城郭探訪

yamaziro

南比良城    近江国(大津)

2016年04月19日 | 平城

滋賀県中世城郭分布調査報告書は不明とされる『南比良城』

お城のデータ

所在地:大津市(旧滋賀郡志賀町)南比良町 map:http://yahoo.jp/t5evzB

区 分:平城

現 状:田地

築城期:室町期

築城者:

遺 構:圃場整備で消滅か?

目標地:南比良公民館・比良保育園

訪城日:2015.12.23・2016.4.2

お城の概要

湖岸近くに館城である南比良城があり、その詰城として野々口山城がある。両者の間は約2キロである。ただ比良城ー田中坊城ー南比良城はほぼ一直線上にあり、野々口山城、歓喜寺山城ー歓喜寺城が扇形となって展開していた事もありうる。・・・参考資料:楽浪の里志賀(志賀の城郭)

志賀町域の城郭遺構としては15箇所ある
①寒風峠の遺構(北小松、山腹にあり、現在林)
②涼峠山城(北小松、山腹、林)
③伊藤氏城または小松城(北小松、平地、宅地や田、堀切土塁あり)
④ダンダ坊城(北比良、山腹、林)
⑤田中坊城(北比良、湖岸、福田寺)
⑥比良城(比良、平地、宅地)
⑦南比良城(南比良、湖岸、宅地)
⑧野々口山城(南比良、山頂、林)
⑨歓喜寺城(大物、山腹、林)
⑩歓喜寺山城(大物、尾根、林)
⑪荒川城(荒川、平地、宅地や墓地)
⑫木戸城(木戸、湖岸、宅地)
⑬木戸山城、城尾山城とも言う(木戸、尾根、林)
⑭栗原城(栗原、不明、宅地)
⑮高城(和邇、不明、宅地)

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』には「志賀郡 南比良城主 佐々木隋兵 安元日向守実綱 安元次郎 安元重兵衛」の名を記す。

 

『新註近江興地志略』には、「薗田坊寺屋敷」北比良村より西の方二十町許にあり。今石垣を残す。

『比良の歴史』より

1280年の「比良荘絵図」(北比良区蔵)

比良とは滋賀県大津市、JR蓬莱駅近くの天川から以北、高島市鵜川近辺までの比良山麗一帯を指す古い呼称をいう。

 古代海族とされる比良一族の居住地としてひらかれ、平安時代に隆盛となり、比良三千坊と称する寺院群があったという。古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運にも従事。中世には比良八庄とよばれ、小松荘と木戸荘がその中心であった。1280年の「比良荘絵図」(※上記、画像:北比良区蔵)は有名である。この地を南北に西近江路が開通、1926年に江若鉄道が開通したが、現在では湖西道路、国道161号、JR湖西線にかわっている。

1376年 比良庄絵図(部分)

地名は古語およびアイヌ語で急傾斜の地の意味で、比良の断層崖よりおしだされる砂礫からなる扇状地性の急勾配の土地に由来する説がある。またこの地は、比較的水田に恵まれず、水利の便もあまり良くなかったので、田地をめぐる争いや水論がしばしば発生した。幕末期1734年の木戸村と荒川村の間に生じた大谷川の分水をめぐる紛争や、1810年には大物村と南比良村での四ツ子川筋の分水に関する争論などである。

一方、琵琶湖、浜辺の諸村では漁業が行われ、1651年の丸船(丸小船)改帳によれば、和邇38艘、木戸25艘、南比良23艘、南小松14艘、北小松33艘を有す。また志賀では浜のグリ石(割栗石)拾いも盛んであった。グリ石を拾って一箇所に集めると、船頭がモッコをかついで丸子船にのせる。船一杯分手伝えばひとり10銭。1銭で大玉飴が3つの値打ち大正末ごろ、大人でも70~80銭の日当の時代であった。

さて比良山系は、その秀麗な山姿より「比良の暮雪」として多くの文人墨客の注目をひいてきた。そしてこの比良山系は東西の圧縮によって隆起した地塁山地といわれている。古生代には比良は海の底にあり、中生代には花崗岩の貫入を受け、さらに断層もともなって隆起した後、浸食され現在の姿になったと理解される。松尾芭蕉の俳句に「月と花 比良の高ねを 北にして」とある。

 また比良山系は人里から近く、人間の営みとも深い関係を保つ。修験道信仰の山として、また林業や石材、物資輸送の場としてその歴史を刻む。古くから石材の加工が盛んで、明治11年には木戸で石灯篭、石塔、礎石、野面石、庭石の生産があり、荒川でも礎石、野面石が大津方面に、また北比良では割石や薪が長浜や近江八幡に出荷され、明治13年には八屋戸・大物・南比良などから石材が湖上運送された。

 

大津市(旧志賀群志賀町) 湖岸地区

・鎌倉時代になると湖東や比叡山の影響が強く出てくる。
佐々木氏は、近江守護となり、その息子がそれぞれ、大原氏、京極氏(後に京極氏は、惣領家となり、滋賀群含めた地域の一台勢力となり、六角氏と争うようになる)、六角氏、高島氏を名乗った。しかし、実質的には、滋賀群は比叡山延暦寺の圧倒的な勢力下にあった。
志賀町地域では、天台宗の寺院が多いのと延暦寺関係の寺院の持つ領地が点在していた。和邇荘、木戸荘、比良荘は延暦寺寺領でもあった。しかし、応仁の乱以後、六角氏が湖西への進出を図り始める。滋賀県でお城郭数は約1300ほど合ったらしいが、いずれも、簡単な山城程度であり、その分布図がある。

・荘園の形成と崩壊
 志賀町地域は、交通の要衝であり、有力貴族や自社にとっての重要な采地でもあった。この地域の多くは、延暦寺、園城寺、日吉神社の寺領であり、小松荘、比良荘、木戸荘、和邇荘などの荘園があった。特に、中世以降、御厨(みくりや)が荘園運営に組織化されていったことは見逃せない。しかし、農業の集約化、生産の多様化、生産余剰分の発生、貨幣経済の浸透等の新しい動きが、田畑の売買や寄進を更に推し進め、荘園的土地所有やその領主支配の崩壊を内部から起こし始めた。これにより、「惣」「村」という新しい形の荘園組織が進み、その運営組織として、宮座と呼ばれる執行機関が神事や祭礼を行うと供に、その役割を担っていく。和邇荘では、天皇神社であり、木戸荘には樹下神社、比良荘では天満神社などが行っていた。

・交通の要路である西近江路
古代からの官道の駅家がその核となり、荘園の中心集落と一体となった新しい要路となっている。この山側には、途中、朽木を経由する花折街道もあった。
平家物語、源平盛衰記には、軍隊の動きが書いてあり、それにより、当時の交通路の概要が掴める。源平の戦い、足利氏の新政府のための戦いなどが繰り返れることにより、堅田は港湾集落としての機能を高めていく。更に、14世紀以降は、本福寺の後押しもあり、湖上の漁業権の特権も活かし、最大の勢力となって行く。

 志賀町地域での陸路と水路の集落にも、役割が出てくる。陸路でもあり、各荘園の中心集落としては、南小松、大物、荒川、木戸、八屋戸、南船路、和邇中、小野があった。これらの中でも、木戸荘は中心的な荘園であった。水路、漁業の中心としては、北小松、北比良、南比良、和邇の北浜、中浜、南浜があった。
和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と並んで湖西における重要な浜津であり、古代北陸道の駅家もあった。古代の駅家がその後の中心的な集落になる事例は多くある。現在の和邇今宿が和邇宿であったことが考えられる。

南比良公民館に駐車

比定地付近の「堂講の里」公園・・城祉か?。この一角は、公園化され周囲の圃場とは違い、『南比良城』の一部か?

