城郭探訪

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長浜城址 近江国 2013.

2013年10月05日 | 平城

 

 1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始した。

同3・4年頃完成し入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。

本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得した柴田勝家の甥の柴田勝豊が入城するも、まもなく勝家と対立した秀吉に攻められ落城した。

賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が6年間在城し、内藤信成・信正が城主になるが1615年(元和元年)に廃城になり資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができる。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので市立長浜城歴史博物館として運営されている。

 

 

近郊歴史スポット

 長浜市平方町の「徳勝寺」には浅井三代、久政、亮政、長政の墓がある。もとは小谷城の清水谷にあり浅井家の菩提寺。

秀吉が長浜在城中に側室に産ませた「秀勝」の位牌もあるほか、浅井長政とお市の方の木像も。

 同様に歴史を味わいたいという人にお勧めなのが「竹生島(ちくぶしま)」。伏見桃山城の束力使殿を移築した都久夫須麻神社本殿や、茶々によって移築された豊国廟に使用されたいた極楽門、秀吉が朝鮮出兵の折に使った御座船「日本丸」の船底骨組みを天井に使用した舟廊下などが見られる。そのほか浅井家によって寄進された弁財天など。お江も竹生島の氏子。長浜城から徒歩10分の長浜港から琵琶湖汽船乗船30分。

 長浜市内では妙法寺に、秀勝の墓がある。城では、なんといっても小谷城。そのほか、石田三成出生の地でもある石田家旧宅、跡姉川古戦場、横山城跡、国友鉄砲資料館、国友一貫斎の屋敷跡など。付近には日帰りで行けるスポットが多いため、長浜を旅のベースキャンプにするも良し。


連続講座「第2回 姉川の合戦と三田村氏館跡」2013.9.28

2013年10月04日 | 平山城

元亀元年(1570)6月28日、江北姉川で織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突しました。世に言う姉川の合戦です。姉川を血で染めたといわれうほどの大激戦でしたが、決着は付かず、この後両者の戦いは3年半にわたって続くことになります。合戦直前、両軍は姉川をはさんで南北に対峙します。北岸には浅井・朝倉軍が布陣しますが、この時朝倉氏が本陣を置いたのが三田村氏館といわれています。この他、姉川周辺には姉川合戦ゆかりの史跡が点在しています。

三田村氏館跡・土塁

姉川合戦の激戦地・血原に建つ石碑

今回の講座では、三田村氏館跡と姉川古戦場を、地元長浜市の文化財専門職員の案内でご覧いただきます

日時 平成25年9月28日(土) 10:30~14:45
       長浜市立北郷里公民館集合(近江バス公民館前下車すぐ) 
        ※近江バス市内循環線(南回り) JR長浜駅9:45発→公民館前10:14着
       三田村氏館跡解散
        ※解散後、長浜養護学校バス停もしくは北郷里公民館まで職員が誘導します。
         

場所 講義:長浜市立北郷里公民館(長浜市東上坂町976-7)
      現地探訪:姉川古戦場・三田村氏館跡)(長浜市東上坂町・野村町・三田町)

行程 北郷里公民館→陣杭の柳→血川→血原→三田村氏館跡 約5km(平坦道)
     ※ルート図

主催 滋賀県教育委員会   協力 長浜市教育委員会

講師 講義「姉川合戦と城郭」 上垣幸徳(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課)
      現地探訪 長浜市文化財保護センター専門職員

合戦検証”姉川の戦い1”

 

  

               

 

  

朝倉景健の本陣は、この北西にあたる三田集落内の三田村氏館におかれ、徳川家康の本陣がおかれました。その中間にある当地は、両軍の決戦の地となった場所で、多くの戦死者の血で染まったので「ちはら」と呼ばれています。

  

刃長5尺3寸(約175センチ)の大太刀

    刃長5尺3寸(約175センチ)の大太刀(説明板の上に)

   

両軍の戦いで、最も有名なのが朝倉軍の武将で、刃長5尺3寸(約175センチ)の大太刀を振るって奮闘した、真柄(まがら)十郎左衛門直隆の討死です

最初徳川家康の家臣、向坂(さきさか)式部と渡り合っていましたが、途中からその弟の向坂吉政が十文字槍をもって助太刀に入り、真柄の首を討ち取ったと言われています。(『信長公記』には真柄の首を取ったのは青木一重と記されており、諸本によって多少異なるようです)

合戦直前の6月24日、浅井長政は援軍に来た朝倉景健と姉川の北方3キロに当たる大依山に布陣しました。合戦当日の28日未明、長政・景健の両将は姉川北岸に前進、織田・徳川軍と決戦を決断しました。朝倉景健の本陣は、この北西にあたる三田集落内の三田村氏館におかれ、徳川家康の本陣がおかれました。

                                 

       

             

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝


三田村城 近江国(長浜)

2013年10月04日 | 平城

お城のデータ  

所在地:長浜市三田町      map:http://yahoo.jp/YgDo41

現 状:寺院

区 分:平城

築城期:文治・建久年間(1185~99)

築城者:三田村氏

城 主:三田村氏

遺 構:曲輪・土塁・堀切

城 域:50m×50m

目標地:伝正寺・三田会館

駐車場:三田会館駐車場 

国指定史跡

訪城日:2013.9.21

 

