城郭探訪

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里北脇城 近江国(甲賀水口)

2014年03月12日 | 平山城

 

・所在地:甲賀市水口町北脇小字藤木

遺 構 :土塁・空堀

現在の状態 :竹薮・集落・田畑

区 分 :平城

城主:水口岡山城主長束氏の旧臣、北脇の山本浅衛門カ? 

北側の土塁と堀と見られる遺構が一部残っている。

里北脇城は、柏木神社の西方約200m地点、北脇集落の北東隅に残る。

田園と宅地の境目にポツンと目につく竹薮がそれであるが、土塁と空堀が削り残されたように現存している。
里北脇城は、城館遺構とは性格の違う環濠集落の遺構と考えられ、空堀跡は本来湧水地であったという。

柏木神社遺跡が居館であったとすると、それに関連する集落遺構という可能性がある。

余談だが、柏木神社と北脇集落を結ぶ旧道沿いには、関ヶ原の合戦後に悲運の死を遂げた水口岡山城主長束正家の室栄子の菩提を弔う姫塚が建っている水口岡山城主長束正家の正室【栄子姫】塚

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました。


水口岡山城主長束正家の正室【栄子姫】塚

2014年03月12日 | 遺蹟

慶長5年(1600年)、関が原の合戦に敗れた水口岡山城主長束正家(豊臣氏5奉行の一人)は一旦帰城したがあえなく落城、日野の佐久良谷で自刃しました。

正家の正室栄子姫も身重の身で城を脱出、北脇の旧臣山本浅衛門の家に匿われ、ここで男子を出産しましたが、産後の肥立ちが悪くまもなく亡くなりました。

旧臣はこれを哀れんでひそかに葬り一個の石を標識として、その霊を慰めました。その後、遺児は仏道に入り、長じて寛永2年(1625)水口大徳寺の三世還誉上人となりました。還誉上人は亡き母栄子姫の菩提を弔うために北脇の地にあった地蔵堂を改築し、栄照寺と号し、大徳寺の末寺とし長束家の香華院としました。

なお、現在地に立つ供養の「姫塚」は明治26年、京都在住の一族の花輪氏が建立したものです。

甲賀市水口町北脇 / 柏木公園駐車場使用 徒歩3分 / Map:http://yahoo.jp/e5cTgE

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)

 

本日も訪問、ありがとうございました。

 


津山城 近江国(甲賀・水口)

2014年03月11日 | 平山城

・所在地:甲賀市水口町下山 map:http://yahoo.jp/TMk7qN
     旧:甲賀郡水口町

・目標地点:

・形式:丘城

・比高差:30m

・現況:山林・竹林

・遺構等:郭・土塁・堀?

・時代/人物: 室町期/

・城 主:伴勘左衛門唯利  伴半兵衛直次

・主郭までの所要時間:10分

・訪城日:2014.3.9

  津山城   大字下山字細佐 臼井氏宅より約200mの所で裏の山 内面積 1400㎡

     

虎口(旧大谷池の排水口・・・水路の手前を山裾から)

  虎口に入ると「砕石」が?

                                      

津山城は、下山集落の北西、思川を臨む丘陵上から丘麓にかけて築かれていた。
縄張は、円形に約6m掘り下げた主郭と、その南方丘麓に向けて3つの曲輪を連ねていて、詰城と居館が一体となった根古屋式山城の形を呈している。

主郭を取り巻く土塁は、自然地形の斜面をそのまま残した傾斜で、土塁上は非常に歩きにくい。主郭土塁背後には深さ約7mの大空堀が、傾斜面のためか階段状に掘られている。主郭の東側に開口部があるが、外側は大空堀が切岸となっていて虎口とは言い難い。開口部の南側は土塁がL字状になっており、その南直下の曲輪との間に本来の虎口があったが、後世の破壊によって消失したのではないかと思われる。

主郭直下には土塁に囲まれた削平不充分な曲輪があり、ほぼ中央付近に低い土塁で東西に区画されている。そのうちの左側の曲輪を南へ降りると、麓との高低差がない土塁で囲まれた方形の曲輪となる。ここが平時の居館ではないかと思われる。南辺の虎口にはわずかに石積みが見られ、脇には五輪塔などの石造物がかためられていた。