参考資料:楽浪の里志賀(志賀の城郭)、滋賀県中世城郭分布調査1「旧滋賀郡の城」、城郭分布調査報告、遺跡ウォーカー。

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吉武城(針江城)   近江国(新旭)

2016年04月17日 | 平城

 

駒札 吉武城跡

明治6年の地籍図によると、城の中心地(現在地)は巾約5mの水路によって琵琶湖とつながっていました。また、周辺には「城下」「吉武」「裏門」「寿道」「牛の馬場」の地名が残っています。

発掘調査では、堀・堰・掘立柱建物・土杭とともに十六世紀後半の土器や木製品が見つかっています。また、礎石と考えられる石材や板塀・五輪塔が出土しました。出土した石材には、大を受けたあとが認められています。

 元亀三年(1572)に織田信長の命で明智光秀は高島郡を攻撃し「高島の逢庭(饗庭)三坊の城下まで放火し、敵城三箇所落去した」と報告しています。焼跡のある石材の出土はこの三成との戦いを推測する資料として注目されます。      高島市教育委員会


お城のデータ

所在地:高島市(旧・高島郡)新旭町旭 map:http://yahoo.jp/GUax2o

区 分:平城

現 状:グランド
遺 構:説明板
築城期:室町期

築城者:吉武氏

遺 構:基壇・堀痕・発掘調査出土品・現地説明板

目標地:吉武グランド・森 吉武城址バス停

駐車場:吉武グランドの駐車場

  発掘調査

訪城日:2016.4.16

お城の概要

国道161号線で大津方面から来ると、新安曇川大橋を超えて、針江・旭で国道161号線の高架潜り、右に「森・吉武城址バス停」ある。左折した50m先のグランド横に駐車場と説明板がある。

国道(バイパス)建設時の発掘調査で堀や建物跡あった。ここの城の特長は方形の主郭に隣接して方形の複数の郭が接続され土橋で結ばれていた、又琵琶湖の水で水堀が存在した。

 

お城の歴史

饗庭三坊と呼ばれた寺院に関わる吉武壱岐守の居館で、五十川城の支城と伝わります。発掘調査で焼失の痕跡があり、元亀元年(1570年)~天正元年(1573年)頃の織田氏侵攻で戦火にあったと推測されます。一説には鎌倉期美濃あった饗庭氏(相羽城)の同族がこの地にあり、この城を居城・支城にしたともされるようです。

【高島市歴史散歩】饗庭三坊と城

戦国時代の末になると、高島郡では「饗庭三坊」が有力土豪(豪族)として台頭してきます。

 永禄9年(1566)高島郡への影響力を強める浅井長政は、善積荘(現在の今津町南部)・河上荘(今津町北部)のほか、木津荘(新旭町北部)・保坂関の取り分の一部を、西林坊・定林坊・宝光坊にあてがっています。

饗庭三坊について、地元ではさまざまな呼び名や伝承が語り継がれています。

 『高島郡誌』には、「吉武壱岐守の長子が西林坊と号し日爪村に、次子が定林坊を号し霜降村に、季子が吉武壱岐守と称し、五十川(いかがわ)村の吉武城にいた」と記されています。

 この三つの坊は、他の文献史料からもその実在を確認することができることから、西林坊、定林坊、宝光坊が「饗庭三坊」であったと考えられます。

 新旭町の南部では、清水山城や新庄城が築かれるのに対し、北部の木津荘の範囲には、日爪城や饗庭館、そして五十川城やその城下と考えられる吉武城が築かれています。

応永29年(1422年)に作成された『木津荘検注帳』には、日爪城が位置する丘陵のふもとに「西林坊」の地名が、享禄2年(1529)の『饗庭又三郎売券』には「霜降定林坊」の名が記されています。

 また、五十川村には「宝光坊」の地名や、吉武壱岐守との関係が推測できる「吉武」の名も見られます。

 吉武壱岐守については、天正10年(1582年)織田信長の加賀一向一揆の討滅前後に、鳥越城(石川県白山市)の城主として、その名が見られるほか、慶長3年(1598)に村上頼勝が入城する村上城(新潟県村上市)の田口曲輪 は、村上氏の筆頭家老であった吉武壱岐守とその家臣団「山衆」の居住地として「壱岐殿丸」とも呼ばれています。

 

発掘調査の現場

 昭和61・62年の国道161号バイパス建設に先立ち実施された吉武城跡の発掘調査で、16世紀後半の掘立柱建物跡や区画性のある堀跡などが見つかっています。

 堀跡からは土器とともに阿弥陀石仏や一石五輪塔などの石造物が出土しています。これらには火をうけた痕跡が認められるとともに、多くの石材が投棄されたような状態で見つかっています。

 元亀3年(1572)織田信長の命をうけた明智光秀は、「饗庭三坊の城下まで放火し、城を三箇所落とした」ことを書状に記しています。

 発掘調査で見つかった吉武城跡の堀跡からの出土物は、落城や城の廃絶が推測できる資料として注目されます。

                      出典:高島市発行「広報たかしま」平成24年12月号

駐車場

グランドの周囲は堀痕か?

周り田地より約1m高い。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、高島市広報

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井ノ口館(清水山城館)  近江国(新旭)

2016年04月17日 | 館跡

お城のデータ

別 称:清水山城館・本堂谷遺蹟
所在地:高島市(旧:高島郡)新旭町井ノ口蓮池  map:http://yahoo.jp/-NYVkv
現 状:森林
区 分:城館

築城期:室町期 
築城者:佐々木高島四

遺 構:郭・空堀・土橋・土塁・井戸・現地説明板
標 高: m  比高差:ー
目標地:大荒比古神社

駐車場:大荒比古神社本殿前に駐車
訪城日:2016.4.16

国指定史跡

お城の概要

 井ノ口館は、大宝寺山南麓にある西佐々木氏(高島氏)の氏神大荒比古神社の東側に築かれている。

天台寺院の大宝寺坊院跡を利用して城砦化したと考えられ、空堀と土塁が囲繞する方形の曲輪(屋敷)を幾つも統合して一つの城郭とする縄張りで、清水山城の居館群と共通する縄張りとなっている。

 館跡の一部が宅地化され遺構が消滅しているが、神社から谷を隔てた館の北西部から北側にかけて土塁・空堀・土橋等の遺構が良好な形で残っている。 また、館の北東部角には土塁と堀が残り、この切岸と土塁は高さもあり見応えのある遺構だ。 


大荒比古神社の本殿の東側に説明板があり沢の対面は土塁で進むと、広範囲な領域の館跡と巨大な空堀。館跡は綺麗に整備され、「オオイワカガミ」が満開で、「土塁」「空堀」「井戸」の表示板で非常に見学し易い遺構であった。

宮司さんの話では、「大荒比古神社」の鎮守の森で、遺構は残存状態が非常に良い。曲廓は多くの土塁と空堀で区切られる。その間には空堀と土塁が巡る。特に、北側の端の空堀は幅7m・深さ2m超、100mは続く。その空堀・土塁・土橋は明瞭に残存する。元は寺坊でり、空堀、土塁は清水山城の居館部分として利用か?寺坊と城館の区別は無理・不明である。現在は中央が宅地化され、東西に分断されて、大きな区域にある不思議な城館遺構・寺坊遺構だ。

お城の歴史

清水山城の佐々木高島氏の居城の山麓にある館だが、詳細不明の城館で、ただ、「大宝寺」寺坊があったとも伝わる。

井ノ口館は、築城年代や築城者など詳細なことは定かでないが、永禄年間に清水山城が改修された同時期に築城あるいは改修された可能性が高い云われている。

 元亀4年に織田信長が高島郡を攻略した際、清水山城共々落城した。

 

オオイワカガミ満開でした!大荒比古神社の裏にタムシバが1本咲いてました。大荒比古神社に戻り、宮司見学のお礼言って!

帰り道脇の現地説明板が在りました!

井ノ口館・・・遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査8.高島郡志

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山本館 近江国(日野)

2016年04月16日 | 居館

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町山本   map:http://yahoo.jp/yiVmdu

現 状:集落・宅地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:山本氏

遺 構:

目標地:山本会議所

駐車場:山本会議所に駐車

お城の概要

蒲生郡日野の山本館は、小谷城に近く、

「江州佐々木南北諸士帳」に、小谷住 蒲生末 小谷次郎三郎の名が見える。蒲生氏の支流小谷氏の居城で

「蒲生旧趾考」には蒲生氏は、初め小谷山城にいたと記している。
 南北朝時代、蒲生氏が南朝に味方したとき、高師泰に攻められて落城している。この時山本九郎兵衛も闘死したか?

