第5話. 一度きりの人生を大切に生きる為に【3】 霊的人生観の設定方法

2016-07-24 17:55:44 | ★カジュアルスピリチャリズム(カジスピ),多分あっていると思われる事,人生観
湖畔人です。

(1) 霊的な世界観を持つに至った経緯

先の第4話では、自分の霊的な人生観に基づいて、日々自分自身に対し、あるべき精神態度を持つ事をノルマとして課している事、また祈りについて説明させて頂きました。

また、その中で、自分の霊的な人生観としては、人間神仏の子の思想や、生命の大樹の考え方、またカルマの思想や、生まれ変わりの思想を重要視している、と申し上げました。

今回は、なぜ、人間神の子の思想や、生命の大樹の考え方、またカルマの思想や、生まれ変わりの思想がとっても重要であると思うに至ったのか、その理由を説明させていただきます。

因みに私は、直感はあっても霊感は自信がなく、所謂、霊能者ではございませんので、私の思想の選択は、霊的な実感を伴う、強い霊的確信を伴うものではないのです。

が、ただ、数多くいる神々の中でも、究極に近い神は、きっと公平でリーズナブルな教えを説く存在に違いない、という強い信念がございまして、その視点から見ると、私にとっての究極の神は、”被創造物であり、自らの一部ともいえるこの宇宙や人類をきっと肯定し大切にされる御存在であるだろうし、その大切な人類がお互いに仲良くする事を強く望む“愛”を説く御存在であるであろうし、この世、この世界での人類の人生経験を、人類の成長の場、教育の場と捉え、人類の成長を喜び見守る御存在であろうし、その究極神は、公平な神でもあるので、どの人種であろうが、どの時代に生きる人々であろうが、男であろうが女であろうが、関係なく、皆に等しく成長する機会の平等を与える偉大なる神であろう、そして公平さ、人生は学び、という観点からすると、間違いなく転生輪廻、カルマの教えを肯定する神であろうし、その究極神の教えは、様々な宗教や哲学、世界中の様々な教えの中に共通して見られる最大公約数な共通真理、普遍的なるお教えに違いない。 また宗教間の争いや、人生の意味や、宇宙の始まりなど、様々な疑問に答えられる神なのだろう”、と、そういう想定をし、その視点から、人間神の子の思想や、生命の大樹の考え方、カルマの思想や、生まれ変わりの思想が重要である、と思うに至ったのです。

これは、誰でも容易に想像できる判りやすい真理の探究方法であろうかとは思いますが、私は、少なくとも、そうしたプロセスを経てたどり着いた結論なのです。

(2) 最大公約数的な教え

私が想定する究極神の教えは、様々な宗教や哲学、世界中の様々な教えの“最大公約数“な共通項にある普遍的な教えに違いない、と申しましたが、人間神の子、生命の大樹、カルマ、輪廻の思想、は世界中の多くの宗教や多くの思想の中に多くに見受けられる、最大公約数的な教えと言ってよいかと思います。

まず、人間神の子の思想は、砂漠の宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教以外は殆どの宗教が認めている思想です。特に、汎神論(全てに神が宿ると見る)的な思想を持つ、ヒンズーなどインドの宗教、プラトン他のギリシャ哲学、ドイツの観念論哲学や、ドイツロマン主義、神智学、人智学、ニューエイジの多く、神道、神道系の多くの新宗教、また法華経などを含む仏教は、皆、人間神の子、仏の子の思想を肯定しています。最大公約数的な教えと言って良いかと思います。

生命の大樹と言う考え方も、宇宙樹とか、世界樹とか、様々な言い方で呼ばれていますが、北欧の神話でも、ケルトでも、エジプトやメソポタミアなど中東でも、勿論旧約聖書やカバラでも、インドでも中国でもアステカなど中南米でも、多くの地域に神話として残る最大公約数的な考え方です。人は大きな巨木である神の枝の一つ、葉の一つであると見る考え方で、人類神の子の思想とも似ています。

生まれ変わり(転生輪廻)とカルマの思想は、主にインドの宗教、ヒンズーや仏教がとる考え方であり、その影響を受けた道教でも、また人智学や神智学、プラトン他のギリシャ哲学、近代ヨーロッパでも啓蒙主義やロマン主義、進歩史観などを背景にして受け入れられましたし、ニューエイジの多くや新興宗教においても多く認められた考え方ですし、古代ケルトでも認めていた考え方のようです。原始キリスト教においても実は輪廻は認められていたという話もよく聞きます。553年のコンスタンティノポリス公会議で、輪廻転生説が否定されたと聞きます。と言う事は、それ以前には、キリスト教においても転生輪廻は受け入れられていたと言う事になります。多分教会の権威付けの戦略上の決定なのかもしれませんが、罪深い決定だったと思います。日本では、仏教が盛んですので、浄土宗を契機に長らく土着して来た考え方です。最大公約数的な教えと言ってよいかと思います。