お城の概要

 姉川と草野川の間に位置する三田村の集落を中心とする居城で、今の伝正寺が館跡です。四方60m程の敷地を有し、その四方端には今も土塁が残っている。西面は約幅4m、最高値3.5mの南北にのびているもので、寺の正面にあたるやや南寄りに参道入り口が設けられ、参道は鍜状に折れて本道に続いている。鐘楼はこの土塁のほぼ中央にあるやや広めの削平部分に築かれており、参道入り口は虎口跡、鐘楼には見張り台的な施設が存在していたものと思われる。

 北面の土塁は東西21m強だが、かってはこの土塁が東西の土塁と溝口を隔てるまで続いたといい、西端の外側には小さな沼池もあったと伝えている。南面の土塁は最高値2.5m、最大幅5mあり、北西の土塁に対して幅がやや広く低めになっている。この中央やや西寄りに溝口が設けられ、寺内の庭園を経て北東に抜けるため、内堀があったものと思われる。東西の土塁は伝正寺の東にある景流寺・北野神社との境目をなし、北端から35m程南下した所でL字状に5~7m位寺城側に折れており、更に再び南に折れて南面の土塁と繋がっている。なお景流寺の敷地南面には伝正寺の外溝がそのまま続いているため、三田村一族の屋敷地が伝正寺周辺に群集していたと考えられ、小字北の里・南の里・西の里・東の里はいずれも孫字名に屋敷地の名を残している。

歴 史

三田村氏によって築かれた。 三田村氏は京極氏の被官であったが、浅井氏が勢力を拡大するにつれ一族が分裂する。

元亀元年(1570年)姉川合戦では三田村左衛門が横山城へ籠り抵抗したが、開城して小谷城へ退いた。

 三田村氏は京極氏の根本被官であったといわれ、無年「清水寺領目録」の中に「三田村郷」の名が見え(大徳寺文書)、当時は湯次上庄に属していた。文明18年(1486)11月草野庄段銭分を知行していた大館政重は当庄の半分を三田村某が押領したと幕府に訴えているが(室町御内書案)、「江北記」文明14年条には三田村某の知行地という草野庄半分の代官職が下坂秀隆に与えられたとあり、京極氏の老臣多賀宗直の反乱に乗じて、三田村又四郎が多賀宗直方に付いた事がわかる(三田村文書)。その後三田村氏は京極高清に仕え明応5年(1496)には浅井直種らと共に美濃斎藤利国の援軍として出兵し(船田後記)、分亀元年(1501)には上坂家信の篭もる今浜城攻めに参戦したが(江北記)、浅井氏勢力の拡大に反感を持つものが出て一族に内紛を生じたらしく、大永5年(1525)、六角高頼が江北に進軍したときに、三田村伊賀守・同与次郎・同彦八・同帯刀左衛門・同五郎兵衛・同八郎兵衛・同七郎左衛門の同名衆7名と、草野・嶋寺・徳山を名乗る土豪5名が六角氏に属している。浅井方に付いた三田村忠政は浅井亮政の娘と縁付いた三田村定頼の補佐役を務め、忠政の子直政は敵方に下った帯刀左衛門の旧領地を賜って、享禄4年(1531)の箕浦合戦で活躍したらしい(以上三田村文書)。また、永正16年(1519)5月付け三田村勝元書状には同氏相伝の地が大路村地先にあったといい(黒田文書)、天文頃には三田村大蔵・同伊予守が井奉行浅井亮頼の命を受ける等、浅井氏治政の拡大と共に重きをなし、天文5年(1536)付け「伊福貴神社奉加帳」には三田村政範、永禄3年(1560)9月24日付け門池吉信書状には三田村伊予守(総持寺文書)、永禄9年推定の「蒲生野陣立書」には浅井方第5番の守蒋と言う三田村光頼の名が見える(山中文書)。当城の城主と言う三田村左衛門は今井定清と縁籍の関係にあったと「嶋記録」にあり、元亀元年織田信長が攻めて来たときは、横山城の城守を務めていたと「信長公記」に見える。姉川の合戦後は小谷城中ノ丸の篭もっていたが、同3年8月27日秀吉を通じて降参したものの、討伐されたと「総見記」は伝えており、姉川合戦のよって当城は廃城となった。

 伝正寺は三田村城の本丸的な存在であったと考えられ、朝倉景健が本陣を当寺に置いた可能性は高く「佐々木南北諸士帳」には三田村左衛門大夫氏光、同相模守、多賀備中守が居住したと伝える。 

 現在の伝正寺が三田村城址である。三田地区(旧浅井町三田)に入ると、人に聞くまでもなく高い土塁が目印となり一目で分かる。
 伝正寺は三田村城が廃城となってから移築されたと聞く。現在では本堂の横に住職の松波氏がお住まいである。

 伝正寺の周囲には高い土塁が今も残っているが、北側土塁は一部を除いて失われている。東側に虎口が設けられているが、この虎口は寺の正面入り口としても使われている。
 伝正寺境内の南東隅に三田村氏に関係する祠があったが、1998年の台風19号により倒れた桧によって崩壊したため、現在では“三田村氏有縁の碑”が建てられたという。

