第591話.カジスピ(カジュアルスピリチュアリズム)ライト② 自分が悪いかも?位がちょうど良いかも

2021-07-10 14:54:37 | ★カジュアルスピリチャリズム(カジスピ),多分あっていると思われる事,人生観
湖畔人です。

今日は、個人的な感覚と言うか、直感的な話で恐縮なのですが、"自分が悪いかも?位がちょうど良いかも"と言う話です。

色々仕事でも私生活でも、この方向で行くべき、反対意見はあるかもしれんが、心をロックして、押し通すべし、なんて思って、その決意に迷いが出そうな反対意見があればそれを振り払うか、無視するか、視界から外すか、心に蓋をするかして、迷いを振り払って断断固突き進むべし、なんて思って断行する事が多々あるかと思うのですが、もちろん、その実施中にはそう思ってやるべき、とは思うし、自分の弱い心を叱咤して、強い心で臨むべき、とは思うのですが、後から、客観的に見れる程時間が過ぎて、リラックスして見てみると、どうも、意見が合わず、敵対していた人達にも一理も二理もあったかな?と思えたりすることがあります。

そして、当時は心を固めていたので、嫌ったり嫌がっていたけど、今思うと自分の方にも大分問題はあったし、何か悪いことをしたな、気分を害してしまっていたならごめんなさい、と心の中で思う事があります。そう思うと、何故か心も体もポカポカします。何故かね。

何となく思う事ではありますが、各自全員が心の奥底に持っている神様と繋がるパイプがあるかとおもうのですが、自分の非を認め、心で詫びることで、何かそのパイプに詰まっていた垢がとれて、神様から降り注ぐ光が注がれやすくなり、それで暖かさを感じやすくなるのかもしれませんね。

これがいわゆる反省というものなのかもしれず、よく、反省業をして心を浄化することが大切な修行の柱の一つ、なんて言う宗教が多々あるかと思いますが、確かに、反省と言うか点検をしてみると、心も体もポカポカしてさっぱりした気分になり、なんか軽い気分になるのは本当の話です。

最近思うのですが、かつて自分がしでかしたちょっとした悪さや、極端な出来事を思い返すと、その時は、”だってあの時はこう言う環境だったんだから、自分は悪くないし、仕方がなかったんだ”、なんて思って心に蓋をして封印をして、あまり考えたり、後悔をしたりしないようにしていたのですが、でもちょっと客観的に見れる程、心に余裕が出てきて、リラックスして嘗ての状況を見返してみると、ほとんどのケースで、自分に非があった事に気づきます。ほとんど全部、自分に問題があり、論外だった、と言う判定が出てしまうのです。これには驚きました。もう、迷惑ばかり掛けて、ホント生きててすいません、なんてレベルになってしまうのです。これにはビックリしました。なので、こうした振り返りは、自分に自信も余裕もないと結構厳しい作業かも、なんて一方では思います。

でも事実として、今、冷静にそれらの引っかかる出来事を振り返ると、ほとんどのケースで、自分に都合の良い、自分に甘い解釈ばかりして来ていて、殆どのケースで、正直OUTだったよな、自分が自分の上司だったら相当辛い点数を付けてペケ判定を出していただろうな、十分すべき事をしていなかったな、と思えるのです。残念ながら。それこそ、出会った人達全員に”ご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんでした”って謝らないといけない感じなのです。もうアチラに帰った時、”まずは地獄で反省し、自分を見つめ直し、深く反省してしてから100年後に上に戻りなさい!"なんてガイド役に言われそうなレベルの出来の悪さでした。もしそんな事言われたら、そん時は素直に受け入れるしかないなと正直思いましたね。残念ですが、その位の出来の悪さでした。

でも、そう思ったら、また、心も体もポカポカして来てなんかさっぱりした気分になって来るのです。これがまた不思議な感覚なのです。でも、これマジな話です。ハイ。

湖畔人


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