(3) 公平でリーズナブルな教え

次に、究極神はきっと、公平でリーズナブルな教えを説く方に違いないと先に申し上げましたが、その視点から見ましても、人間神の子仏の子、生命の大樹、カルマ、輪廻の思想、という4点は、とっても公平でリーズナブルな教えだと思うのです。

神にも、神道の八百万ではないですが、良い神、強い神、意地悪な神、妬みの神と、きっと様々な個性や神格を持たれる高度な霊存在は多数いらっしゃるのだと想定しますが、地球的な、根源的な神はどうか、と想像いたしますと、その方はきっと、どの地域にどの時代に生まれた人間に対しても、人種や男女の隔てなく、公平で愛に満ちたリーズナブルな教えを説く神であるはずだ、と思うのです。

究極神は、普通に考えて、公平で慈愛に満ち優しいはずですよね? で、そうした見方で見て行きますと、その究極神は、自らの子である人類を罪の子と憎み続けたり、ある特定のエリアに生まれた種族だけを愛し贔屓したりする、なんてことはしないと思うのです。もちろんそういう妬みの神もおりますが、根源に近い究極の神は、優しく公平なはずです。

もちろん、文明的な神の計画上、多くの天使を1カ所に集めて何かを成すなんて事は大いにあるにしても、説く教えの中身は、公平で誰にでも当てはまり、人類への愛に満ちているであろうと想定するのです。
 
であるとすると、その究極神は、人類を罪深い子達であり、滅ぼされるべき存在である、と不安と恐怖に置く事を善しとはせず、多分きっと、人類は、神仏にとってかわいい子供達で、神仏はその成長を楽しみ見守っている、深く愛している、だからきっと究極神は、“人類は神仏の子達である”と説くはずだ、と、考えるのです。

また、人類は神仏という大きな樹の一部、枝葉の一つ一つであり、皆、繋がっており、一体なのだから、皆愛し合い、尊重し合いなさい、と、そう言う愛の教えを説く方なのであろうと、容易に想像できるのです。

ですから、人間神の子仏の子と言う思想も、生命の大樹という見方も、究極神は好まれるであろうと想定しております。

また、究極神は、カルマ、輪廻の思想を説くはずと思えるのです。逆に言えば、もし生まれ変わりの思想がないとしたら、その神はあまりに不公平で残酷すぎると思います。

例えば、ある不幸な女性は、見た目も悪く、不細工で、貧しい家に生まれ、住んでいる町は犯罪に溢れ、街の人達の人心は荒さんでいて、彼女はそこで育ち生活し、貧しく、仕事も無い中、荒んだ者達に囲まれながら、細々と生きていた所、強盗に会い殺され、世を恨みながら亡くなり、地獄に落ちたとします。

一方、ある幸福な女性は、見た目も綺麗で、裕福な家に生まれ、両親の愛情いっぱいに育てられ、穏やかな環境で、同じような境遇の仲間達に囲まれ育ち、良い結婚をし、良い家庭を築き、心綺麗なまま一生を終え、天国へ帰ったとします。

もし人生がたったの一度切りで、そのたった一回の人生で、その者の魂の評価、彼女の魂の永遠の行先が決まってしまい、永遠の地獄の業火に焼かれ続けるか、天国に永遠に住まうかの二択しか無いとしたら、この不幸な女性はあまりにも可哀想すぎます。片方には貧しく荒んだ地獄に落ち易い環境を選ばせ、片方には良い生活環境と人間関係に囲まれ天国に行き易い人生を与え、でもチャンスは一度しか与えず、失敗したら永遠の業火に焼かれていなさいなんて、余りにも酷過ぎます。そのような不公平な条件を与えながら、人生のチャンスも魂の評価もたったの一度切りでは、余りに酷すぎます。そんなシステムを考えた神は、不公平な神、アンフェアな神、酷い神、と言う事になってしまいます。転生輪廻を否定すると、そうなってしまうのです。

でも、転生輪廻の思想さえあれば、この不幸な女性のように、仮に貧しく荒んだ環境に生まれても、次の人生では別の選択が出来、まったく違った人生を生きる事が出来ますし、輪廻の中でバランスを取る事が出来ます。良い人生を送ったり、悪い人生を送ったり、貧しい人生や裕福な人生、厳しい人生や楽目の人生と、様々な人生を経験しバランスを取る事ができるのです。これなら公平です。

また、輪廻の目標が魂を磨き進化、深化させることにあるとするならば、不幸の女性の人生のような、貧しく荒んだつらい人生があった方が、葛藤も多かった分、心に深みが生まれ、貧しい人たちへの差別心も消え、慈愛の心が芽生え、彼女の魂にとっては、むしろ楽な人生を送るよりよっぽど学びの多い、収穫の多い良き人生だった、と言う見方も出来るようになる訳です。輪廻があると認めるだけでこれだけ人生の捉え方が変わるわけです。

でも、これが人生は一度だけ、という世界観でいたなら、前者の不幸な女性の人生は、ただ単に酷い人生でした、アンラッキーでした、それだけで終しまいです。私の信じる究極の神はそんな不公平はしませんので、必ず、輪廻を肯定する神なはず、と考えます。

