀の典型的な縄張でもある。
歴 史
佐治氏は甲賀郡佐治郷から発祥し、佐治城を本拠として中世の近江を生きた豪族である。甲賀郡は近江国南部に位置し、伊賀と並んで忍者の里として有名なところである。
戦国時代の甲賀には、甲賀五十三家と称される大小の武士団が割拠していた。そのなかでも佐治氏は、山中氏、伴一族と並んで古い歴史をもつ武士であった。
佐治氏の出自を探ると、平安時代末期の康平五年(1062)、平維時の子業国が佐治郷に住して小佐治を名乗ったことに始まるという。その伝を信じれば、平氏の分かれということになる。そして、業国は小佐治、神保、隠岐、伊佐野、平野の佐治郷五ケ村を領して佐治城を築いたと伝えられる。
乱世を生きる
佐治氏の歴史に関しては不明なところが多いが、南北朝の動乱期、佐治河内守基氏と一族が近江守護佐々木道誉に属し、北朝方として活動していた。建武四年(1337)の正月、後醍醐方の勢力が信楽に蜂起した。これに対して道誉は、山中・岩室・美濃部・小佐治ら甲賀武士たちをもって迎撃させた。その後の一連の戦いにおいて、山中道俊が本隊を率い、小佐治基氏は別働隊に属して奮戦したことが『小佐治基氏軍忠状』によって知られる。
その後、近江国南半分の守護職に佐々木六角氏が補任されると、甲賀郡の武士たちは六角氏の被官に組み込まれていった。佐治氏も六角氏の被官として勢力を維持、応仁の乱に際しては、美作守為氏が六角軍の一翼を担って各地に転戦している。また、為氏は乱の最中の文明二年(1470)、小佐治、伊佐野、平野三ヶ村の氏神である佐治神社の再建を行ったことが棟札に残されている。
応仁の乱を生き抜いた六角高頼は、寺社領を押領するなどして勢力を拡大していった。幕府からは再三にわたって返還命令が発せられたが、逆に高頼は幕府奉公衆の所領までも押領するようになった。
長享元年(1487)、将軍足利義尚は幕府の命令を無視し続ける高頼を討伐するため、近江に出陣した。いわゆる長享の乱であり、佐治河内守は三雲氏らとともに高頼を支援して活躍。義尚の拠る鈎の陣を夜襲、大いに武名をあげた。この戦いに活躍した甲賀武士五十三家が甲賀五十三家と呼ばれ、そのなかで高頼から感状をもらった二十一家がとくに甲賀二十一家に数えられ武名を讃えられたのである。
その後も六角氏は、戦いに敗れると甲賀に奔り、甲賀武士たちの支援を得て勢力を盛り返すということを繰り返した。時代は下剋上が横行する戦国乱世であったが、甲賀諸将の中から甲賀を統一して六角氏を倒して戦国大名に飛躍する者は出なかった。戦国時代、甲賀の武士たちは同名中を組織し、さらにそれが集合して「甲賀郡中惣」という地縁的連合体を結成しており、突出した大名が出にくい環境にあった。いいかえれば、甲賀郡の平和と秩序を維持した強固な自治組織をみずからで運営し、その庇護者として六角氏を立て、その軍事力の一翼を担ったとも考えられる。
駐車可(生活改善センター)
意頼寺の裏の土塁の角に物見台があったカ?
平野城館前にバス停「平野」
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!