城郭探訪

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欲賀(ほしか)城 近江国(湖南・守山)

2014年03月20日 | 平山城

欲賀城址とされる浄光寺。

『浄光寺案内石板』より

欲賀寺史略
 持統九年(695)都賀山ノ西側ヨリ温ノ泉湧出天皇叡感ノアマリ百済国ノ僧豊妙ニ命ジテ薬師如来ノ尊像ヲ彫刻シ一字ノ精舎ヲ建立。
 帝モ小像ヲ刻ミ御腹内ニ納メラレ本尊トナシ鎮護国家世ノ病苦ヲ除カント誓願シ給フ。
 精舎ヲ欲賀寺ト称シ興福寺ノ別院トナス。法相三論兼学ノ道場トシ給フ。
 弘仁十四年(823)大安寺ノ僧永厳来ルヤ大和大安寺別院病療院欲賀寺ト改称。正嘉元年(1257)僧空真ノ時郡邑ヲ勧進シ諸堂ヲ建立。ソノ数四十五ニ及ブ当時ノ諸堂

 

所在地滋賀県守山市欲賀町

分 類 : 平城(居館)

築城期:

築城者: 寺田清信

遺 構 : 土塁跡、堀跡

訪城日:2014.3.18

 

現状

 

欲賀城は、浄光寺の境内付近にあったものとみられています。浄光寺の南西隅には土塁跡と考えられている藪があります。また、寺の裏手には土塁および堀跡のような段差と側溝がみられます。

浄光寺北西隅付近にある水度神社は、寺田氏が山城にいたころから崇拝していたものを勧請して建てたものと伝えられています。

浄光寺の北西150mに、欲賀城畑城と呼ばれる城跡があります。『守山城物語』によればこちらは本間氏の居城とされています。

また、浄光寺の東にも宇野氏の大林城の本間氏の居城ある。

2つの在地領主の城に挟まれた寺田氏の欲賀城は、城というより寺院居館。

境内の土塁

本堂裏

浄光寺南西隅の藪。土塁跡

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、

本日も訪問、ありがとうございました。


大林城 近江国(湖南・守山)

2014年03月20日 | 平山城

住所 :守山市大林町

現在の状態 :八幡神社・集落・藪地

形式 :平城

目標点:大林 覚明寺・八幡神社

遺構 :堀跡・土塁

築城者 :宇野久実

築城期:応永年間

城 主:大林伊予守

訪城日:2014.3.18

歴史

周防国より移り住み、その後六角氏に被官した宇野氏が、応永年間(1394-1427)の戦功により三宅・欲賀・大林を領し、大林城を築城、宇野姓を改めて大林と称したとされる。

元亀元年(1570)6月、六角氏と織田方柴田勝家・佐久間信盛により、野洲河原の戦いが勃発し、大林氏は六角方で多くの首級を得たが、六角勢は大敗する。さらに8月には佐久間信盛によって大林城も攻められ落城した。


天正11年(1583)城主大林伊予守は出家し、旧城内に覚明寺を建立した。

集落の四方をめぐる水路

大林城は、大林集落全体と南側に集落に付随するように茂る藪地一帯に築かれていた。
集落と藪地は、現在でも四方を堀跡と思われる水路がめぐるが、南辺の水路は宅地造成のため流路は改変された。
集落南奥に鎮座する八幡神社付近は、集落から見ると一段高い地形になっており主郭に比定できる。
またその奥藪地には館跡の遺構が存在するという。

 
 

旧城内に覚明寺。

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、

本日も訪問、ありがとうございました。


千代城 近江国(守山)

2014年03月20日 | 平山城

八尾神社前には説明駒札

住所 :滋賀県守山市千代町

現在の状態 :集落・神社

遺構 :堀・案内板

形式 :平城

築城時期 :天正3年(1573年)

築城者 :玉岡宿弥彦安か

城 主 :千代氏・旗本渡辺茂

目 標:千代 八尾神社

訪城日:2014.3.18

現状

 千代城は、旧千代集落一帯にあった。千代集落は近年まで四方を水路が囲み、北側水路内側には土塁も残っていたという。                                現在では土塁は消失し、西辺水路は埋められて、新興住宅地が次々に造成されている。

集落北側に架かる橋は、城の北門であったという伝承が残り、北門から入ると通路は4回屈曲し、八尾神社前に至る往時の城道。
集落中程に建つ八尾神社前には千代城の説明板が建っている。

歴史

 守山市誌によると、物部氏族玉岡氏が千代郷に住み、地名を取って千代氏と名乗り建長4年(1252)にはすでに支配していたとされる。
しかし案内板には玉岡宿弥彦安なるものが天正3年(1573年)に築城、慶長元年(1596年)千代中務大夫の時に落城したとされている。
それぞれの築城時期の約300年の開きは何なのか、解明できずじまい。

寛永2年1625 千代村が旗本渡辺茂の知行所となる

      堀(現状:水路)

隣の安楽寺

 

 

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、現地説明板 

本日も訪問、ありがとうございました。


勝部城 近江国(守山)

2014年03月18日 | 平城

佐々木六角氏の重臣勝部氏の居城跡

所在地:滋賀県守山市勝部1丁目 map:http://yahoo.jp/3LzNlV

遺 構:神社土塁

区 分:平城

築城者:永原重頼

築城年代:室町時代

訪城日:2014.3.18

勝部神社
 大化5年(649年)、物部氏一族の物部宿彌広国が祖先を祀るため、物部郷(勝部・千代・蜂屋・野尻・出庭)に創建したことに始まります。(昭和16年まで、この地は栗太郡物部村に属し、物部神社と称していたようです。)

 祭神は物部氏の祖先神とされる神です。

本殿の裏「鎮守の森」・・・遺構は確認出来ず

勝部の火祭り

 毎年1月の第2土曜日に、勝部神社で行われます。

勝部神社の火祭りの由来
 約800年前、第83代土御門(つちみかど)天皇(1199~1210)のご病気が重く、占師によれば「近江国栗太、野洲両郡の堺に大沼があり、ここに数千年を経た「おろち」がいて、天皇に危害を加えている」とのこと。
さっそく、宮中から「おろち」退治の兵を現地に派遣したが、「おろち」はなかなか姿を現しません。射手一同は、神社に参詣すること50日の祈願をこめたところ、その満願の日、どこからともなく「おろち」が出現。これを退治し、焼き払ったところ、皇のご病気は間もなく快癒したそうです。 

  当日、午後の間に祭の主役になる松明1本1本に、 神酒・鰯・豆腐を供えて祈祷しておきます。その後、3基の大太鼓が街中を練り歩いてから、夜8時ごろ、大蛇の胴体をかたどった大松明16基が境内に勢揃いします。 そして、若者が裸のまま神前で御神火から火をもらって一斉に点火します。

そして、鐘や鼓を打ちなが ら、ふんどし姿の若者たちが、無病息災を祈願して

「ごうよ」「ひょうよ」(御脳平癒の転)と大きな掛け声をかけながら乱舞するという、勇壮な火の祭典が始まります。 勝部で使われる松明は、長さ5~6m、直径40cmの 長い円柱で、材料には柴が用いられています。全体で大蛇の胴体を表し、木片は大蛇のうろこを表しているといわれます。

同じ日に、浮気町の住吉神社でも同じように古式をとどめる県選択無形民俗文化財の火祭りが行われます。 

今から1355年前、人皇第三十六代孝徳天皇の大化5年(649)8月13日に領主であった物部宿彌広国が 物部郷の総社として創建しました。御祭神は物部布津神(天火明命・宇麻志間知命・布津主神)で、合わせて住吉神、猿田彦命をお祀りしています。文徳実録にある仁寿元年(851)に正六位上を授けられ 続いて三代実録では、元慶元年(877)に従五位下の神階位を授けられた布津社とは、当社のことです。

