城郭探訪

yamaziro

田中城(上寺城)    近江国(安曇川)

2016年04月03日 | 山城

お城のデータ

所在地:高島市(旧:高島郡)安曇川町田中  map:http://yahoo.jp/icYttS
別 称:上寺城

現 状:山林

区 分:山城
築城期:織豊期

築城者:田中播磨守実氏

遺 構:郭・土塁・堀・碑・説明板
標 高:220m 比高差:60m

目標地:上寺バス停・上寺区草の根ハウス
駐車場:上寺バス停近くの空地

訪城日:2016.4.2

城への案内

 安曇川町田中の上寺地区の[上寺バス停]に道沿いに縄張図つきの説明板が立てられている。ここに駐車して、徒歩で案内表示の通り山に向かうと城跡碑があり獣害柵を開けて城内へ。順路案内標識に従い進む。 

お城の概要

安曇川町田中の上寺地区の裏山に所在する田中城は、古くから「上寺城」・「上ノ城」などと称され、現在も多くの曲輪跡、土塁、堀跡などが良好な状態で残っている中世山城跡の一つとして知られています。この田中城跡の位置には、もともと「高島七カ寺」の一つで松蓋寺(しょうがいじ)と呼ばれる天台寺院が存在しており、城はその寺院遺構を一部使用する形で建てられたようです

 居館部より主郭を含む主要部までほぼ完存し、また、2002年に公園化整備されたもので、非常に見学しやすい城跡。案内板に従い、まずは居館部へ、区画の土塁が明瞭に残る。

進むと急な登りに多くの郭があり、尾根に到達。ここは元寺の坊跡で、城郭化して利用されたもの。

 土塁を巡らした郭が不規則に連結しているという感じで、城郭縄張りとは違和感がします。土塁、堀、堀切という城郭関しては整備されたか?。武者隠し・土橋の表記の箇所がある。さらに進むと観音堂『松蓋寺跡』。松蓋寺跡の背後の尾根へ急坂で主郭部。

 主郭は、山の斜面を削り取り平削地で、主郭西側が削り残しの高い土塁がある、あとの三方は切岸状の崖。土塁の外側(西側)には斜面に沿って掘があり、先の尾根には堀切で遮断。この主郭の西側のこの防御の横堀

お城の歴史

 西佐々木一族である越中・田中・朽木・永田・能登・横山・ 山崎の七氏は、一般に「高島七頭」と呼ばれていますが、室町時代の史料には、「西佐々木七人」・「西佐々木同名中」・「西 佐々木御中」・「七頭」・「高島河上七頭」・「西佐々木面々中」・ 「七カシラノ衆」・「七佐々木」と記されています。  西佐々木一族は、先の生産基盤の掌握だけでなく、交通 路支配も大きな収入源としていました。

 田中郷の領主田中氏の居城であった田中城は、泰山寺野台地から舌状先端に築かれた中世末期の山城で、現在も上寺区西側の山間部にその遺構を残る。

 天守台があったと推定される曲輪の標高は220m、平地との比高差はわずか60mで同時期の山城と比べて標高の低い場所に位置していますが、城域の要所に堀切,土塁,武者隠しなどの外敵を防ぐための遺構が見られ、相当の規模を誇る城郭であったことが窺えます。

  『信長公記』によると、元亀元年(1570年)四月、織田信長の軍勢が越前の朝倉義景攻略の途次、この田中城に逗留したことが伝えられており その後、浅井長政の勢力下におかれていた田中城は元亀四年(1573年)に信長の手によって攻略され、明智光秀の支配を受けて終焉を迎えます。

 田中氏の流れをくむ田中吉政は、秀吉,家康に相次いで使仕え、三河国岡崎城主,筑後国柳川城主として城下町の建設・整備に手腕を発揮したことで現在も称えられています。<現地案内板より 安曇川町観光開発委員会>

天台宗の古代寺院・高島七ヶ寺

  元々、天台宗高島七ケ寺のひとつの松蓋寺があったが田中氏が城郭に改修したもの。

『佐々木南北諸氏帳』には、高島郡 田中城主 高島末 田中播磨守実氏・田中主馬秀忠・田中久兵衛忠政・田中伝八郎忠宗の名を記す。 

『近江輿地志略』には、長法寺、世喜寺、松蓋寺(田中城(上寺城))、太山寺(太山寺城、米井寺、大慈寺、酒波寺と記す。

『高島郡誌』には、長法寺、世喜寺、松蓋寺(田中城(上寺城))、太山寺(太山寺城)、清水寺、大谷寺、酒波寺と記す。

信長公記 巻三 元亀元年 能戦  観世大夫、金春大夫立合に御能の事

  ---京での予定を終えた4月20日、信長公は軍兵を率いて京を進発し、まっすぐに越前をめざした。その日は坂本を越えて和邇で宿陣し、翌日は高島郡の田中城に宿泊した。22日になって若狭に入り、熊川の松宮玄蕃領を経て23日佐柿の粟屋越中守勝久の館に着陣した。----