三田村氏有縁の碑

庭・池の跡が確認できる

城郭の歴史天正年間、三田村氏は浅井氏の家臣として、野村氏と共に横山城の守将を勤めていたが、横山城落城後は小谷城に入る。

 元亀元年(1570)信長軍と浅井・朝倉軍による姉川の戦いで三田村左衛門は討死した。
 この時、須川城主の遠藤喜右衛門は戦友三田村左衛門の首を掻き取り、顔に血を塗って、紙を振り乱し、「御大将は何処におわしますぞ。浅井の大将三田村左衛門の首を討ち取って参った」と大音声で呼ばわり、信長の本陣に近づいた。ところがかねてより顔見知りの竹中半兵衛の長男久作が、これを見とがめ、すんでのところで捕まり、首をはねられたという。(浅井三代記)

 姉川の戦い後、三田村一族は各地に逃れたため、この三田地区には"三田村姓は一軒もないと云う。
 多くは新潟県や福井県に逃れてと伝えられ、昨今「三田村会」が結成され、全国から三田村氏発祥の伝正寺を訪問されたとか。俳優の三田村邦彦氏も、その末裔で訪れたことがあるという。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝

古文書などから見えてくる 「三田村城主」の一覧

 初代城主 三田村左衞 門尉幸弼  源頼朝が幕府を開き(1185年) 、源氏の佐々木幸弼が「7,181」石の地頭となり、1194(建久5)年頃に三田村を築城する。
 初代城主は、地頭職であった従五位下「三田村左衞門尉」で、代々の城主は左衞門尉を名乗る。
 二代城主 三田村左衞門尉幸真  1221(承久3)年6月に起きた承久の乱で敗れた後鳥羽上皇方に味方した城主が、討ち死にした。
 三代城主 三田村左衞門尉康家  このときに城主家の交代があった。
 四代城主 三田村左衞門尉友家  主家の京極家の内紛で三田村城を捨て滋賀県内各地や福井県、岐阜県へ逃げている。
 五代城主 三田村左衞門尉康定

 このときに城主家の交代があった。六角氏の浅井氏総攻撃で三田村氏は浅井方と六角方に二分し、城主は六角方になった。しかしこの戦いは浅井方が勝利し、三田村氏の主流は浅井方の三田村家になる。

 六代城主 三田村左衞門尉氏光  当時各地の戦国武将たちは、小谷城下の屋敷と自領地の屋敷をもっていた。
 七代城主 三田村伊予守定頼  このときに城主家の交代があった?→左衞門尉から伊予守へ官職が変わっている。
 八代城主 三田村飛騨守光頼  飛騨守へ官名変更→城主家の交代
 九代城主 三田村相模守定元  相模守へ官名変更→城主家の交代
 最後城主 三田村多賀備中守国定  姉川合戦で三田村城は朝倉氏の本陣として使用されたが、朝倉軍の敗退で落城し、以後は廃城となる。

 









 


【近江水の宝】瀬田川流域をゆく-唐橋から旧南郷洗堰へ- INDEX

2013年10月03日 | INDEX

瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川として有名です。瀬田唐橋と旧南郷洗堰は、この川と琵琶湖と人々とのかかわりを雄弁に物語る二大モニュメントです。

旧南郷洗堰は明治38 年(1905)に竣工し、史上はじめて琵琶湖の水位コントロールを可能にしました。湖岸域や下流域の洪水を防ぎ、発電などの利水ができるうようになったのも、すべて旧南郷洗堰の恵みといってよいでしょう。

瀬田唐橋は『日本書紀』にも登場する有名な橋です。古来、琵琶湖・瀬田川の東西を結ぶ唯一の橋であったことから、瀬田地域には古代近江国の政治の中心が営まれる一方、壬申の乱(672 年)や源平合戦(1180 ~ 85年)、また本能寺の変(1582 年)の後の攻防など、しばしば日本史の表舞台となりました。

・京阪石山寺駅周辺

・大津放水路(湖都は水害対策が出来ていた)

   

・石山寺門前へ

・石山の貝塚・石山観光会館

・石山港~

・関西電力宇治発電所 【南郷呑口】

・旧南郷洗堰

・瀬田川洗堰

・アクア琵琶

・南郷水産センター

・オランダ堰堤

・瀬田高橋川と建部大社

 

・門前 瀬田名物「たにし飴」

・明治29年洪水碑 西光寺・・・

・瀬田の唐橋

              本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!

 


・瀬田の唐橋

2013年10月03日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされる。また、日本の道100選にも選ばれている

昭和30年代の瀬田の唐橋

『近江八景』シリーズ(歌川広重)のひとつ「瀬多夕照」に描かれた往時の唐橋。

 西詰名盤

龍王神社

本殿

龍光山 秀郷院 雲住寺  平成6年に建立された「百足供養堂」

 

雲住寺(うんじゅうじ)