また、カルマについても、公平性の観点から見ても、良いも悪いも自分のしたことは全て自分に返ってくるという考え方を取る事は、とっても公平でリーズナブルな考え方だと思います。ある特別な存在は、悪を成しても許される、なんて言う依怙贔屓な思想よりも、全ての人類は、等しく、各人の成した全ての思いや行為に対し責任があり、それらの行為は、良いも悪いも、全て各人に跳ね返ってくる、と、そう考えた方が、よっぽど公平でスッキリしており、支持できます。だから私の信ずる究極神はカルマを肯定する神であるべきと思うのです。

結論として、私の想定する究極神は、公平な愛に満ちリーズナブルな神なので、人間神の子、生命の大樹、カルマ、生まれ変わり=転生輪廻の思想を重要視する神なのです。

(4) 現代日本の究極神

先に、自分にとっての究極神の条件をご説明させていただきました。
そこでは、“数多くいる神々の中で、究極に近い神は、公平でリーズナブルな教えを説く存在と想定し、その神は、被創造物であり、自らの一部ともいえるこの宇宙や人類を肯定し大切にされる御存在であり、その大切な人類がお互いに仲良くする事を強く望む“愛”を説く存在であるから、人類を神仏の子と定義し、神と言う巨木の一部、枝や葉が、人類に相当するから、みな繋がっており、皆一体なので、互いに尊敬し合い愛し合えと愛の教えを説くであろう、

また、究極神は公平な神でもあるので、一度きりの人生ではあまりに不公平だし、様々な経験を通して段々と成長してほしいと願っているので、転生輪廻とカルマのシステムを採用しているはずだ、と申しました。

また、宗教間の争いや、人生の意味や、宇宙の始まりなど、様々な疑問に答えられる神なのだろう、と申しましたが、

実を言うと、幸いな事に、この条件を全て満たし、且つ更に余りある、広い認識と世界観を提示する偉大なる宗教家が現代日本に現れております。現在もリアルタイムで日々教えを説いてくださっております。多数の著作を毎年出し続けているベストセラー作家でもある偉大な宗教家です。

私は、その方の影響を最も強く受けており、同時代に生まれたことを心の底からラッキーだと思っています。その方の教えはかなり広範で、霊界の話もすれば、政治から経済、現代の混沌とした世界における正義の判定や、最近では宇宙の事まで広範囲に教えを説かれています。
大概の思想とテーマを包括されているので、正直言って、その方の著作を読んでいれば、大概の世に起きている出来事のその背景と発生理由が説明できてしまうという凄い御仁です。誰とは申しませんし、ご想像にお任せいたしますが、毎年多数の書籍を出されている方と言えば、直ぐにお判りになるはずです。

是非、本屋に行って探してみてください、宇宙の始まりから、人生の意味、霊界の階層まであらゆる疑問に答えを用意されている偉大な方ですから。

この記事が皆様の人生のお役に立てるならば幸いです。

湖畔人

第4話. 一度きりの人生を大切に生きる為に【2】 -世界をどう見るか-

2016-07-24 17:01:58 | ★カジュアルスピリチャリズム(カジスピ),多分あっていると思われる事,人生観
湖畔人です。

前の記事、第3話で、後悔のない人生を送る為に、独り自分に向き合い問い掛けをし、人生で何をなすべきか、その目標とモットーを設定した方が良いですよ、そして、その見直しをしょっちゅうすべきですよ、そして目標を身の丈にあった、自分にとっても、周りの方々にとっても、より良い目標にすべきですよ、と、そういったお話をさせていただきました。

そして、私の個人的な目標、モットーを公表させて頂き、自分には7条の人生のモットーがあり、特にその中で、第一条の”自分が正しいと思う精神態度を常に保持せんとし、日々それらを意識しながら生きる事”、それが最も重要ですよ、と言う話も申し上げました。

今回は、私が何故、その第一条の”自分が正しいと思う精神態度を常に保持せんとし、日々それらを意識しながら生きる事”が最も重要だと思うのか、その理由ついて、まず説明をさせていただきたいと思っています。

(1) 何故 ”自分が正しいと思う精神態度を常に保持せんとし、日々それらを意識しながら生きる事”、が最も重要なのか?