  郭Ⅳの虎口(南側民家の裏山)        

山すそは平虎口の如く両サイドに土塁をもった郭がまずあります。ここから上に二段の郭がありそれぞれの高低差が10m程度あります。

二段目は斜面を階段状に削り平坦地を作り出し、両端が斜めの土塁になっています。

一番上の郭は主郭と思われますが、すり鉢状になって土塁が巡ります。しかしながら、藪がきつくで全体が見渡せません。この主郭の西側には竪堀というか斜めの堀があり、これは主郭をU字状に巡っているようです。単郭方形の多い甲賀の城で階段状に郭を配した少し変わった城です。
円形状の縄張は、無理にでも方形館を基本としているかのように思える甲賀の城館ではめずらしく、印象に残る城であった

この城の東側、田んぼを挟んで200m東の丘陵は下山北城があります。

【歴史】
津山城は、通称「伴谷」と呼ばれる山村三郷(上山村・中山村・下山村)に勢力を誇っていた伴氏が、伴同名中を構成した侍衆の城だと思われる。地元では津山氏が城主だと伝えられてきたが、本来伴氏が居城したというのが通説で、伴氏は戦国中期頃、唯利のときに備中津山へ移り住んだとされ、この移住先の津山が誤って城主名として伝えられたのかも知れない。津山右京の城と伝えられます。

天台宗   善隆院     大字下山字細佐
       津山城跡の南、臼井氏宅の裏にあったが、浄土宗九品寺の草創によって廃寺となり又本尊等も不明である。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)

 

本日も訪問、ありがとうございました。


西出館(にしでやかた) 近江国(甲賀・水口)

2014年03月11日 | 館跡


・住所:甲賀市水口町宇田 
    旧:甲賀郡水口町
・目標地点:国中神社

・形式:平城  ⑤比高:3m 
・現況:雑木林

・遺構等:土塁
・時代/人物: --期/--氏 
・最寄(国中神社)の駐車位置からの主郭までの所要時間:1分

土壇状の土塁とその北側に見方によっては堀かなと思える窪みが東西に走ります

土塁上の祠と堀(現状灌漑水路)

土塁北側

土塁の反対側の竹林

左手に茂みと土壇のような盛り上がりがあり上に登れる道があります。土壇上には祠が奉られていますがこの周辺が館跡です。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました。


甲賀武士と伴谷

2014年03月10日 | 武将

   橘       山中十郎            平        鳥居兵内               藤原       頓宮四方介
                 嶬峨越前守                      杉山八郎                            上山新八郎
                 宮島掃部介           夏見    夏見大學              橘        岩室大學介
                 倉治右近介           篠原    多羅尾四郎兵衞                  中山民部丞
                 平子主殿介           丹波    三雲新藏人                        高山源太左衞門
                 葛城丹後守           伴      大原源三郎           伴        伴 左京介
                 杉谷與藤次           源      和田伊賀守           源        芥川左京亮
                 土山鹿之助           伴      牧村右馬介                        宇田藤内
   源       望月出雲守           藤原    池田庄右衞門                     上田三河守
                 針 和泉守            平      服部藤太夫           藤原      長野刑部丞
   菅原     美濃部源吾                       大河原源太           伴        多喜勘八郎
   藤原     鵜飼源八郎                       大久保源内                         野田五郎
                 小川孫十郎           平      佐治河内守           藤原       内貴伊賀守
                 山上藤七郎           伴      上野主膳正           藤原      大野 宮内少輔
                 八田勘助                          饗庭河内守           伴        岩根長門守
   惟宗     神保兵内                          高野備後守                         黒川文内
   多々良   青木筑後守           源      隠岐右近太夫        平        高峰藏人
                 小泉外記                                                     藤原      新庄越後守
  甲賀53家の内4家は、伴谷の城主で
      上山新八郎は、大字山字上ノ山の上山城主で現在の山の字名の由来となった。
      伴 播磨守は、大字伴中山字城下の伴中山城主で現在の下山で、伴谷地域名の由来となった。
      八田勘助は、大字八田字中尾の八田城主で現在の八田の字名の由来となった。

 