お城の歴史

『近江蒲生郡志』(巻三)には「月岡山は北比都佐村大字山本に在り、山本氏居住の地にして小丘たり、山本九郎兵衛は永禄七年九月亡すこの地墓在りと蒲生奮跡考に見ゆ」と記す。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、近江蒲生郡志、 遺跡ウォーカー

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内池館(内池城)  近江国(日野)

2016年04月15日 | 居館

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町内池    map:http://yahoo.jp/52Ibj1

現 状:宅地・藪地

区 分:居館

築城期:

築城者:

遺 構:竹藪に堀痕・土塁痕

目標地:鈴休神社

駐車場:鈴休神社前の路上駐車

訪城日:2016.4.8

お城の概要

日野駅の南東1.7km先の右手が「鈴休神社」で、神社の裏手に竹藪が残る、ここも城跡遺構の一部で西端のようだ。

御代参街道(江戸期に完成した)に面した北側で、内池集落内が城域は100m程の方形だった可能性が残る。

また、馬渡氏城/対馬守邸・土居/馬渡氏館と隣合わせで蒲生氏の臣の城館か?

お城の歴史

詳細不明。

遺跡ウォーカーの比定地周辺

鈴休(すずやみ)神社

飛鳥から大津京へと都を遷した天智天皇がさらに美しい都を求めて、この地へ来られ馬を休めたところが社地になったと伝えられているようです。

天智天皇が旅の途中で休まれた故事に!

始めて見る狛犬!

大日堂

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、 城郭分布調査3、 

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馬渡氏城(対馬守邸・土居/馬渡氏館) 近江国(日野)

2016年04月15日 | 居館

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町内池    map:http://yahoo.jp/VpmzGV

現 状:宅地・畑地

区 分:居館

築城期:室町期?

築城者:馬渡氏・

遺 構:ー

目標地:鈴木神社・照光寺

駐車場:鈴木神社前の路上駐車

訪城日:2016.4.8

お城の概要

『近江蒲生郡志』(巻三)には、「内池村の東に在るを馬渡二郎右衛門の邸跡といひ、西に在るを対馬為綱の邸跡といふ、二郎右衛門の邸辺に馬渡の清水馬渡の橋等の名残れり、・・・為綱の邸は四方土居を回らして密竹其上に叢生(そうせい)す、故に高薮又は対馬土居といふ」とし「近江日野町志」(下巻)には、「保障残れり対馬殿の曲廓と称す」とあって少なくも伝対馬守館跡は明瞭な遺構が存在したと思われるが、現在「馬渡講」という真宗門徒の講があるのみ。なお、郡志は、「高い声すなどんどをいふな、前は高薮殿近く」という「土謡」を伝えている。 

お城の歴史

『近江蒲生郡志』には、「馬渡氏邸跡 馬渡対島守は蒲生氏の臣なり、代々居住の邸跡は北比都佐村大字内池に在り。」と記す。


蓮如桜の由来

建長3年(1251年)に執権・北条時頼が上洛の途中に当地に 逗留 ( とうりゅう ) したとき庭前の桜を愛観し、扇子に和歌を 詠 ( よ ) み 桜花 ( おうか ) を載せて佐々木 信治 ( のぶはる) に与え、「之を家紋に、また佐々木を改めて花木を姓とすべし」と命ぜられた由来をもつ山桜の一種『虎の尾』で、可憐な八重咲きが特徴です。

応仁元年(1467年)に本願寺第八代・蓮如上人が当寺へ来られた時、上人もまた深く賞覧せられたゆえに、世に名付けて『蓮如桜』と呼ばれています。

 照光寺は、應仁二年(1468年)近江源氏の始祖、源扶義卿より十九世の子孫である、花木吉成によって創立された寺院です。

 鎌倉時代の宝治元年(1247年)に佐々木信治が戦功によってこの地に住み、北條時頼公の上洛の途次に、信治の館舎(當寺)に停留の時、庭前の櫻花を愛観され、自ら扇子に櫻花を載せ、信治に与えてこれを家紋とし、また佐々木を改めて花木を姓とすべきと命じられました。

室町時代、もともとは武士であった吉成が、文正元年(1466年)本願寺第八世・蓮如上人(慧燈大師)が山門僧兵の難を逃れて、當地に来られた際に出遭い、蓮如上人の高徳を慕って弟子となり、光國坊了明という法名を賜り、常に蓮如上人のそばで大いに蓮如上人の化導を助け、蓮如上人が北越に還させられた後は、専ら面授口決の宗義を弘め、遂に花木寺を創立するに至りました。

永正八年(1507年)、嗣子了欽のとき、本願寺第九世・寶如上人より、父光國坊、宗義の宣布の功を賞し、宗祖・親鸞聖人(見真大師)の真影と、照光寺の寺号を賜り、花木山・照光寺となりました。

照光寺駐車場

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、城郭分布調査3、城郭分布調査4、近江蒲生郡志、近江日野町志

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建部城   近江国(八日市)

2016年04月14日 | 居館

建部城

 一つ目の比定地(遺跡ウォーカー)建部城遺跡:遺跡ウォーカー

お城のデータ
所在地:東近江市(旧、八日市市)建部上中町  map:http://yahoo.jp/lspa9X
  一つ目の比定地(遺跡ウォーカー)
現 状:神社・水田
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:建部氏
遺 構:
目標地:天神社
駐車場:神社前に路上駐車
訪城日:2016.4.11

二つ目の比定地(遺跡ウォーカー)建部城跡 [ 詳細情報 ]
所在地:東近江市(旧、八日市市)建部上中町447  map:http://yahoo.jp/fI_hqR
現 状:竹藪・水田
目標地:東近江市勤労福祉センター
駐車場:東近江市勤労福祉センターに駐車
訪城日:2016.4.16

お城の概要
『滋賀県中世城郭分布調査4』の「建部城」、現在城跡を確定する痕跡は全く知ることはできない。但、明治の始めまで上中南町の硝煙作に土塁が認められたいう。この隣接地には「南門」「嘉城門」の地名が残っており、さらに南には殿街道が知られている。また土塁所在地の北に位置する大鯛は砲台ではなかったかと言われており、北西には砲前・的場の地名が残る。以上のように当地には広域渡って城の存在を暗示させる地名が知られた。しかし、かつて存在した土塁の新古が判明しないいま城跡の位置は確定しがたいといえる。
 箕作山魂の箕作山の東の建部庄郷上中村の付近を比定地され、圃場整備で遺構喪失したようだが、天神社の鎮守の森に城郭遺構らしき物が残る
 滋賀県東部、近江盆地(湖東平野)に位置する。町域の東部を愛知川、北部を繖山(主峰は観音寺山)・清水山、西部を箕作山(小脇山)、中央部は平地が広がる。五箇荘町南部は旭村を構成していた山本・新堂・木流・平阪・伊野部・奥・三俣・北町屋・石塚建部地区とつながりが深く、春には両地区合同で祭礼(建部まつり)を行う。
お城の歴史
『淡海国木間攫』には、神崎郡 建部庄 「古ハ建部氏居住ス、後孫中古建部伝内トテ筆道ニ達シタル人有、木流村ニ居住ス、屋敷跡今ニ有ト云、」と記す。
南近江 国人領主 建部氏

建部賢文 (1522~1590)建部秀昌の息、兄は秀治。箕作城主。のちに書家として大成する。

建部秀明 (*~*1568)源八郎。1568年織田信長の上洛軍に対して、六角義治に忠節を尽くし徹底抗戦し落城。観音寺城の前衛・箕作城主。

⇔建部寿徳 (1536~1607)与八郎・内匠頭・高光・秀栄。蒲生郡の土豪。織田家に臣従する。中川重政の与力。・丹羽与力。守山にて500石を与えられる。変後、秀吉に出仕。<じいさんっぽい名前ですが、丹羽・羽柴世代。>



建部氏の一族の居館か?