簡単に言えば、それは、人生の目標の達成、その結果の達成自体を求めたとしても、我々の意思に関らず、人生の終わりは突然にやって来る事がございますので、そうした場合、その結果そのものを人生の最終目標にしてしまうと、目標達成が困難になり、とても苦しくなって来てしまうし、実際、私の学んだ人生観から見ても、何を成したかより、どう日々の志を持って生きたか、どういう心構え、どういった心境で日々過ごしたか、その心の在り様、心の研鑽の方に注視をした方が、人がこの世に生を受ける目的により合致しているし、いや心を磨く事が、人生の目的そのものである、と言う風に思えて来るからです。

具体的な個々の達成目標を設定したとしても、運に恵まれず、重い病気を患ったり、急死をしたりするような事は、人生において大いにあり得る事です。それが運命であるならば、自分ではどうする事も出来ず、ただ受け入れるしかございません。そのような状況下で、死を突然迎えた時に、目標の未達に対して深い悔恨を残し、死んでも死に切れんと未練を残しても見苦しいし、自分にとっても周りにとっても良い事はない、と思うからです。 

この目標設定において、最も重要視している事は、自分の人生に対し、自分自身で納得をする事です。 それが、この目標設定作業の最大の目的だと思っていますから、その狙いからすると、具体的に何かを成すか、よりも、むしろ、どういう心根で生きたか、どういう思想を持って生きたのか、そちらの方がずっと重要だ、と言う事になります。

心持が重要、そうした考えを持ちつつも、仮に、精進を続けるうちに、結果として、具体的な達成目標が得られるならば、それはそれで素晴らしい事ですし、ありがたい事ではありますが、まずは、結果そのものよりも、どういう心根で生きたか、どういう精神態度で生きたかを最重要視すべきだと考えております。

もちろん、「世に生を得るは事を為すにあり」と言った坂本龍馬のように、存在そのものが使命、世の中をひっくり返すために天から派遣された天使、天の使いにとっては、使命の成就は必須であり、結果は二の次とは言えないのかもしれないけれども、私のような凡人にとっては、良い人でありベストを尽くせばそれで良し!という事になろうかと思います。

(2) 世界観次第(1) -霊的人生観、生命の樹-

でも、そうは言っても、なぜ、それが尊い事だと思えるのか? 何故、志、心構え、精神態度が、最重要だと言えるのか?と言えば、それはひとえに、自分の場合は転生輪廻を信じており、“人の生命は永遠であり、何度も生まれ変わり、その経験の中で、失敗や学びを繰り返しながら、霊性、精神性を高め、より神仏に近づいて行かんと、心を磨き続ける霊的な存在である、そう信じているから”、と言う事に他なりません。

その視点から見ると、人生を生きてゆく中で、日々何を考え、どういう心持ちで生きたか、それ自体が、ある意味人生の目的そのものである、と言う事が出来ます。だから第一条の”自分が正しいと思う精神態度を常に保持せんとし、日々それを意識しながら生きる事”、が最も重要な項目である、と言う結論になるのです。この世界で、様々な経験を積み、心を鍛え、愛を強め、精神力を強め、死が来れば、肉体を捨て、あの世には、その鍛えた心だけを持って帰る。幾つもの転生を経ても、キャリーオーバーできるのは、常に心、精神のみ。だからこそ、心掛け、精神のみが、最も重要なのだ、と思えるのです。

因みに、私がこれまで多くの書籍から学び、教えていただいた最大公約数的に真実と思える世界観によれば、“人は、この世界に生まれ、様々な体験をし、死を迎え、あの世と呼ばれる霊的な世界に戻り、何らかの魂の成長計画に則って、またこちらの世界に赤ん坊として生まれ、経験を積み、また死を迎え、また霊界に戻る。そして、霊界では生きていた時の心境に従った相応の世界に赴くこととなり、それが地獄とか天国とか、その間のグレーゾーンとか、そうした魂の状態に応じた世界に行くこととなる、その霊界で、生きていた時のオフセット、修正、浄化を経て、正常化、リセットした後に、また、魂の成長計画に則って、この世界に戻って来て、経験を積み更なる成長や修正を目指すそうした存在である。 よりレベルの高い天使と言われる方々は、壮大な人類救済プログラムの一環として、使命を果たすためにこの世界に戻って来て事を成す、そして、時代の変わり目、変わり目に、世界の様々な場所に現れては地球人類の学習と成長の計画に則って、使命を果たされる、役目が終われば、またあちらの世界に戻っていく、それが、我々の住む世界の真相である、と、私はそういう世界観を学び頂いて生きております。

更に申しますと、私の学んだ最大公約数的な世界観によれば、我々人間一人一人は、根本的な神仏という巨木の、枝分かれした小さな小枝、葉の一枚のようなものであり、もしくは、神仏と言う巨人の、その大きな体の細胞の一つのようなものであり、我々は皆例外なく、神仏の一部であり、皆、神仏の子達なのである。神そのものではないが、神の一部、神の子達なのである、と言う事になります。

それがきっと、
・我々がプライドを持つ所以であり
(神仏の子なのですから、自分を偉いと思って当然です)

・それが人の命が尊いと思う所以なのであり
(神仏の子なのですから、尊い命に決まっています)

・だからこそ、人権は尊いのであり
(神仏の子ですから、人権どころか神の子の権利です)

・人を殺めてはいけないのであり
(神仏の子、神仏の一部を殺すなんてありえません)

・自殺もいけないのであり
(神仏の子、神仏の一部である自分を殺すことはいけません)

・騙しても、傷つけても、軽んじてもいけない
(神仏の子、神仏の一部である人間を、騙し、傷つけ、軽んじてはなりません。)