伴谷は、大字八田、春日、下山、伴中山、山の五大字の総称で明治5年(1872)区制施行の時、甲賀郡第2区に入り同18年(1885)に連合戸長役場を春日に定め、同22年(1889)4月町村制実施にあたり伴谷村となり、村役場が伴中山に設置されました。明治35年(1902)村是を定め自治の実績を上げてきましたが、明治43年(1910)2月25日内務省の推賞を受け模範村と称せられました。古代より伴谷は、山直氏が支配し、本拠地でありました。
 永久2年(1114)8月源義光が支配し金光院領とし、永く燈明料を納めさせていました。

その後、園城寺内金光院に転じ、長寛2年(1164)以後は柏木荘の御厨司の支配下に入っています。
 
 
 大字八田   住家75戸

   八田は、古く八田勘助の所領で、後に岩根郷の一部で京都眞如寺中正派院所領、天正13年 (1585)水口岡山城主中村一氏、増田長盛、長束正家と次々代わり、伴上野介資光の所領となり、元和3年(1617)より國領半兵衛がこれに代わり正太郎に到り明治維新になりました。
  八田地区の小字 20小字
   勝谷 水口 門田 上出 中出 込田 中尾 芳谷 西畑 井ノ口 寺硲 勝負谷 灰坂 桐山 薊谷 小桐山 イフラ谷 中ノ町 向山 桃木谷
 


百姓村城 近江国(甲賀・水口)

2014年03月10日 | 平山城

 

消火栓の所・・・登城口(東光寺の門前)

 

郭下の平削地(屋敷跡カ?)

東光寺

 

改築中

 本尊  阿弥陀如来 
 由緒  開基は隆阿上人にして大永元年(1521) で、その後廃絶同様となった。享保11年(1726)中興恵立上人により再建し旭照山と号して京都市智恩院の末寺に属し、当寺は徳川氏の旗本美濃部八十郎氏の寺であった。

 城主の美濃部氏碑カ?

 

・所在地:甲賀市水口町大字伴中山字百姓村
     旧:甲賀郡水口町

・目標地点:東光寺

・形式:平城                                                             ・比高:5m 
・現況:畑地・宅地

・遺構等:郭・土塁
・時代/人物: 江戸期/ 城主  徳川の旗本 美濃部八兵衛

百姓村城    平田氏宅地 故富田英樹氏宅地と畑内面積1600㎡

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました。


                  


西出城 近江国(甲賀・水口)

2014年03月10日 | 平山城

 

・所在地:甲賀市水口町大字伴中山字神田 map:http://yahoo.jp/MtRcU3
     旧:甲賀郡水口町
・目標地点:

・形式:丘城                                                            ・比高:3m 
・現況:茶畑下
の土地の名は指南堂と呼ぶ                                                   ・遺構等:なし (土壇)
・時代/人物: 室町期/城主は、八田勘助  八田左近介                                     ・最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:10分
・訪城日:2014.3.9

西出城      大字伴中山字神田  木林氏宅の東北の山土盛高3m内面積700㎡ 

         現在は故平田氏の茶畑下の土地の名は指南堂と呼ぶ
                  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました

  


伴中山城 近江国(甲賀・水口)

2014年03月10日 | 平山城

 

 

・所在地:甲賀市水口町伴中山
     旧:甲賀郡水口町

・目標地点:伴中山信号

・形式:丘城                                                             ・比高:5m 
・現況:畑地・荒地・宅地

・遺構等:郭・土塁
・時代/人物: 室町期/城主  伴 播磨守  伴 左京亮
・最寄の駐車位置(JA支所)からの主郭までの所要時間:10分                                                  ・訪城日:2014.3.9

 

 

 

伴中山城   大字伴中山字城下   富田与平氏宅の北山土盛高3m 内面積2000㎡。

大字伴中山     
  伴中山は、神宮領柏木御厨司五郷の一つで、元徳3年(1331)注進目録に出る中山郷です。
  中山民部丞の所領後柏木御厨司職山中氏の管治下となった。
  応仁以来再度伴氏支配下となり天正13年(1585)中村一氏、増田長盛、長束正家と代わり伴上野介資光氏、伴勘左衛門氏の所領となり、寛永11年(1634)水口城代小堀遠江守や代官平岡四郎左衛門、鳥居伊賀守となり、正徳2年(1712)加藤和泉守より世襲することとなる。
   明和8年(1771)旗本美濃部伊織の支配下、天明以後代官は岩出伊右衛門、多羅尾四郎右衛門、天保4年(1883)稲葉長門守の堤封に入り子孫世襲することとなり、明治維新となりました。
        伴中山地区の小字 20小字
          笹尾 正保 座禅坊 平尾 中切 百姓村 小谷 六反田 馳登 峯道 杭原 彼岸田 岩谷  西浦 村外 神田 城下 北山 椎ノ木谷 芳ヶ谷