『信長公記』巻三(元亀元年)10月20日条に記載あり
ーーーーー江南では六角承禎親子がふたたび起こり、甲賀口の三雲氏居城菩提寺城まで寄せてきたが、人数が少なく戦の体にならなかった。また江州の本願寺門徒も蜂起し、濃尾方面への通路を閉ざそうとしたが、百姓のことゆえ人数は多くとも脅威にはならなかった。
 木下藤吉郎と丹羽長秀の両名は、江南の各地を転戦してこれらの騒擾を鎮めた。そして小谷城付城の横山城と佐和山城付砦の百々屋敷に十分な守備兵を残し、みずからは志賀へ参陣すべく西上した途中の建部には一揆勢が砦を構え近隣の箕作山・観音寺山と連携して通路を塞いでいたが、両人は一戦してこれを蹴散らし、難なくまかり通った。----

[尊経閣文庫所蔵文書]
**源頼朝下文
     (花押)
  下 近江国建部庄住人
   早く往還武士寄宿の間の狼藉を停止せしむべき事
  右件の所は、日吉社領と云々。而るに往還の武士止宿の間、或いは乗馬を放ち入れ、
  或いは作田を苅り取り、しかのみならず粮料と号し、御供米を押し取るの旨、その聞
  こえ有り。自今以後、件の寄宿狼藉を停止せしむべし。もしこの旨に背き、違背せし
  むの輩有らば、慥に交名を注し、言上せしむべきの状件の如し。以て下す。
    文治二年閏七月二十九日 ・・・・『吾妻鏡』より

 中世には大きく分けて、建部荘(日吉社領→建部社領)・山前荘(日吉社領→延暦寺領→皇室領)・小幡荘(藤原氏領)の三つの荘園があり、六角氏が守護大名として支配した。六角氏の本拠地に隣接するため町域各地に城砦が築かれ、のちに織田信長との観音寺城の戦い【箕作城(清水山城)の戦い】では町域全域が戦場となった

 室町時代には東山道に近い小幡三郷(現在の小幡・中・簗瀬)から商人が起こり、伊勢方面で活動する四本商人(保内・石塔・沓掛・小幡)と若狭方面で活動する五箇商人(八坂・薩摩・田中江・高島南市・小幡)の二つの商業集団に属した。商業利権を巡って保内商人との争いが絶えず、小幡商人は徐々に衰退する。

 江戸時代には、初期は幕府と彦根藩、貞享2年(1685)以降は彦根藩と郡山藩が領有した。彦根藩の商業自由化政策もあって、享保以降、金堂・川並・山本・宮荘など町域各地から多くの商人が発生した。

元亀天正の兵乱により戸籍神宝等焼亡或は紛失しているが建部郷の・・・・。

土塁?土塁?、神社土塁?

天神社の周り神社土塁?、堀痕}

 

二つ目の比定地(遺跡ウォーカー)建部城跡 [ 詳細情報 ]
所在地:東近江市(旧、八日市市)建部上中町  map:http://yahoo.jp/fI_hqR

現 状:竹藪・水田

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:建部氏

遺 構:塁痕・堀痕・廓跡

目標地:東近江市勤労福祉センター

駐車場:東近江市勤労福祉センターに駐車

訪城日:2016.4.16

建部氏に一族の居館か?

この一角だけ、竹藪・荒地地で残る。遺構は土塁痕・堀痕・廓跡のようが

建部氏の本幹地は、建部城は建部城(建部伝内屋敷) 近江国(五個荘・木流) 建部城遺跡:遺跡ウォーカー

『佐々木南北諸氏帳』には、「神崎郡 木流 佐々木隋兵 建部源八郎・近江三筆 建部伝内・建部才八郎・建部左近将監・建部大蔵・建部大蔵夫」6人の名を記す。

『淡海国木間攫』には、神崎郡 木流村 「古此所ニハ建部伝内ト云人居住ス、筆道に達人ニシテ伝内流ノ元祖也、古屋敷跡今残レニト云、」と記す。

『淡海国木間攫』には、神崎郡 建部庄 「古ハ建部氏居住ス、後孫中古建部伝内トテ筆道ニ達シタル人有、木流村ニ居住ス、屋敷跡今ニ有ト云、」と記す。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡の城)、信長公記、吾妻鏡、
 本日の訪問ありがとうございす!!

勝島城 近江国(愛東)

2016年04月13日 | 平城

勝島城は、「滋賀県中世城郭分布調査報告書」には、城郭分布図に「比定地と勝島城」のみ、解説・踏査図は無い

近江愛智郡志より

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)小倉町 map:http://yahoo.jp/axZK7V
現 状:畑地
区 分:平城
築城期:
築城者:
遺 構:愛知川崖・基壇・廓・堀痕・石垣
標 高:172m  比高差:ー
目標地:県道217号線で分断され愛知川に突き出した愛知川崖の鉄塔
駐車場:農道に路上駐車
訪城日:2016.4.16
お城の概要
 旧愛知郡愛東町小倉集落の南東に位置し、県道217号線で分断され愛知川に突き出した愛知川崖の位置する。勝島城は、近江愛智郡志の挿絵図には、小倉城の西の愛知川崖に「水掘りれ四方を囲う単郭城」であったようだ、小倉城の出丸・支城か?
愛知川崖に基壇状に廓に【勝島城址】の城址案内板は、旧愛知郡愛東町の城跡で「鯰江城・小倉城と勝島城」のみ。
お城の歴史

詳細不明。だが、
小倉城は、 小倉氏は清和源氏満季流といい、承暦年代(1077~1080)、小倉景実が愛知郡小椋庄に小倉城を築いたのが、そもそもの始まりと伝えられている。以来、小倉氏は小倉城を拠点として、愛知・神崎・蒲生三郡の東部に勢力を築いていった。

 『蒲生系図』によれば、源頼朝の旗揚げに馳せ参じて功を上げ、近江守護となった佐々木定綱の室は蒲生俊綱の姉であった。そして、俊綱の娘が小倉九郎の室となっている。このことから、小倉氏が鎌倉時代初期においてすでに相当の勢力を有していたことが知られる。以後、小倉氏は佐々木、蒲生氏と鼎立する勢いを示し、東近江における一方の雄として続いた。とはいうものの、小倉氏の事蹟が記録などから知られるようになるのは、応仁の乱当時を生きた小倉左近将監実澄の代にいたってである。

 ちなみに、小倉氏の出自に関しても諸説があり、『近江愛知郡志』では
 (1)小椋實秀の裔にて菅原氏
 (2)清和源氏多田満季の裔より出たもの
 (3)佐々木満綱の子孫より出た家
の三説を紹介し、(1)に関しては小倉氏の家紋「梅鉢」からうなずけるところだが小椋實秀なる人物が確認できないこと、(2)に関してはその根拠となる系図が南北朝時代で終わっていてそれ以降を継承する正本系図が存在しないことを注記して、それぞれ疑問を呈している。そして、『尊卑分脈』の小椋源氏系図、個人所蔵小椋氏系図を掲載している。
 一方、『近江蒲生郡志』では、蒲生氏の一族として小倉氏を取り上げ、「小倉氏は愛知郡小椋を本拠とする清和源氏なり」として、蒲生氏と小倉氏の関係系図と小倉氏系図一本を併載している。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、ウィキペディア(Wikipedia)』、近江愛智郡志、近江蒲生郡志

      今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


湯屋城    近江国(湖東)

2016年04月12日 | 平城

湯屋城

比定地の水田

お城のデータ

所在地:東近江市(旧・愛知郡湖東町)湯屋町  map:http://yahoo.jp/G2dG_y
現 状:田地
区 分:平城 
築城期:織豊期
築城者:中井新之亟か?
遺 構: 不明
目標地:多聞寺
駐車場:農道に路上駐車
訪城日:2016.4.12
お城の概要
湖東平野の百済寺にちかく、また多聞寺の近くに比定地されているが、今は圃場整備で城址・遺構は確認出来ない。
お城の歴史
『淡海国木間攫』には「愛知郡 湯屋村 昔中井新之亟ト云、平松村城に有シ新之亟ト同人不明成、左屋敷跡アリト云、此所ノ領主タルベシ、」と記す。
『佐々木南北諸氏帳』には、「愛知郡 湯屋 佐々木義賢兵 中井新之亟」の名を記す。
『大洞弁天当国古城主名札』に湯屋村屋敷主とそて中居新之亟の名がみえる。

百済寺が要塞化していき、池尻館や湯屋城と共に支城的役割を担ったか?。

 湯屋山 多聞寺 527-0103 滋賀県東近江市湯屋町
 資料によると「多聞寺は東押立村大字湯屋にあり、天台宗なり。本尊多聞天なり開基年月詳ならず。大字共有古記に境内9畝22歩高壹石斗1升4合。堂24坪とあり。大正元年暴風に轉倒し同11年現在の地に移転新築す。」とある。
 多聞寺が建立される以前は、普門寺という百済寺の末寺があったが、鯰江城の戦いで百済寺と共に信長によって焼かれた。
 平成4年、多聞寺の各仏像を修復された時、釈迦如来像の台座から次のことが記録されていた。『釈迦像を造立することは南山の願いであった。仏像を造るための資金を勧進したところ、丁銀三文目出来た。南山は頼右衛門と云う。南山の弟子春冬が銀子一文目出して助力した。元和4年(1618)戊午の4月8日(丙刀の日)午前11時より午後3時の間開眼した』と記されていた。以上の記録より普門寺は信長によって焼失してから50年近くたって南山によってお釈迦さんの仏像を造立して開眼されている。南山はこの当時多聞寺の住職であった。
 この記録からして多聞天を本尊とする多聞寺は、すでにこの年以前に再建されているので、400年近い歴史があることになる。
 現在は地区公民館内(多聞寺所有地)に一室が仏間として設けられ、下記行事の他、毎月行事が行われ、ボンサンと呼ばれる係員(1年交代)が1年間本尊多数体の尊像の給仕をしている。 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査5「旧愛知・犬上郡の城」、遺跡ウォーカー 『日本城郭大系』11。 
  本日の訪問ありがとうございす!!