中世武家時代になると、武家をはじめ一般の人々の崇敬も一層高まり、殊に佐々木氏は深く当社を信仰し、出陣の旗竿は、決まって神社林の竹を使われていました。

そして、明応6年(1497)には 佐々木高頼氏が大願成就祈願のために 御本殿を造営されました。

また、織田信長公は元亀年問に 野洲・栗太二郡の起請文六十通を当社に納められ、

豊臣秀次公は文禄3年(1594)8月、神田の寄付と御本殿(重要文化財)の修理を行われました。

JR守山駅の開発された西口側にある勝部神社が城跡地と伝わります。この神社は本殿が観音寺城の城主・佐々木(六角)高頼が再建したものとされ、重要文化財に指定されています。

歴 史

勝部城の歴史は明応・大永年間(1492~1528)に永原筑前守重頼が築城したとされ、この永原氏は、冒頭で触れたように佐々木六角氏の力で再建されている神社の境内に築城しており、佐々木六角氏の重臣に当たる一族であったそうです。

日本城郭大系でも城主について様々な説があることだけは触れていますが、あまり永原氏の歴史や、またこの城の歴史については深く触れておらず、現地の神社由緒書にも、この城のことは触れられていませんでした。

織田信長が上洛した後は、稲葉伊予守・佐久間信盛が在城したとされますが、いつごろ廃城になっていったのかなどは定かでないようです。

現在の勝部神社付近は都市化が進み全く往時を窺がい知ることは困難な状態。神社の裏側には水路と、土盛りが見られますが、これが濠の名残か、また城の土塁なのか。

戦国期の永原氏の居館、佐々木六角氏に従った武将の城跡が多かった。

神社としては重要文化財の建造物だが、城館跡としては見所が少ない。

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、由緒書

本日も訪問、ありがとうございました。!!


綣(へそ)村城 近江国(湖南・栗東)

2014年03月18日 | 平山城

所在地滋賀県栗東市綣

遺 構土塁

形 式平城

築城者:6代目将軍足利義教公

築城年代:室町期永亨5年(1433年)

城 主:徳川将軍家は、綣村に渡邊山城守

訪城日:2014.3.16

当神社は、701年(大宝元年)疫病流行の時、小平井村信濃堂(しなど)(現在の栗東市小平井)に降臨された素盞鳴尊(スサノヲノミコト)と稲田姫命を霊仙寺村(栗東市霊仙寺)経由綣村(栗東市綣)の地先、追来神社境内に4月8日ご鎮座。
これにより疫病が鎮まったと伝えられる。

 同年5月1日社名を大宝天王宮と勅定、正一位とされた。鎮座の意は、「神社啓蒙」「和漢三才図絵」「牛頭天王暦編」等の書物に見ることができる。翌2年から疫病が再び流行することを恐れて、健康を広く多くの人々に授かってもらえるようにと、神様に感謝して4月初子の日を例大祭と定めた。同年3月12日今宮応天大神宮の神号勅定。858~867年(貞観)以降、密教天台宗融合の両部(リョウブ)神道となった。

 中世の大宝神社の祭礼、特に4月の例大祭・8月の相撲祭・雨乞い儀式は近郷50余郷の氏子圏に及び、綣村生人講を中心に盛大に斎行されていた。また、境内の建物・建造物も本殿を中心に境内社34社、建物は神宮寺の様相にて三重搭大日・護摩堂・薬師堂・神楽堂・鐘桜堂・経堂等が建ち並び荘厳なる境内が1713年(正徳3年)の資料から伺い知ることができる。

 1433年(永亨5年)6月18日、6代目将軍足利義教公は、天下安全可抽を祈願し神事領311石の地頭を寄進、その朱印は現存する。                 9代目将軍足利義尚公は、佐々木高頼公を近江に遠征させ、陣中上鈎村に当神社の遥拝所を建立させた。
  1545年(天文14年)に佐々木定頼公により社殿の修復がなされた。

 1571年(元亀2年)織田信長の山門破却の神領没収により地頭は、上地となった。

しかし、1573~1591年(天正)1606年(慶長7年)の検地は、古来の由緒により免除地となった。

  1629年(寛文6年)8月12日徳川将軍家は、綣村に渡邊山城守を領地させ境内社日吉神社の燈明田一段歩を寄進、その後も他の社殿修復を子孫に継いで怠らなかった。1713年(正徳3年)小槻禅珠が西坊法橋宮内郷を授かり、同4年別当神應院禅珍は、法橋の官位を授かり百々御所(京都・宝鏡寺)への館入を認められた。

 1716年(享保元年)7月宝鏡寺宮の親王の病気平癒祈願を当神社に依頼され、ご祈祷により全快され、そのお礼として四脚門両築地付をご寄進された。当初は、桧皮葺きである1788年(天明8年)9月御室御所(京都・仁和寺)より紋章付提燈(桜の二引)一対のご寄進があった。(現在も使用)
 1868年(慶応4年)3月王政復古により神仏分離令と共に佛眼寺(京都四条道場時宗金蓮寺末寺大宝山)との分離、神應院の院号破棄により、同年4月社名を大宝神社と改めた。

 

郭跡カ?

社殿北の唐堀

社殿南の水堀(庭園カ?)

四足楼門前に土塁

中山道より一の鳥居

中山道より水堀・石橋

滋賀県栗東市の地名 綣(へそ)と読む。

織機にかけるために縒りあわせた麻糸のことを「へそ」と言う事から由来する、という説が有力。
一方「万葉集」に見える額田王がこの土地を通ったときの歌「綜麻形の林の始めのさ野榛の衣に着くなす目に著くわが背」とあることから、古くからの地名と考えられる。

説明板

 

芭蕉句碑

綣村城(大宝神社二ノ鳥居前に)

西琳寺は正式には「妙香山西琳寺」といい、真宗大谷派の寺院です。始めは「妙光坊」という善刹であったそうですが、寛政5年(1464)に本願寺第四世である「善如上人」により中興されたそうです。


 同年(1464)11月に本願寺第八世「蓮如」から、裏面に「綣村惣場」と書かれた十字名号を与えられた。                                                       文明6年(1467)には伝来の阿弥陀如来の画像を修復し、「蓮如上人」の裏書きをもらって本尊とした。


 慶長7年(1602)に本願寺が東西に分立した時には、東本願寺第12代「教如上人」に従い、「教如上人」の江戸下向など巡行の往復には「西琳寺」を利用しそうです。宿泊は4度、休憩は5度におよび「綣村掛所(休憩所)」あるいは「御坊」と呼ばれた。


 敬弔18年(1613)に、寺号を「西琳寺」と改めたと伝わっているそうです。

参考資料;淡海の城、近江の城郭、現地説明板

本日も訪問、ありがとうございました。


井元城 近江国(愛東)

2014年03月17日 | 平山城

小堤山城(野洲)踏査図面の説明する・講師長谷川博美氏(春日神社駐車場で)

井元城へ

井元城(遠景)

 滋賀県中世城館跡分布調査の過程で発見されたものである。

愛知川北側の低い丘陵上にあり、西に鯰江城・上岸本城、東には青山城・小倉城(いずれも東近江市)が近接して存在している。

天正元年(1573)、織田信長は六角氏の拠る鯰江城を攻めるため「四方より取詰付城」を築いた。その一つがこの井元城。遺構を見ると、織豊系の陣城にみられる特色が確認できるため、現在のところこの説が通説となっている。

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)妹町 map:http://yahoo.jp/rmThIR

改築年:元亀4年(1573)

区 分:平城(陣城・河岸段丘上)

改築者:柴田勝家?