民話『三上山のムカデたいじ』ゆかりのお寺と神社が瀬田の唐橋のたもとに並んであります。雲住寺は、ムカデ退治に活躍した藤原秀郷(俵藤太・たわらとうた)の追善供養のために15代目の子孫により建立された寺で、この寺は瀬田の唐橋の守り寺にもなっており、瀬田の夕照が眺められる部屋もあります。そのすぐ隣にあるのが、俵藤太と乙姫を祭神とする龍王宮秀郷社。昔から瀬田の唐橋の下には龍神が住むという伝説があり、1440年頃に現在地に橋を架け替えたとき、龍神をご神体として祀ったといいます。ちなみに藤原秀郷は実在の人物で、平将門の反乱に際し、秀郷が将門の左目を射抜いて見事に征討。これは瀬田橋の龍神の御加護によるものである、という由来から、ムカデ退治の伝説が生まれたと考えられています。

 

 百足供養堂のある寺
 近江八景・瀬田の夕照で知られ、日本三大名橋の一つでもある瀬田の唐橋は欄干の美しい橋だ。都への要衡としてたびたび歴史の舞台に登場するこの橋の東詰めに、雲住寺はある。
 雲住寺が開かれたのは応永15年(1408)。初めは天台宗だったが、16世紀中頃に浄土宗となっている。
 山門を入ると正面に本堂、そしてその左手に「百足(むかで)供養堂」と書かれた小さな六角堂が目にとまる。実はこれ、寺を開いた時の城主・蒲生高秀から逆上ること14代前の藤原秀郷(俵藤太=たわらとうた)により退治されたむかでの供養堂

 醍醐天皇の時代、俵藤太は勇名をとどろかした武将だった。あるとき勢多(瀬田)の橋に大蛇が出て往来をさまたげた。狩りの途中、橋を通った秀郷はこれをものともせずにその背中を渡って行く。すると突然、翁が秀郷の前に現れ、「私は橋の下にすむ龍神です。三上山を七巻半もする大むかでが出て、苦しめられています。ぜひ退治していただきたい」と言った。さて、秀郷は三本の矢を用意し、むかで退治に出た。二本の矢は次々に跳ね返された。そこで三本目には自分の唾をつけ、キリリと射ると、矢はついに眉間に突き刺さり、むかでは退治された。

 蒲生高秀はこの地に寺を建立したわけで、以来、寺は瀬田の唐橋の守り寺となっている。寺にはむかで退治の縁起を刻んだ版木、また藤太ゆかりの太刀の鍔(つば)や、蕪矢(かぶらや)、鎗鉾先。また近江八景の版木などが残されている。

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。

唐橋東詰め・・下流側

唐崎中の島「唐崎ギャラリー前」

 

歴史と伝説

琵琶湖から注ぎ出る川は瀬田川しかなく、東から京都へ向かうには瀬田川か琵琶湖を渡るしかない。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。

古代

最初に架けられた橋は両岸に生えていた大きな藤の木を利用したつり橋で、景行天皇(日本武尊の父)の時代に丸木舟を横に何艘も並べ、藤や葛のツタで絡めた搦橋が架けられた。

神功皇后の摂政元年、香坂皇子と忍熊皇子が反乱。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したという(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

壬申の乱(671年)では、大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇)の最後の決戦場となった。

大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ。御霊神社の主祭神は大友皇子である(『日本書紀』 天武天皇 上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上の初見である。

藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱、764年)では、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回り。これを焼く。押勝は高島郡に走り、滅びた(『続日本紀』 淳仁天皇 天平宝字八年九月)。

平安時代

  • 870年1月9日(貞観11年12月4日)に火事(『日本三代実録』巻十六)。
  • 871年12月19日(貞観13年11月4日)に火事(『日本三代実録』巻二九)。
  • 『延喜式』主税式によれば、近江国の国司の管理下に置かれ、同国の正税・公廨稲から「勢多橋料」1万料が拠出され、その出挙収入によって橋の維持が行われ、朝廷への報告義務もあった。
  • 藤原秀郷の大ムカデ退治伝説として有名だが、背景には平将門の乱平定があるといわれる。
  • 970年8月25日(天禄元年7月21日)に藤原道綱母が明け方に船で勢多橋を渡河(『蜻蛉日記』)。
  • 治承・寿永の内乱(源平合戦) 1183年(寿永元年)に源義仲対平家、1184年(寿永2年)に源義経対義仲の合戦があった際に、源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのが今井兼平。宇治で敗れた義仲と合流し、粟津で敗死(『平家物語』)。

鎌倉・室町時代

  • 承久の乱 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇の京軍(山田次郎重忠が率いる比叡山の僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦。
  • 建武の戦い 1336年(建武4年)、足利直義の率いる北朝軍と南朝軍が瀬田川を挟んで交戦。
  • 本能寺の変~天王山の戦い 唐橋を現在の位置に移したのは織田信長。架橋奉行は瀬田城主の山岡景隆で、90日で完成させたという。明智光秀が本能寺の変で信長を倒されると、景隆は光秀が安土を攻めようとしたため、唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止した。しかし橋は光秀によってただちに修復されてしまった。

江戸時代以降

膳所藩(本多家)が管理。東海道がここを通った。

木造の橋が現在のコンクリート製になったのは1979年(昭和54年)のことであるが、橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存する。

文学

江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』は連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介している。

武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋

東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていたが、反面、比叡おろしの強風により船出・船着きが遅れることも少なくなかった。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れることもないとして、これを「急がば廻れ」と詠んだものであるという。

松尾芭蕉も旅の途上にてこの橋を詠んでいる。

五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋

橋桁の 忍は月の名 残り哉

 

2013.10.19の東西綱引き合戦の用の陣笠

大津歴史埋蔵物文化センターの玄関正面に!