川並館 近江国(五個荘)

2016年04月12日 | 居館

お城のデータ

所在地:東近江市五個荘町川並  map:http://yahoo.jp/XlS5gX

区 分:居館

現 城;宅地

遺 構:不明、塚本の八幡神社の東「川島皇子邸阯」あり

築城期:室町期

築城者:川島氏

目標地:老人ホーム「清水苑」

駐車場:(老人ホーム「清水苑)近くの比定地付近

訪城日:2013.5.13・2016.4.10

お城の概要

川並地区の「結神社」に近くの老人ホーム「清水苑」「児童公園」の北東に道を挟んで比定地ある。

今は、静かな住宅が並ぶが、比定地は空地となっている。

また、塚本の八幡神社に東に

 

お城の歴史

『淡海木間攫」には、「神崎郡 川並村 此所に川島掃部介ト云人住ス、屋形近習ナリ、昔川島王子ニ隋来ル筋ナランカ、」と記す。

高橋対馬の名があるようです

児童公園




塚本の八幡神社(屋形近習ナリ、昔川島王子ニ隋来ル筋」

隣の八幡神社の由緒

 

川島皇子の邸阯

参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査 4 旧蒲生・神崎郡の城 、淡海国小間攫、塚本の八幡神社由緒(川島皇子の邸阯)

  今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


塚本館 近江国(五個荘)

2016年04月12日 | 居館

比定地

 

比定地

所在地:東近江市(神崎郡)五個荘塚本町    map:http://yahoo.jp/_TDGdI                                                      

現 状:畑地・宅地

遺 構:土留め石垣か?消失か?

区 分:居館

築城期:不詳

築城者:塚本民部丞

目標地:三方よし会館・八幡神社

城 主: 塚本民部丞

駐車場:三方よし会館に駐車場

訪城日:2015.4.11・2016.4.10

お城の概要

繖山東麓にあった「山前(やまさき、やまざき、やまのまえ)荘」が鳥羽院政期(12世紀)に「山前五個荘」と称されたことに由来する。

五箇荘の、「五」は、山前荘に主要な荘園が五つ所在していたことによる。該当する荘園については、一つに南荘(現在の金堂・川並・塚本・石馬寺付近)・北荘(現在の宮荘付近)・東荘(現在の竜田・北町屋・石川付近)・橋詰荘(現在の七里・石馬寺付近。橋爪荘とも)・新八里荘(未詳)を指すとされる。「空閑(こかん)」の転訛であるとの説もある。

お城の歴史

「淡海国木簡攫」に、塚本村 「大古 塚本民部丞ト云居住セリ、此家に天下名物ノ皷ヲ持伝タリト」記す。

 

 

周辺の社寺

隣の八幡神社の由緒

川島皇子の邸阯

 

参考資料:『淡海国木簡攫』・『滋賀県中世城郭調査分布』

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!! 


近江の目賀田氏の一族としての三井氏

2016年04月11日 | 武将

近江の目賀田氏の一族としての三井氏


 「三井系図」は、御堂関白藤原道長の子の長家から系を始めるが、その概要をまず説明すると、「長家-忠家-基忠-信忠」と続き、ここまでは『尊卑分脈』にも見えて問題がない。なお、基忠の弟の俊忠の系統が歌人を輩出した御子左家で、俊成-定家と続いて公家堂上の冷泉家につながる。
 さて、信忠は実は三条源氏の小一条院敦明親王の孫から養子になったと『尊卑分脈』に見えるが、その子孫は藤原氏にも三条源氏にも記事が見えない。一方、「三井系図」は信忠の後も続いて、その曾孫の右衛門尉信俊が鎌倉前期の仁治二年(1241)死去したもので近江国目賀田庄に居住したと記し、その子に信成・信長・定信の三人をあげて、定信の孫に目賀田弾正忠定義・三井蔵人信堯兄弟をあげる。ここに見るように、近江の三井氏は、室町期に近江佐々木氏の重臣であった目賀田氏の一族ということで、この辺からの検討が必要となるわけである。
 目賀田氏の系図はいま殆ど伝わらない。一伝に、藤原道長の兄・右大将道綱の次男中将道忠が京から近江に移り目賀田山を拓いて住し、道忠の後は道信、信忠と続き、信忠が初めて目賀田を称したといもいうが、こうした系図は『尊卑分脈』に見えないから、明らかに仮冒である。しかも、同じ藤原北家流とはいえ、先祖を道綱として所伝に差異があり、系譜のいい加減さが分かる。
 そこで、どこに系図仮冒があるかを探ると、目賀田庄に居住したという右衛門尉信俊に疑問があり、同人は後に定俊に改めたというから、おそらく、原型では信俊と定俊とは別人であって、「三井系図」は、①藤原氏の右衛門尉信俊その子信成・信長という系図に、②目賀田氏の定俊その子定信という系図を接合させたとみられる。そうすると、鎌倉前期の目賀田定俊が同氏の初出ということになる。
 
 目加田氏は南北朝期ごろから『太平記』などの史料にその活動が見えており、『歯長寺縁起』の元弘三年(1333)七月に明石で佐々木の郎頭目賀田が進み出て云ったと見える
この辺が史料の初出で、南北朝争乱のなかで目賀田五郎兵衛信職(入道玄向)・同五郎兵衛信音父子や道誉入道の頃の佐々木家人の藤原(目賀多か三井)信良があげられ、後者は「作者部類」の六位ノ部に見える。目賀田信職父子は「三井系図」に見えないが、三井信良は同系図には上記三井蔵人信堯の子にあげられる。また、目賀田弾正忠信良が『参考太平記』の貞和三年(1347)九月に見え、同六年に弾正忠入道玄仙が佐々木氏頼の命で守護使らの竹生島での濫妨を停止させ、永和二年には近江守護代を務めている。この信良は二郎左衛門、弾正忠、玄仙などの名前からいうと、目賀田弾正忠定義の子で五郎兵衛信職(玄向)の兄か。
 さて、目賀田氏は蒲生郡目賀田に起ったとされ、後年、織田信長が築いた安土城の地が「目賀田山」といったというから、この辺りが目賀田の苗字の地とみられる。目賀田城は箕作城・和田山城と共に、佐々木六角氏の居城観音寺城の重要な支城を構成したが、六角氏が滅び、さらに浅井長政が信長に滅ぼされた後は、目賀田氏は信長に属し、天正四年(1576)に信長の安土築城の際に愛智郡光明寺野に移住して新たに目賀田城を築き、この辺りが目賀田村といわれ、現在の目加田(現愛知郡愛荘町の大字)となっている
 目賀田氏の後裔は江戸期に旗本になり、その一族から明治に男爵となった目賀田種太郎(勝海舟の女婿。大蔵省主税局長、東京弁護士会長、専修大学の創設者)が出ている。また、山陰の尼子氏の重臣にも目加田氏があり、これは尼子氏に随従して近江から移住したとみられる。
 話を少し戻して、目賀田五郎兵衛信職(入道玄向)は、元弘三年(1333)、足利尊氏の六波羅攻めに従軍して戦功があり、建徳元年(1370)には神郷(東近江市東部の神郷町)の地頭職を子に譲っている。
信職はまた近江八幡市の日牟礼八幡宮の神主も務めたという。信職の後継者の五郎信音は、佐々木氏のもとで近江守護代に任じられ、禁裏の警護役を務め、応永元年(1394)時には日牟礼八幡宮神主であった。
 明徳三年(1392)の京都相国寺供養の際には、近江守護佐々木氏も参列し、その家人のなかに目賀田六郎左衛門尉頼景、目賀田次郎左衛門尉兼遠の名が見える。このことから、目賀田氏は藤原姓のほかに源姓を称する家があったことが分かる(兼遠は二郎左衛門信良の子孫で、目賀田嫡宗か。おそらく遠江守と見える者、山城守護代でもあったか)。
 これでますます目賀田氏の系譜が混乱するが、その出自は近江古族の末裔で、神郷から安土城、日牟礼八幡宮あたりにかけての蒲生郡地域に勢力をもった氏族とみられる。日牟礼八幡宮の神主職は、はじめ市井(櫟井)氏が務め、十四世紀以降は目賀田氏に相伝されたから、目賀田氏も櫟井の同族とするのが自然である。徳治三年(1308)八月二六日付け近江比牟礼八幡神社文書に「目賀田女房」に所領譲渡の件が見える(『鎌倉遺文』23362)。
 日牟礼八幡宮は蒲生郡式内の奥津嶋神社・大嶋神社の系譜を引くものとみられ、これらは大国主神・宗像女神を祀るから、海神族の流れを汲む和珥氏族の櫟井臣というのが目賀田氏の本来の出自か(こう考えれば、メカタは目形ないし目加手の意で、「安曇目」という海神族独特の風習で目の縁の入れ墨に由来したものか。海神族には胸形〔宗像〕という装飾もあった)。上記の地域には、市井・間野(真野)・八木・船木・長田・安土(安曇)・住吉といった海神族ゆかりの地名が多く見える事情にもある。