信長公記 巻三 元亀元年 志賀の陣  志賀御陣の事

  ----信長公は下坂本に陣を取り、25日になって叡山を囲んだ。
織田勢はまず麓の香取屋敷を補強して平手監物・長谷川丹後守・山田三左衛門・不破光治・丸毛長照・浅井新八・丹羽源六が入り、穴太⑦にも砦が築かれて簗田広正・河尻秀隆・佐々成政・塚本小大膳・明智光秀・苗木久兵衛・村井貞勝・佐久間信盛ら十六将が入れ置かれた。
 田中には柴田勝家・氏家ト全・安藤守就・稲葉一鉄が布陣し、唐崎の砦にも佐治八郎・津田太郎左衛門が入った。そして信長公自身は志賀の宇佐山城に陣を取った。
 叡山西麓の将軍地蔵山の古城跡には織田信広・三好康長・香西越後守に公方衆を加えた兵二千余りが布陣した。また八瀬・大原口⑪には山本対馬守と高野蓮養坊が足がかりの陣地を築き、地理に詳しい両人はここから夜中山上に忍び入っては谷々へ放火してまわり、寺側を大いに悩ませた。---

信長公記 巻六 元亀四年 湖上疾る 大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる

 7月26日、信長公は京を出て坂本へ下り、そこから件の大船に乗って江州高島郡へ出陣した。そして陸の味方と協同しつつ、敵勢の籠る木戸・田中の両城へ押し寄せた。信長公は直属の馬廻をもって攻撃にあたらせ、両城に猛攻を加えた。そのため城兵はほどなくして降伏し、城を退いた。
 落城後、信長公は両城を明智光秀に与え、みずからは高島郡内にある浅井久政・長政父子直轄の知行所へ馬を進めた。そして林与次左衛門方に陣を取り、ここから知行所内へ兵を放って諸所をことごとく放火した。   

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』『信長公記』『高島歴史散歩』『高島郡志』『近江輿地志略』『佐々木南北諸氏帳』

 本日の訪問ありがとうございす!!


太山寺の遺構  近江国(安曇川)

2016年04月03日 | 山城
千年椿・登り口の東屋
登り口の東屋(東屋の裏手を左方向の道へ)
山麓屋形か?土塁で囲む
説明板の横を進む倒木で難儀しました谷底の石仏

太山寺(たいさんじ)の遺構

お城のデータ

所在地:高島市(旧高島郡)安曇川町中野大山寺 map:http://yahoo.jp/Gs9jjR
現 状:山林

区 分:山城
築城期:室町期 
築城者:
遺 構:郭・土塁・堀切・
標 高:277m  比高差:72m(太山寺集落)
目標地:中野太山寺集落
駐車場:太山寺集落入口に路上駐車)
訪城日:2016.4.2

太山寺城、太山寺の遺構 地形図(明治28年2万分の1)
 

お城の概要

 太山寺城跡は、比良山系の最北端に位置する阿弥陀山(標高453.6m)の南側中腹、切り立った舌状尾根上の標高290~320m間に段築され、12か所の削平地を有する。視界の点では、高島町の横山集落から直線距離で2.2kmも奥まった谷間の支尾根上にあるため、平野部への見通しは不良である。・

・・太山寺の遺構は、太山寺城の城道ある。阿弥陀山への登山道と進むと尾根にでる。尾根に【太山寺城跡へ】案内板あり、左下へ進むと「遺構を上部から全体」を見ることできる。П型の山道を下りると、太山寺城跡の説明板がある。

【太山寺の遺構】は、「太山寺城の支城?出城?の遺構」であろう!

