お城のデータ
所在地:高島市(旧:高島郡)安曇川町田中 map:http://yahoo.jp/icYttS
別 称:上寺城
現 状:山林
区 分:山城
築城期:織豊期
築城者:田中播磨守実氏
遺 構:郭・土塁・堀・碑・説明板
標 高:220m 比高差:60m
目標地:上寺バス停・上寺区草の根ハウス
駐車場:上寺バス停近くの空地
訪城日:2016.4.2
城への案内
安曇川町田中の上寺地区の[上寺バス停]に道沿いに縄張図つきの説明板が立てられている。ここに駐車して、徒歩で案内表示の通り山に向かうと城跡碑があり獣害柵を開けて城内へ。順路案内標識に従い進む。
お城の概要
安曇川町田中の上寺地区の裏山に所在する田中城は、古くから「上寺城」・「上ノ城」などと称され、現在も多くの曲輪跡、土塁、堀跡などが良好な状態で残っている中世山城跡の一つとして知られています。この田中城跡の位置には、もともと「高島七カ寺」の一つで松蓋寺(しょうがいじ)と呼ばれる天台寺院が存在しており、城はその寺院遺構を一部使用する形で建てられたようです。
居館部より主郭を含む主要部までほぼ完存し、また、2002年に公園化整備されたもので、非常に見学しやすい城跡。案内板に従い、まずは居館部へ、区画の土塁が明瞭に残る。
進むと急な登りに多くの郭があり、尾根に到達。ここは元寺の坊跡で、城郭化して利用されたもの。
土塁を巡らした郭が不規則に連結しているという感じで、城郭縄張りとは違和感がします。土塁、堀、堀切という城郭関しては整備されたか?。武者隠し・土橋の表記の箇所がある。さらに進むと観音堂『松蓋寺跡』。松蓋寺跡の背後の尾根へ急坂で主郭部。
主郭は、山の斜面を削り取り平削地で、主郭西側が削り残しの高い土塁がある、あとの三方は切岸状の崖。土塁の外側(西側)には斜面に沿って掘があり、先の尾根には堀切で遮断。この主郭の西側のこの防御の横堀
お城の歴史
西佐々木一族である越中・田中・朽木・永田・能登・横山・ 山崎の七氏は、一般に「高島七頭」と呼ばれていますが、室町時代の史料には、「西佐々木七人」・「西佐々木同名中」・「西 佐々木御中」・「七頭」・「高島河上七頭」・「西佐々木面々中」・ 「七カシラノ衆」・「七佐々木」と記されています。 西佐々木一族は、先の生産基盤の掌握だけでなく、交通 路支配も大きな収入源としていました。
田中郷の領主田中氏の居城であった田中城は、泰山寺野台地から舌状先端に築かれた中世末期の山城で、現在も上寺区西側の山間部にその遺構を残る。
天守台があったと推定される曲輪の標高は220m、平地との比高差はわずか60mで同時期の山城と比べて標高の低い場所に位置していますが、城域の要所に堀切,土塁,武者隠しなどの外敵を防ぐための遺構が見られ、相当の規模を誇る城郭であったことが窺えます。
『信長公記』によると、元亀元年(1570年)四月、織田信長の軍勢が越前の朝倉義景攻略の途次、この田中城に逗留したことが伝えられており その後、浅井長政の勢力下におかれていた田中城は元亀四年(1573年)に信長の手によって攻略され、明智光秀の支配を受けて終焉を迎えます。
田中氏の流れをくむ田中吉政は、秀吉,家康に相次いで使仕え、三河国岡崎城主,筑後国柳川城主として城下町の建設・整備に手腕を発揮したことで現在も称えられています。<現地案内板より 安曇川町観光開発委員会>
天台宗の古代寺院・高島七ヶ寺
元々、天台宗高島七ケ寺のひとつの松蓋寺があったが田中氏が城郭に改修したもの。
『佐々木南北諸氏帳』には、高島郡 田中城主 高島末 田中播磨守実氏・田中主馬秀忠・田中久兵衛忠政・田中伝八郎忠宗の名を記す。
『近江輿地志略』には、長法寺、世喜寺、松蓋寺(田中城(上寺城))、太山寺(太山寺城、米井寺、大慈寺、酒波寺と記す。
『高島郡誌』には、長法寺、世喜寺、松蓋寺(田中城(上寺城))、太山寺(太山寺城)、清水寺、大谷寺、酒波寺と記す。
信長公記 巻三 元亀元年 能戦 観世大夫、金春大夫立合に御能の事
---京での予定を終えた4月20日、信長公は軍兵を率いて京を進発し、まっすぐに越前をめざした。その日は坂本を越えて和邇で宿陣し、翌日は高島郡の田中城に宿泊した。22日になって若狭に入り、熊川の松宮玄蕃領を経て23日佐柿の粟屋越中守勝久の館に着陣した。----
信長公記 巻三 元亀元年 志賀の陣 志賀御陣の事
----信長公は下坂本に陣を取り、25日になって叡山を囲んだ。
織田勢はまず麓の香取屋敷を補強して平手監物・長谷川丹後守・山田三左衛門・不破光治・丸毛長照・浅井新八・丹羽源六が入り、穴太⑦にも砦が築かれて簗田広正・河尻秀隆・佐々成政・塚本小大膳・明智光秀・苗木久兵衛・村井貞勝・佐久間信盛ら十六将が入れ置かれた。
田中には柴田勝家・氏家ト全・安藤守就・稲葉一鉄が布陣し、唐崎の砦にも佐治八郎・津田太郎左衛門が入った。そして信長公自身は志賀の宇佐山城に陣を取った。
叡山西麓の将軍地蔵山の古城跡には織田信広・三好康長・香西越後守に公方衆を加えた兵二千余りが布陣した。また八瀬・大原口⑪には山本対馬守と高野蓮養坊が足がかりの陣地を築き、地理に詳しい両人はここから夜中山上に忍び入っては谷々へ放火してまわり、寺側を大いに悩ませた。---
信長公記 巻六 元亀四年 湖上疾る 大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事
7月26日、信長公は京を出て坂本へ下り、そこから件の大船に乗って江州高島郡へ出陣した。そして陸の味方と協同しつつ、敵勢の籠る木戸・田中の両城へ押し寄せた。信長公は直属の馬廻をもって攻撃にあたらせ、両城に猛攻を加えた。そのため城兵はほどなくして降伏し、城を退いた。
落城後、信長公は両城を明智光秀に与え、みずからは高島郡内にある浅井久政・長政父子直轄の知行所へ馬を進めた。そして林与次左衛門方に陣を取り、ここから知行所内へ兵を放って諸所をことごとく放火した。
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』『信長公記』『高島歴史散歩』『高島郡志』『近江輿地志略』『佐々木南北諸氏帳』
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