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。

発掘調査写真


・明治29年洪水碑 西光寺・・・

2013年10月03日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

琵琶湖大水害(明治29年(1896)9月12日

未曾有の大豪雨により、湖水位は3.76mに達し、浸水面積は約14800ha、浸水日数は237日に及んだ。

瀬田川東詰(橋下に)

瀬田川中の島西詰に

琵琶湖へ直接流入する一級河川は118本ありますが、琵琶湖から流出する河川は、瀬田川の1本だけです。しかし、昔の瀬田川は川幅が狭く、田上山からの土砂が流出して川底にたまり疎通能力を小さくし、琵琶湖周辺では洪水による大きな被害を受けていました。
また、琵琶湖の洪水は、河川の場合と異なり、水位上昇、低下ともに時間がかかり、洪水は長期間に及びました。

■明治以降の琵琶湖の記録的な大洪水
年月日気象状況被 害 状 況
明治18年
(1885)
7月4日
台風 明治大洪水
6月の強雨や台風による豪雨のため、湖水位が2.71mに達し、田畑約11800haが浸水。浸水日数は140日に及んだ。下流の淀川でも各所で堤防が決壊。
明治29年
(1896)
9月12日
台風
前線
琵琶湖大水害
未曾有の大豪雨により、湖水位は3.76mに達し、浸水面積は約14800ha、浸水日数は237日に及んだ。
大正6年
(1917)
10月29日
台風 大正大洪水
台風による豪雨のため、湖水位は1.43mに上昇し、浸水家屋約3500戸、浸水日数は50日に及んだ。
昭和28年
(1953)
9月27日
台風 台風13号
台風により湖水位は1mに上昇し、浸水面積は約6000haに及ぶ。琵琶湖下流では、宇治川左岸堤が決壊し、約2800haが浸水した。
昭和34年
(1959)
8月13日~14日
台風
前線
台風7号(5907)・土佐沖低気圧
台風による豪雨により、湖水位は1mに達し、浸水家屋は19515戸に及んだ。
昭和34年
(1959)
9月26日
台風 台風15号(5915)(伊勢湾台風)
台風による豪雨により、湖水位は0.87mに達し、浸水家屋は25736戸、浸水日数は40日に及んだ。
昭和36年
(1961)
6月26日
前線
台風
梅雨前線・台風6号(6106)
梅雨前線及び台風の豪雨により、湖水位は1.1mに達し、浸水家屋は2668戸、浸水面積は4688.8ha、浸水日水は15日に及んだ。
昭和36年
(1961)
10月26日~28日
低気圧 低気圧
低気圧の豪雨により、湖水位は0.43mに達し、琵琶湖周辺の各河川で堤防の決壊被害が発生した。
昭和40年
(1965)
9月17日~18日
前線
台風
秋雨前線・台風24号(6524)
秋雨前線及び台風24号の豪雨により、湖水位は1.02mに達し、浸水家屋は13944戸、浸水面積3100ha、浸水日数10日に及んだ。
昭和47年
(1972)
7月12日~16日
台風 豪雨・台風6号
台風による豪雨により、湖水位は0.92mに達し、浸水家屋は755戸に及んだ。
昭和47年
(1972)
9月16日~17日
台風 台風20号
台風による豪雨により、湖水位は0.74mに達し、浸水家屋は6995戸に及んだ。
昭和57年
(1982)
8月1日~2日
台風 台風10号
台風の豪雨により、湖水位は0.68mに達し、浸水家屋は1221戸に及んだ。
平成2年
(1990)
9月15日~20日
前線
台風
秋雨前線・台風19号
秋雨前線及び台風の豪雨により、湖水位は0.7mに達し、浸水家屋は1608戸、田畑浸水面積は3160haに及んだ。
平成7年
(1995)
5月11日~15日
大雨 大雨
大雨により、湖水位は0.95mに達し、浸水家屋は39戸、湖岸の浸食崩壊の被害も発生した。

・瀬田高橋川と建部大社

2013年10月02日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

瀬田高橋川

 滋賀県大津市を流れる、淀川の支流。
大津市瀬田神領町の瀬田ゴルフコース敷地内の16号大津信楽線沿いの谷あいに発し北西流。
瀬田一丁目の唐崎公園の中・瀬田川大橋の南で淀川(瀬田川)左岸に注ぐ。
一級河川の起点は大津市瀬田神領町念仏谷。

 源流はゴルフ場のある丘陵。施設の真ん中を細谷が流下する。
川相は三面張り部分が多く、水量は少ない。
川沿いに16号大津信楽線が通じ、この道を南に行くと緩いピークがあり大戸川水系との分水嶺を成す。

大津市神領 建部橋から 左上流、右下流望
建部橋下の川面 大津市神領 なかよし橋から

 ゴルフ場を出た川は、京滋パイパス・名神高速・東海道新幹線をくぐり徐々に川幅を広げてゆく。
上写真上段は近江一の宮・建部大社の脇を流れる高橋川で、参道橋ゆえ華やかな朱に擬宝珠つき。
下段右のなかよし橋も桧山神社脇なので同様の装飾がなされている。
この付近には川へおりるテラス等も設けられている。