太山寺城、太山寺の遺構 地形図(現在 国土地理院地図より)
 

お城の歴史・・・(太山寺城)と同じ

 元々、天台宗高島七ケ寺のひとつの太山寺があったと。そのを周囲の勢力である横山氏・田中氏・朽木氏のいずれかが城郭に改修したもの考えられますが、詳細は不明。

天台宗の古代寺院・高島七ヶ寺

 『近江輿地志略』には、長法寺、世喜寺、松蓋寺(田中城(上寺城))、太山寺(太山寺城、米井寺、大慈寺、酒波寺と記す。

此山を阿弥陀山と号するは往昔此山上に寺あリ、阿弥陀山大山寺と号す。高島七箇寺の一院として比叡山延暦寺の末寺也、信長公のために焦士となり、今は唯山名存するのみ。

 『高島郡誌』には、長法寺、世喜寺、松蓋寺(田中城(上寺城))、太山寺(太山寺城)、清水寺、大谷寺、酒波寺と記す。

中野村に在リ。往昔阿弥陀山に大山寺あり。織田信長公の為に烏有となリ、僅に其旧跡として聖徳太子の小堂一宇を山麓八町(※1)を建立す、今の地是也。

地元では「御屋敷」または「寺屋敷」と呼ばれ、同地が小字「阿弥陀山」に属すること、天台宗寺院の立地条件の特徴を備えていること、最上段の曲輪には寺院の堂塔の基壇を思わせる石積み状遺構が存在すること、周辺には平安時代後期の陶器片が散布することなどから、創建時の太山寺が在った可能性が極めて大きい。

 一方、遺跡全体の構造は、中世城郭の連郭式に分類でき、堀切・竪堀・土塁・帯曲輪など山城の縄張リとしての特徴も顕著である。
 したがって・太山寺城は古代山岳寺院の遺構を利用して、戦国時代になって山城に改築されたものと考えるのが妥当と思われるが、築城の主体者については、田中氏・朽木氏・横山氏の領界付近にあることから、3氏いずれかと考えられるが現時点では決め手にかける。

 
 
ここから『太山寺の遺構』・・・滋賀県中世城郭分布調査
右下部が【太山寺(たいざんじ)の遺構】

右上部が【太山寺(たいざんじ)の遺構】

 
 
 尾根に上がり、【太山寺城跡へ】案内板ある
太山寺(たいざんじ)城・太山寺(たいざんじ)の遺構へ
Y字城道を左へ下ります!
 
太山寺(たいざんじ)の遺構!に到着
太山寺(たいざんじ)の遺構ここまで
 
 
太山寺城跡説明板の反対側に石碑
【文化財を大切にしましょう】滋賀県教育委員会
 
 
 
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、高島の城と城下~城・道・港~、太山寺をひもとく資料 - 高島市

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太山寺(たいざんじ)城  近江国(安曇川)

2016年04月03日 | 山城

 

太山寺城、太山寺の遺構 (明治28年2万分の1)
 

作図、長谷川博美氏(滋賀県中世城郭分布調査)

お城のデータ

所在地:高島市(旧高島郡)安曇川町中野大山寺/田中/横山 map:http://yahoo.jp/Gs9jjR
現 状:山林・寺院跡

区 分:山城
築城期:室町期 
築城者:

遺 構:郭・土塁・堀切・石垣・碑・説明板
標 高:305m  比高差:100m(太山寺集落)
目標地:太山寺集落
駐車場:太山寺集落入口に路上駐車)

訪城日:2016.4.2

太山寺城、太山寺の遺構 地形図(現在 国土地理院地図より)
 

お城の概要

 太山寺城跡は、比良山系の最北端に位置する阿弥陀山(標高453.6m)の南側中腹、切り立った舌状尾根上の標高290~320m間に段築され、12か所の削平地を有する。視界の点では、高島町の横山集落から直線距離で2.2kmも奥まった谷間の支尾根上にあるため、平野部への見通しは不良である。

 遺構は尾根上に南北190m×東西90mの範囲に展開する曲輪郡と、東側の谷底部に造成された5か所の削平地とから成る。
 曲輪郡の最高所にある曲輪は、南北50m×東西50mの台形に削平され、北側に一段高くなった22m×20mの長方形区画と西端に45mの低土塁が観察される。この区画は南東部に石積みが残り、建物の基壇を思わせる。この曲輪より南方へは、いわゆる梯郭式の縄張りがなされており、1~3mの落差をもって7つの曲輪が順次下降する。

 三段目と四段目の曲輪間では堀切を設け、尾根筋を完全に遮断しており、排土は四段目の曲輪側に積み上げて土塁を構築している。また、この曲輪の南端はクランク状に石積みされていたらしく、かなりの部分が遺存している。