天台宗   宝臓寺     大字伴中山字座禅坊
       本尊  阿弥陀如来座像は、現在の良徳寺の本尊と聞き及んでいる。
       由緒  創立不明、元亀年間に織田信長の焼き討ちにより焼失した。田林氏宅の東の山の頂にあったが、廃寺となっている。

 

伴氏は俗に言う甲賀武士であり、戦国末期の甲賀群中惣の一員。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました。


下山城 近江国(甲賀・水口)

2014年03月10日 | 平山城

下山城は近隣地域を代表する城で1309年に築かれ1582年に滅んだ城となっています。その間273年間、 数々の戦功と功績を残しております。

公民館駐車場より、攻め込み 

 堀切  

・所在地:甲賀市水口町下山 Map:http://yahoo.jp/ZgKUT7
    旧:甲賀郡水口町下山

・目標地点:九品寺・下山公民館(駐車可)

・形式:丘城  

・比高:30m

・現況:公園・雑木林

・遺構等:堀・土塁・説明板

・築城期:室町期

・城 主:伴太郎左衛門景秀

・主郭まで:公民館より5分

・訪城日:2014.2.20

下山城    大字下山字市場 小川氏宅の南山にあり土盛高3m内面積 1200㎡

城跡は甲賀によくある単郭方形の館城です。南側に虎口を持ち、東側は堀切で丘陵と遮断しています。郭内はやぶ状態でどうにもなりません。公園の北側に公民館があります。そこの駐車場より城跡に向かって登ってみたのですが、藪状態で城跡には行けませんでしたが、藪の中に城跡から伸びてきているような堀が認められます。

歴史

甲賀郡誌に延慶年間(1308~11)に、櫟野(旧甲賀町)より伴太郎左衛門景秀が移住し築城したと伝承が残る。

この城は伴谷地域をその勢力化においた土豪伴氏の城跡です。伴氏は延慶年間(1308~1310年)に櫟野(いちいの)<=旧甲賀町>から移り住んだと伝えられ、近隣である柏木の山中氏、水口の美濃部氏と拮抗したり協力したりして領地を支配しました。

伴氏は俗に言う甲賀武士であり、戦国末期の甲賀群中惣の一員でありました。 

  左は東堀切。土塁の上は5mを図る東虎口主郭内土塁より・・・主郭・北虎口  北虎口北虎口(城外から)・・・駐車可2~3台 虎口のそばの物置小屋

大字下山      住家75戸
   下山は、神宮領柏木御厨司五郷の一つで、元徳3年(1331)注進目録に出る下山郷です。延長年間伴太郎左衛門氏大原郷より移り治所を下山に置き所領した。慶長5年(1600)長束正家亡後伴上野介資光の所領となり、慶長7年(1602)松平隠岐守、元和9年(1623)年堀田加賀守、寛永4年(1627)二分して徳川家の旗本美濃部文左衛門と水口城代小堀遠江守の管轄となり、山口但馬守、野田三郎左衛門等の城代と代官を経て寛文元年(1661)葦蒲観音寺下に入り、寛文3年(1663)に小堀、前守美濃部氏、石原清左衛門の支配下となり、宝暦3年(1753)小笠原能登守、文化10年(1813)井上河内守、天保7年(1836)多羅尾久左衛門、天保11年 (1840)水野越前守、再度多羅尾氏の支配下となり、弘化4年(1847)松平周防守の支配下となり明治維新となりました。
      下山地区の小字 13小字
          迎山 柳瀬 市場 引坊 二反田 大沢 広野 細ヶ谷 牛飼塚 細佐 大谷 下ノ前 前田

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました


畑村城 近江国(甲賀・水口)

2014年03月10日 | 平山城

 