大津市瀬田 大前橋から上流望 河口
高橋川合流後の瀬田川 下流望

 最下流部は流れ込み先の影響で湛水。
上写真上段左の、左手の並木は国道一号線のもの。上段右の橋はR1瀬田川大橋。
高橋川が注ぐ付近の瀬田川左岸は唐橋公園になっている。下段写真奥に霞むのが唐橋。

 

 

 

建部大社

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拝殿と三本杉

概史

社伝では、日本武尊の死後の景行天皇46年、日本武尊の妃・布多遅比売命が神勅により、御子・建部稲依別命とともに住んでいた神崎郡建部郷千草嶽(現 東近江市五個荘伊野部町付近の箕作山)の地に日本武尊を建部大神として祀ったのが創建とされる。建部郷の「建部」の名は日本武尊をしのんで名代として名付けられたことに因むといい、他にも各地に設けられている。

のち、天武天皇4年(675年)に近江の守護神として、現在地の栗太郡勢多へ遷座した。

遷座後、元の千草嶽の麓には神護景雲2年(768年)に聖真大明神と建部大明神が設けられたとされ、現在は建部神社が残っている。

天平勝宝7年(755年)には、大己貴命が大神神社から勧請され、権殿に祀られた。

平安時代中期の『延喜式神名帳』には「近江国栗太郡 建部神社 名神大」と記載され名神大社に列しているほか、近江国の一宮として崇敬された。

源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、本社に立ち寄って源氏の再興を祈願、後に大願成就したことから、出世開運の神としても著名となった。

明治4年(1871年)近代社格制度において「建部神社」として県社に列格され、同18年に官幣中社、同33年に官幣大社となった。戦後の昭和23年(1948年)には神社本庁の別表神社となり、社名を「建部大社」とした。

なお、昭和20年8月、日本で初めて作られた千円紙幣(甲号券)の図柄に日本武尊と当社本殿が使用された。

境内と三本杉

 幻の千圓札

昭和20年8月、日本で初めて作られた千円紙幣(甲号券)の図柄に日本武尊と当社本殿が使用された。

石囲いの石燈籠(重要文化財)鎌倉時代、文永7年(1270年)の造営。

〈重文〉木造女神坐像

由緒
 当社は古来建部大社、建部大明神などど称え、延喜式内名神大社に列し、 又近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社である。 御祭神日本武尊は御年僅に十六才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、 遂に三十二才にして伊勢の能褒野に於て崩御されましたが、父君景行天皇は尊の死を いたく歎かれ御名代として建部を定め其の功名を伝えられたことが日本書記に 記されているのであるが、これが即ち建部の起源である。
 景行天皇の四十六年神勅により御妃布多遅比売命(父は近江安国造)が、 御子稲依別王と共に住われた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが 当社の草創であって、その後天武天皇白鳳四年当時近江国府の所在地であった 当瀬田の地に迂祀し、近江一之宮(其の国を代表する第一位の神社)として 崇め奉ったのが現在の当大社である。
 歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙に遑なく、就中源頼朝は、 平家に捕われ、十四才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、 永歴元年(1160年)三月二十日当社に参篭して前途を祈願した事が 平治物語に記されている。頼朝は遂に源氏再興の宿願成って、建久元年(1190年) 十一月右大将として上洛の際再び社前に額き襄年蒙った深い神助に対し、 幾多の神宝の神領を寄進して奉賽の誠を尽されたのである。爾来当大社が出世開運、 除災厄除、商売繁昌、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される所以であり、 明治十八年四月官幣中社に、同三十二年七月官幣大社に列し、国家最高の社格を与えられた。 昭和五十年四月十五日御鎮座壱千参百年式年大祭を斎行し、これに伴う記念諸事業の完遂。 そして平成二年三月十七日には本殿遷座祭を斎行し御社頭は面目をあらたに、御神威の程畏き極みである。


・オランダ堰堤

2013年10月02日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信


日本3大ハゲヤマの田上山 (荒廃状態にある昭和30年頃の金勝(こんぜ)山国有林。白い部分は裸地。)

田上(たなかみ)の枝公園近くの天神川沿いにあります。一見廃屋です。内部の見学には予約が必要です。この地に鉱物博物館があるのは、それなりの理由があります。

もともと田上山は花崗岩鉱物の三大産地の一つに数えられた。水晶は飾り玉にするなどして産物となっていたが、トパーズは加工には向かないために放置されていた。これに目をつけた外国人宝石商が地元の人々を雇って拾わせ、海外に持ち出されたトパーズは明治年間に700kgに及んだ。(田上鉱物博物館資料より)

台風18号(2013.9.16)後の大同川

オランダ堰堤の横に立つデ・レーケの胸像。

デ・レーケが実践した「治水は治山にあり」。

 大阪湾に新しい港をつくり、淀川を大型船が往来できる川にするために、明治6年(1873)、オランダからヨハネス・デ・レーケらの技師団が招かれました。淀川のようすを調べたデ・レーケは、港や河川改修に先立って上流の治山が先決であると考えます。