信長軍の鯰江城凋落包囲網・・・井元城・上岸本城・青山城・小倉城

鯰江城との距離などから「信長公記」に記された元亀4年(1573)4月に鯰江貞景の鯰江城に六角義賢(承禎)・義治父子が旧臣らと共に立て籠もった際、織田信長が佐久間信盛・蒲生氏郷・丹羽長秀・柴田勝家に命じ、四方より取詰め付城を構えさせているが、その付城の一つがこの井元城と考えられる。
  なお、鯰江城は天正元年(1573)9月に落城。

遺  構 : 切岸(断崖)、土塁、重ね馬出し、空堀、

訪城日:2014.3.15

管理人の過去の訪城記

探訪 【近江 井元城】 2013.3.19 

井元城 近江国(2014.1.26)

水をめぐる争い=井堰の開発。愛知川井関図。(愛東の歴史ダイジエストより)

愛知川沿いの村々(元禄期近江国絵図)。(愛東の歴史ダイジエストより)

井元城跡縄張図

  実際に城を歩いて見ると、まず主要遺構の規模の小ささが印象に残る。土塁は低く、堀は浅い。陣城として臨時的に構築されたため、おそらくは堀を掘ってでた土をたたきしめることなく積み上げたのだろう、土塁が崩れた部分も散見される。

主郭(Ⅰ)は方形だがとても小さく、城の大手枡形がある。周囲を土塁が巡るが、南側のものは非常に低い。東側に虎口があり、前面を方形の曲輪(Ⅱ)が囲む。西側にも虎口状の開口部があるが、これは後世の改変であろう。西側の堀は、直接城外に接するため、この城の中では最も広く、深いものとなっている。東側の虎口に面する主郭北東部の土塁は、櫓台状になっている。虎口を挟んで南側の土塁も、虎口に面する部分がやや幅広くなっているようだ。Ⅱは、主郭に付属する馬出となっており、両者をつなぐ土橋は非常に幅広のものとなっている。

Ⅱは北と南の2ヵ所に虎口がある。南の虎口は外側からⅡを囲む堀と崖の間を通り、主郭の堀に突き当たって北に折れる。北側は、Ⅱに対する馬出となる曲輪(Ⅲ)があるが、通路となる土橋はそのままⅡを囲む土塁に連続する。

Ⅲは東に虎口が設けられている。Ⅲの北西から浅い堀と低い土塁が続き、春日神社を囲むようにのびている。これは神社の結界とも思えるが、社殿を囲む大きな土塁が残っており、その規模とつりあわない(むしろ城の主要遺構の規模にあう)ことから、城の遺構と解釈。

春日神社 

素晴らしい彫刻の本殿は郷社のためか。佐々木の四つ目結(守護佐々木氏)・右2つ巴の紋

城域全体図(長谷川博美氏踏査図2009年)

愛知川北岸の河岸段丘上に位置する城郭です。文献資料にも記載が無く、城主や築城時期などは不明ですが、滋賀県の中世城郭分布調査で初めて発見され、地元の愛東町教育委員会(現東近江市教育委員会)による発掘調査で堀や土塁などが検出されています。
 城の構造は方形の区画を土塁と空堀で囲んだ簡単なものですが、注目すべきは虎口部分です。虎口(こぐち)の外側をコの字形に堀と土塁をめぐらせたいわゆる角馬出(かくうまだし)がありますが、さらにその外側にもう一つの角馬出が設けられた「重ね馬出」となっているのです。重ね馬出の類例は全国でも珍しく、虎口の形態としてはもっとも発達したものです。そうしたことから、単に一在地土豪の手によるものではなく、大きな権力が関わっている可能性が高いと考えられます。

主郭虎口から馬出しを望む

井元城の構造は、一辺30mの方形単郭で断崖側を除く三方を土塁で囲み、その外側に横堀を廻らせている。東側の虎口前には「コ」の字形に土塁と堀をめぐらせた角馬出が設けられ、さらに北側こもう1つ角馬出しが付けられ「重ね馬出し」と呼ばれる縄張りになっている。この虎口構造は、全国的にも極めて数少ない事例とされる。

 虎口の東外方に150m×30mの土塁と空堀に囲繞された区画が設けられ、兵士の駐屯スペースと考えられ、また、土塁と堀の土層断面から構築方法は単純で、急造されており臨時的な陣城の可能性が強いと考えられている。
複雑な虎口構造を備える割には、施設規模は品弱で、強固さの感じられないが。

歴   史

井元城と仮称されるこの城に関する文献も伝承も一切残っておらず、滋賀県の実施した中世城郭分布調査により発見された城跡である。
しかし、重ね馬出しを設けた縄張りや鯰江城との距離などから「信長公記」に記された元亀4年(1573)4月に鯰江貞景の鯰江城に六角義賢(承禎)・義治父子が旧臣らと共に立て籠もった際、織田信長が佐久間信盛・蒲生氏郷・丹羽長秀・柴田勝家に命じ、四方より取詰め付城を構えさせているが、その付城の一つがこの井元城と考えられている。
なお、鯰江城は天正元年(1573)9月に落城させられている。

ーーー信長公記 表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事

 守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。

 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。----

ーーーー小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事

・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。----

春日大社の神社土塁

本殿の東西に、佐々木氏の家紋(斜め四ツ目結)

城域最西(中戸集落域)

参考資料;淡海の城、愛東の歴史ダイジェスト版、近江の城郭、信長公記、長谷川博美氏の説明

本日も訪問、ありがとうございました。


鯰江城 近江国(東近江・愛東)

2014年03月17日 | 平山城

見学会参加者+blog管理人(撮影)=9名

鯰江町自治会館の説明板

専修院境内土塁

専修院境内 鯰江氏の墓石・五綸の塔

鯰江町自治会館内の地割図 『近江愛智郡志』巻貮(滋賀県愛智郡教育会 1929年刊 1982年復刊)所収 「鯰江城阯」

 『近江愛知郡志』の鯰江城阯の項 鯰江城阯は西小椋村大字中戸に在り、高臺に阯を在す、永禄十一年佐々木義賢其子が観音寺落城居後鯰江満介貞景等佐々木氏の奮臣と謀り堀を深くし堤を高くし大土工を起こして修築せし城阯にして天正元年まで近江の守護家佐々木六角氏の城砦なり、實にや今遺阯を見るに規模の大と設備の完なる郡内他に比類少き所とす。

 

昭和60年の鯰江城土塁。(愛東の歴史ダイジエストより)

鯰江城復元イラスト。(愛東の歴史ダイジエストより)鯰江郷の青山・曽根・井元・鯰江・園の5集落。(愛東の歴史ダイジエストより)

鯰江郷の青山・曽根・井元・鯰江・園の5集落。(愛東の歴史ダイジエストより)

現・鯰江バス停にの鯰江城石碑・説明板・志士「丹羽雅夫の顕著碑」

鯰江バス停の鯰江城石碑・説明板・志士「丹羽雅夫の顕著碑」

志士「丹羽雅雄(福田卯之助)の顕著碑」明治18年(1887)故郷の鯰江村に建立された。(愛東の歴史ダイジエストより)

丹羽正雄之碑
 愛知川右岸沿い、県道・外八日市線から鯰江集落へ入る坂道の東側に小さな緑地がある。「鯰江城趾」の説明板とともに、目をひくのが高さ三メートルちかい石碑である。もとは坂道西側に建っていたが、平成初年の緑地整備で現在地に移された。
 石碑上部に、「丹羽正雄之碑」の題字。明治新政府で太政大臣をつとめた三条実美の書である。三条家は平安時代からつづく公卿の名門で、実美は二十一代目。
 幕末の激動が、鯰江に生まれた一人の青年を、三条家の諸太夫(しょだいぶ=公卿の事務全般を司る職掌)丹羽家の嗣子に仕立て上げたのである。「丹羽正雄」の生い立ちから紹介する。