住所 :甲賀市水口町春日字伴城     (旧:甲賀郡水口町春日) Map:http://yahoo.jp/G__MRP

区 分:丘城  比高:30m 

現在の状態 :山林                                                                                   築城者:伴大隅守資景                                                                                        時 代/人物: 室町期/城主は、伴大隅守資景  伴上野介資光等 
遺構 :曲輪・土塁・竪堀                                                                                 形式 :平山城 最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:5分
撮影・訪問日:2014.3.9

畑村城  大字春日字伴城 西春日の南東に位置する伴城山上。土盛高い所は約4m内面積 800㎡

城の遺構は甲賀典型的な単郭方形を主体とした館城です。丘陵先端部を削り主郭が作られたもので、丘陵尾根側は削り残しの土塁が5m以上あるところもあります。先端部の外側には堀跡と思われる窪みと郭跡なのか平坦地も認められます。

 

畑村城は、甲賀市の北端、蒲生郡日野町と接する春日集落の南方に所在する。

付近は四方から山塊が迫る狭い谷部に街道が走るとともに集落が営まれていて、城は街道を望む丘陵先端部の通称「伴城山」に築かれている。

北側から登城すると、すぐに溜池が現れ、それに沿うように通路を進み、やがて虎口bに至る。虎口北側には竪堀が掘られている。

地形を生かした造りなのか、主郭は歪な形に切り込んだ約25m四方の削平地で、東方街道側に削り残しの土塁を設けている。東辺以外の山側は切岸のみ、しかしさらに西側は浅い堀切状のcがあり、主郭間はおおよそ太い土塁のような格好になっている。

主郭南東隅にも虎口aが開口しているが、これは防御効果を減少させるような開口部に見える。

畑村城の名は江戸期までの村名にちなむようだ。

歴史

伴城山という地名から伴氏との関わりが考えられる。

大字春日   住家109戸
    春日は畑村といっていましたが、明治7年(1874)に現在の春日に改称しました。永保3年(1083)以来伴氏の所領で、建武4年(1337)伴大隅守資景が伴城山に畑村城を築きました。慶長5年(1600)以後は伴上野介資光の領地となり畑村と八田村を所領していました。慶長7年(1602)羽柴若狭少将勝俊、慶長10年(1605)鳥居彦左衛門、慶長13年(1608)松平隠岐守、石川主膳頭 、内藤紀伊守に代々交代しました。
  寛文3年(1663)以来幕府代官の小堀仁右衛門猪飼治郎兵衛、野田源左衛門中根弥治助等の代官が管治しました。天和2年(1682)加藤明友が石見より水口に転封となり水口藩が立藩され 、以後水口藩の領地となりました。藩主は一時期鳥居氏に代わっていましたが正徳2年 (1712)それまでの藩主鳥居忠英に替わって下野壬生より、加藤和泉守嘉矩が水口藩主として転封になり再び、加藤氏の領地となりました。
   明治維新後、明治4年(1871)の廃藩置県で水口県に属することになり、大津県所属を経てその翌明治5年(1872)滋賀県所属となりました。この時滋賀県は12郡に分けられましたが、甲賀郡はさらに10区に分けられ、畑村(明治7年(1874)春日村と改称)は八田、下山、伴中山、上、下、堂(明治8年(1875)合併して山村となる)の伴谷地区の各村と下田村とともに甲賀郡第2区に入りました。各村の戸籍事務・行政は民選の戸長が担当しました。明治12年(1879)区制は 廃止されましたが明治18年(1885)には、旧甲賀郡第2区の6ヵ村を所管する連合戸長役場が、区域の中心地である春日村に設置されました。明治22年(1889) 4月1日の市町村制施行により、春日連合戸長役場管内から下田村が分離独立し、八田、春日、下山、伴中山、山の各村は合併し、伴谷村が誕生、初代村長には春日の西田忠兵衛さんが選ばれ、村役場は伴中山に設置されました。
    春日地区の小字 52小字
      猪ヶ谷 外輪 阪ノ橋 新打ヶ谷 山女谷 大砂溜 田首 兎谷 川窪 安養坊 平田 杉谷  泓 芳谷 後谷 振り合 内垣内 名及出 岨出 円山 大谷 囲碁木 峯道 大平  田中出   平林 寺堤 野田 清水 坊谷 竹ノ下 四ッ辻 稲葉 松ヶ崎 地蔵前 瀕谷 宮ヶ谷   四方谷 西出 谷口 伴城 安垣 杭原 西裏 谷田 養津喰 向出 藤谷 阪ノ浦 灰坂   高松 薑谷

