城郭探訪

yamaziro

歓喜寺城(歓喜寺)   近江国(大津・志賀)

2016年04月25日 | 城郭寺院

 

歓喜寺(薬師堂)

               

歓喜寺城

お城のデータ

所在地:大津市(旧:滋賀郡志賀町)大物  map:http://yahoo.jp/Tw6PSl

現 状:山林

区 分:城郭寺院

築城期:室町期

築城者:比叡山延暦寺

遺 構:寺院・石垣・庭園・堀切・土塁

標高:309m 比高差:ー バイパスから172m

目標地:歓喜寺

駐車場:歓喜寺駐車場

訪城日:2016.4.23

お城・寺院の概要

 百間堤のある四ツ子川の谷をはさんだ西の尾根の中腹に、平安時代に最澄が開基したと伝えられている歓喜寺の薬師堂がひっそりとたたずんでいる。幸い、車で歓喜寺まで舗装の参道がついている。

 お堂に向かって左手に斜面を平削地に造成した、石垣や堀切で区切られたいくつかの歓喜寺城郭や庭園跡が残存する、繁栄した様子がうかがえます。

志賀町大物所在の 歓喜寺・歓喜寺は、かつての元亀の騒乱に対処しては、僧坊跡が三カ所豪快に堀切で城郭化されている。いずれも僧坊を破壊して砦化した平削地の作事で建物は城砦・曲郭に転用したのであろう。石垣や堀切で3つに区切られた歓喜寺城郭や庭園跡が残存する、繁栄した様子がうかがえます。

 歓喜寺は、 山岳寺院の一角に築造された「平地の城館をモデルとしての山岳寺院」で、僧坊をの城館・廓に転用したのである。

その 築城契機は明確ではないが、背後山頂の 歓喜寺山城の城郭遺構や土塁・石垣・堀切も残存する。

 余談ですが、2008年の開帳(33年に一度開帳されて来た)の準備のため、薬師堂を開けたとこと、本尊が消えていたという。警察に被害届を出したが発見されていない。歓喜寺は戦国時代の頃には、土塁や石垣で囲われた山城のような寺だったは、元亀3年(1572)織田信長軍の焼き討ちに逢う。その際、もの際、本尊の薬師瑠璃光如来立像を僧侶が山中に埋めて守り、後に住人が発見。文禄元年(1592)に住民らが薬師堂を建て、志賀地域一帯の信仰を集めていきたという。

お城・寺院の歴史

木戸庄は、木戸城主の所領である。木戸庄には、木戸城・荒川城・歓喜寺城・南比良城・北比良城・比良城がある。

歓喜寺は、元亀3年(1572)の元亀争乱で焼失してしまいますが、文禄元年(1592)に村人が薬師像を土中から見つけたため、薬師堂が建立されいます。

また、薬師堂の東側山頂には歓喜寺山城も残存する。

『佐々木南北諸氏帳』には、志賀郡 「木戸城主 佐々木隋兵士族 木戸越前守秀氏・佐野十乗坊」と記す。

『当代記』には、木戸城(志賀町)  元亀3年3月11日条 「十一日、滋賀郡へ出給、木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)両城取出を被取、明智十兵衛光秀、中川八郎右衛門、丹羽五郎左衛門被置」

  元亀4年7月26日条 「江州田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)・木戸両城被取懸所」と記す。

 『近江輿地志略』の木戸村の「木戸古城跡」荒川木戸村の間、西の山にあり。今其名を城の尾といふ。里民傳云。十乗坊といふ者在城すと。木戸十乗坊が事は『武家中興盛衰記補』のもあり。或云ふ木戸越前守在城せしと。信長と朝倉戦争の時は、朝倉方田子左近兵衛氏久といふ者居住す。」と記す。

 信長公記 巻五 元亀三年   建設と政略と  むしやの小路御普請の事

  信長公は木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の攻囲を明智ら三将にまかせ、みずからは3月12日京へのぼった。宿は二条妙覚寺に定めた。-----

 信長公記 巻六 元亀四年   湖上疾る  大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事

  7月26日、信長公は京を出て坂本へ下り、そこから件の大船に乗って江州高島郡へ出陣した。そして陸の味方と協同しつつ、敵勢の籠る木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の両城へ押し寄せた。信長公は直属の馬廻をもって攻撃にあたらせ、両城に猛攻を加えた。そのため城兵はほどなくして降伏し、城を退いた。落城後、信長公は両城を明智光秀に与え、みずからは高島郡内にある浅井久政・長政父子直轄の知行所へ馬を進めた。そして林与次左衛門方に陣を取り、ここから知行所内へ兵を放って諸所をことごとく放火した。 