■青少年期の「正雄」
 天保五年(一八三四)、鯰江村・福田市右衛門に二男が生まれた。卯之助と名付けられる。のちの丹羽正雄である。
 卯之助は幼少期から向学の志がつよかった。金屋村(東近江市八日市金屋)瓢箪小路(ひょうたんこうじ=現・大凧通り)の医師・馬淵駿斎の門戸をたたき医学を学ぶ。また、儒学を蒲生郡芝原村(東近江市芝原町)速水橘園から学んだ。
 当時、浦賀沖に外国船が出没していた。嘉永六年(一八五三)には、ペリー艦隊が江戸湾入り口まで侵入した。世相は騒然。「開国か攘夷(外国を打ち払う)か」の議論が各地で沸騰した。卯之助十九歳、多感な青年の心にどんな思いが去来していたか。

■丹羽出雲守正雄
 安政五年(一八五八)四月、井伊直弼が大老職についた。安政の大獄がはじまる。尊王攘夷派の公卿三条家の家臣・丹羽正庸(にわ・まさつね)が、捕縛・追放された。三条・丹羽両家で、正庸が果たしてきた役割を継ぐことのできる人物が必要となった。
 安政六年(一八五九)、卯之助は丹羽家の養子に迎えられた。正庸と卯之助が尊王攘夷活動をつうじ面識があったためという。二年後、家督をえて卯之助は丹羽正雄を名乗る。同時に、出雲守に叙任。ここに、丹羽出雲守正雄が誕生した。二十七歳であった。
 主家・三条家では実万(さねつむ)のあとを継ぎ、実美(さねとみ)が登場。急進派公卿のリーダー格となる。
 実美は正雄より三歳年下である。実美にとっての正雄は、たんなる家臣というより、頼り甲斐のある相談相手でもあったにちがいない。正雄は実美の意を受け、尊王攘夷派の大名家や志士たちとの間に立ち活躍の場を広げる。

愛知川よりの物見櫓http://yahoo.jp/lUsrjv

大手門の土塁http://yahoo.jp/EBmDKL

大手口横にあり、虎口を形成していた西側土塁。

所在地:東近江市鯰江町http://yahoo.jp/nsrKCn                                                                     築 城 : 室町後期
初城主: 鯰江氏
区 分 :平山城
遺 構 :土塁,石垣
城 域 :400m×250m
訪城日:2014.3.15

戦 い :元亀の乱・・・終焉
 元亀4年(1573)
  ○織田信長VS六角義治

  鯰江城は、愛知川右岸の段丘崖上に築かれ、軍事的には八風街道・高野街道を押さえる要衝の地にある。
 元亀元年(1570)朝倉攻めを開始した織田信長が手筒山城、疋壇城を落とし、金ヶ崎城をも落とさんとした時、妹婿の浅井長政の離反によって、朽木越えで京へ逃げ帰った。
 その頃、信長によって観音寺城を追われた六角承禎は鯰江城を居城としており、美濃へ帰国し軍の立て直しを図らんとする信長に対し、六角承禎は八風街道を押さえるこの城を拠点に信長の美濃帰国を妨害した。
 八風街道を使えなかった信長は、御在所岳の麓を通る千種街道を通って帰国することになるが、この時杉谷善住坊に狙撃される。
城郭遺構としては、昭和初期まで空堀なども残っていたとされるが、現在では土塁が字内に数ヶ所残されているだけである。
 なお字内には “おとぐち” という地名が残っている。この “おとぐち” は大手口が訛ったものものであろう。

-----------信長公記 千種峠にて鉄炮打ち申すの事
日野蒲生右兵衛門大輔、布施籐九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千種越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善寺坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ、千種・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。
-----------ここまで

千種街道を往く20120428 http://blogs.yahoo.co.jp/t036kkkk/4876241.html

 

信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、

 

  元亀元年(1570)越前の朝倉攻めを敢行した織田信長は、4月25日敦賀の手筒山城を落とし、翌26日には金ケ崎城、,疋田城をも落とし、まさに木ノ芽峠を越えて越前に攻め入らんとした時、近江江北・小谷城を本城とする娘婿の浅井長政の離反にあい、若狭から朽木街道を経て京に逃げ戻る。この時信長に従う者は僅か10名ほどだったと云われている。

 

 

イメージ 2

 

 信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、

 

 
遠藤周作氏の『男の一生』では、千草越えで織田信長を狙撃した甲賀の杉谷善住坊を、金ケ崎の戦いの際に遠藤喜右衛門が雇った傭兵であったとする。
『杉谷善住坊のかくれ岩』の標示があったので谷に下りてみると説明板があった。

 

 ・信長の千種越え http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/0a5be4a9b86ed952a3e2e6acd73a4dda 

千草街道を往く・・・ 2011.4.29 http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/1f5cfc7b80a5ab85e276967523e6b9bf

 

歴史
 鯰江氏が、いつごろこの他に定住し、居を構えたのかは不明であるが、鯰江の地名は荘園名として文永5年(1268)よりその名が見え、興福寺領の被官となってこの地を治めていたとされる。

 永禄11年(1568)、観音寺城を信長によって落とされた六角承禎・義粥父子は、鯰江満介、貞景,三雲新左衛門等、六角旧臣と謀り、堀を深くし、土塁を高くするなど修築を加えた。
 この時、空堀に愛知川の水を引くため “備前堀” と称する堀を掘ったとされるが完成までには至らず、天正元年(1573)9月、信長方の佐久間盛政,蒲生賢秀,丹羽長秀、および柴田勝家らに攻められ落城した。

発掘調査から

【鯰江城遺跡から石積み遺構と門跡が見つかる】
 室町時代の鯰江城遺跡を発掘調査していた愛東町教育委員会は土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。

 調査は約180m2を対象に行われた。土塁の仕切り幅は約1.8mあり、両基底部に石積みが施されている。残りのよい片方は3段(高さ0.75m ・ 幅6m)積み上げている。石材は砂岩系の自然石で横方向に長く置いている。
 石積みに接して礎石と思われる平らな石と釘が見つかっており、土塁の仕切りは門跡と考えられ、本丸郭の通用門の可能性がある。また、石積みの北西部分で長さ1.5m、幅0.25m、深さ0.2mの排水遺構も検出されている。
 さらに内部からは焼土が検出されている。遺物としては土師器、瀬戸美濃陶器が少量出土している。

 安土城(1567~1582)以前の城は土塁を築き、石積みは観音寺城小谷城など限られた城郭でしか確認されていなかったが、鯰江城でも観音寺城などと同じ様に石積みが採用されていることが判明した。そこに、六角氏の意向が強く反映していたことが伺える城郭といえる。

本丸土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。

 

鯰江城本丸跡(公民観南側の民家裏手にあり、高さ1~2m)

 

豊臣秀次の側室「鯰江おこほ」。(愛東の歴史ダイジエストより)

鯰江駿河守の子「権内」は井伊直政に仕え200石を知行。忠太夫は井元村の春日大社祭礼溝の最高位を務めている。「小倉忠太夫」屋敷絵図。中戸村集落の西部遺構は無く畑地。(愛東の歴史ダイジエストより)

鯰江氏の末裔「小倉忠大太夫」

シリーズ「淡海の城」-鯰江城(なまずえじょう)(滋賀県東近江市愛東町鯰江)より

 

参考資料;淡海の城、愛東の歴史ダイジェスト版、近江の城郭、現地説明板、東近江市文化財専門委員の説明

 

本日も訪問、ありがとうございました。


三成の戦2〜今、なぜ三成なのか?

2014年03月16日 | 歴史講座・フォーラム

3月15日(土)開催


【講演ほか】三成の戦2〜今、なぜ三成なのか?