のだと思うのです。

ですので、そうした視点で自分の周辺、周りの人達を見た時に、そこに見えて来る本来の姿は、“神性、仏性を宿す偉大な神仏の子達が大勢おり、しかも一人一人が違った、たった一つの大事な個性を持つ、貴重なる存在、稀有なる存在であって、そうした祝福された神仏の子達が沢山いる、それが本当の世の中の真相なはずなのである。しかし現実には殆どの人達がその事実に気づく事無く、悪戯に悪業ばかり重ねている、そういう残念な状況にある。従って、是非、出来るだけ早く、自らの偉大さに各人が気付いて頂き、他人も自分ももっと大切に生きて頂きたい。” そういう風に周りが見えて来る、いや、そういう風に見るべきである、と思うのです。

ですので、出来るだけ早く、自分の偉大さに皆気づいて欲しいし、自らの持つ神性、仏性に反する心持や行動は控え、自らの神性、仏性に相応しい徳のある行動をとって頂きたい、そう強く願いながら、日々周りと接している次第です。

(3) 世界観次第(2) -思想によって分かれてくる未来-

でも、もし、そうした霊的な、人間神の子の思想を持たない方々、人は死んだら終わり、楽しまなきゃ損と思っている方々からすれば、多分、“どういう思想、どういう考えを持って生きるかなんて、何の価値も無い、どうでもよい事”、等と思うのかもしれません。 きっとそういう人にとっては、”より楽しく、より苦しみが少なく、より楽に、出来るだけ長く生きられればそれで良い”位に考えているのかもしれません。

もしくは、さらに荒んでしまって、人を脅したり、陥れたり、苦しみを与える事に快感を覚えるような、そんな荒んだ気の毒な心境にまで落ちてしまっている人もいるのかもしれません。でも、そこまで落ちてしまうと、もうほとんど悪魔と一緒で、人としては終わりですけどね。 

こうして見ると、どういう思想を持ってこの世界を見るか、その定義の仕方次第で、世界の見え方、人生に対し出てくる答えは、全く変わってくるのだなーと、しみじみ思うのです。そうした様々な思想を持つ一人一人の人間の集積が我々済む世界、人類を形成している訳ですから、この世界の行先は、どういう思想を持つ人間が多いかで決まってしまうなー、と思う訳です。

ですから、より良き人類の未来は、良き思想を持つ人を多数派とする事、それに掛かっているなと思うのです。無神論者、唯物論者のように、この世界には神も仏もなく、人はく肉体のみで死んだら終わり、霊もあの世も生まれ変わりもない、心で何を思おうが関係ない、嘘も悪さもバレなければよい、この世は、快楽と恐怖が支配する世界だ、と、そういう思想の持ち主が多いのが良いのか、
それとも、この世界は神仏の作った世界であり、人類は皆神仏の子であり、お互いに尊重し合い、大事にし合うべきである。また、我々は、転生を通し何度も生まれ変わり、様々な経験を通して、より神仏に近づかんと精進を続けている、そうした存在である。と、そういう思想を持つ人達が多い方が良いのか、どちらが人類の未来を明るくするのか、
と、頭の中で想像をしてみますと、どう考えても、霊的な人生観の持主が多い方が、世に信用のおける裏表のない人達が増え、お互いを尊重する人達が溢れ、より住みよく、より明るい世界になる、と思えて仕方ありません。が、いずれにせよ、どう各人が人類や人生を定義するのか、その思想次第で、世界の在り様、人類の未来まで変わって行きますので、本当に、本当に重要なポイントで、実は最も人類にとって重要な選択なのだな、と、つくづく思う今日この頃です。

(4) 世界観次第 (3) -カルマ-
 
繰り返しますが、私は、人は皆、例外なく、神仏の子達であり、転生輪廻の中、経験を重ねて、一人一人が親である神仏により近づかんとする霊的な存在である、という世界観を持って日々生きております。そして、その転生の中で各人が日々成した全ての思いや行動の全てを、皆カルマとして抱えながら生きて行く、そうした存在である、とも信じております。カルマとは、業とも呼ばれ、ご存知の通り、因果応報、作用&反作用の法則を指しますので、良い事をしたら良い事が返ってくるし、悪い事をしたら悪い事が返ってくるので、良き未来の為にも、出来るだけ悪い事をせず、なるべく良い事を多く成し、良きカルマを蓄積して行くべきである、そう言う物の見方をしております。

カルマは、転生輪廻をまたいで反作用が現れてくる事もあり得るようですので、非常に判りにくいのですが、運命として、訳も判らず良き事が巡って来たなら、それは多分、先の人生で人に親切にした良きカルマが現れて来たのかもしれないですし、訳も判らずアンラッキーな事故にあったら、それは先の人生で人を傷つけた悪しきカルマが現れ、そのカルマの解消をしているのかもしれません。その判定はしようも無いですが、きっとそう言ったものなのだろうと推察をしています。何れにせよ、良い事を沢山しようと心掛ける人が増える事は、世にとって良き事である事は間違いないでしょう。皆、カルマはあると想定し、日々悪行を抑え、善行を重ねるべきと思います。