 なお、二段目と三段目の曲輪の東側下方には、南北2か所の袖曲輪が設けられており、両曲輪の接点東側の斜面には竪堀が観察される。登城路は東側の谷底部よりこの竪堀の下を通り、袖曲輪の南端下の虎口に達する。虎口より内部では、南北に設けられた土橋を通って一~三段目の曲輪に進入できるようになっている。

  阿弥陀山の案内板から谷筋に入り、道ははっきりしてるが倒木を乗越え200mほどで右手斜面を登ります。尾根筋を進むと前が開けた箇所に案内標識「太山寺城」と書いてある。

 案内板に沿って進むと城郭遺構があり、更に進むと『大山寺城』の説明板が正面に見える。説明板の背後が城址。

谷川を渡り城道を進み、Y字になり、左手に進み(案内板)、城域に入る。

 尾根に登る最後の坂は石が散乱していて、石段が崩壊した跡か?。堀底道を登ると、土塁や両側大きな郭がある。さらに登るとL字に方向を変え、主郭に入る。説明板には土橋とされ、確かに『坂虎口』状た。側面に石積み痕がある。

 主郭は中央と右奥が土壇で、石積み・敷居石が残る。城というより寺院の配置で、城郭寺院の跡か?。

主郭下の郭を南側(左手)に進むと堀と土塁がある。土塁を越えると郭があり、さらに一段下にも郭があり、この段差側面には石積みが相当に残っている。今は樹木が茂り見通しが悪いですが、往時は街道の監視をしていたか? 

今は山奥にひっそりとある城跡であり、田中城の奥城か?



・・・・帰りは林道を下り、横山集落(横山城)へと出た、中野・大寺寺集落の車まで戻るのが大変でした。

・・・『この日は、田中城・大山寺城で18.5㎞・4:04時間も歩いた』帰り、来た道を戻りましょう!

太山寺城、武曽城、横山城、上寺城地形図(現在 国土地理院地図より)
参考文献:滋賀県中世城郭分布調査 滋賀県教育委員会より:国土地理院より

 

太山寺城

 

お城の歴史

 元々、天台宗高島七ケ寺のひとつの太山寺があったと。そのを周囲の勢力である横山氏・田中氏・朽木氏のいずれかが城郭に改修したもの考えられますが、詳細は不明。

天台宗の古代寺院・高島七ヶ寺

 『近江輿地志略』には、長法寺、世喜寺、松蓋寺(田中城(上寺城))太山寺(太山寺城、米井寺、大慈寺、酒波寺と記す。

此山を阿弥陀山と号するは往昔此山上に寺あリ、阿弥陀山大山寺と号す。高島七箇寺の一院として比叡山延暦寺の末寺也、信長公のために焦士となり、今は唯山名存するのみ。

 『高島郡誌』には、長法寺、世喜寺、松蓋寺(田中城(上寺城))、太山寺(太山寺城)、清水寺、大谷寺、酒波寺と記す。

中野村に在リ。往昔阿弥陀山に大山寺あり。織田信長公の為に烏有となリ、僅に其旧跡として聖徳太子の小堂一宇を山麓八町(※1)を建立す、今の地是也。

地元では「御屋敷」または「寺屋敷」と呼ばれ、同地が小字「阿弥陀山」に属すること、天台宗寺院の立地条件の特徴を備えていること、最上段の曲輪には寺院の堂塔の基壇を思わせる石積み状遺構が存在すること、周辺には平安時代後期の陶器片が散布することなどから、創建時の太山寺が在った可能性が極めて大きい。

  一方、遺跡全体の構造は、中世城郭の連郭式に分類でき、堀切・竪堀・土塁・帯曲輪など山城の縄張リとしての特徴も顕著である。
 したがって・太山寺城は古代山岳寺院の遺構を利用して、戦国時代になって山城に改築されたものと考えるのが妥当と思われるが、築城の主体者については、田中氏・朽木氏・横山氏の領界付近にあることから、3氏いずれかと考えられるが現時点では決め手にかける。

太山寺城 2016.4.2
千年椿と東屋
登り口の東屋(東屋の裏手を左方向へ)
説明板の横から山へ入る倒木で難儀しました!谷底の石仏
 
尾根へ
右は阿弥陀山へ左へ太山寺城へ、下り道
太山寺の遺構
 
教育委員会の【文化財を大切にしよう】の碑
太山寺城説明板の
 
林道を下る・・・ここから、失敗が始まった!
ここに駐車可
林道
 
太山寺集落が戻った!
 
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、『高島の城と城下~城・道・港~太山寺をひもとく資料 - 高島市』

 本日の訪問ありがとうございす!!