主催:びわ湖・近江路観光圏協議会
TEL:0749-27-5501(夢京橋あかり館)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◆日時:平成26年3月15日(土)10:00〜15:30
◆場所:清涼寺(彦根市古沢町100)
◆日程(一般参加は10:00から)
10:00〜 三成餅ふるまい
10:40〜 三成会議 彦根市・米原市・長浜市共同宣言式
10:50〜 近江猿楽多賀座三宅風太鼓による出陣太鼓
11:10〜 鼎談「石田三成に恋をしよう。」 
     鍋島壽夫さん、田附清子さん、クリス・グレンさん
12:00〜 昼食・佐和山城跡武将隊の演武
    「特製・三成牛飯」(千成亭)1000円もあります
13:30〜「石田三成—出頭人の素顔と自負」桐野作人さん
14:30〜鼎談「石田三成と歩いていこう。」  
    桐野作人さん、鍋島壽夫さん、クリス・グレンさん
15:30 終了予定
※清凉寺の特別拝観あり

三成ゆかりの3市スクラム 長浜・米原・彦根、全国に魅力発信

 

三成の魅力を全国に発信しようとスクラムを組んだ(左から)長浜市の藤井市長、彦根市の大久保市長、米原市の平尾市長=彦根市・清凉寺
三成の魅力を全国に発信しようとスクラムを組んだ(左から)長浜市の藤井市長、彦根市の大久保市長、米原市の平尾市長=彦根市・清凉寺

 戦国武将石田三成の魅力を全国に発信しようと、ゆかりのある長浜、米原、彦根の3市がスクラムを組んで「三成会議」を15日、立ち上げた。彦根市古沢町の清凉寺で第1回の会議を開き、3市長が「石田三成に逢(あ)えるまちづくり宣言」に署名した。関ケ原合戦で「敗軍の将」となり、ゆがめられた三成の歴史的評価の誤解を解くとともに、全国のゆかりの地に三成会議への参加を呼び掛ける。

 初回の会議には、3市と各市の経済や観光などの計26団体の代表が参加した。各代表の紹介と6団体の取り組みが紹介されたあと、藤井勇治長浜市長、平尾道雄米原市長、大久保貴彦根市長が宣言に署名した。大久保市長はあいさつで、「全国に三成を理解してもらい、観光にもつなげたい」と話した。

 宣言は、「豊臣秀吉を支えた三成公の卓越した行政手腕を評価し、歴史によってゆがめられた姿を正しく評価し直し、三成公の魅力を全国に発信する」としている。会議は年に1、2回開き、事務局は長浜市に置く。

 会場では、観光イベント「三成の戦2」も催され、歴史作家桐野作人さんの講演などがあった。


 http://search.jword.jp/cns.dll?type=lk&fm=109&agent=9&partner=BIGLOBE&name=%B5%FE%C5%D4%BF%B7%CA%B9&lang=euc&prop=495&bypass=3&dispconfig

本日も訪問、ありがとうございました


和南城 近江国(東近江・永源寺)

2014年03月16日 | 平山城

多度神社(手前左)

後ろの山が城跡です。・・・物見櫓のような【火ノ見櫓】、一階消防ポンプ庫or車庫(近世)・・・

和南地区、脇山(和南山)の山麓にある多度神社の背後から西尾根を登る

・所在地:東近江市永源寺和南
・目 標:多度神社

・築 城 :南北朝時代                                                                                       

・築城者:小倉氏・和南氏

・初城主:和南大炊助実経

・区 分:山城

・遺  構:土塁、縦堀、横堀、土橋

・標 高:234m  比差 約100m                                                                           

・訪城日:2014.3.15

  室町中期に小倉家は3~4家に分家し小倉氏本家は蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良城を築いて本城とし、周辺に四谷城、鳥居平城、長寸城等を築いて家臣を入れて守らせた。

 分家した小倉東家は愛知川小椋庄を支配して高野城ならびに小倉城を居城とし、
小倉西家は神埼郡御園庄(山上郡)を支配し、山上城を本拠として和南城、山田城、相谷城、九居瀬城、八尾山城等の支城を設けた。

 小倉氏は承暦年代に小倉城を築いた以後、約500年間にわたって愛知・神崎・蒲生三郡の東部を領し、六角氏、蒲生両氏の隣強と東近江の雄を競ったが、永禄年間(1558~1569)に至って、小倉一族の間に内乱が起こり、第17代城主・小倉良秀が敗れて城は焼亡し、同族は各地に散逸した。

滋賀県中世城郭分布調査より

 和南城は、代々土豪和南氏が常住した城で、創建年代は南北朝時代とされている。

 永禄元年(1558)、京都・堺を離れて帰途についた織田信長を、小倉右京亮実治が相谷からの八風越の道案内をしたが、佐々木六角承禎はこれを怒り、小 倉右京亮実治を攻撃した。これが今に残る和南山の合戦である。 (中世城郭辞典より)

山に入るとすぐ左手に、まるで居館跡のような土塁を伴う削平地があります

最初の竪堀

和南地区、脇山(和南山)の山麓にある多度神社の背後から西尾根を登ると、狭い尾根上に平行して竪堀状の窪地が続く。

通常の竪堀は尾根と直交する形で配置される、この城の縄張りは、自然の斜面地形を利用して尾根上を平削、Ⅰノ郭~Ⅳノ郭を設け、横堀と千種街道側に土塁を強化し、防衛する。

 5分足らずで横堀と比高差4mほどの切岸を介して主曲輪に至る。主曲輪の削平状態は良いとは云えないが、西から南にかけて内法に石積みをした土塁が廻らされている。

 主曲輪の背後に2つの大きな曲輪を連ねるが、いずれもほとんど削平されていない。

 最高部の曲輪の背後は、尾根幅が狭くなる地形を利用して、土塁と横堀を尾根に直交する形で配置し土橋を渡している。土橋の位置は尾根の南端に寄せられ、横矢を意識している。

この土橋から更に100mほども登ると、2つ目の横堀と土橋が確認できる。

最初の曲輪虎口

2つ目の土橋から20分ほども険しい斜面を登ると脇山(和南山)の山頂に至るが、この間に城郭遺構はない。


 山頂も含め尾根幅は5~15mほどと狭く、守りに徹する城を築くなら高所の方が好ましい地形をしているが、和南城があえて比高が低く、尾根幅が最も広い地点に築かれているのは、街道監視と比較的多くの軍勢を収容出来る。

歴 史

 和南城は、代々豪族和南氏が常住した城で、創建年代は南北朝時代とされている。

 
 室町中期に小倉家は3~4家に分家し小倉氏本家は蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良城を築いて本城とし、周辺に四谷城、鳥居平城、長寸城等を築いて家臣を入れて守らせた。

 分家した小倉東家は愛知川小椋庄を支配して高野城ならびに小倉城を居城とし、小倉西家は神埼郡御園庄(山上郡)を支配し、山上城を本拠として和南城、山田城、相谷城、九居瀬城,八尾山城等の支城を設けた。

 小倉氏は承暦年代に小倉城を築いた以後、約500年間にわたって愛知・神崎・蒲生三郡の東部を領し、六角氏、蒲生両氏の隣強と東近江の雄を競ったが、永禄年間(1558~1569)に至って、小倉一族の間に内乱が起こり、第17代城主・小倉良秀が敗れて城は焼亡し、同族は各地に散逸した。
 (中世城郭辞典より)

 永禄元年(1558)千種を越えて尾張へ帰国する信長の道案内をしたのは小倉右京亮実治・蒲生右兵衛門大輔・布施籐九郎・香津畑の菅六左衛門。

 -----------信長公記 千種峠にて鉄炮打ち申すの事
日野蒲生右兵衛門大輔、布施籐九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千種越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善寺坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ、千種・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。
-----------

 
その後磯野丹波守は信長より近江高島郡を与えられる。
丹波守は高島に隠れていた、かつて信長を狙撃した杉谷善住坊を捕らえ、
天正元年(1573年)9月に岐阜へ引き出した。   

 

スポット情報 ・信長の千種越え

 