(5) 第一条と第七条の中身

前のお話、第3話で、私のモットー7条を説明させていただき、その中で、第一条の”自分が正しいと思う精神態度を常に保持せんとし、日々それらを意識しながら生きる事”が一番大事だと申しましたが、具体的なその中身については、まだ公表しておりませんので、参考までに(匿名を良い事に)、下記に説明をさせて頂きますと、上記の世界観をベースとして、下記のような精神態度を持つべきと自分で自分にノルマを課しております。

(A)全ての人は神仏の子達であり、お互い尊敬すべき、大切にすべき存在であり、決して軽んじたり、傷つけたりしてはならない存在であるはず、なのであるが、一方、現実は、殆どの人間がその事実に気付く事無く日々過ごしており、自己保存欲からいたずらに他人を攻撃し傷つけたりしてばかりいる (私も含めて)。でも、それらの行為は、霊的真相から見て多分間違っているし、彼らにとっても悪しきカルマを新たに作り続けている事になるので、そうした行為は止めるよう、可能な限り、注意し、諫め、善導しようとする事。一方、彼らの素晴らしい点、良き点が見えてきたら、それらは、称え、褒めしながら、彼らがいつか神仏の子としての自覚を持って生きる日が来るよう、強く願いを掛けながら接して行く事、それが一つ目の自分に課している精神態度です。

(B)次に、仕事に関しては、まず、会社の利益と、社会の利益が一致するよう注視、注力し、会社にとっての重要事、仕事の骨子に常に意識を巡らせながら、誰よりも仕事における知識を持たんと努力し、最適な判断を下せる存在に成らんと日々努力精進を重ねする事。 そして、仕事を通して社会貢献をせんと強く願い意識をしつつ、同時に仕事で関わる全ての方々が一人も欠ける事無く皆WIN&WINで良き自己実現を果たす事を強く願いつつ、日々仕事に集中し、打込み、明るく頑張る事、それが二つ目の自分に課している精神態度です。

(C)最後に、日々、神仏にご加護とこうした学びの機会を頂いた事を感謝しつつ、上記二つが毎日しっかり出来るよう、ご助力をお願いしながら、神仏と一体になり事を成すイメージを持ちながら、生きる事、これが自分に課している三つ目の精神態度です。

それの三つを日々心に留めながら、過ごしております。

そして、上記の(C)とも被りますが、私のモットーの第七条として設定したのが“祈り”です。祈りによって、力を得、この第一条を含めた自分の7つのモットーがしっかり実現できるよう、日々神仏に感謝をしつつ、日々神仏と一体となるイメージを持って日々過ごしております。

また、祈りとしては、私が敬愛する日本の宗教者、毎年多数の著作を出されている偉大な宗教家のお教えくださっている祈りも幾つか、日々実施させて頂いております。 それらの祈りを毎日させて頂き力と御加護を頂いております。大変ありがたいです。

それが、私のモットーの第一条と第七条の中身です。

このお話が、皆さまの参考になれば幸いです。

湖畔人

第3話. 一度きりの人生を大切に生きる為に【1】 目標、モットーを決める

2016-07-24 14:44:41 | ★カジュアルスピリチャリズム(カジスピ),多分あっていると思われる事,人生観
湖畔人です。

今回は、人生をよりよく過ごすために、人生の目標設定、モットーの設定をすると良いですよ、目標設定、モットーの設定をする事で、自分の残りの人生で成す事を明確に出来、責任感、納得感が増してとても良いですよ、お勧めですよ、というお話をさせて頂きたいと思います。

(1) 一度きりの人生

私は転生輪廻を信じる者の一人ですので、人は何度でも生まれ変わると思っています。

でも、そうであったとしても、この時代に、この名前で、この家族構成や知人構成、この社会環境で、そして、それらのコンビネーションの中で生きる人生は、たったの一度きりだと思います。よって、替えのない、たった一度の、オンリーワンの人生という事になります。ですから、今の人生は、とっても、とっても、尊く、大切な人生なのだと改めて思う訳です。であれば、何となく漫然と人生を過ごすのではなく、是非しっかりと、納得をしながら、後で後悔しないような、ベストを尽くしたなーと後で思えるような、そんな生き方をしてみたいと思うのです。

(2) 何を成したいか自分に問う

後悔のない人生を送る為には、まず、自分自身に問い掛けをし、自分はこの人生で、残りの人生で何を成したいのか、一体何をしないと後悔してしまいそうなのか、それらについて、自分なりの回答を得て置く必要があると思うのです。

それは、誰に相談するでもなく、自分が自分自身に対し問うべき事だと思います。静かな環境に身を置いて、自分で自分に問い掛けをし、考えをまとめて置く必要があると思います。後悔のない人生を送る為には、自分の人生の方針決定は、自分自身ですべきで、他人に聞いて決めては駄目だと思います。