その理由のひとつは、淀川上流にあたる大津市の田上山一帯の荒廃にありました。かつてのスギやヒノキの美林は、古く奈良や平安時代より寺院・仏閣の造営に伐り出され、明治維新後も建材や産業資材を得るために乱伐が続き、山々には木々がなくなっていました。また、この辺りの山地はもろい花崗岩でできているため、保水力を失った山から一気に流れ出る雨水によって、岩は削り取られて真砂となり、洪水時には川筋に大きな被害をもたらしていました。さらに、川の水によって運ばれた土砂が、淀川下流や河口部に堆積し、水上交通を困難なものにしていたのです。

そこでデ・レーケは、山から川へ土砂が流れないように食い止めると同時に、荒廃した山に新たに木を植えるという2つの方法で治山治水を行いました。

http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/siga/mori-enjoy/oranda_.html

堰堤下流

しかし、堰堤は満杯で砂防の役割はありません。現状は土木遺産・森林公園(桐生若人の広場)です


・南郷水産センター

2013年10月02日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

水産センターの前庭

松尾芭蕉の句 「霞せば 網代の氷魚を 煮て出さん」

  

歩道のタイル

 http://www.eonet.ne.jp/~suisancenter/


場内ガイドマップ
場内ガイド詳細一覧   場内各種料金表   各施設の営業時間
金魚すくいコーナー  つかみどり  ちびっ子釣り場  マス釣り場 
コイ釣り場  フナ釣り場  ルアー・フライ釣り場  水産資料館  その他施設 
※各施設の料金は、ご利用の際にそれぞれの受付でお支払い下さい。


  ↑地図中の色の付いた施設名をクリックすると、詳細情報へジャンプします。↑

  ※印刷用マップはこちら(PDF)→

・アクア琵琶

2013年10月02日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

ウォーターステーション

 

アクア琵琶

アクア琵琶とは

「水のめぐみ館 アクア琵琶」は、琵琶湖の総合的な水管理が流域の発展に治水、利水及び環境の面から貢献していることや、瀬田川洗堰が琵琶湖を抱える滋賀県だけではなく下流の京都府や大阪府にとっても治水や利水の面から非常に重要な施設であることを地域の方々に広く理解してもらうことを目的として平成4年11月に設置されました。

現在の滋賀、京都、大阪の発展の礎である琵琶湖と下流の淀川について、その治水と利水の苦難の歴史と、上流の滋賀県と下流の府県が協力しあい昭和47年から平成9年までの25年間にわたり実施してきた「琵琶湖総合開発事業」とその成果について、展示物を通して紹介しております。

また、災害時には福祉避難所として活用することとしています。

http://www.aquabiwa.jp/aqua/index.html

琵琶湖のおいたち

年齢400万歳の琵琶湖

琵琶湖の推定年齢は400万歳。バイカル湖、カスピ海に次いで古く、タンガニーカ湖と並んで世界で3番目に古い湖と考えられています。湖の寿命はふつう10万年以内であることからも、琵琶湖がいかに古い湖であるかということが分かります。誕生した頃は、今よりもずっと南、現在の三重県伊賀盆地付近にありました。その後、地殻変動などによりゆっくりと北へ移動を始め、約30~40万年にほぼ現在の大きさ、形になったと推測されています。
琵琶湖周辺には、縄文・弥生の昔から人々が暮らしており、湖の底から多くの遺跡が発見されています。

約400万年前

伊賀盆地の東部に誕生し、その後、湖面積を広げながら北西に移動していきました。

約300万年前

日野から甲賀地方にまで広がる、大きく深い湖になりました。この時代は約80万年もの間続いたと推測されています。

約200万年前

南の伊賀盆地が隆起するとともに、北の近江盆地が沈降。
琵琶湖も北へ移動し、現在の蒲生郡(がもうぐん)一帯が浅い湖になりました。
湖岸には、アカシゾウやスギヤマゾウが生息していました。

約100万年前

鈴鹿山脈が大きく隆起し、これまでの古琵琶湖は消滅。
新しく現在の琵琶湖が誕生しました。
琵琶湖固有種のセタシジミが生息するようになったのもこの頃からです。

約30~40万年前

鈴鹿山脈や比良山地が急激に隆起。
琵琶湖は現在の約2分の1の大きさまで縮小しますが、再び沈降が始まり、ほぼ現在の大きさ、形になりました。


・瀬田川洗堰

2013年10月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

2013.9.16の台風18号で全閉した(+100cm)が・全開中(9/29-13cm)の瀬田川洗堰

大正貞明皇后行啓碑

南郷洗堰の近く(南郷1丁目17番街区の南郷公園前)に滋賀県知事堀田義次郎の書による記念碑が建てられています。 

高さ2.13mで「皇后陛下行啓記念碑大正11年(1922)11月12日(行啓)」と記されています。

 琵琶湖の洪水を防ぐために、瀬田川の川底にたまった土砂を堀取る「川ざらえの工事」が昔から何度も行われてきました。それで、瀬田川の川底が深くなり、よりたくさんの水が流れるようになって、琵琶湖の洪水は少なくなりました。
 しかし、瀬田川の川の流れがよくなると、今度は下流の淀川が洪水を起こしやすくなってしまいました。また、長い間雨が降らないと、琵琶湖の水が少なくなって、水不足になったりします。