 

千種街道(比差650m)

信長が馬を繋いだと云われる松

元亀元年(1570)越前の朝倉攻めを敢行した織田信長は、4月25日敦賀の手筒山城を落とし、翌26日には金ケ崎城,疋田城をも落とし、まさに木ノ芽峠を越えて越前に攻め入らんとした時、近江江北・小谷城を本城とする娘婿の浅井長政の離反にあい、若狭から朽木街道を経て京に逃げ戻る。この時信長に従う者は僅か10名ほどだったと云われている。

 信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、信長は蒲生氏配課の「桜谷の佐久良城城主・小倉右京亮実治の道案内」で千種越えで美濃の岐阜城に帰陣する。千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、その時に信長が甲津畑で馬を繋いだと云われる松が甲津畑の速水氏宅にある。


「対岸の信長を狙撃」事件の「善住坊のかくれ岩」

 峠越道概略図

 

 和南城~続き

 沢筋を登り尾根が見え出したら道が右手方向に曲がり進みます。

 すぐに尾根に出ますので、ここを右方向尾根先端に向かいます。すぐに尾根を遮断する堀切に至ります。この堀切は思いのほか深く明瞭です。    さらにこの堀切は一方の尾根端が土橋状につながっています。

 それにしてもはっきりとした土橋です。土橋を渡ると堀切に平行して土塁を伴う郭に入るのですが、郭内は削平されたという感じでない傾斜がついていて、郭としての機能としては疑問も。

 この先、不明瞭ですが浅い堀切とはっきりとした高い土塁を越えると主郭です。長方形の郭で、尾根を削り込んで作られた削平地のようです。三方を明瞭に土塁が巡りますが、南側の土塁の内側には石垣を伴います。主郭の尾根先端側の外側にはまた堀切の痕跡があります。さらに尾根先端までは細長い削平地という感じになっています。遺構は、豪族の和南氏の居館というより戦国中期の小倉氏関連の城の遺構カ。

土塁内法の石積み

土塁内法の石積み

土塁内法の石積み

主郭虎口(土塁開放部)、主郭を出る(威圧する石)

竪堀

尾根側の堀切尾根側の堀切尾根側の堀切尾根側の堀切尾根側の堀切横堀と土橋城域最高所(樹の枝に布が巻かれている)城域最高所(樹の枝に布が巻かれている)その上に平削地、庭園のように石が配置(散乱)している。火ノ見櫓(近世)多度神社の太鼓橋!多度神社の力石

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・講師:長谷川氏の現地説明・ 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました。感謝!


大森城(上大森城)     近江国(八日市)

2014年03月16日 | 平山城

案内隊員(人形)」の設置 

 東近江市玉緒地区まちづくり委員会は、町おこし事業として、布引山麓にある大森城址 (東近江市大森町)に城内の案内版&人形を設置することになりました。

それに伴い「お披露目式」と「案内板&人形」設置を行います。 皆様のご協力と参加をお待ちしています。    
      
   日時】 平成26年3月15日(土) 午前9:00〜    
 【集合場所】玉緒コミュニティセンター    
        (東近江市大森町1030番地)    
        *無料駐車場有り。    
 【対象者】 子どもから大人までどなたでも参加歓迎します。    
 【持ち物】 飲み物、手袋・靴など    
       山歩きしやすい服装でお越しください。  
  
    当日の予定表    
 9:00〜 「大森城址の案内版&人形」のお披露目式 :玉緒コミュニティーセンター      
 10:00〜12:00 「大森城址の案内版&人形」を8箇所設置 :大森城址       
 � 大森城址登り口から参加者に「案内版&人形」を運んでいただく。(約30分)    
 � 大森城址内で分担して「案内版&人形」を設置する。    
 12:00  大森城址で昼食(参加者におにぎりを配布します。)    
 13:00  大森城址下山後、里山広場で解散

 【申し込み先】 締切日:314日まで
玉緒コミュニティーセンター  Tel:0748−22−6479
E-mail: tamaomachi@gmail.com

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■  委員会 米澤代表様 大意コメント

当日設置位地指導に城郭研究家の長谷川博美先生が城址を無償で解説されます。                                                 大森城は、低い里山に築かれ20分で城址に到着可能です。私は長谷川先生の浅井町伊部の雲雀山城址見学会や、丸山先生の虎御前山古墳見学などの学習会に参加し地域の里山の自然景観を残しながらも郷土の城址を大切に保全していく姿勢を学ばさせて頂きました。

今回、大森城址の間伐材を使用して子供達が城址や歴史に馴染める、可愛らしい案内板&人形を設置するイベントを約20名弱で、細々と開催するになりました虎姫もまた三月から活動を再会されると聞いています、地域限定に固執せず、様々な町興し団体様や素朴な郷土史おこしの皆様が相互に仲良く交流親睦し、明るく健全で朗らかな精神で子供たちの未来を見守って行きたいと思ってております。どうぞ自然と歴史を素朴に愛好する県内有志の御協力をお願致します。

軽トラックに準備された「大森城案内隊員」

大森城址の案内版&人形」のお披露目式&記念撮影

人形設置場所図

お城のデータ

所在地:東近江市(旧八日市市)上大森町 map:http://yahoo.jp/y3BPvy

別 称:上大森城

現 状:山林

区 分:山城

築城期:室町期

築城者:布施淡路守

遺 構:土塁・堀切・堅堀・枡形虎口・物見櫓・井戸

標高:206m 比高差:35m

目標地:大森神社

駐車場:大森城の登り口に駐車

訪城日:2014.3.16

お城の概要

 大森城へ登り口は大森神社の駐車場横の林道を数百m走ると、右手に山道があり、山道横に大森城址(本丸跡まで200m)の石碑が建っている。

 山道を10分ほども登ると尾根に出るが、道は自然と堀切へ導かれる。いわゆる堀底道である。
この堀切から西へ数10mほどのところにも堀切があり、西の防御ラインとなっている。

 尾根道を東へと歩くと幾つもの曲輪が確認できる。段高い主曲輪(本丸)へは土橋を経て登るルートと尾根筋から廻るルートがある。
 主曲輪は北方に開いた形で周囲に土塁を巡らし、東と西の3ヶ所に虎口を設けている。北側虎口は切り出しの土橋を介し、3折れで主曲輪に至る構造となっている。また虎口を見下ろす位置には櫓台が配置さられており、実に巧みな縄張りである。
 大森城の虎口がいつの時代に改修されたのか、
また、大森城の南斜面には8条の竪堀が配されている
城域一帯は雑木の間から北に大森町と八風街道、南に蒲生町を眺望することができる。 

 

お城の歴史

日本城郭大系によると、布施淡路守の子藤九郎公保が在城したと伝えられ、

「大洞弁天当国古城主名札」に上大森城主布施淡路守の子藤九郎公保としてその名がみえる。

南櫓台に設置中!

食い違い虎口に「案内隊員」設置中

本丸に設置中

本丸で「EXCELのノルディックポール」と参加記念に

完成した「食い違い虎口」の案内隊員

郭Ⅴの井戸

長谷川講師のレクチャーが始まりました!

郭Ⅲの土塁下の平削地

長谷川講師のレクチャー

長谷川講師のレクチャー

横堀と土塁

横堀(下から)と土塁

北物見台・・・鯰江城や井井元城~遠くに百済寺城が!

横堀

旧の登城口と説明板

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板

本日も訪問、ありがとうございました!!