親でもなく、子でもなく、友人でもなく、何より自分自身が、自分自身に対して、問い掛けをする。自分が死を目前にした瞬間を想像しながら、一体どう生き、一体何を成したら、自分自身に対し、『よくやった、生き切った、後悔のない人生だった』 と、言えそうのなのか、自分を納得させられそうなのか、
逆に、何を成さなかったら、自分は自分の人生に対し後悔をしてしまいそうなのか、それらの問いに対し、自分なりの回答を得ておく必要があると思うのです。

でないと、弱い我々は、自分の人生に起きた様々な出来事を、周りのせいにして責任転換をしてしまいがちだからです。周りが悪い、社会が悪い、家族が悪い、同僚が悪いと、自分の境遇を周りのせいにしてしまいがちです。

でも、皆さんご存知の通り、自分の周りで起きている事柄に対し、自分がどう感じるかは、自分の感じ方次第なのです。鳥の囀りですら、人によっては騒音にも聞こえるし、人によっては癒しと捉える人もいます。自分に起きた出来事への自分自身の評価は、実は絶対的なものではなく、自分自身の感じ方次第なのです。自分の人生の幸、不幸は、自分の感じ方次第なのですから、結局、自分の人生の幸、不幸は、自分が決めている、という事になるのです。自分が決めているのであり、自分の責任範疇なのです。

その点をハッキリさせるためにも、自分自身が自分の人生に対ししっかり折り合いを付ける為にも、自分で自分に向き合い、何をしたら自分の人生に満足するか、何をしなかったら自分の人生に後悔しそうなのか、と問い掛け、納得を得るために必要な、達成目標なり、人生のモットーなりを、自分なりに整理し言葉にしておく必要があると思うのです。

この作業は、大変孤独な作業なのではございますが、人は元来、孤独な存在ですし、生まれた時も一人、死ぬ時も一人で死んで行く孤独な存在なのですから、一人死を迎える時を想像しつつ、自分にとっての納得のいく人生について、一度しっかり思いを巡らせておくべきです。ある意味、終活のようなものです。そして、一人静かに自分に向き合い、自分で自分の人生をどうしたいか決めておく必要があると思います。そして、そこで決めた目標やモットーに向けて全力で生きるべき、なのだと思うのです。

(3) 幾つになってからでも、何度でも

この作業は、できれば人生の前半に、出来るだけ若いうちにやる方が望ましいのは当然の事です。それだけ、早いうちから人生に真剣に向き合う訳ですから、若いうちにやるのが望ましいのですが、一方、別に年を取ってから始めたって全く何の問題がないとも思うのです。
何故かと言いますと、実際、この自分の目標やモットーを見出す作業を繰り返して行くと、始めは高く設定した大きかった目標も、時の中で、段々と自分の実力を知るにしたがって、次第に、目的が縮小、変形せざるを得なくなるのが普通だと思うからです。若い頃に設定した目標の大きさと、年を重ねてから縮小した目標を比較すると、その違いに驚きますし、如何に若い頃の自分が己を知らず、分不相応な大きな夢を抱いていたかと驚くものです。大きな夢を抱くことは若者の特権ですから、それはそれで良いと思いますが、大きな夢を描いた分、挫折や落胆が大きいのも事実です。だから、私は、自分が思う自分の実力から少し背伸びしないと届かないくらいの目標設定が調度良いと正直思っています。そして、もしその背伸びした目標を達成する事ができたなら、その時は、また目標の上方修正してやって行けばよいと思っています。大事な事は、自分で自分の人生に対し納得をする事だと思うので、それ位が宜しいかと思っています。

一方、年をある程度取られた方は、自分の実力、限界、得意な事、不得意な事、体力と財力の限界等、若者に比べればずっと現実的な目標設定が出来ると思いますし、特に人生の後半、終盤を迎えんとするならば、終活の一環として、残りの人生を自分の納得を伴ったものにする為にも、自分に向き合い残りの人生で成したい目標やモットーを決め、それに向けて全力で生きるべきだし、後悔のない人生を送ってほしい、と、そう思うのです。

ですので、この目標設定の作業は、幾つになってから始めたって全く問題なしです。年を取ってからでも、兎に角、思い立ったらその日の内に、自分への問い掛けを始めるべきと思います。自分に問い、『この人生でこれを実施しないと死んでも死にきれん』、と思える事柄をリストアップしてゆくのです。

それがもし大きな目標であるならば、実現可能なサイズに目標を小分けにして、少しずつ達成できるようにした方が望ましいと思います。きっと、その方が、目標達成の喜びを味わいつつ人生を過ごしてゆく事ができるからです。大切な事は、自分で決めて、自分で自分の人生に納得をする事なのですから喜びを伴った方が良いのです。ですので、この自分への問い、目標設定の見直しは、頻度良くやって頂きたいと思うのです。