           

  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査9「旧滋賀郡の城」、遺跡ウォーカー、 

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木戸山城(城尾山城)  近江国(大津・志賀)

2016年04月25日 | 山城
 

お城のデータ

別 称:城尾山城

所在地:大津市(旧滋賀郡志賀町)木戸字畑山

現 状:山林

区 分:山城

築城期:室町期

築城者:田中坊定成

城 主:田中坊定成・佐野秀方(のち十乗坊栄有) 

遺 構:土塁、堀切、帯郭、武者隠し、畝状竪堀

標 高:469.8m  比高差:294m

目標地:木戸山登山口

駐車場:木戸山登山口周辺空き地に路上駐車

訪城日:2016.4.23

お城の概要

 比良山中腹に張り出す尾根の付け根に部分に位置し、尾根筋上約150mに亘って広がっているが、明瞭に遺構が残るのは、最高所の主郭部と尾先部の段郭で中間部は明瞭性に欠ける。
 主郭部は南を除く三方を土塁に囲繞された小じんまりした主郭(17m×11m)に、南から西側に続く帯郭と東側にも帯郭が付帯している。北側は堀切で遮断され、南側切岸上部の主郭一段下に武者隠しが設けられ横矢を効かした防備を固めている。

 城内道は北の尾根越え道から東側帯郭に入り、南へ回り込み主郭に入ったようである。なお、主郭部から死角となる眼下を見張るため、尾先に見張台が設けられたと思われる。
この城跡で目を引く特異な遺構がある。木戸越道から分岐して堀切を通過し荒川方面に下る尾根越え道の西斜面部分90m間で、5、6ケ所もの屈曲が設けられ、また、道の脇には栗石を石塁状に積み上げ、その溝内を通路としている。

お城の歴史

『近江輿地志略』の木戸村の「木戸古城跡」荒川木戸村の間、西の山にあり。今其名を城の尾(木戸山城)といふ。里民傳云。十乗坊といふ者在城すと。木戸十乗坊が事は『武家中興盛衰記補』のもあり。或云ふ木戸越前守在城せしと。信長と朝倉戦争の時は、朝倉方田子左近兵衛氏久といふ者居住す。」と記す。

 延暦寺隆盛の頃に田中坊定成が木戸庄を分領し、堡塞を築いて住したとされるのが、この城跡とされる。元亀の兵乱には、六角氏に属した佐野秀方(のち十乗坊栄有と号した)が在城、籠城した。

 元亀二年織田信長の比叡山焼打の累を受け、翌三年樹下神社の社殿が焼失した。当時織田軍に追われて山中に遁世していた木戸城主佐野十乗坊秀方元亀4年(1573)には朝倉方の馬場兵部丞や多胡宗右衛門尉も守備に就いたようであるが、落城して諸氏は山中に隠れたと伝えられる

道案内

木戸集落の樹下神社前に案内柱がある。(安養寺)~湖西バイパスへ、林道の入口付近に駐車し、林道(木戸峠へ通じる登山道)を登って行くと大きな砂防ダムを二つ通り過ぎ、その先Ⅰ00m程進むと右手にピンクのビニールテープ巻いた檜を、右に分岐して尾根に向かう山道がある、尾根に出た右手が主郭。

一つ目と次の砂防ダムを間に右手に目印のテープがあるが、そこから山道に入り尾根に出て尾根筋を登って行っても城跡に到達できる。

木戸集落の樹下神社前の木戸山城への案内柱

木戸集落の登山道マップ前から琵琶湖

車は湖西道路バイパスのガードに駐車して

 

林道は車は無理です          一つ目砂防ダム  砂防ダムの間は、広い林道?(レスキューポイントだった) 

  二つ目砂防ダム

林道に脇の檜にピンクのビニールテープを右に、城道です。

      懸け上げ土塁の土が流げれて石塁に?         

主郭に到着、右が主郭! 

                             

下城します

   下城時に気づく?【武者隠しか?】上からの【横矢】か・・・銃座・弓座・礫石を投げる・砕石を落とす?

  k 登山道の下り。

帰り道に気付いたが、砂防ダムの間に、登城路あった!搦め手道かも?

 ピンクのビニールテープの目印 

  砂防ダムの間は、広い林道?(レスキューポイントだった)

帰り道、砂防ダム間にビューポイント・・・堅田方面

   下の砂防ダムにレスキューポイントの表示

                

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、遺跡ウォーカー、近江輿地志略』『武家中興盛衰記補』

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