 


城屋敷 近江国(甲賀・水口)

2014年03月14日 | 居館

伴 定之氏の屋敷。通称「ぽんぽん屋敷」といい下山では、一番古い屋敷。

・・・工場の裏山の【積水化学工場用地】

所在地:甲賀市水口町下山字市場 Map:http://yahoo.jp/CDbxIJ
    旧:甲賀郡水口町下山字市場

・別 名:通称「ぽんぽん屋敷」といい下山では、一番古い屋敷。

・目標地:九品寺・下山公民館(駐車可)

・区 分:丘城  

・比 高:30m

・現 状:積水化学工場用地に

・遺 構:不明 

・築城期:室町期

・築城者:伴 定之

・城 主:伴 定之

・訪城日:2014.3.14

現 状

見学不可。積水化学工場用地に付、遺 構:不明 

 

歴 史

城屋敷  大字下山字市場、 伴 定之氏の屋敷。通称「ぽんぽん屋敷」といい下山では、一番古い屋敷。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました


三大寺竹中城 近江国(甲賀・水口)

2014年03月14日 | 平山城

三大寺公民館前に、駐車の十数台可

三大寺竹中城は、飯道山をピークとする山塊の東麓に所在する三大寺集落の南方、途中開墾等により分断されてはいるが、山塊から続く舌状尾根の先端に築かれている。周辺は街道や集落が迫っており、改変が著しい。

頂部の平坦地は現在畑地として利用されているが、東西約25m×南北約13m、土塁はなく絶壁のような切岸で遮断されている。

東西には堀切abが確認できるが、特にaは切岸が新しく、明らかに後世の開墾または改良である。また南東は神社境内となり破壊されている。

三大寺の中世城郭

竹石城祉

竹中城祉

鵜飼屋敷祉

小山城址

奥谷城址

倉穂根城址

若林城址

福本屋敷址

奥出屋敷祉

三大寺の城址は、古地図、史料並びに伝承等により上記にあげました。詳細は、ふる里三大寺に掲載されています。

甲賀市には、滋賀県の城址の3分の1が集中しているとされています。今回その中で飯道寺城についての史料を紹介したいと思います。

 年代順に先山中文書(山中道俊・同頼俊軍忠状案)に「飯道寺城」が出てきます。又,柏木源蔵人が拠っていたとも。建武四年(1337)四月二十五日、また「大乗院寺社雑事記」延徳四年五月十一日(1492)には「赤松・武田・武衛三頭、六角甲賀郡之番頭寺篭居山伏寺也」に関岡文書 永正七年(1510)般童寺(飯道寺)の衆徒に至るまで云々(ウンヌン)。以上の史料等により寺自体が、武装化を図っていたものと考えられる。

織田信長の朱印状が国立公文書館にあります。

知行を安堵する書状ですが、寺役を勤める条件が添えられています。信長・秀吉は、宗教武装勢力を弾圧しました。それは、比叡山・高野山などです。しかしまた復興に関与したのも元飯道寺僧知行を安堵する書状ですが、寺役を勤める条件。

三大寺竹中城(遠景)~山裾を30m入城口

住所 :甲賀市水口町三大寺字初明 map:http://yahoo.jp/PwBiuT

現在の状態 :山林・畑地

遺構 :曲輪・堀切

形式 :平山城

築城期:室町期

訪城日:2014.3.14 

入城口

奥に土塁が見えるが・・・進めず

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました


彦根城跡発掘調査現地説明

2014年03月13日 | 平山城

1.日時 @ 平成26年3月2日(日)13:00~(3時間30分程度) 【雨天決行】

受付開始12:30~

 

2.集合 場所  玄宮園東側入場門前

※集合場所へは交通渋滞の可能性があるため、なるべく公共交通機関をご利用の上、徒歩でお越しください。お車でお越しの際は、玄宮園東側入場門横に駐車場などがありますが、有料で必ずしも空きがあるとは限りません。

 

3.申込み  不要

 

4.参加費  無料 ※見学の際の入場料も必要ありません。

 

5.説明 場所  ①玄宮園池(ち)泉(せん)護岸(ごがん)の発掘調査箇所(13:15~)

        ②西の丸水手(みずのて)虎口(こぐち)石垣の発掘調査箇所(14:20~)

        ③太鼓(たいこ)丸(まる)東側石垣の修理完了箇所(14:50~)

        ④彦根藩(ひこねはん)藩校(はんこう)弘道館(こうどうかん)跡(彦根市立西中学校グラウンド)の発掘調査箇所(15:40~)

        ※説明が終わり次第、現地で自由解散とさせていただきます。

7.説明内容

①玄宮園池(ち)泉(せん)護岸(ごがん)保存整備事業に伴う発掘調査と保存整備工事

 

名勝玄宮楽々園は江戸時代前期に彦根城二の丸に造営された御殿とその庭園です。彦根市教育委員会では、傷みの著しい玄宮園池泉護岸の保存整備事業を実施しています。今年度は池泉南東の護岸を発掘調査しており、江戸時代の絵図である「玄宮園図」等に描かれているとおりに船着きの遺構が検出できました。他に、日本庭園の造園技法の一つである洲(す)浜(はま)の痕跡が絵図どおりの位置に確認でき、これまで埋もれていた景(けい)石(せき)も確認できております。

 

また、今年度は平成23年に発掘調査をした池泉西岸の保存整備工事も実施しており、普段は見られない石組み下の胴(どう)木(ぎ)や築山(つきやま)の築(ちく)盛(せい)方法等をご覧になっていただき、石組みの修理方法についてもご説明いたします。

 

②③特別史跡彦根城跡石垣保存修理事業に伴う発掘調査と保存修理工事

 

特別史跡彦根城は、慶長9年(1604)に築城が開始され、およそ20年かけて完成した近世城郭です。江戸時代を通して井伊家が居城とし、石垣修理も幕府に許可をもらいながら、随時行われていました。よって、250年間におよぶ石垣構築技術の変遷をたどれる城跡なのです。戦後は彦根市によって維持管理されており、彦根市教育委員会では平成12年度より本格的に文化財石垣としての修理を行っています。今回は、江戸時代の石垣構築技術の変遷と現代の文化財石垣修理の内容(平成25年度に修理した太鼓丸東側石垣と平成26年度に修理予定の西の丸水手(みずのて)虎口(こぐち)石垣)について市民のみなさまに知っていただこうと思います。

 

④特別史跡彦根城跡内 彦根藩(ひこねはん)藩校(はんこう)弘道館(こうどうかん)跡の遺構確認発掘調査

 

彦根藩藩校弘道館跡は、特別史跡彦根城跡内のいわゆる第二郭(内堀より外側、中堀より内側)に位置し、現在は彦根市立西中学校のグラウンドとして使用されています。

 

彦根藩藩校弘道館については、彦根藩11代藩主井伊直中(なおなか)が、寛政11年(1799年)に藩校「稽古館(けいこかん)」として設立しました。天保元年(1830年)に12代井伊直(なお)亮(あき)によって洋学の導入などの藩校の改革が行われると、名称も「弘道館(こうどうかん)」と改められました。明治維新以後、藩校としての役割を終えて、たくさんあった建物群は姿を消し、現状のグラウンドへと姿を変えました。

 

藩校当時の建物としては、主に講堂(こうどう)と考えられる建物が、大正12年(1923年)にかつての城下町にあたる彦根市中央町へ移築され、「金(こん)亀(き)会館(かいかん)」として現存しており、平成19年(2007年)1月25日に彦根市指定文化財となっています。

 

彦根市教育委員会では、平成24・25年度の二ヶ年にわたって彦根藩藩校弘道館跡の具体的な保存整備のための基本計画を立案するための基礎情報を得ることを目的とした発掘調査を実施しております。その結果、現存する建物である講堂の元の位置が確定するなどの成果を得ていることもあり、これまでの調査成果を実際の発掘調査現場で説明させていただこうと思います。

 

8.問い合わせ先 彦根市教育委員会文化財課(担当 下高(しもたか)、三尾(みお))

TEL 0749-26-5833 (平日と当日8:30~12:00) FAX 0749-26-5899  e-mail bunkazai@mx.hikone.ed.jp