(4) 第一のポイント:身の丈にあった目標

先に申し上げました通り、目標も時の中でどんどん小さく変形して行くのが常ですので、目標設定の見直しは、最低年に1度、できれば毎月1回、可能であれば、毎週1回位のペースで行っていただきたいものです。そして、その目標の中身を、自分の実力、身の丈に合ったものに整えて行って頂きたいと思います。目標をあまり高くしすぎますと、人によっては現実と理想のギャップに苦しみ、ストレスを抱え、体調や心理状態に支障をきたし、次第にあいつが悪い、社会が悪いと、周りを否定し始め、否定的な思考に支配されがちになるからです。でも、大切な事は自分で自分の人生に納得をする事なのですから、それではいけません。

自分の分を知り、実力を知って、身の丈にあった目標やモットーに変えて行くべきだと思います。これが、目標設定の注意点の一点目です。

(5) 第二のポイント:自分にとっても社会にとっても良い事

別にその目標が大それたものである必要はないと思います。明るく元気に生きるとか、明るく健康に生きるとか、人に親切にする、とか、そうしたシンプルな目標、モットーでも全く問題ないと思います。それが、周りに迷惑をかけず、ポジティブな物であれば、全く問題ないと思います。大切な事は、自分の人生の目標やモットーを自分で決め、自分の人生に納得をする事なのですから。

ただ、目標を達成する事が、自分にとってはいいが、周りにとっては迷惑、社会的にとっては悪、そういう目標設定は避ける必要があります。これが目標設定の注意点の二点目です。

やはり、自分がなさんとする事が、社会にとっても、周りにとっても良い事である、という風にしたいものです。目標を達成する事で、環境を汚し、人に迷惑をかけ、仮にそれで財を成したとしても、周りで苦しむ人達が多く、そこに不平不満が生まれ、恨みが残れば、自分だけでなく、最悪、家族や子孫にまで災いが及ぶようになり、不幸が拡大してゆきます。自分だけでなく、末代にまで禍根を残す事になるのです。

ですから、その目標の中身を確認し、その目標を成す事で、自分にとっても周りや社会にとっても良きものにする必要があるのです。目標を達成する事で自分も満足し、周りや社会にも有意義で、周辺に笑みや幸福が広がり、更に財も残し、評判も残し、その姿勢そのものが人々の励みとなる。そしてその評判と尊敬と財は、子孫に受け継がれて行くとするならば、それは、幸福の輪が二重、三重と広かって行く事となりますし、それは素晴らしい目標の達成、自己実現の姿、と言う事ができるかと思います。

出来うるならば、そうした自他にとっても未来にも幸福感を残す良き目標設定とその達成を目指したいものです。

是非そうした社会正義に見合った目標設定ができるよう、頻度良く目標の内容やモットーの中身の見直しをして行きたいものです。

因みに、自分の話をしますと、自分の目標、モットーは、本当にスケールが小さすぎて、大変恐縮なのですが、匿名をいい事に告白しますと、

私の人生目標とモットーは下記7条となります。

第一条: 自分が正しいと思う精神態度を常に保持せんとし、日々それを意識しながら生きる事。これが一番目です。

第二条: 次に、社会の一員として、町の行事等には出来るだけ参加し、特に、町を綺麗にするイベントには参加するようにして、自分の家とその周辺を常に綺麗に保たんとし、街の雰囲気向上に努める事、これが二つ目。

第三条:会社の一員として、会社と社会の利益が一致する方向になるよう、常に意識を払いながら、誰よりも仕事における知識を蓄積し、最適な判断を下せる存在にならんと日々精進する事。これが三つ目。

第四条:子供たちが一人前に自立できるまで、しっかりと養育する事。(親としては普通ですが)

第五条:ローンを払い、家を無借金状態にして家族、子らに手渡す事。(これも大分先の話になりそうですが、何とか実現したいです)

第六条:ブログを開始し、ブログを通して、自分の正直ベースの考えを世に問い、共感できる方々と意見を交換し、シェアし、共感し、励まし合い、影響し合う事。(今ちょうどやらんとしている所です)

第七条:そしてそれら全てがうまくいくよう日々神仏に祈り、助力を得ながら神仏と共に人生を歩んで行く事。

それら七条が、私が私自身に課した、人生の目標というかモットーです。

改めてこうして見てみると、本当にスケールが小さく、何とも恥ずかしくなってくるのですが、でもまあ、本当の事ですから、致し方ありません。これが等身大の自分自身の姿、自分の人生の目標、モットーなのです。

ですから、こうしてブログを通して、自分の考えを世に公表するという行為自体が、実は、自分にとっては、大きな自分の人生の目標の一つを達成している最中、と言う事となり、正直言うと、とっても嬉しいし、とっても幸せです。でも、ブログをやる事自体は、別に誰にでも、直ぐにでも出来る事ですし、私としては、身の丈にあった目標設定になっていると自負しておりますし、気に入っております。

こうして、実現可能な目標設定を持つ事は、人生の充実に大きく役立つと思います。

一つ申し上げると、これら7つの中で最も重要と思える項目は、一つ目の”自分が正しいと思う精神態度を常に保持せんとし、日々それを意識しながら生きる事”だと思っています。

何故そう思うか、それはまた別の機会に説明させていただきます。

ご参考になれば幸いです。

湖畔人