 
3 近江の三井氏の系図

 目賀田氏について詳しく見たが、三井氏もなかなか有力で、戦国期の三井新三郎安隆が拠った小脇城は箕作山南麓の重要拠点であった。応永二三年(1416)には守護の佐々木六角四郎満高のもとで近江守護代三井と見える(『空華日用工夫略集』)。そうした事情のもと、三井信良の五世孫(-定良-定道-義堯-定乗-乗定)にあたる出羽守乗定の養嗣(女婿)に、佐々木六角本宗の大膳大夫満綱(満高の子)の子の六郎・備中守高久(高昌)が入り、その子が三井出羽守実忠、その子が上記新三郎安隆とされるが、この系のうち、高久以降には疑問も残る。また、備中守高久は愛智郡鯰江城を築いて鯰江とも号し、その子が同地に居して鯰江左近将監高昌(尚昌、高治)といった。その四世孫には豊後佐伯藩祖となった毛利(森)勘八郎高政が出たともいうが、毛利高政の系には疑問がある。
 出羽守乗定の孫という備中守乗高(実は高久同人か?)の子弟の定条の三世孫には貞虎が出たといい(三井出羽守乗綱の子という)、藤堂氏の養子に入って藤堂源助を名乗ったが、これが伊勢津藩祖の藤堂高虎の父になる。藤堂高虎の系には諸伝あり、佐々木六角本宗から出た備中守高久の子孫とするもの(定条を高久の子弟ともいう)もある。実のところ、この辺の高久周辺の人物には、多大な混乱がみられ、戦国期の三井氏の系図も確定しがたい。
 三井氏は氏祖の蔵人信堯が住んだ滋賀郡三井郷の地名に因むといい、信堯は辛崎合戦(志賀唐崎)で討死したと「三井系図」に見えるが、三井氏が一貫して蒲生郡にあることから見て、疑問がないでもない。三井氏の一族は越中や三河に分かれたと同系図に見えており、常徳院(将軍足利義尚)の「江州動座着到」に越中の三井左京亮が見える。越中の三井氏は、信堯の孫の豊前守信則が越中森尻地頭と見え、その子に左京亮信房が見えるから、将軍義尚に随従した三井左京亮とは信房本人かその子にあたるとみられる。こうした記事から見ても、「三井系図」はかなり信頼性があるように思われる。
  三河の三井氏は、家康に仕え、その後は紀州藩に属したという形で六代を続けるから、同系図では三井系統のなかでは最も後世まで系を伝えたことになる。具体的には、出羽守乗定の弟の九郎左衛門尉乗春が三州八幡村に遷り、その子氏春-光時-光忠と続いて、この孫左衛門光忠が家康に仕え、その子の孫左衛門光正が大坂役に参陣し紀州家に属し、その子の勘左衛門高栄の代で系が終わっている。
 一方、江戸期の旗本三井氏は、豪商三井家と同じく祖を越後守高安とし、江州鯰江から来て源姓だと『寛政譜』にいうから、源姓佐々木氏から入った備中守高久の子孫ということ(主張?)であろう。この系が正しければ、備中守高久の孫くらいの位置に越後守高安の祖父という越後守高重があたるのかもしれないが、この辺は明確ではない。また、三井五郎高重という者が応永八年の近江守護京極民部少輔高光のもとで「進士文書」に見えており、越後守高重との関係も不明である。
 以上のように見ていくと、とりあえずの結論としては、『諸氏本系帳』所収の「三井系図」は、紀州藩士三井氏に伝わる系図を基にして、これに先祖が明確ではない伊勢出身の豪商三井家の系図を、鈴木真年翁が同家の系図編纂時に接合させたものとみられる(三井家も有力三家が男爵を授かり華族に列したから、系図を整える必要性があったとみられる)。そのせいか、近江の三井本宗にあたる新太郎安隆に豪商家祖の高安をつなぐものの、実際の安隆の子孫(石見守時高などか)の記載がないという事情にもある。

堀之内館/堀之内城   近江国(五箇荘)

2016年04月11日 | 居城

堀之内館跡/堀之内城

お城のデータ
所在地:東近江市(旧神崎郡)五個荘伊野部町堀の内 
堀ノ内館map:http://yahoo.jp/zSjGRk  
     旧、神崎郡五個荘町大字伊野部    
堀之内城map:http://yahoo.jp/ZSej18
現 状:山麓・水田
区 分:城館
築城期:織豊期
築城者:山本氏
遺 構:廓・土塁・堀
目標地:瓦屋寺口バス停・伊野部集落
駐車場:農道に路上駐車
訪城日:2016.4.10
お城の概要
箕作山魂の箕作山頂より東に伸びる舌状先端部の山麓に「堀之内城」は位置する。

五箇荘:滋賀県東部、近江盆地(湖東平野)に位置する。町域の東部を愛知川、西部を繖山(主峰は観音寺山)、南部を箕作山、北東部を和田山によって画され、中央部は平地が広がる。平地では東部に大同川(だいどうがわ)、西部に天保川(てんぽうがわ)、北西部に瓜生川(うりゅうがわ)が流れる。東地区[五箇荘町南部]旭村を構成していた山本・新堂・木流・平阪・伊野部・奥・三俣・北町屋・石塚と旧安土町の清水鼻からなる。中心集落は山本で、旧村時代には役場や小学校が置かれていた。隣接する八日市市建部地区とつながりが深く、春には両地区合同で祭礼(建部まつり)を行う。

お城の歴史
『佐々木南北諸氏帳』に、「蒲生郡(神崎郡?) 伊野部 佐々木義輝公隋兵 山本將監」の名が見える。『佐々木義輝公は足利義輝か?
五箇荘は、中世には大きく分けて、建部荘(日吉社領→建部社領)・山前荘(日吉社領→延暦寺領→皇室領)・小幡荘(藤原氏領)の三つの荘園があり、六角氏が守護大名として支配した。六角氏の本拠地に隣接するため町域各地に城砦が築かれ、のちに織田信長との観音寺城の戦い【箕作城(清水山城)の戦い】では町域全域が戦場となった

 室町時代には東山道に近い小幡三郷(現在の小幡・中・簗瀬)から商人が起こり、伊勢方面で活動する四本商人(保内・石塔・沓掛・小幡)と若狭方面で活動する五箇商人(八坂・薩摩・田中江・高島南市・小幡)の二つの商業集団に属した。商業利権を巡って保内商人との争いが絶えず、小幡商人は徐々に衰退する。