チラシはこちら


東迎山城(迎山城 東丸) 近江国(甲賀・水口)

2014年03月13日 | 平山城

東迎山城 ・ 西迎山城    甲賀郡水口町下山
   両城とも伴氏の城と伝える。どちらの城も四方土塁型で周囲に空堀や水堀がある。
  西迎山の方は丘陵が斜面であり、南背後土塁のは切り込み式で高い。

 

所在地:甲賀市水口町下山小字迎山 Map:http://yahoo.jp/PBTnwh
    旧:甲賀郡水口町下山

・別 名:迎山城東丸

・目標地:迎山集会所、水口(テクノパーク)さつきが丘工業団地

・区 分:丘城  

・比 高:30m 

・現 況:竹林・雑木林

・遺 構:堀・土塁

・築城期:室町期

・城 主:伴伝佐衛門 伴又左衛門

・主郭までの時間:路上駐車より5分

・訪城日:2014.2.20、2014.3.9

http://yahoo.jp/Rvsv2V山上虎口          

迎山城  大字下山字迎山 津田氏作業場東30mの所の南山道路より約100mの高所にあり土盛り高平均3m内面積600㎡東の丸は傍田氏宅の東にあり城跡または物見台。城主は、伴伝佐衛門 伴又左衛門

東側虎口への城道 北側土塁から 虎口外側には堀も確認できますが茂みになっていた。横堀の東の平削地は「しいたけ栽培場」になっていますが単郭を取り巻く土塁は残ります。東側横堀・・・虎口に進めず引き換えし!

「甲賀の城」によりますと、横堀は内側深さ5m・城外側は2m。東側の虎口には水堀の一部が残る。南北の4~5mの土塁を確認できる。が主郭内は竹林で確認は出来ないが、竹の隙間から土塁を望める。

主郭は東西60m×南北50m、南側は切岸があったが工場用地に改変されている、西側は道路で切岸の様である

  主郭内は竹林が単郭を取り巻く土塁は残ります。主郭内は竹林が単郭を取り巻く土塁は残ります。

主郭内は竹林が単郭を取り巻く土塁は残ります。平側土塁を西方面北側の土塁より城址に入りました。北側土塁から

東迎山城(遠景)・・・西から

歴史

この城は伴谷地域をその勢力化においた土豪伴氏の城跡です。

伴氏は延慶年間(1308~1310年)に櫟野(いちいの)<=旧甲賀町>から移り住んだと伝えられ、近隣である柏木の山中氏、水口の美濃部氏と拮抗したり協力したりして領地を支配しました。

伴氏は俗に言う甲賀武士であり、戦国末期の甲賀群中惣の一員。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました


水口岡山城8~9メートル石垣 甲賀市教委調査

2014年03月12日 | 平山城

◆関ヶ原後に徹底破壊

水口岡山城の石垣跡。斜面の上部まで石が積み上げられていたが、「破城」により、崩され、大きな石が下まで落ちてきていた(甲賀市水口町で)

 豊臣秀吉が家臣に築かせた甲賀市水口町の山城の遺構「水口岡山城跡」で、高さ推定8~9メートルの石垣が見つかり、市教委が5日、発表した。秀吉が築いた大坂城の石垣に匹敵する高さで、徳川家康率いる東軍に敗れた関ヶ原の戦い(1600年)の直後に破壊されていた。

 石垣は、「天守」が築かれていた古城山(こじょうざん)(283メートル)頂上付近に広がる平地(東西130メートル、南北15メートル)すその斜面で、幅5メートルにわたって確認された。石垣に使われた花こう岩(長辺0・8メートル~1メートル)と、崩落防止のため石垣の内側に詰め込んだ石(直径10センチ~30センチ)が崩れ落ちていた。

 関ヶ原の戦い直後に、石田三成率いる西軍を破った東軍が同城を攻めた記録があり、直後に廃城となっていることから、市教委は城を取り壊す「破城」が行われたと判断した。

 崩落した花こう岩の量や他の斜面の石垣の残存状況などから、現場の石垣の高さを8~9メートルと算定した。大坂城の約10メートルに匹敵し、頂上付近全体を石垣で防御する豊臣政権特有の堅固な構造だったとしている。

 水口岡山城は、秀吉の重臣の中村一氏(かずうじ)が1585年から築城を開始。秀吉を支えた五奉行の増田長盛(ましたながもり)や長束正家(なつかまさいえ)が城主となり、関東進出を目指す豊臣政権の拠点としていた。

 昨年の発掘調査でも石垣が壊された跡が見つかっており、市教委は「豊臣の世の終わりを告げ、徳川の世を知らしめるために徹底的な破壊が行われた」としている。2016年度の国史跡指定を目指し、城跡の実態解明に向けた発掘調査を続ける。

 現地説明会は9日午後1時30分。近江鉄道水口駅から徒歩20分。市立水口小グラウンドに臨時駐車場を設ける。問い合わせは甲賀市教委歴史文化財課(0748・86・8026)。

2014年3月6日  読売新聞)
 

水口岡山城 -近世甲賀の起点-

「城山高く有らずとも 今の稚木の生い立たば やがて雲をも凌ぐべき 茂山なる日こそこめ」。巖谷小波(水口ゆかりの児童文学者)の作詞になる水口小学校の校歌ににも歌われる「城山」は、水口市街を見下ろすお椀を伏せたような「古城山」のことです。歌詞の通り標高289メートルと低い山ではありますが、独立丘であることから山頂からは眼下の水口はもとより、鈴鹿峠方面、日野、八幡方面まで一望することができます。

この山は古くは「大岡山」あるいは「岡山」といい、山上には「岡観音」と呼ばれた大岡寺があったと伝えられますが、天正13(1585)年に、羽柴(豊臣)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城を築かせます。当時は「水口城」と呼ばれていました。近江東南部の支配とともに、鈴鹿峠をひかえ、東海地方への押さえが意図されたのでしょう。城主には一氏に続き増田長盛、そして長束正家と豊臣政権の「五奉行」があてられており、その重要性がうかがわれます。

 
本丸北側に残る石垣
本丸北側に残る石垣

この城は大きく、(1)甲賀郡で最初の大規模な織豊系城郭である。(2)中世以来甲賀郡各地に割拠した土豪・地侍集団である「甲賀衆」の在地支配が払拭された。(3)水口が城下町として整備され近世甲賀郡の中心となった。などの歴史的意味がありますが、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で、三代城主であった長束正家が西軍に与したため破却されてしまいます。

近年の城郭調査により、山頂部には堀切などで区画された大規模な曲輪を複数配置し、とくに本丸には高石垣が築かれていたこと、山腹にも曲輪や帯曲輪、桝形を配し、竪堀なども見られることが分かってきました。また寛永期の絵図(幕府京都大工頭中井家文書)には、山上の「本丸」に「天守」とあるほか、南麓から西麓、さらに北側へと堀がめぐらせて城の内外を区画したこと、城下との出入り口として3カ所の枡形があったことが判明しています。城域の大半は未発掘ですが、本丸一帯からは大量の瓦が出土しており、瓦葺きの建物が並んでいたようです。

このように水口岡山城跡は、豊臣政権による近江南部支配の拠点であるとともに、規模が大きく遺構もよく遺っていることから今後の調査が期待される遺跡です。(甲賀市教育委員会)

水口岡山城跡 -秀吉政権要の城-(PDF:1625KB) - 滋賀県

水口岡山城跡通信(平成25年度)

今後は「水口岡山城跡通信」と題して、水口岡山城跡の発掘調査の状況を随時ご紹介しますので、ぜひご覧ください。

 発掘調査現地説明会資料
調査名発表日時
水口岡山城跡 第2次 発掘調査 (PDF 975KB) 平成26年3月9日 
水口岡山城跡 第1次 発掘調査(PDF 2.7MB) 平成25年3月3日