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました


山村田引城 近江国(甲賀・水口)

2014年03月10日 | 平山城

所在地:滋賀県甲賀市水口町山字北谷 map:http://yahoo.jp/0pvqmF

遺 構:曲輪、土塁・堀切、

形 式:丘城

 城主:山村信濃守

年代:室町期

現在の状態 :山林

最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:10
撮影・訪問日:2014.3.9

田引城    大字山字田引  前川氏宅の東山内面積800㎡。 西の丸は、青山氏宅の西山で北には土盛高3メートル内面積1200㎡           

 

主郭・・・郭Ⅰ

東光寺(本堂改築中)

南側郭Ⅴへ

東光寺・・・消火栓の所・・・南郭Ⅴへの登城口(東光寺の門前)

浄土宗   東光寺     大字伴中山字百姓村  

本尊  阿弥陀如来 
 由緒  開基は隆阿上人にして大永元年(1521) で、その後廃絶同様となった。
            享保11年(1726)中興恵立上人により再建し旭照山と号して京都市智恩院の末寺に属し、当寺は徳川氏の旗本美濃部八十郎氏の寺であった。

徳川氏の旗本美濃部氏の墓碑カ?

郭下の平削地(家臣の屋敷跡カ?)

南郭Ⅴへの登城口(東光寺の門前)

山村田引城は、田引地区北側、北から伸びる丘陵が二股に分かれた両先端部に築かれ、南正面を流れる思川を堀としている。

 西側の曲輪群が山村田引城の主力で、丘陵先端部に4つの曲輪が連郭式に配置されている。 4つの曲輪中央部に堀切を施し、この堀切が曲輪虎口への通路も兼ねいて、虎口防禦としては非常に堅固な構造となっている。 更に、中央部堀切北側の曲輪と更に北側の曲輪の間にも堀切がある。

 東側丘陵先端部にも、丘陵を切り込んだ土塁が三方を囲む曲輪が配置され、西の曲輪群と併せて鶴翼の陣を張ったような群郭式の縄張りとも云える城であった。  

 山村田引城縄張り図

大字山           
   山は、神宮領柏木御厨司五郷の一つで、元徳3年(1331)注進目録に出る上山郷です。上山新八郎、上三郎、田中伝八郎宗秀の所領後柏木御厨司職山中氏の管治下で天正13年(1585)中村一氏、増田長盛、長束正家と代わり、慶長5年(1600)伴上野介資光氏、慶長7年(1602)旗本林伝右衛門、慶長13年(1608)松平隠岐守、元和4年(1618) 内藤紀伊守、寛永4年(1627)代官土井大炊頭、延宝3年(1675) 代官吉川半兵衛、天和2年(1682)加藤内蔵助所領、元禄8年(1695)鳥居伊賀守所領、正徳2年 (1712) 再度加藤氏の所領となり世襲後明治維新となる。
  また、菅原道真公太宰府に配島され、その子淳茂郷京より水口の美濃部に移り住み堂村にある観音堂内の十一面観世音菩薩に深く帰依し、父の勅勘の解かれる事を祈ったが、道真公異国で亡くなるや悲嘆にくれ水口の地の檀を築き、父と自身の画像を掲げ又一尺余の円石を尊前に据え置き日夜礼拝を怠らなかった。この心が通じ後に公の復検と自身も勅勘を解かれた。
  菅原家は、後に美濃部氏となった。
     山地区の小字 34小字
         廻田 高ソネ 小松尾 吉平 白山 畦八丁 菖蒲谷 東谷 上ノ山 松葉沢 柳谷 千代坊 北小野 栂畑 北谷 峯道 下代 西谷 西村 前ノ谷 菅谷 大平 田引  竹ノ鼻 岩谷 百々谷 向山 南前 長谷 南谷 勘定ヶ谷 向出 栗ノ木谷 千丁

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました。


上村城 近江国(甲賀・水口)