 江戸時代には、初期は幕府と彦根藩、貞享2年(1685)以降は彦根藩と郡山藩が領有した。彦根藩の商業自由化政策もあって、享保以降、金堂・川並・山本・宮荘など町域各地から多くの商人が発生した。

室町幕府第13代征夷大将軍『足利義輝』
 出生から将軍まで
第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれるが、「後法成寺関白記」によると誕生直後に外祖父・近衛尚通の猶子となる。この頃の幕府では父・義晴と管領・細川晴元が対立し、義晴はその度に敗れて近江坂本に逃れ、それに義輝も度々従った。その後も父とともに京への復帰と近江・坂本(現・滋賀県大津市坂本)や朽木(現・滋賀県高島市朽木)への脱出を繰り返している。 
 義輝は天文15年(1546)12月、父・義晴から将軍職を譲られ、僅か11歳にして征夷大将軍になる(但し、将軍就任式は京都ではなく、亡命先の近江・坂本の日吉神社(現日吉大社)で、祠官樹下成保の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服。またその時、「義輝」ではなく、「義藤」と名乗った)。・・・・天文22年(1553)に長慶と対立していた細川晴元と協力して長慶との戦いを始めたものの、敗北して近江・朽木に逃れ、以降5年間をこの地で過ごした(しかし、これもまた長慶と対立していた細川晴元の傀儡にされてしまったと言えなくもない)。なお、亡命中の天文23年(1554年)2月12日に名を義輝に改めている
近江幕府(桑実寺など)

大永6年(1526)・・・・義晴は細川高国や武田元盛をない伴近江にれた。

 享禄元年(1528)には朽木稙綱を頼って朽木:興聖寺に落ち延び、若狭の武田元光らの軍事力を背景に、三好元長らが擁立した堺公方・足利義維と対立した。しかし享禄4年(1531)、細川高国は中島の戦い及び大物崩れで敗れて自害する。

戦後、今度は晴元と元長が対立、天文元年(1532)に元長が晴元と手を組んだ一向一揆によって討たれた後(享禄・天文の乱)、京都より近江の観音寺城の山麓桑実寺境内に約3年にわたり幕府を移す。それは朽木の時とは違い、奉公衆奉行衆を引き連れた本格的な幕府の移転であった。

天文3年(1534)中には六角定頼・義賢父子の後援を得て晴元と和解し、帰京した。しかし、その後も晴元と対立して敗れた後、和解して帰京するといった行動を繰り返しており、天文10年(1541)には近江坂本に逃れ、天文11年(1542)には京都へ帰還。天文12年(1543)には近江に再び逃れるなどしている。

堀之内城



北に箕作城(清水山城)・・・山上の鉄塔下が本丸

堀ノ内館の比定地(地頭尊)
県道沿いの地蔵尊
県道から・・・堀ノ内城遠景
瓦屋寺口の地蔵尊目標地のバス停・・・山麓添い農道を西へT字路が『堀ノ内城』の比定地

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、後法成寺関白記 、Wikipedia
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上田氏館   近江国(近江八幡)

2016年04月10日 | 居館

上田氏代々の居館

お城のデータ

所在地近江八幡市上田町1613 map:http://yahoo.jp/EmXm1T

現 状:神社

区 分:居館

築城期:平安期

築城者:上田氏

遺 構:堀痕・土塁痕

目標地:篠田神社、篠田会館

駐車場:篠田神社に駐車場

訪城日:2016.4.9

お城の概要

 上田町一帯は、観音寺城(蒲生郡安土町)城主佐々木六角一族の鉄砲火薬に必要な硝石を作っていた職人が住んでいた所で、今でも毎年5月初旬におこなわれる篠田神社の古式花火奉納で著名なところである。

現在、城域には篠田神社が建つ。 篠田神社は元は上田神社と呼び、平安時代末期に上田氏が当地を治めた頃に造営したとされる。
神社の背後の林に土塁ような土盛りと内側に堀跡と思われる溝が配されている。城郭の遺構であるかは不明だが?。

お城の歴史

上田氏代々の居館。
上田氏は、佐々木氏の庶流で上田季政を祖とし、平安時代末期から1595年まで同地を支配した土豪一族。しかし詳細不明。

鉄砲の火薬に必要な硝石を作っていたなら、織豊期には大いに期待が掛かったと予想される。

入口の参道脇に宝篋印塔が1基ある。とても広い境内地である。

草創は平安時代末まで遡り、そのころ当地を領していた上田氏の造営になるという。
現社名になったのは明治以降で、それまでは上田神社または上田大明神と称していた。
上田の地は古代、篠田郷に属し、8世紀後半以降馬渕の東に隣接する上田荘が開発されたが、土質もよく美田であったことが地名となった。

正長元年(1428)足利義教により、京極家の所領となり、永享8年(1436)に京極持清願主となって拝殿を上葺した棟札銘文が残る。
その後、安永5年(1776)に造営されている。
毎年5月4・5日の神社大祭における宵宮(よみや)の火まつり(国選択無形民俗文化財)は有名である。

 

篠田の花火碑

堀痕?土塁痕?

篠田神社宝篋印塔(市指定文化財、鎌倉時代後期 正安三年 1301年、花崗岩、高さ 155Cm)

宝篋印塔::鎌倉時代
相輪を失って、笠上までの高さ1.55m。壇上積式で複弁反花つきの基礎は、四方の側面格狭間内に開蓮華を刻出し正安3年(1301)の造立銘を刻む。 塔身四面には月輪内に蓮座にのる金剛界四仏梵字をあらわし、笠の隅飾は三弧で、八面にそれぞれ蓮座上の月輪に「ア」字を刻む。鎌倉時代宝篋印塔中の習作である。

篠田の火祭

国選択無形民俗文化財
「近江八幡の火まつり」とは、「左義長まつり」、「八幡まつり」、「篠田の花火」をはじめとする毎年決まった時期に、近江八幡市内の村や郷、町内など特定の地域集団で行う火を用いる行事を総称する。

全国でも例を見ない古式花火「和火わび」の継承行事としてよく知られている。
仕掛け花火は、化学薬品を一切使わず、日本古来の製造技術を忠実に守って、硫黄・硝石・桐灰を三ヶ月もかけて薬研で粉にしたものを調合し、配置する。
五月四日夜9時頃、一条の綱火によって点火されると、火は瞬時にして仕掛け花火全体に移り、境内はモウモウたる煙と炎に包まれる。
花火の持つ壮烈な瞬間の華麗さで見るものの心を奪ってしまう。
煙がおさまったあとに浮かび上がる蛍火のような幻想的な花火絵柄はまさに夜空に輝く芸術品と呼ぶにふさわしいもの。
仕掛花火が消えると、最後に大松明が奉火され、夜空を赤々と焦がす。


鳥居と本殿が新幹線でさえぎられている。

 参考資料:滋賀県の歴史散歩、滋賀県神社誌、近江蒲生郡志、近江八幡の歴史、

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狛氏館 近江国(八日市)

2016年04月10日 | 居館

 明神社の矢穴ある石板

お城のデータ

所在地:東近江市(旧八日市市)三津谷町 (遺跡ウォーカー比定地)map:http://yahoo.jp/ej4ieM 

現 状:宅地

区 分:居館

築城年 :

築城者:狛氏

遺 構:不明

目標地:三津屋町公民館

駐車場:三津屋町公民館に駐車

訪城日:2016.4.8

お城の概要

狛氏館は、三屋屋集落に位置し、観音寺城から5km、瓶割山城から2kmにあり、遺構や伝承は不明である。

滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生郡・神崎郡の城)では、詳細不明。ながら頁97には三津屋集落に赤丸がある。

遺跡ウォーカーでは、三屋町公民館の裏の北東を比定地としている!

