城郭探訪

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蜂屋城   近江国(栗東)

2016年04月29日 | 居館

お城のデータ
所在地:栗東市(旧・栗太郡栗東町)蜂屋  map:http://yahoo.jp/-nfSeb
現 状:宅地
区 分:居館
築城期:南北朝期
築城者:蜂屋氏
遺 構:?
目標地:宇和宮神社・蜂屋公民館
駐車場:蜂屋公民館に駐車
訪城日:2016.4.21

お城の概要

 栗東市の北部、野洲川と葉山川に挟まれた平野部に立地する蜂屋地区では、近年の発掘調査で飛鳥~奈良時代にかけての遺構・遺物が検出されるなど、古代から人の営みがあったことが知られています。
 蜂屋地区の中央を流れる中ノ井川、蜂屋からその下流の綣・野尻などの地域を灌漑する用水である中ノ井川は、慶長年間(1596~1615)にはすでに水利組合が組織されていました。また、中ノ井川は生活用水としても利用されていました。現在でも中ノ井川に面した家々の庭先には川へ降りる「カワト」が設けられており、生活用水として用いられていた。

お城の歴史

宇和宮神社境内社の八幡社は当地の武士蜂屋氏の守護神。

蜂谷氏は南北朝時代に南朝に所属して活躍した栗太武士である

中ノ井川通船資料(海老川通船図) 明治12年(1879)館蔵 里内文庫

近年の発掘調査で飛鳥~奈良時代にかけての遺構・遺物が検出されるなど、古代から人の営みがあったことが知られています。また、金勝寺二十五別院の1つとされる蜂屋寺があったとも伝えられています。

 蜂屋地区の中央を流れる中ノ井川は、野洲川より分流し草津志那に至り琵琶湖に注いでおり、栗東唯一の船便があった。川沿いに宇和宮神社のお旅所があって、その場所が「船ダマリ場」となり、明治十二年頃まで活躍していたとのこと。 この中の井川に沿って、今でも石仏が集中して存在している。当時の水運の安全や氾濫よけの願いであったろうか。住民の篤い信心が今にも伝わっており、それ故に古社が守られている。

        

 

蜂屋石仏・・像の周囲及び裏面の刻銘によると、願阿弥陀仏という人が仁治2年(1241)西方浄土に往生を願って建立したものである。

蜂屋地区の中央には中の井川が流れている。この川は野洲川より分流し草津志那に至り琵琶湖に注いでおり、栗東唯一の船便があった。
この川沿いに宇和宮神社のお旅所があって、その場所が「船ダマリ場」となり、明治十二年頃まで活躍していたとのこと。
この中の井川に沿って、今でも石仏が集中して存在している。当時の水運の安全や氾濫よけの願いであったろうか。
いずれにしても住む住民の篤い信心が今にも伝わっており、それ故に古社が守られている。

  

 宇和宮神社のお旅所

永久寺

永正2年(1505)に宇和宮神社の社殿を再建した棟札の案文が蜂屋永久寺にあろ。

      

宇和宮神社の前に竹藪が残存する、近年畑化・開墾されようだが、館遺構か?

            

宇和宮神社

   拝殿

宇和宮神社(うわみやじんじゃ)  栗東市蜂屋231-1  
主祭神:倉稲魂神 御食津神 大山祇女神 土祖神  例祭:五月五日

宇和宮神社のある蜂屋(はちや)集落の中央を中の井川が市道に沿って西流する。かつては琵琶湖まで通船されていた。
現在は、西部には東海道新幹線が南北方向に通過し、その西には工場が立地する。


飛鳥時代の頃は中央大豪族の物部氏の田荘であったとされる。奈良時代に金勝山に金勝山大菩提寺が建立されると、この大菩薩寺の二十五別院の一つ、物部山蜂谷寺が今から約1150年前当地に開かれお堂が建立されたとされる。
興福寺官務牒疏には「蜂屋寺、在栗太郡物部郷、号物部山、僧房二十宇、天平四壬申(732年)勅願、隆尊僧正開基、本尊九品阿弥陀仏、
建久三年(1192)再建・・・」とある。だが蜂屋寺跡はまだ不明のままである。

宇和宮神社の開基や沿革について不詳であるが社伝によると養老元年(717)の勧請とされる。

蜂屋の歴史、宇和宮神社の社歴を知るには,関わりが大いにありそうな廃寺「蜂谷寺」の所在の検出が待ち遠しい。

境内社の八幡社は当地の武士蜂屋氏の守護神。蜂谷氏は南北朝時代に南朝に所属して活躍した栗太武士である。
永正2年(1505)現本殿を改修したと棟札に記されている。 本殿が重要文化財である。
近くを新幹線が走っているが、境内は静寂である。集落全体にしっとりと落ち着いる。

  本殿

稲荷社 

宇和宮神社の鎮守の森も、神社土塁か?

           

蜂屋公民館    

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、『日本城郭大系』11、宇和宮神社の由緒
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勝長氏館  近江国(日野)

2016年04月29日 | 居館

 

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町松尾   map:http://yahoo.jp/ZmBIia

現 状:集落・神社

区 分:居館

築城期:江戸期か?