2014年03月06日 | 平山城

善勝寺

浄土宗   善勝寺   大字山字上ノ山

由緒  創立は慶長年間で、進譽上人開基、文化年間に焼失又文政7年(1824)再建し、当寺は、城之山号し安土浄厳院の末寺で、明治23年(1890)より京都市智 恩院の未属となった。

東伝寺     大字山字上ノ山
       佐々木氏滅亡の際、上山城と共に兵火にあい廃寺となり、その後、浄土宗善勝寺となった。

西側から城址を見る

西側から城址を見る

西側から城址を見る

所在地 :甲賀市水口町山  maphttp://yahoo.jp/vOyv74

区 分 :丘陵 

現在の状態 :山林遺構 :曲輪・土塁・堀切・櫓台・井戸

築城者 :上村氏

有名城主:上山新八郎 上山徳三郎   田中伝八郎宗秀田中氏

築城時期 :室町時代

訪城日:2014.3.4

  上山城  大字山字上ノ山 東の丸は田中勲氏宅の東山土盛約4m内面積1600㎡ 又西の丸は大平宅の西山あり城跡又は物見台。城主は、上山新八郎 上山徳三郎   田中伝八郎宗秀

主郭西側堀切

城主:田中傳八郎碑

子孫の田中家で、郭壇は綺麗に整備・清掃維持されている

背後の丘陵との間に堀切を設けて城域を区分し、東の丸と西の丸からなる複郭式縄張りの城だ。 主郭は西の丸で、内部は三段に分かれ周囲には土塁を設けられている。 東の虎口から土塁に沿って内側に空堀があるがちょっと

東郭から主郭を見上げる

伴谷東小学校の西谷から

山村城は、伴谷東小学校から谷を隔てて真西、南北に伸びる丘陵の先端部に築かれている。

 山村城は、背後の丘陵との間に堀切を設けて城域を区分し、東の丸と西の丸からなる複郭式縄張りの城だ。 

主郭は西の丸で、内部は三段に分かれ周囲には土塁を設けられている。 東の虎口から土塁に沿って内側に空堀があるがちょっと妙な感じ・・・。

 東の丸(副郭)は、西の丸虎口正面に虎口を開き周囲に土塁を設けた構造で、西の丸との間には空堀が設けられていた。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました


鮎河館 近江国(甲賀・土山)

2014年03月01日 | 平山城

鮎河城石碑

所在地:甲賀市土山町鮎河 map:http://yahoo.jp/c6J-_q

遺構等:土塁、碑、説明板

現状:鮎川小学校の裏手丘陵地

築城年:建武年間(1334-38)

築城者:頓宮弥九郎

歴代城主:頓宮氏

区分:居館

訪城日:2014.2.24

【道案内】
 
 

現地説明駒札

 南北朝時代に南朝に属していた頓宮弥九郎(鮎河弥九郎)が南朝軍反撃の拠点とした城です。

建武5年(1338)、頓宮弥九郎は兵を挙げ鮎河城に立て篭ったが、北朝軍の佐々木秀綱に従った山中橘六、小佐治右衛門、美濃部兵衛三郎らの軍に攻められ落城した。

鮎河城の北にある鷲尾城は当時の砦跡と伝えられる。(現地説明板より)

 

虎口・・・行き止り(郭は現状、水田)

虎口に建てられた石碑

 鮎河城は甲賀市立鮎川小学校の裏手の丘陵地に位置している。現在では小公園として整備され、鮎河城の虎口らしき所に石碑が建つ。
 虎口形状の道に導かれて丘陵地にあがると一帯は耕作地で、城の中核部は消失している。

歴史

 南北朝時代に南朝に属していた頓宮弥九郎(鮎河弥九郎)が南朝軍反撃の拠点とした城です。

建武5年(1338)、頓宮弥九郎は兵を挙げ鮎河山城に立て篭ったが、北朝軍の佐々木秀綱に従った山中橘六、小佐治右衛門、美濃部兵衛三郎らの軍に攻められ落城した。

その後の再起し、鮎河城の北にある鷲尾城に立て篭ったが(当時の砦)落城・廃城となる。(甲賀市誌 甲賀の城より)

県道沿いの観光看板

【道案内】
 
 

県道9号沿い「鮎川小学校」から300m程山の麓が城跡です。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました