天正10年(1582)6月2日の未明、 信長は明智光秀の謀叛により京都本能寺で横死した。
光秀は安土城に向かった。留守を守る賢秀は、討死を決意 したが、「遺族を無事守ることこそ忠節」と論され、 日野城に遺族を届け、氏郷とともに日野城を固めた。
安土城下町の南西に常楽寺という集落があり、城下町成立以前より湊があり、にぎわいがあったことで知られています。この常楽寺湊から南へ延びる街道が安土街道で、八日市で御代参街道に接続し、伊勢へとつながります。本能寺の変の直後、安土城の留守居であった蒲生賢秀が、城内にいた信長の妻子を居城の日野へと逃がす時、迎えに来た息子氏郷が通ったルートがこの安土街道と考えられます。
【信長の妻子を日野城へ】
安土城~常楽寺~南腰峠~石寺~老曾~八日市~岡本~日野~中野城
本能寺の変直後の蒲生氏郷の足跡
・蒲生氏郷の足跡・・・「遺族を無事守ることこそ忠節」 信長・秀吉時代は、湖東百二十八郷を治めた、氏郷の城下町として栄えた日野、今も町の至る所に当時に面影を色濃く残す・・・保地煙管・玉受山・桟敷窓・・・!
・日野城跡(中野城跡) 蒲生氏郷の祖父定秀が築城した蒲生家の居城。本能寺の変直後信長の妻子を匿った。
・音羽城跡 中野城以前の蒲生家の居城
信楽院(しんぎょういん)は、日野の領主であった蒲生(がもう)氏の菩提寺。菩提寺墓地には蒲生氏郷の遺髪供養塔あり。
・馬見岡綿向神社 蒲生の豪族・蒲生稲置三麿と山部連羽咋が綿向山麓に狩りに来たところ一天にわかに掻き曇り、四月(新暦五月)だというのに吹雪となった。
しばらく岩陰で休み、雪が止んで外に出てみると大きな豬の足跡を発見。夢中になって足跡を追っていくうちに山頂に導かれ、綿向大神の化身となって現れた白髪の老人から「この山の頂に祠を建てて祀れ」との託宣を受け、社殿を建てて祀ったという。
・興敬寺 湖東・湖南の中心的真宗寺院。一向一揆の中心となり信長と戦った。境内には土塁と堀が残る。蒲生・甲賀・栗太の三郡に門末を擁して、本願寺を支えていた有力寺院が蒲生郡松原(日野町)の興敬寺あった。
・清源寺 近世日野の領主仁正寺藩市橋家の菩提寺。境内には3代・6代・8代藩主の墓
があり。歴代藩主の肖像画を伝える
現在の日野城下町MAP
・昼食 レストラン岡崎 近江日野牛レストラン
日野商人の銘菓
・日野物産館(特産品館 伊勢藤) 日野町の特産品を販売
参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々
本日も、訪問ありがとう御座いました!