築城者:勝長氏

遺構:標高:196m  比高差:10m

目標地:勝長神社

駐車場:勝長神社近くに路上駐車

訪城日:2016.4.8 

お城の概要

松尾の丘の上にある。付近は住宅が多い。広くはない。このあたりは蒲生野である。この神社の周辺は近江の金属採取と精錬の地域であったようだ。

勝長氏館は、松尾地区の『勝長が岡』が居館跡と云われ、現在の勝長神社境内周辺にあった。神社と周辺の宅地は、丘陵頂上部にあり、神社境内から日野の市街地を南に見下ろすことができ、ここに豪族の居館が築くのに適した地形と思われた。

お城の歴史

勝長氏館は、築城年代は定かでないが勝長氏によって築かれた。

 日野の綿向神社の現本殿は、宝永4年(1707年)に、蒲生家の家臣・勝長半兵衛なる者が宮奉行となり氏子中の寄進により再建された。また、宝永5年(1708年)徳川綱重の代官・竹田喜左衛門政為は社殿を修造する。徳川綱重は第3代将軍・徳川家光の三男で、6代将軍・家宣の父にあたる。綱重は甲斐甲府藩主であったが、所領は甲斐、武蔵、信濃、駿河、近江に散在したことから、近江に代官がいてもおかしくはないが、1678年(延宝6年)兄の第4代将軍・家綱に先立って35歳の若さで死去したので、宝永5年(1708年)に綱重の代官は存在しない。
 また、蒲生家も寛永11年(1634年)に断絶しているので、宝永4年(1707年)の蒲生家の家臣・勝長半兵衛なる者の正体不明。

              

  

    

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、綿向神社の由緒

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標(しめ)の松塚(蒲生貞秀の墓所)   近江国(日野)

2016年04月29日 | 文化財
 
お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町村井 map:http://yahoo.jp/1KdkYZ

現 状:畑地

区 分:墓所

築城期:室町期

築城者:蒲生氏

遺 構:廟・墓石

標 高:200m   比高差:13m

目標地:標の松塚

駐車場:標の松塚横空き地に駐車

訪城日:2016.3.27

お城の概要

日野町村井の信楽院の西(往古日野川対岸=1547(天文17)年まで日野川の河床だった田園地帯)に位置する、又、現在は館の上部は墓地に造成されている。墓地への参道を挟んで西丘陵城に詰め城と思われる遺構が現存する。

また、参道の脇には、『標の松塚』が祀られいる。蒲生氏14代・貞秀の墓所。(氏郷は19代)
永正元年(1504)、蒲生貞秀は自分が死去してからの墓所を自ら定め、一本の松を植えました。それが「標の松塚」。

お城の歴史

蒲生氏14代・蒲生貞秀の墓所。(氏郷は19代)
1504(永正元)年、貞秀は自分が死去してからの墓所を自ら定め、一本の松を植えました。それがここ「標の松塚」。

 現地説明板
『標(しめ)の松塚』
 蒲生貞秀は蒲生家をおこした英主といわれ戦国の武将としてもその名が高い。貞秀は和歌にも優れ、新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)に収録されているほどの文化人でもあった。貞秀は永正元年(1504)自分が亡くなってからの墓所を決め、一本松を植えて和歌を詠んだ。
「引うへし 松の下はに世をへれは 千とせの後の人もたつねむ」
 この松を標の松と呼び、文化8年(1811)碑が建てられた。この碑文は、信楽院住職が作り、西大路藩士小串同行が敬書している。
                          『日野観光協会・日野公民館』

  

  永正11年3月5日(1514年3月30日)死去。貞秀戒名「信楽院殿大弐法眼知閑大徳」

  「標松塚」の石碑   

「武芸はいふに及ばず、歌道にも達したり」(『蒲生軍記』)と記述のある貞秀。

『新撰菟玖波集』(室町時代後期の准勅撰連歌撰集)に5首が選ばれ、また、『蒲生貞秀詠草』『貞秀朝臣集』等を残しています。

墓所背後の井戸 

蒲生家菩提寺・信楽(しんぎょう)院から南西の畑を越えたところの竹藪には、蒲生貞秀(さだひで)廟所(遠景)

・信楽(しんぎょう)院

音羽城を築いた貞秀は、戦いに出る時何時も、槍の先に冠子に入れた阿弥陀仏にを槍の先に引っ掛け、念仏をとなえながら戦ったといわれ、こんなことからこの仏を「槍かけ本尊」とも呼び、今もこの寺に安置されている。

参考資料:現地説明板

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森氏館     近江国(日野)

2016年04月29日 | 居館
  
お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町村井 map:http://yahoo.jp/vy_WIz

現 状:竹藪・畑地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:森民部丞

遺 構:廓・敷割 詰め城(210m)

標 高:200m   比高差:13m

目標地:標の松塚

駐車場:標の松塚横空き地に駐車

訪城日:2016.3.27

お城の概要

日野町村井の信楽院の西(往古日野川対岸=1547(天文17)年まで日野川の河床だった田園地帯)に位置する、又、現在は館の上部は墓地に造成されている。墓地への参道を挟んで西丘陵城に詰め城と思われる遺構が現存する。

また、参道の脇には、『標の松塚』が祀られいる。蒲生氏14代・貞秀の墓所。(氏郷は19代)
永正元年(1504)、蒲生貞秀は自分が死去してからの墓所を自ら定め、一本の松を植えました。それが「標の松塚」。

お城の歴史

蒲生家 家臣
 森民部丞 元亀元年四月、越前攻めに参加。天正十八年、韮山城攻めに参加。天正十八年十月、五千五百石。
 天正十九年、奥州攻めで戦功があった。五千五百石。子は成見、大膳。
 蒲生氏郷に伴い(伊勢松坂・会津黒川(会津若松)へ

 蒲生成見  森民部丞の次男。権六。蒲生真令の婿養子。義父と異なり、石田家には仕えず蒲生家に残った。
 蒲生大膳  森民部丞の子。権六の弟。蒲生真令が石田家に仕えると、それに従い石田家に移る。
         関ヶ原合戦では西軍に属す。敗北後、戦場から無事に逃れている。
森氏館(遺跡ウォーカーの比定地)遠景
 墓地への参道奥が墓地 
          
参道を挟んで、詰め城か?見張り台か?
         
  
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、蒲生家の家臣
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