湖畔人です。
前話でも少し指摘しましたし、以前も、”第37話. 唯物論か 唯霊論(唯神論)か、考えを定めて生きる(1)”と”第42話. 唯物論か 唯霊論(唯神論)か、考えを定めて生きる(2) ”でも申しましたが、
人類が神から作られた神の子達であって、神の一部でもあり、霊的な存在でもあり、この世界に転生しては霊性の獲得が期待されている存在であるが故に、人は互いに尊敬し合い、愛し合い、大事にすべきと言う考え方、そこを外してしまうとマズイと思うのです。
人をただの偶然の産物、物、物質、アメーバを先祖に持つただの肉の塊、神も霊も存在せず、死ねば何もなくなる、と言う考えを持つようになると、その場合、彼らにとって畏れるべき事柄は、法を犯し、または犯罪を犯して捕まって刑務所に入れられ処罰を受けて冷や飯を食わされ、社会から悪く言われ生き難く成る事、そして、病気による痛み、暴力の痛み、そして死となるのかと思います。それらが彼らが恐れる事柄となるのかもしれません。逆にそれら唯物論者が求めるものは肉体的快楽(薬物を含む)、支配欲、他人を恐れさせ服従させる事、出来るだけ楽をして生きる、とかそんな感じでしょうかね。まるで動物ですね。でも、そんな人達は、優しさとか、善を成すとか、神が認定する尊い考え方には価値を見出せない事でしょうね。得にも何にもなりませんしね。悪い事は、警察に見つからなければ幾らでもやって良い、心で何を思おうが別に関係がない、と言う事になり、信用ならない人間達が出来上がって来てしまいますね。そういう人達には道徳と言うものがあまり響かないのでしょう?イジメをしたってイジメた対象は、尊い神仏の子ではなくて、ただの肉の塊、物となりますので、物ならどんな酷い事を言っても何をしても良いと言う事になるのかもしれません。極論を言うとそうなるかもしれないのです。殺伐とした世界ですね。そもそも彼らには人権なんて思想はなじまないのでしょう。人は物ですからね、偉そうなことを言ってもただの物、その物が権利がどうのと主張しても所詮ただの物の戯言になりますしね。嘘を付こうが相手は物、傷付けようが相手は物、親切にしないといけないと人は言うがその対象は物、何故物に親切にする必要があるのか?ただの物ではないか?ただのガラクタではないのか?となるのかもしれません。極論を言うとそうなるのです。そして、何故新聞を賑わすようなあらゆる凶悪事件が起きているのかと言えば、彼らは他人をモノと見ているから、そもそも物である人間相手に善悪等は関係が無く、神や霊が我々の行動を見ているなんて思えないから幾らでも悪事が出来るのでしょう?また生きた時の行いによっては、恐ろしい地獄に行く事にもなりえるなんて言う心配が無いから平気で悪さが出来るのでしょう。唯物論はその意味で、凶悪犯の量産工場になり得ると言えるかと思います。イジメや犯罪の背景にも、この無神論、唯物論が必ずあるのではないかと思います。その恐ろしい唯物論が国是となっている国が隣国にあります。その唯物論の残虐性に苦しんでいる方々が中国内に数多くいらっしゃります。ウィグルや反体制派の方々が特に犠牲になっており、彼らの救出が急務となっています。
彼ら唯物論者、無心論者は、死ねば終わりと思うが故に、戦争も嫌い、戦って痛い目に遭う位なら隷属の方がましとして9条保持賛成となる人もいるようです。でも9条改訂を言う人に暴力を振るうのは構わないようです。何故なら相手は人でなく物ですからね。きっと、そう言った理由なのでしょう。でも彼らの多くは、ホントは日本が一人前の武力を持つ戦える国になる事を嫌う中国の意思を受けて9条保持と言っているだけなのでしょうけどね…。
同じく、彼ら唯物論者、無心論者は、死ねば終わりと思うが故に、死への恐怖が強く、エネルギー効率や、コスト効率、安全保障の面より、放射能が怖いからと言う理由で原発反対となるようです。でも彼らの一部はホントは日本が核武装するのを嫌う中国の意思で原発反対なんでしょうけどね…。
いずれせよ、神や霊など目に見えない存在が我々の行動を見ていると信じられない人達、信じないから人が見ていない所では何をしても良いと思う人達、その行いに伴い天国や恐ろしい地獄に行く事がある事を信じない人達が多く、そして快楽に走りやすい人達が多い場合には、イジメや犯罪や薬物中毒者が横行しやすい世の中が出来やすいと言えるのではないかと思います。唯物論が支配的になると、子供たちがより危険に晒される可能性が高い世界が出来やすいと言えるのではないかと思います。
どちらの世界が良いかと言う事です。
また、そうした唯物論の人達は、天皇が偉大である根拠、天照の子孫と言う根拠、その神話を信じられないでしょうから、天皇制にはきっと反対でしょう?実際彼ら左翼は天皇制に反対ですしね。
だから、この唯物論と言う思想、神仏や霊を信じないと言う精神的態度は、何となく見過したり、放置して良い事柄ではなくて、社会が荒んでいくサインとして警戒をし、問題だと声を上げ、変えて行くべき対象なのです。
前話でも言いましたが、そもそも、人類が認めようが認めまいが、人類は神により作られ、神の一部でもある尊い霊的な存在なのです。一人残らずそうした神と繋がった尊い存在です。だから互いに親切にし合い、尊敬し合い、愛し合い、誠実であるべきなのです。その点を道徳の背景として、または人権思想の背骨として、または刑法の裏付けとして考えの中心に据えて、その考え方をあらゆる物事を考える上での基本、国を運営する上での考え方の基準として持つべきなのです。そこを外してはならないのです。
そしてそうした人々が大勢を占める世の中は、明るく、信用が置け、清々しく、勤勉で清潔な人達の集まりとなるので、素直で勤勉で明るい子供達が育つ、大変素晴らしい世界になるはずなのです。
どちらの世界が良いかと言う事です。その点を各人心の中で白黒はっきりさせて日々生きるべきと考えます。そして、その上で、世の中を神仏を尊ぶ人が主流の世になるよう導くべきと考えます。
いい大人達が、“神仏の目から見て恥ずかしくない生き方をしたい。”とテレビカメラの前で平気で大声で言える人達が多数派を占める世の中が良い社会なのです。
そこを目指して参りたいと思います。
湖畔人