三津屋の狛氏の末裔が、佐々木六角氏の末期の重臣狛氏であったか?、六角氏の滅びてしまうと名は見えない。

 佐々木六角の重臣に狛氏が名がある「六角氏式目の宛所となった狛丹後守」「弟の狛修理亮は義治書状でも使者として見え、承禎・義治父子の使者であった」「箕作城の戦い」にも守将として狛修理亮は名を残す。

氏館 狛氏館遺跡:遺跡ウォーカー

時 代:中世細分不明 
所在地:滋賀県東近江市三津屋町
 緯度経度:35.099250, 136.161083 
遺構概要:城郭分布調査1、城館。平地。不明。 map96:平地。 
その他概要:旧、八日市市。 県教委編「旧野洲・神崎郡の城」(『滋賀県中世城郭分布調査』4 県教委1986.3)。map96:205-038、30。

遺跡ウォーカーの比定地

お城の歴史
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「六角承禎条書案』
 六角定頼の娘は土岐頼芸に嫁いだ。定頼の子承禎は土岐頼芸の妹を娶った。そのため、六角承禎は美濃から逃れてきた土岐頼芸を保護し、美濃斎藤家と敵対した。永禄三年、足利義輝の近臣伊勢貞良の仲介により、六角義治は斎藤義龍の娘を娶り、和睦した。六角義治はこの婚姻について父六角承禎の了承を得ておらず、承貞は大いに嘆いたと云う。

   以上、

永禄三年七月廿一日

    承禎

平井兵衛尉殿

蒲生下野入道殿

後藤但馬殿

布施淡路入道殿

狛修理亮殿

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『六角義堯書状』・・・・甲賀武士の子孫に伝えられた黒川文書に、『義堯書状』、天正二年(一五七四)頃に義堯が甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を画策していたことを示す。


  狛修迄之内、存聞届候、尤神妙候、東北此通候間、馳走肝要候、
  猶賢可申候、謹言、
     二月廿日   義堯(花押)
       黒川修理進殿

 義堯が黒川修理進に宛てた内容は、次のようなものである。狛修理亮まで報告した旨は確かに聞き届けた。神妙である。東北のことはこの通りであるから、忠義に励むことが肝要である。なお義賢入道(承禎)が詳しく述べるであろう。
 この書状から、

①六角氏の重臣狛修理亮が義堯と甲賀武士の連絡役をしていたこと、

②義堯が東国や北国と連絡を取っていたこと、

③義堯が承禎(義賢)を使者としていたことが分かる。
 文中に見える狛修理亮は六角氏重臣であり、布施淡路守(公雄)とともに六角氏式目の宛所となった狛丹後守の弟である。狛修理亮は義治書状でも使者として見え、承禎・義治父子の使者であった。このときも狛修理亮が承禎の使者となって黒川氏を訪問し、そこでの黒川氏の言葉を、義堯の許に行って口上した。それに答えて義堯は書状を簡潔に書き、承禎(義賢)が詳しい内容を書いた副状を添えて、狛修理亮が黒川修理進へ持参した。狛修理亮は六角氏重臣であり、六角氏の言葉を正確に伝えるだけではなく、交渉もしたと考えられる。

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 六角家 家臣団
 
  六角高頼  六角政勝の子。妻は古河公方足利成氏の娘。子は氏綱。
  六角氏綱  六角高頼の子。母は古河公方足利成氏の娘。六角家は足利将軍家と敵対していたが、
            足利義澄により六角氏綱は赦免された。さらに義澄の妹を娶り、婚姻同盟を結んだ。
            これは足利義澄が足利義稙に対抗するための措置である。後に足利義澄を近江岡山城に匿った。
            妻は足利政知の娘。子は定頼。娘は二条晴良、京極材宗に嫁いだ。異説によると義久(男)いたと云う。
  後藤但馬頭 六角重臣。娘は蒲生賢秀に嫁ぐ。
  平井定武  六角重臣。娘は浅井長政に嫁ぐ。浅井長政は六角家と縁を切り、平井定武の娘と離縁。
            織田信長の妹を娶り、同盟を結んだ。永禄三年七月、六角義賢から書状を送られる。
            その中に斎藤道三の出自に関する記述があり、これまで斎藤道三が一代で戦国大名に成り上がった
            親子二代で戦国大名になったことが分かった。
  高畑源十郎 近江野洲郡北里を領す。娘は小倉右亰亮に嫁ぎ、甚五郎、松千代を生む。
            小倉右亰亮没後、娘は織田信長に保護され、その側室となった。
  小倉右亰亮 八尾山城主。永禄十一年、織田信長の近江攻めの際に内応。
            六角承禎は蒲生定秀に八尾山城を攻めさせ、小倉右亰亮は自害した。
            妻は高畑源十郎の娘。小倉左京亮没後、妻は織田信長に保護され、その側室となった。
  平井高明  六角重臣。弥太郎。「六角氏式目」に署名。
  後藤高安  六角重臣。喜三郎。「六角氏式目」に署名。
  進藤賢盛  六角重臣。山城守。「六角氏式目」に署名。
  狛丹後守  六角重臣。
  布施公雄  六角重臣。淡路入道。
  馬淵建綱  六角重臣。兵部少輔。「六角氏式目」に署名。
  離相庵将鶴 六角重臣。「六角氏式目」に署名。
  楢崎賢道  六角重臣。太郎左衛門尉。「六角氏式目」に署名。
  永田景弘  六角重臣。刑部少輔。「六角氏式目」に署名。 
  馬淵宗綱  六角重臣。山城入道。「六角氏式目」に署名。
  池田景雄  六角重臣。孫次郎。「六角氏式目」に署名。
  永田賢弘  六角重臣。備中入道。「六角氏式目」に署名。
  青地茂綱  六角重臣。駿河守。「六角氏式目」に署名。
  青地道徹  六角重臣。入道。「六角氏式目」に署名。
  真光寺周揚 六角重臣。「六角氏式目」に署名。
  三井治秀  六角重臣。新五郎。「六角氏式目」に署名。
  三上恒安  六角重臣。越後守。「六角氏式目」に署名。
  木村筑後守 六角義堯の家老。元亀元年正月、織田信長は近隣の大名に上洛を求めた。
            木村筑後守は織田家から六角家に宛てた上洛要請の書状を受け取る。
  池田景雄  六角義堯に仕え,元亀三年、武田信玄西進に際し、六角義堯は今後の行動について六角承禎に相談した。     
            池田景雄はその使者を務めた。
  山岡景之  山岡家当主。子は景隆、景佐、景猶、景友。
  山岡景隆  山岡景之の長男。永禄十一年、織田信長に属す。
  山岡景佐  山岡景之の次男。永禄十一年、織田信長に属す。
  山岡景猶  山岡景之の三男。
  山岡景友  山岡景之の四男。道阿弥。三井寺光浄院住職。暹慶。
  吉田重賢  1463~1543年 81歳没)弓術日置流祖日置正次から印可を受ける。弓術吉田流を興す。子は重政。
  吉田重政 (1485~1569年 84歳没)吉田重賢の子。六角義賢から吉田流の印可を求められるが、それを断る。
           義賢と不和になり、朝倉氏の下へ逃れる。
                 後に六角家に戻る。義賢は重政に養子入りすることで吉田流の印可を受けた
           長男重高は義賢から奥義書を返却され吉田流出雲派を興した。四男元定は吉田流雪荷派を興した。
―――

箕作(みつくり)城の戦い(信長上洛戦)

・・・・・
 織田勢に対して六角勢の防禦態勢は、和田山城に主力を配置して、ここで織田勢を釘付けにし、観音寺・箕作両城の兵で挟撃しようとするものだった。信長は状況を視察した後に秀吉の意見を採用することにした。義賢の思惑の裏をかき、和田山城と観音寺城には牽制のための軍勢を送り、信長自ら丹羽長秀や羽柴秀吉らの諸隊を率いて箕作城に迫り、9月12日の午後4時頃より攻撃を開始したのである。

 箕作山は標高3百メートル余の小山であったが、城へ通じる道は急斜面に一筋しかなく、大樹に覆われた要害であった。守将は剛勇で知られた吉田重光・建部秀明・狛修理亮・吉田新助などで3千余人が防備にあたり、徹底抗戦の構えを見せていた。これに対して織田軍は東口から丹羽長秀隊3千余人、北口から羽柴秀吉隊2千3百余人が攻め立てた。しかし城方の守備は堅固で、日没まで陥落させることができなかった。

駐車の三津屋公民館

遺跡ウォーカーの比定地

村社明神者社」

拝殿道標が神社内に(圃場整備で移設か?)

本殿

八坂社

削岩のノミ跡の残る石板

陸軍大将鈴木荘八書最近ほとんど見ない、半鐘塔!

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、箕作城の戦い、六角書状、遺跡ウォーカー

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