これを解決したのが、洗堰です。洗堰の役目は、

  1. 大雨で琵琶湖の水の量が多いときには、たくさんの水を流す
  2. 雨不足で水の量が少なくなると、むだな水は流さない
  3. 上流と下流で洪水が起こらないように、水位調節する
堰を開けたり閉めたりする順序
越流
大雨で宇治川、木津川、桂川、淀川の水位が上がると、洗堰は水門を半分開いて少し水を流します。
全閉
宇治川、木津川、桂川、淀川の水位が最高になると、下流が洪水にならないように洗堰は水門を閉めます。
全開
宇治川、木津川、桂川、淀川の水位が下がってくると、洗堰は水門を全開して水を流し、琵琶湖の水位を下げます。


・旧南郷洗堰

2013年10月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

~日本の近代治水事業のシンボルともいえる存在~

 琵琶湖には一級河川だけで118本、支川も含めると400以上もの河川が流入している。その一方、琵琶湖から流れ出る川は唯一瀬田川のみ。たった1本しかない流出河川であるにもかかわらず、瀬田川の川底には琵琶湖から流れ出る土砂に加え、瀬田川に合流する大戸川が運ぶ砂礫が溜まり、川の疎通能力が極端に低かったという。上古の時代より、平城京や寺院造営のための木材切り出しなどで禿山になっていた田上山(たなかみやま)からは、大量の土砂が大戸川に流れ出し、「水七合に砂三合」などと例えられていたほどだった。
 瀬田川の水はけの悪さゆえ、雪解けや台風の季節には琵琶湖の水位が上昇し、沿岸が浸水被害に見舞われることがたびたびあった。有史以前より水害に苦しめられていた琵琶湖周辺の人々の懸案は、瀬田川の川底を浚渫し、流出水量の拡大を目指すことにあった。
 奈良時代、全国各地を遊行しながら民衆救済事業に尽力した行基は、瀬田川の「川ざらえ」(浚渫)を初めて指揮。その際、瀬田川に張り出し、川幅を狭くしていた大日山の開削によって川の流量を増やそうと試みたが、下流の氾濫を恐れて断念した。その後の記録は定かではないが、江戸時代には5回ほど大規模な「川ざらえ」が行われている。なかでも、天明年間(1781~1788年)から天保年間(1830~1843年)にかけて、親子3代にわたって瀬田川の浚渫に尽力した藤本太郎兵衛という庄屋のことは知る人ぞ知る話だ。

明治時代、地元住民だけが洗堰の上を通行することが許されていたという。平成14年(2002年)、洗堰の歴史的価値が認められ、土木学会選奨土木遺産に選ばれた。
 

 

瀬田川西岸

 琵琶湖から唯一流れ出る河川、瀬田川。琵琶湖から流れ出て大阪湾に至るまでの間に、宇治川、淀川と名前を変えて流れ下るこの川は、古くから東西交通の要衝でもあり、京都、大阪の利水と水運を担う、いわば「近畿地方のライフライン」のような存在だった。
 一方、その水はけの悪さから、大雨が降ると行き場を失った水が琵琶湖に滞留し、湖水面の上昇で沿岸が浸水するなど、近江の国の人々は「水込み」と呼ばれる浸水被害に悩まされていた。琵琶湖沿岸の「水込み」被害をなくすことは、人々にとって昔から変わらぬ切実な願いであったと同時に叶わぬ夢のような話でもあった。

 

河岸に残る一部残る旧南郷洗堰の遺構。背後に見えるのは大日山。大日山開削を断念した行基は、山に大日如来を祀り、大日山に手をつけると祟りが起こると言い残したという。上・下流住民の対立を見越して、大日山を破壊することをタブーにしたかったのだろう。
 
瀬田川左岸、旧洗堰の遺構の脇にある「水のめぐみ館 アクア琵琶」の館内。
洗堰の歴史に関するパネルや旧洗堰の操作の様子を表した模型展示などがある。

http://mizutakara.shigabunka.net/e582849.html

本日も訪問、ありがとうございました。


・関西電力宇治発電所 【南郷呑口】

2013年10月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

発電用の水は、琵琶湖から流れ出す唯一の河川、瀬田川に設置されている。
瀬田川洗堰の上流300mのところ(滋賀県大津市南郷)から取水し、約11kmの水路を通って、12号開渠から調整池に入り、五条の水圧鉄管を通して5台の水車を回している。

明治39年、京都府と滋賀県の共同出資により宇治川電気株式会社が設立(明治41年2月に着工、大正2年6月に竣工)。

戦中戦後の電力会社統廃合により関西電力株式会社となる

1.水路総長 6137間
 隧道 5070間
 暗渠  440間
 開渠  627間
1.最長隧道 第1号 1357間
     第7号 1658間
1.使用水量 1秒時2000立方尺
1.有効落差 204尺
1.機械容量 48000馬力
1.送電線路 大阪線 22哩
    京都線  8哩
1.工事費総額 1600万圓
1.工事着手 明治41年12月
1.工事竣功 大正2年6月
  大正3年10月  宇治川電気株式会社
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http://lalalasayu.jugem.jp/?eid=921

 本日も訪問、ありがとうございました。